第16話・竜宮の井戸
清美は海から上がろうとする朝日を見ていた。
横で同じ様に見つめている琴代の表情からは、昨日の懊悩が嘘の様に消えていた。
琴代は巫女舞を見終えたあともその場に固まって瞬きもせずに巫女のいた場所を見ていた。
「竜宮の井戸・・」ぽつりと呟いたのを清美は聞いた。それ以降、懊悩が琴代の表情から消えた。
それは清美も同じだった。 昨夜、御食媛神社で神秘の巫女舞を見てから、祖母達の事情のことは何故かもうあまり苦痛にならないほど癒やされていたのだ。
一点のまばゆい光が海の彼方から差した。輝かしい朝の光だ。その光は瞬く間に力を増して顔を温めて、一日の始まりを教えてくれる。周囲も朝のエネルギーに満ちた光りが広がってゆく。
琴代が振り返り、背後の山を見た。清美も振り返って黄金に輝く御食媛神社がある山肌を見た。夜露に濡れた木々から蒸発した霧が立ち上がっている。
「朝日の家か・・」と、清美は思わず米子お婆ちゃんのいる保養施設の事を思った。
「・・米子お婆ちゃんもこの朝日を見ているのかしら・」
「きっと見ているわ。京都でも良く見ていたもの」
「そう言えば、お婆ちゃんたちが作った会社も太陽がつくわね」
「そうね。きっとここに登る朝日の事ね」
もはや間違いは無い。あの事件で清美たちのお婆ちゃんたちが、この地を離れて京都に移ったのだ。
そして、リタイヤした後にこの地に戻る事を夢見て必死に働いた。彼女たちは、故郷に上がる見事な朝日の事を忘れられなかったのだ。この朝日が希望そのものだったのかも知れない。
「この朝日が、お婆ちゃん達の故郷への想い、その象徴なのかもね」
「きっとそうだよ。間違いない」
その日の少し後のことである。
琴代と清美は、白い海女装束を着て海に入っていた。
そこからは、岬の白い灯台が近くに見えていた。それは二人が最初に立ち寄った麦崎岬の灯台で、二人のいるのは竜宮の井戸と言われているあたりだ。
二人の傍には舟が漂っている。船の上には真智子さん夫婦が乗っていて彼らは心配そうに、二人を見ている。
真智子さんが民宿・浜屋を尋ねて来たのは朝食前だった。
「早速だけど、竜宮の井戸に行ってみるかい?」
と、二人の顔を見た真智子さんが言った。
「えっ、良いのですか。本当に?」
「本当ですよ。だからわざわざ誘いに来たのよ。行くのなら亭主の船で送迎するわよ」
琴代は清美と顔を見合わせた。
まさか、真智子さん夫妻が竜宮の井戸に連れて行ってくれるとは思ってなかったのだ。真智子さん夫妻だけでなく、誰もそんな所に連れて行ってくれるとは思っていなくて、最初のテーマの竜宮の井戸の探索はほぼあきらめかけていたのだ。
二人は顔を合わせて同時に頷いた。
「それでは是非お願いします!」
「じゃあ、九時頃に湊においで。いっとくけれど私は、船の上から手助けはするけれど潜らないよ。あなたたちだけで潜って見て来るのよ」
「解りました。それで結構です。宜しくお願いします」
泳げない琴代も昨日一日の経験で、深い所に潜ることがさほど怖くなくなっていた。それに伝説の竜宮の井戸が見られるのだ。何よりも好奇心が勝っていた。
琴代と清美は真智子さん夫妻の案内で、竜宮の井戸のある所まで船で送って貰うと、二人同時に竜宮の井戸に向かって潜水しようとしていた。
琴代は清美の顔を見た。清美も真剣な顔で琴代を見た。
二人は顔を見合って頷くと、調子を合わせて同時に潜った。体を大きくグラインドさせて分銅と一緒に一直線に深みを目指した。
体が軽い。まるで海底に向かって海水が流れて行くが如く、グングンと深度が増した。巨大な岩礁が、すぐ傍に見えて来た。その大きな岩の下を潜る。流れが二人を誘導してくれるかのようだった。
(あった!)
岩の間に直径二メートルほどのコバルトブルーの丸い穴が開いている。黒々とした岩を背景に、それはまさに海中にポッカリと浮かんでいた。
(竜宮の井戸は、本当にあったのだ・・・)
琴代はしばらくそれを見つめていた。隣では驚いた顔の清美が同じように見ている。
どのくらいの時間が経ったのだろう?
不思議な事に、そろそろ切れる呼吸の兆候が無い。陸にいる時みたいに自然で楽なのだ。
その丸い空間の中に小さな人影のようなものが浮かんだ。それは、急速に近付いて来た。
(トモカズキ・・)
白装束、白手拭いの海女の姿のそのものは、海女の不思議な話で聞いていたトモカズキに間違い無かった。だが海の魔物や亡くなった海女の亡霊と言われるそのものは、不思議と怖くなかった。
(・・わ・わたし?)
そのものは、琴代の顔をしていた。もう二人に触れそうなところまで来て、止まって二人を見つめていた。それから、二人の手を取ると頷いた。
それが琴代には案内してあげると言う意味に思えた。それで琴代もつい、頷いた。
するとそのものは、二人の手を取ったままゆっくりと竜宮の井戸に戻ってゆく。
泳ぐ早さは、始めはゆっくりだったが、次第に早さを増した。そして猛烈な水圧が体を締め付け、体が回転して渦巻いてゆく。
琴代は気を失うまいと歯を噛みしめて必死に耐えて、目を見開いていた。だが廻りは暗く、何も見えなかった。
やがて、渦が無くなって上昇している自分を感じた。手を繋いでいるのは、いつの間にか清美に変わっていた。二人の廻りにトモカズキはいなくなっていた。