黄昏の空と殺人鬼
「今日は空が綺麗ですねぇ」
ぽつぽつと空席が目立つバスの車内に、そんな呑気な声が聞こえた。
その声は、何となく気分が乗らなくて外したイヤホンからでも、うたた寝でもしようかと寄りかかった窓の外からでもなく、明らかに隣から聞こえてきたのだ。隣には楽しげに微笑む老人がいるだけで、彼の顔はこちらへと向いてはいない。
ボケているのか、それともこの歳でイヤホンマイクを駆使して通話をしているのか、どちらにしても迷惑な老人である。
そのどちらでもないことを、突然こちらへ向けられた彼の顔を目の前にしてようやく悟った。
「ねぇ、そうは思いませんか?」
「はぁ……そうっすね」
妙な老人だが、何となく無視をするのは気が引けて、適当な答えを返した。老人は嬉しそうに笑い、再び視線を前へと戻す。
「若い人はもしかすると興味がないかもしれませんがね、案外面白いものなんですよ」
しみじみとそう言ったかと思うと、老人はぱっと目を見開き、慌てたように顔の前で手を振った。
「ああ、違いますよ。若い人はスマホばかり見ているだとか、そんな年寄りじみたことを言いたいんじゃありません」
「はぁ……」
口をついて出るのは、先ほどと変わらない答え。突然の出来事にどう対応すべきか分からず、そんな生返事のような答えが出てしまった。
こういうとき、もう少し何か上手いことを返せたら、もう少し口上手であったならと、出来もしないことを考える。そんなことを考えている暇があったら、何か気の利いたことでも返せばいいのに。
けれど、やはり「気の利いた言葉」なんてものが俺の口から飛び出すことはなく、何となく次の会話を切り出すこともせずに、窓の外を見た。確かに、綺麗な空だ。夕方を少し過ぎて、夕焼けのオレンジが空に広がった後の時間。澄み切った空の優しい水色に、薄いオレンジジュースのような黄色が滲んでいる。オレンジに覆い尽くされていたこの景色が、真っ青なテーブルクロスにジュースをこぼしたような景色に変わって、やがて限りなく黒に近い青に染まるというのは、何となく不思議だ。
「……空、綺麗ですね」
大した意味もなくそう呟くと、老人は嬉しそうに目を細めた。本当に嬉しそうに、初めて孫に呼ばれたときのような、そんな顔だ。
「そうでしょう、そうでしょう。何でしょうねぇ、今はネットだとかで、いろんな情報が溢れてるでしょう。その情報を誰かが見て、そして好き勝手にいろんなことを言いますでしょう。そうするとね、自分でも分からないうちに人の意見にずるずると引きずられてしまうことがあるんですよ。逆に意固地になっていると、かえって良くない方向に向かうこともありますから、加減は必要ですけどね」
「そうですね」
歳をとると、そういった新しいものにはだんだんとついて行けなくなって、負け惜しみのように嫌味を言うものだと思っていた。空の話とは何も関係がないように思えるけれど、老人の言葉は極めて的確で、思わず納得してしまう。
「でも、そういう環境にいると、良くも悪くも、普段は絶対に出会えないような人とも出会えるんですよね。すごく歌が上手い人とか、すごく絵が上手い人とか、すごく写真が上手い人とかがいるわけです。例えばそういう人たちが空を表現するとなると、私たちは他の人の目で見た空を見ることになります。でもそれは、私たち以外の他の人にも共有されていることなんですよ」
「……当たり前ですよね」
「そう、当たり前です。だから、自分の目で見る空は、自分だけの空です。誰の目にも触れず、まっさらで純粋な状態の、空なんです」
そういうのって、素敵じゃないですか。老人はそう言って笑った。何か返さなければいけないだとか、相槌だけでも打たなければだとか、そんなことを考えることなく、自然に同意の言葉が出た。
他人の意見に流されず、それでもときどき流されてみて、他人の目から見た景色を見て、自分の目から見たものを大切にする。この人は長い人生の中で、そんな生き方を見つけたのだろう。それが必ずしも俺の人生にとっての正解とは限らなくても、いい生き方だと思った。
「あ、すみません、そこのボタン押してもらっても?」
「あぁ、はい」
言われた通りに停車ボタンを押すと、車内にチャイムが鳴り響く。ありがとうございますと丁寧に礼を述べる老人。感じのいい人だ。そう思うと同時に、最初に見たときに思った迷惑な老人だという言葉を心の中で取り消した。
「お気をつけて」
バスを降りようと席を立った老人に、そう声をかける。いい話を聞かせてもらった礼を言いたかったのだが、いきなり礼を言っては不自然かと思い、何とか不自然ではないようにと選んだ言葉。少し話を聞いただけでそんなことを言うのもおかしいのかもしれないが、それでも老人は訝しがることもなく、またあの感じのいい笑顔で「ありがとうございます」と答えてバスを降りていった。
バス停の名前にもなっている警察署に入っていく老人の姿を眺めながら、道でも聞くのだろうかと呑気なことを考えた、直後──それまで景色に過ぎなかったポスターが、鮮明な記憶と合致する。
一瞬の静寂。バスのエンジンも、街の喧騒も遠のいた。目の前の掲示板に張り出された一枚の紙だけが、音と色を失った世界で唯一、浮き彫りになって見える。それでも、目の前の現実を飲み込むことができず、ただ硬直していた。そんなことを知りもしないバスは、定刻通り動き始める。解消しきれていない疑問を、処理しきれていない現実を置き去りにして。
声に出せば、そのまま胃の中のものまで吐き出しそうだと思いながら、見たものを少しずつ思い出そうと努めた。けれど、思い出せるのは印象的なある単語と、見覚えのある顔写真だけ。貼られていたのはあの老人の顔写真。恐らくは名前や歳まで詳しく書かれていたのだろうが、その詳細な情報全てを俺の意識から消し飛ばすような非日常的な単語が頭から離れない。その単語はあの老人の正しさを全否定するような言葉で、あの老人が俺に話してくれたことも全否定するような言葉だ。そんな言葉が頭を渦巻く中でも、片隅に存在している老人の言葉。何が正しいのか、この場合は流されるべきなのかそうでないべきなのか、そんなことを考えるのはすぐに疲れてしまって、窓の外で夕焼けに染まりかけている空を見る。
今なら、あの老人の言葉がよく分かる。どれだけ多くの人間がこの空を見ていたとしても、俺が見ているこの空は、俺だけの空だ。虚しくなるほどまっさらで、純粋な空。
素敵ですね。
声に出さず、そう口にしてみても、あの老人のように感じのいい言葉には聞こえなかった。
数日後の朝、全国指名手配されていた男が自首したというニュースが流れた。その男が自首した警察署というのが家のすぐ近所だったということもあり、ニュースを見た母は「怖いわねぇ……」と声を漏らす。その言葉に「そうだな」と返した俺の声は、今までにないくらい素っ気なくて、薄っぺらかった。
テレビに映るのは、あの老人の顔。彼が全国指名手配されている連続殺人鬼だと何度もニュースが騒ぎたてているが、いまいちピンとこない。そう思うのは、きっと俺くらいのものだろう。
俺が見ているこの画面は、俺だけのもの。俺だけの考え。俺しか持たない考え。
それは果たして、素敵だろうか。
そんな問いをぶつけるところはなくて、そんな問いの答えを教えてくれる人もいない。けれど、この問いはきっと素敵ではないのだろう。だから、ただ願う。全国指名手配犯ではなく、殺人鬼でもなく、嬉しそうに空を見ていたあの老人が、再び空を見上げて目を細める日が来ることを、願う。
いってきますも言わずに外に出て見上げた空は、嘘のように青い。あの人が見ていたら、きっと言うのだろう。
「今日は、空が綺麗ですね」
ぎこちなく、そう口にしてみる。返事はない。
ねぇ、そうは思いませんか?
口に出そうとして、やめた。
口に出すより先に、そうですねぇ、というあの感じのいい声が、どこからか聞こえたような気がしたから。けれどそれきり、あのおしゃべり好きな老人の声が聞こえることはなく、何となく虚しいような、寂しいような、そんな気分で足を動かす。そのままいつものバスに乗っても、スマホを見る気にはなれなかった。もしかしたら知らないうちに、おしゃべり好きな指名手配犯が、俺の隣に座っているかもしれないから。