第2話・海女
「行って参ります」
大神光子が社務所に続く玄関から出て来て、境内を掃除している神職の父親に言うと、父親は娘に頷いて答えた。
彼女は朝のお勤めの時とは違った雰囲気を身につけていた。
お勤めの時の巫女装束と違って、今は上下とも裾の短い白い着物を来ている。これは海に潜って仕事をする海女の服装だ。
光子は巫女の勤めと共に海女の仕事を掛け持ちでしているのだ。それは、大神家の娘やこの町で生まれた女たちの殆どが通る道でもあった。
港へと続く緩い下り坂をゆっくりと下って行く彼女の目には、春の陽光に照らさせた海が光って、彼女を待っているかのように見えていた。
「みっちゃんー、待ってぇ!」
と、後から明るい声が掛かった。
その声に振り向いた光子は、右手の坂から駈けてくる少女を見た。
光子と同じ白い服を着た少女が、太股も露わにして走って来ている。立派な太股と丸い顔が印象的な少女だった。
「おはよう、よねちゃん。相変わらず元気だね」
追い付いてきた少女に、光子が声を掛ける。
「あは、弟がぐずるもんで遅くなっちゃったぁ」
「そっか。よねちゃんは大変だね」
米子と言うこの少女は、光子と同い年ながら、年の離れた幼い弟がいるのだ。幼子の面倒は、上の子供がみる時代だ。
「いんやぁ、そげな大した事じゃないよ。みっちゃんのお務めの方が遙かに大変だぁ」
「私は、そうでもないよ。お務めは小さい時からやっていて慣れているから・・」
光子は十九才になった今年から筆頭巫女の役割を母親から引き継ぐまでは、その見習いや補佐を小さい頃からしてきていたのだ。
「でも、大勢の人の前で喋らなきゃあならないでしょう。うちには到底ムリだわ」
御食媛神社は巫女が主役の神社である。
彼女らが住む海沿いの小さな町は、御食媛神社の門前町とも言われていて、巫女の発言は町長の言葉より重く、その重圧はとても大きなものがあった。
筆頭巫女となったことで、今年から町全体に影響力がある神社の全ての行事を、光子が代表して行う事になったのである。
「うん、それはあるわ。でも、祖母や母がいるから大丈夫よ」
「元旦のみっちゃんの姿は、神々しかったよ。うち、感激して泣きそうになったんよ・・」
巫女の勤めは、光子が引き継いだばかりの元旦の夜明け前から始まった。それは恒例の極めて大事な行事だった。
元旦、朝明け前の浜に新しいまっ白な衣を着た海女が勢揃いする。数え切れないほどの海女が、広い浜を白く埋め尽くした。
だが、見物人は誰もいない。
これは海女だけの秘儀で、その他の者は見ることを固く禁じられている行事だった。浜から離れた村では、大勢の海女の家族が火を炊き乾いた手拭いを用意して、濡れて冷え切った体で戻る海女の帰りを待っていた。
「カケマクモカシコキ イザナミオオカミ アワノタチバナノ・・・」
海女の最前列に立った巫女が海に向かって、榊を振って詔を唱える。この巫女が就任したばかりの巫女・光子であった。
浜に居並ぶ海女達は、微動もしないで無言のうちに合唱して巫女の言葉を聞いている。
やがて東の空が赤く染まる頃に、巫女は静かに海に入る。
そのうしろを海女達が続く。
海女たちが、その年初の若潮を身体に浴びて、海の神に漁の安全と豊漁を祈願する大切な行事だ。
「・・・・・・カシコミカシコミモウス」
と、胸まで海に入った巫女が合掌して唱え終えた。その言葉に呼応するかのように海の彼方に一筋の光が差した。
夜明けだ。
陸の黒と海の灰色の世界に、海岸を埋める海女の白い服。そして遠くの海が暁の色に染まり、輝く朝の黄金の光がその海女たちの顔を真っ直ぐに照らした。
壮大な自然の力を感じる瞬間だ。
海女たちの体が震えていたのは、寒さのためだけでは無かった。