11 どうしたものか
しゃらん、しゃららん。
エイルは歯を食いしばり、呪いの言葉を連ねながら呪い返しの仕草をするという、ある意味、複雑な真似をした。
そのとき、不意に自身の内に浮かんだ思いを振り払いたかったのだ。
この魔物を殺して、それを自分のものにしたい。
どう考えても、それは彼自身の思いつきではなかった。呪いの一種だ。
この場はとっとと逃げ帰ろうか、とエイルは思った。この誘惑に抗い続けられる自信がない。
(これに捕まったら面倒だ)
彼は必死でその欲望を抑えた。
(そんなことになったら、オルエンに何を言われるか!)
それ未熟だの、やれ弱輩だの、駆け出しだの、修行が足りないだのと、言われてなるものか、という気概が湧いた。――全て真実なのだが。
ここまで見てきてやったのだ、興味が続くならあとはオルエンが好きにすればいい。
「師匠」が「弟子」に何をさせるつもりでいるのかは判らなかったが、少なくとも魔物の誘惑、いや、それの誘惑に負けて、生態の判らない興味深い生き物をうっかり殺すことではないだろう。そんなことをやり遂げてしまって罵倒されるよりは、逃げ出したのかと非難される方がましだ。
エイルが〈塔〉に呼びかけて〈移動〉術の手伝いを頼もうとした、そのとき。
魔物が、くずおれた。
「……おい」
思わずエイルは声をかけた。
「俺は何もしてないが」
サラニタは弱っているのかもしれない、と言ったナルタの言葉を思い出した。エイルははっとなる。
「おい、冗談だろ」
この生き物が何であろうと、いきなり臨終の床につき合わねばならなくなるというのは、心楽しい話ではない。たとえ相手が獣であっても、命が失われるのを目にすれば神妙な気持ちになるものだ。ましてや人の姿に似ていれば、なおさら。
「ええと……サラニタ?」
人間にするように呼びかけるのも奇妙であったが、エイルはつい、そんなふうに呼んでみた。魔物は倒れたままだ。そのまま動かない。風が吹いても――音色は、響かなくなった。
「死んだ……のかな」
エイルは額をかいた。さて、どうしたものか。まずは生死を確かめるべきだろうか。
数秒ばかり考え込んで、エイルはとりあえず杖をしまった。魔除けを取り出して左手に持ち、右手はいつでも剣を抜けるようにしながら、ゆっくりと倒れたサラニタの方へと歩を踏み出す。
魔物は、動かない。ぴくりとも。
そこにたどり着くまで十分もかかったように思えたが、もちろんそんなことはない。せいぜい、長く見ても一分だ。
エイルはごくりと生唾を飲み込み、魔物の傍らに膝をついた。死んだようにしか見えない。おそるおそる、それに触れる。氷のように冷たいのではないかと思っていた彼は、その腕が生暖かいのに驚いた。
だが驚くようなことでもない。彼の知らぬ存在であっても、これは間違いなく血の通う生き物だ――だった、ということだ。
もはやその心臓は鼓動をとめ、エイルが触れている内に砂漠の冷気に熱を奪われていく。青年は嘆息すると、冥界神の印を切った。魔物が人間と同じように冥界に行くのかは判らなかったが――行かないような気もする――、言うなれば、これは礼儀だ。
どうしたものか、という疑問に対する答えは出ない。
ラスルにもオルエンにも事実をそのまま話すしかないが、問題は。
「これ、だよな」
エイルは不思議な音色を奏でていた首飾りにそっと触れた。
そう、それは確かに、首飾りであった。
上弦の細月のような形をした飾りが銀色の鎖で首に留められている。
花のような柄と不規則な斑点の模様が描かれる白い月の上に、黄玉がちりばめられている。光って見えたのは、この宝玉なのだろう。「鳴る」ような仕組みは見当たらず、やはり魔術も感じなかったが、性の異なる魔法が働いてでもいるのだろうか。
音が鳴っていなければ、これが欲しいという奇妙な熱情は浮かばなかった。ただ、きれいな首飾りだなと思う程度だ。
エイルは少し躊躇ってから、サラニタを抱きかかえるようにして彼女――なのかどうかもよく判らなかったが――の首からそれを外そうとした。死者への冒涜のようで気が引けるが、これをこのまま放置しておくのは危険を伴うように思ったのだ。何かで西の商人の手にでも渡れば、あの「呪い」が混乱を引き起こすことは想像に難くない。
サラニタの身体はすぐに冷え切り、命の気配は完全に消えていた。エイルは何となく謝罪の仕草をしてから慣れない手つきで首飾りの留め具を外し、それを自身の手に納めた。
さて、どうしたものか。
とりあえずサラニタが死んでから鳴らなくはなったが、風が吹けば音がしていたことは確実だ。風を遮断するような呪文があっただろうか。あったかもしれないが、彼の身についてはいない。
とりあえずエイルは、それを物理的に風から遮断することにした。魔除けと一緒の袋にしまいこんだのである。
彼は立ち上がると、死んだ魔物を見た。
奇妙な巡り合わせである。この日、たまたまエイルがひとりでラスルの巡回の代わりをやらなければ、彼がこの死に立ち会うことはなかった。
ラスルがきていれば、首飾りを手にしただろうか。
彼に働いたような「これが欲しい」という欲望は砂漠の民たちには薄いが、それでも不和の種にはなったかもしれない。ラスルのため、という長の言葉はそれを意味したのだろうか。
――だが、彼との関わり、とは?
「な」
エイルは目を見開いた。
「何だ?」
彼は泡を食って、数歩を退いた。
というのは、死んだはずの――死んだようにしか見えなかったサラニタが、動き出したからだ。
いや、そうではない。サラニタは死んでいる。死んだふりをしていたのでも、蘇ったのでもない。
ただ、魔物は、青年の目の前で急速に小さくなっていった。
まるで風船の空気を抜いていくように縮んでいく。そして、膨らませる前の風船がそうであるのと同じように――小さくなるにつれ、色を得た。
エイルが呆然として、魔除けや厄除けの仕草をするのも忘れたままで見守る内、サラニタは縮小をとめた。
小さくなって消えてでもくれれば、彼はそのまま立ち去ることができたのだが。
「どういう……ことだよ」
彼はそれに目を奪われていた。
いくら「魔術師」と言ったところで、魔術師協会に登録してたかだか一年半、それ以前にちょっとした神秘にはお目にかかっていたが、冗談にも慣れているとは言い難い。
オルエンならばこの「神秘」を目にしたところで片眉を上げる程度であるかもしれないが、エイルは違う。
彼はぽかんと口を開け、有り得ない出来事の前に立ちすくんだ。
サラニタが倒れていたところには、そこに座り込んだまま、小さな瞳できょとんと彼を見返す――幼い子供の姿があった。