05 迷いがあるのならば
〈冬至祭〉、つまり冬のいちばん寒い日を過ぎたビナレス地方は、ゆっくりと春へ向かう。
それに加えて大砂漠の影響を受ける東国へと向かうのだから、つらいほどの寒さは少しずつ弱まっていった。
いまはやることがないんだと言ったエイルをシーヴは哀れむような目つきで見ていたが、本当にないんだと繰り返すと、渋々ながら納得をしたようだった。
「本当に、いつ、話が掴めるか判らない」
エイルは真剣にそう言って、とりあえずランティムへ戻るよう、シーヴを説得した。伯爵閣下は、いま戻ればヴォイドに監禁される、次は容易には出られないと抵抗をしたが、エイルがレ=ザラの話を盾に取れば反論に詰まって了承した。
何か判れば必ず連絡をすると誓いまで立てさせられたが、ランティムの伯爵に彼が治める土地へと帰還の意志を向けられたのだから、釣りがくると言ってもいい。
エイル自身は相変わらず、塔だのアーレイドだのを行ったりきたりしなければならなかったが、その間はラニタリスを目付に置いて、第三王子殿下を見張らせた。
オルエンの気配は、あの日――殊勝な様子でエイルを驚かせ、そのあとに怒り心頭とさせた、心も身体も忙しかった一日――以来、ない。
よくも悪くも、である。
あの顔を見たくはないし、見れば罵倒したくなるに決まっている。だが、尋ねたいことも山のようだ。
まさか、親切に全てを説明してくれるとは、思わないけれど。
現れない爺魔術師のことは置いておくとして、次の問題はラニタリスだ。
これまたよくも悪くも、ラニタリスはエイルを主と認めている上に、彼の言葉を至上とするらしい。
ただ、それでもシーヴのことは気に入ったようで、そこが問題だ。少し留守にして戻ってくるたびに、おかしな言葉を覚えているように思う。
もちろん、シーヴがわざわざ「悪い」言葉――卑猥だの下品だのと言われる類――を教えているとは思わない。ただ自然と出てしまっているのだろう。
普通ならば、何か難しいことを言っても「子供には判らないだろう」で済む。だがラニタリスは子供に見えても子供ではないのだ。本当の「子供」も、大人が驚くくらいに物事を吸収するが、魔物の吸収はまた違う。
ラニタリスは「言葉」の上面だけではなく、その意味や適切な――かどうかは、人によって異論あるところだ――使用法、使った相手の感性まで、吸収するようだ。
エイルは少しずつそれに気づいてた。
何かとエイルの言葉に口答えをするのは、おそらく、母アニーナの影響。結局のところを言えば親子仲の言いエイルとアニーナだが、あの母は息子に手厳しい。
皮肉っぽい言い方は母もやるが、初めの内はなかったから、おそらくこれはシーヴの影響。近頃は怖ろしいことに、にやっと笑うようになってきた。あれは、やめさせたい。
「疲れているようだな」
不意に背後から声をかけられたエイルは、背をしゃんと伸ばした。
「んなこと、ないです」
「そうか?」
「ちょっと考えごとしてただけっすよ」
アーレイド城でシュアラ王女殿下に魔術のお話をさせていただいたあと、さて〈塔〉か、協会か、どうにか母に言い訳をするか――などと思考をうろつかせていたことは確かだが、疲れている訳ではない。
「危ないことはしていないだろうな?」
「心配してくれるのは有難いですけど、俺は別に、護衛騎士に守ってもらう必要ないですから」
エイルが言うと、アーレイド近衛隊長にしてシュアラ王女の護衛騎士ファドック・ソレスは笑った。
「近頃、遅れが多いだろう」
「あ、それは……すいません」
エイルは素直に謝った。魔物だ首飾りだ小鳥だ偽物屋だ商人だ、何だかんだで忙しない日々のなか、「王女殿下との会合」はあまりにも日常的すぎて――数年前のエイルが聞いたら何の冗談だと思うだろうが――うっかりすると忘れてしまう。
どうしても行けなかった日は、当日中に――魔術を使ってでも――詫びを伝えた。行くには行けたが約束の刻限を大幅に遅れてしまい、エイル術師の担当時間はあと数分だった、というような日もあった。
近衛隊長の任やキド伯爵の補佐、その他いろいろ、エイルに劣らず忙しいはずのファドックは、以前のようにはシュアラのそばにいられなかったが、それでも王女はエイルの愚痴をファドックに向けるということか。もしほかの人間に言えば「そんないい加減な人物など解雇だ」となるに決まっているから、それを望まないシュアラは彼女の気持ちをよく知るファドックに言うのだろう。
レイジュに言われるよりはましであったが――いや、シュアラはエイルとレイジュのことを知らないはずだから、何の気もなしにエイルのことを侍女の前で口にしているかもしれない。そうであれば、元恋人はどんな顔で王女の苦情を聞くのだろうか。
エイルの頭には、とっさにそうした事々がぱっと浮かんだ。
「シュアラの奴、俺のことでファドック様困らせてんですか。任せてください、ぴしっと言ってやりますよ」
一瞬浮かんだもやっとした気持ちを振り払おうとするかのように、彼は軽口を叩いた。
「エイル」
「冗談です。すみません」
再び即座に謝罪する。何しろこの騎士は、シュアラ・アーレイドのためならばたいていのことは疑問を差し挟まずに行動するという困った資質を持っている。エイルの言葉遣いなどを叱責してくることはないが、シュアラを使った冗談は拙かった、と思ったのだ。
「そうではない」
だがファドックは――もちろん怒りはせずに――首を振った。
「殿下はお前の不在を心寂しく思われているが、口に出しては言われない。伝わってくるのは、侍女たちからだ」
「そう、ですか」
エイルは複雑な顔をした。ファドックが話をする侍女と言えばレイジュが筆頭だ。いや、「ファドックが話をする」というよりは「レイジュが機会を逃さず話しかける」が正しい。
レイジュがエイルのことを話題にするというのは、仲がぎこちないいまではどうにも不自然な気がした。もちろんファドックはほかの侍女から聞いたのかもしれないしレイジュがファドックと話すためなら振った男の話だって躊躇しないだけかもしれないが。
青年の困惑にはおそらく気づいただろうが、ファドックはそれには触れないでくれた。こういうところが助かる。
「もし本業の方が忙しくて手が回らないのならば、ちゃんと殿下にそう申し上げることだ。仕事として引き受けている以上は、それが責任というものだろう」
「判ってます。確かに最近、ちょっと甘えてました。どうしても手が回らなくなれば……本業?」
はたとなってエイルは問うた。
「ファドック様は、何が俺の本業だと思ってるんですか」
嫌な予感がする。
「まさか、魔術師だとか、言いませんよね」
「言われたくないのだな」
ファドックはにやりとした。
「そうは言うまい。私が決めることではないのだから。だが、お前自身は判っているのではないか」
言われてエイルは顔をしかめる。その言葉はどうにも――魔術師の自覚を持て、というオルエンの台詞に重なった。
「俺は、さ、ファドック様」
エイルは考えるようにして言った。
「本当は判っているのに、判らないふりを……してるんですかね」
ファドックが片眉を上げる。馬鹿げたことを言った、とエイルは頭をかいた。エイル自身のことをまるで他人のことのように尋ねてどうしようと言うのだろう。
「迷いがあるのならば、いくらでも迷え」
それが騎士の返答だった。
「迷走も含めて、お前の道だ」
その言葉にエイルは曖昧に笑った。ファドックの台詞は、どこか安心できるものであると同時に、おのれの決断力のなさを指摘されたもののようにも感じたからだ。もちろん、ファドックにはエイルを責める意図などないだろうが。
ただエイルは、気づくのだ。自分は決断を下せないのではなく、決断を怖れているだけ。
「不満そうだな?」
「そういうんじゃないですけど」
エイルは弱々しい笑みを見せた。
「初期教育を頼むんなら、ファドック様だったかなあと思って」
何も知らぬ騎士は当然のことながら何の話なのかを問うたが、エイルはもごもごとごまかした。