10 歌っているのは
その場所へと向かった理由は何であったろうか。
音色の誘惑に抗えなかったためか。
はたまた、何がこの思いを起こさせるのか知りたいという好奇心か。
それとも――「不思議な何か」に呼ばれるという感覚が、覚えのあるものであったためだろうか。
少なくとも、オルエンの知識欲と師匠面を満足させてやるためではない、と青年は思った。
声の位置と方向はすぐに見当がついたが、風がとまると歌は聞こえなくなり、はっきりと特定するには予想以上の苦労を強いられた。
近づけば近づくほど、それはやはり「歌」と言うよりも「音」である。
何か魔法の品か、いや、やはり魔術の気配はしない。
魔術は関わらずとも、「風が吹けば鳴る」、たとえば笛のようなからくりがある細工ものでも落ちているか。
いや、それを魔物が身につけているのだ。
(よし)
(少なくとも、魔精霊に魅惑されて理性がぶっ飛んでたりは、しないみたいだな)
どうやら冷静に思考を運んでいるらしい自分に安堵して、エイルはきょろきょろと周囲を見回す。
(そうさ、サラニーなんかじゃない)
(これは――)
「そこだっ!」
青年魔術師は振り返りざまに何もない砂地を指し示すと、またもとりあえず呪いの言葉を吐いてから両手を素早く動かした。
「誰も見てないから、やるけど」
誰もいないと言うのに、思わずエイルは言い訳するように呟いていた。
隠しからその手に取り出すのは、小さな棒状のものだ。簡単な印を切ると、それは長さ四十ファインほどの短杖に変わった。
茶色い上塗りが薄くかかっている程度であろうか、木目の見えるその魔杖は何とも簡素だ。先端はやや細く、柄の部分は握りやすいように丸い形状になっているが、それはかろうじてこれが「棒」ではなく「杖」だと示すくらいの特徴であった。
装飾や箔付けを目的としたような彫刻は何もされておらず、唯一のアクセントと言えば握りの部分に施されている白色の細い輪だけである。
この「魔術師が魔術をかけるのにたいへん助けになる便利な道具」、言い換えれば「黒ローブの次に『魔術師でござい』と喧伝しているも同様の小道具」を使うのは、エイルの好みではなかった。
それを言えば、自分が魔術師であることからして、好みではない。
だが、判っている。
全ての魔術師は魔力を持つかどうか、どこかで選べた訳ではない。魔力というのは生まれつき備わっている資質であって、持つも持たぬも選択の余地はないものだ。
オルエンであってもまた然り。少なくともそのはずである。
その思考は大した慰めにはならず、やっぱり自分はこんな運命などほしくなかったという結論に達するのがたいていだが、いまはとりあえず脇に置いた。
腰には剣も差しているものの、この場合はどう考えてもこちらが有用である。気には入らないのだが。
「さあ、おとなしく出てきてもらおうか。……言葉、通じんのかな」
杖をぴしっと一方向に決めてから、魔術師は心配そうに呟いた。
そこに誰か、または何かがいると確信があった訳でもない。ただ、まるで緑の空気を含んだ爽やかな風のようなその調べは、確かに彼が指した付近から聞こえているのである。
――しゃらん。
(さあて)
エイルは渇いた唇をなめた。
(こいつは魔術じゃない。だから、〈解呪〉を使っても何にもならない。そうだな、この手の目眩ましを暴くには)
エイルは両手の先端を合わせて細長い三角形を作り、短杖を親指の上に乗せるように持った。
「これだな」
思いついた呪文を頭にはっきりと描く。
「風神の加護あれかし、だ」
素早く杖を握り直し、右手で白い飾り輪に触れると、左手を下方から振り上げるような動作をした。すると、一陣の風が起きて足元に嫌と言うほど落ちている砂を吹き上げる。
彼程度の魔力でもし杖を持たずにこんな術を試みれば、九割方は失敗に終わる上、成否に関わらず、半刻の頭痛というおまけつきだ。杖があったところで、成功率は五割になるかどうか。
エイルは苦い顔をしながら飾り輪をはじいた。
「相性がいい、ね」
しゃらん。しゃららん。
ひときわ強く、音色が響く。エイルは酷い頭痛がするかのように顔をしかめた。これは術を使ったせいではない。
彼自身が作り出した魔法の風が去り、巻き上げられた砂があるべき場所へと還れば、そこには先ほどまでなかった――見えなかったものがあった。
其は、砂漠の魔物。
エイルはどきりとした。
小さな砂嵐から顔を守るように手をかざしているそれは、話に聞いたように、全裸の若い女性の姿を思わせる。
だが健全な青年の心と身体がそれに動悸を激しくした訳ではない。明らかにそれは人間ではなく、ただその形が似ていると言うだけ。
星明かりに光る白い身体は、ラスルの若者が言ったように蝋でできているようにも見えたが、エイルには違うものを連想させた。
白く光る床と壁。真白き翡翠でできた、かの宮殿を。
「くそっ、俺はお断りだって言ってんだろ!」
まさか本当に目前の魔物が翡翠でできていると思った訳ではない。すぐにそれを連想してしまったのが気に入らなかっただけである。
「さあて、お嬢さん。いったい、何者だって?」
魔物はゆらりと揺れた。こちらへこようとしているのか、とエイルは警戒し、〈移動〉術の算段をはじめた。万一にも襲いかかられるようなことになったとき、彼は戦うための魔術などほとんど使えないし、剣が通じるかも判らない。
通じないことを案じるだけではない。逆に、簡単に剣が通用してしまって、息の根をとめてしまえば、それはそれで目的に適わない。彼は「これ」を見にきただけであって、退治しにきた訳ではないのだ。
風が吹いた。
しゃらん。
何かが鳴る。
エイルは、その音色に心を持っていかれそうになるのを懸命に堪えながら、音の在処を探った。
魔物が歌っているのか。
そうではない。
魔物の胸部――首筋と乳房の間に、違う光を見せるものがあった。
話に聞いた通りである。
歌っているのは、それだった。