悪の宰相を倒す話の前日譚番外編 クリスティアン・ヴェルナーの初恋
天盖つきのベッド。毛足の長い絨毯。上質な家具に彩られた部屋で、驚いた彼女の唇を思わず奪ったのは、自分でも驚きだった。
「「どうして……」」
異口同音に漏れ出た言葉。
ヘレンは指先でそっと唇に触れ、つられた私も口元に手をやった。私たちはしばし、そのまま見つめ合いーー先に耐えられなくなったのは私だった。
踵を返し、勢いよく扉を閉める。大きな音が、そのまま私の心臓の音のように感じた。
「で、そのまま逃げたと?」
「いや、だから、その……」
「ヘタレ」
心頭滅却すれば火もまた涼し。
騎士団の訓練場で、朝から一心不乱に剣を振る私は、当然のように注目の的だった。しばらくは放っておいてくれたのだが、どうにも邪魔だったらしい。
追い出された私は、そのまま第一王子の執務室に放り込まれた。旧友でもあるゼクトに問いただされて、仕方なく昨日の出来事を話すと、ゼクトは人を食ったような笑みで言い切った。
「ヘタレじゃない」
「ヘタレだろう。自分が彼女に惚れてることすら自覚しないまま行動を起こして、フォローもせずに逃げたんだから。お前だって人がやったんなら同じことを言うさ」
肩をすくめるゼクトに反論する言葉を思いつかなくて、私は唇を噛んだ。
「それで、クリス。君はヘレンをどうしたいんだい?」
「どうって?」
「妻にしたいのか、愛人にしたいのか、それともなにもなかったことにするのかということだよ」
先程まで正しく飲み込めていたゼクトの言葉が、急に頭に入らなくなった。
妻?愛人?それはなんの話なんだ?
「呆れたな。まるで獣じゃないか。クリスが女官上がりにお守りを押し付けたあの方だって、女性に関しちゃもう少し頭を使うよ」
ゼクトが父を皮肉って言うが、私は彼のたった一言でそれどころではなくなった。
そうだ、そもそもヘレンは父の愛人として我が家にやってきたんじゃないか……。
ふむ、とゼクトは唸って、便箋を取り上げた。なにかを書き付けて、封筒に入れる。ベルを鳴らして呼んだ侍従に封筒を渡して、「これを母上へ」と言付けた。
「その顔だけで君の考えてることは判るけどね。まず、本人と話さないことにはどうしようもないだろう。と、いうわけでーー」
ゼクトは立ち上がり、私の背を押して部屋から追い出した。
「今日はもう帰りなさい。どうせ仕事なんて手につかないんだし、みんなの邪魔だよ。悪いようにはしないから」
ゼクトの言葉は皮肉にも、自分が先日ニム嬢にかけたものと同じだった。
せめて口実にと花を買って屋敷へ戻ると、慌てた執事に出迎えられた。マデリナ王妃から、私宛に手紙が届いているらしい。
自分で渡したかったが、花を侍女に任せて執務室に入る。王妃の手紙は、タイミングを図ったかのような内容だった。
要約すると、やはりヘレンを王都に置いておきたくないからヴェルナー領にある本邸で行儀見習いをさせるようにという命令だ。
つまり、父の愛人ではなく、母の元で淑女教育を受けさせるようにと命じているも同然で。
同時に、私も監督のために一月ほど領地に留まるようにとも書かれていた。
悪いようにはしないから、と言ったゼクトの声がよみがえる。今頃彼らは、私のことをネタに楽しんでいるに違いない。
「ピーター、すまないが、ヘレンの荷物をまとめ直すよう侍女に頼んでくれ。それから、私の荷物も用意してほしい。ヘレンはここではなく領地の本邸で行儀見習いをするようにと王妃殿下の命令だ。できるだけ早く出立するようにとのことだから、明日には出たい」
「かしこまりました」
うやうやしく頭を下げて、執事は下がーーろうとして立ち止まった。
「準備の間埃がたちますので、お嬢様にはティールームでお茶をしていただこうと思いますが、坊っちゃんはいかがなさいますか?」
孫もいる年の執事は、メガネの奥で榛色の瞳を細めた。
坊っちゃんはやめてくれと情けないお願いをして、自分の分も用意してほしいと伝える。再びかしこまりましたと頭を下げ、ピーターは静かに立ち去った。
用意ができたと案内されたティールームで、ヘレンは所在なさげにたたずんでいた。
「…………ぁ、クリスティアン様」
「やあ、素敵なお嬢さん。ご一緒しても?」
掌を差し出すと、ヘレンは困ったように首をかしげた。
「手を乗せて。エスコートするから」
「あ、はい。ごめんなさい!」
あわてて重ねられた指先は少し冷たくて、自分のものではない体温を感じた瞬間、心臓がバクバクと走り出した。
私が彼女に惚れてると言ったゼクトの意地の悪い顔が浮かぶ。
なんてことだ、これが恋か。頭も心臓も馬鹿みたいに騒いでるじゃないか。
エスコートなんて馴れてるというのに、手に汗までかいてきた。なんとかソファまで誘導して、机を挟んだ正面に腰かける。
話題を見つけられないことが気まずくて、顔も上げられやしない。本当に、私はどうしてしまったんだ。
「エスコートなんて、初めて」
呟きに目だけを上げると、ヘレンは右手を見て微笑んでいた。
「最初で最後かも」
「私と結婚したら、毎日エスコートする!……あっ」
自嘲する彼女の手を両手で握って、私は叫ぶように告白していた。
ヘレンは驚いて、私の顔を凝視する。やがてぎこちなく口元が動き、私はヘレンの言葉を今までの人生で一番緊張しながら待った。
「やだなぁ。もう、そんな夢、見てないですよ」
「ゆめ……」
「だって、あたしはヴェルナー公爵の愛人になるんでしょ?」
するりとヘレンの手が私の手の中から逃げていってしまう。このままじゃだめだ。
焦った私は、思わずヘレンの両肩を掴んで、「夢じゃない!」と叫んだ。
お茶の用意をしてそのまま壁際に控えていた侍女が、そっと扉を開けて出ていくのが見えた。執事を呼びに行ったんだろう。
「夢じゃない。王妃殿下の命で、私たちは領地に行くんだ。君は父の愛人じゃなくて、母の元で行儀見習いをするんだよ」
「どうして?」
まっすぐ私を見上げて、真剣にヘレンは問う。いきなり処分の内容が変わったのだから、驚いて当然だろう。
「おそらく、私が君に、その……惚れてると、伝わったんだろう」
「……そうですか。でも、誰かの意思ひとつで待遇が変わるあたしみたいな平民は、愛人がせいぜいですから」
すっと伏せられたまぶたの下の目は、なにを考えてるのか分からなくて不安になる。けれど、硬い声はヘレンが私を拒絶しているのだと突きつけられた。
小さくノックをして、執事が返事を待たずに入室する。あの侍女は、いったいどう伝えたのだろうか。執事の顔が険しい。
「そんなことはない。私は、君を正式に妻にしたいと思っている」
「したいとできるは違います。バカなあたしでもそれくらいわかりますよ」
「それは……っ」
「坊っちゃん」
だったら、誰とも結婚しないと言おうとした私の言葉を遮って、執事が首を横に振る。
「女性にそのように乱暴するものではありません。お嬢様の柔肌に傷が残ったらいかがなさいます」
「そうしたら私が責任を取って」
「坊っちゃん。そうやってなんでも思うようにしたがるのは、あなた様の悪い癖です。だからいつまで経っても坊っちゃんなのですよ」
ピシャリと言われて、しぶしぶヘレンから手を離す。
「お嬢様、お怪我はございませんか?」
私に対する時とは百八十度態度を変えて、執事はヘレンを労る。頷くヘレンの傍らに膝をつき、老齢の執事は彼女の手を握った。
「坊っちゃんは、遅まきの初恋に浮かれて、頭に花が咲いてしまったようです。まともに戻るには時間が必要でしょう」
足から力が抜けて、立っていられなくなった私は、ドサッとソファに沈みこんだ。
そろり、ヘレンの視線が私に移る。
「あんな方は思い切り振ればよろしいのですよ。かく言うこのピーターめも、亡き妻を口説き落とすのに三年半を費やしました。その妻が言うには、断る理由がなくなったら、他人にやるのが惜しくなったと。お嬢様が坊っちゃんに対してそのように思えば、頷けばよろしい。坊っちゃん以外にお慕いする方ができれば、その方を選べばいいだけの話です。ただ、この老いぼれの考えでは、機会も与えず断ってしまうには次期公爵夫人の椅子は、少々もったいないように思いますな」
ピーター、落とすか上げるかどっちかにしてくれ……。
恐れているような、期待しているような、迷っているような。複雑な気持ちをのせた瞳が、私を見て揺れている。
「明日、領地に出発する。王都から馬車で二日ほどだ。私も同行して、一ヶ月ほどあちらに滞在する予定だ。その間だけでも、私にチャンスをもらえないだろうか?」
一応、問いかけの形を取ったが、拒否権を与える気はない。
気づいたらしい執事に睨まれたが、知ったことか。というか、お前はなぜそんなにヘレンの味方をする。
ヘレンは迷いながらも頷いた。
そうなればもう、こっちのものだ。
領地に着いたあと、母を味方に着けた私は毎日ヘレンを口説き、王都に戻ったあとも隙を見て領地に通いつめた。
根負けしたヘレンが私との結婚を承諾してくれたのは、この日から数えて十ヶ月と二十日後のことだった。
その日のうちに王宮に早馬を送り、ゼクトを馬で領地に呼び出して。第一王子を後見に、私たちは三日後に婚約の儀を済ませた。
かわいそうなヘレンは詰め込まれた儀式の作法に泣きそうになりながら、ギリギリ笑顔を保っていた。
半年後には式をあげ、公爵家の一員となったヘレンは、毎朝ベッドから食堂までエスコートする私にひきつった顔で「選択を間違えた気がする」とぼやいていたけど、もう遅い。最初に約束したじゃないか。毎日でもエスコートするって。
私のものになったんだから、絶対に離さないよ?
余談だが、執事になぜそんなにヘレンの味方をするのか聞いたら、彼は好好爺然とした笑みでこう言い切った。
「最愛の妻と同じ名前の、孫娘と同じ年のお嬢様が、ヘタレの坊っちゃんよりかわいいのは当然でございましょう」
お読みいただきありがとうございます。
ひとまずこれにて悪の宰相を倒す話はおしまい(の予定)です。
お付き合いありがとうございましたm(_ _)m