舞い上がれ風よ!天馬の踊り子エルザ
【1】
芸能人のオアシスとも呼べる街であるサンサシティ。
観光スポットととしても評判で街中では屋台とホテルが売り上げ争いをしている。
街の奥まった所には会員制の超高級ホテルがあり、ここは主にイベントで訪れた芸能人が利用している。
一般人でも宿泊は可能だが会員費が尋常ではないので入れるのですら夢のまた夢であった。
そこの最上階にあるシングルのスイートルームの扉の前で数人の男がバタバタしていた。
「おい居たか!?」
「駄目だ、コッチにも居ねぇ。」
かしこまった黒のスーツを着た彼等はあちらこちら走り回り、ネクタイが宙に引っ張られて肩に乗っかりそうだ。
彼らは明後日から4日に渡って公演される舞踊ライブを企画したイベント会社の社員である。
実は今日の昼から夕方までリハーサルを行う予定なのだが肝心の主役がリハーサルだと忘れているのか、ホテルから姿を消していたのだ。
当然ながら何処かへ出掛けるとも知らされておらず、いざ呼びに言ったら部屋がもぬけの殻だと気付かされ慌てて探しているのである。
「もう何処行ってんだよ…色々打ち合わせあるのに。」
スイートルームには本人の荷物やライブ用の衣装が置かれたままになっている。
そうなると近辺を散歩している可能性が強かった。
「とにかく探せ!当日に何かあったら大失態なんだぞ!」
リーダーらしい指揮を取る男が自棄糞気味に部下に指示する。
万が一見つかっても怪我などをしていたら最早ライブ所では無くなるからだ。
もしそうなったらマスコミや観客への尻拭いが一層厄介になり、それは自分等の会社にも大きく影響してくる。
そこまで見越して社員達は何としてでもライブを実現しなければと躍起立っていた。
「俺はもう一度外を見てくる。お前らはまだ探してない場所を捜索してろ。」
リーダー役は早足でエレベーターへ向かい、下に降りるボタンを連打する。
ゆっくりとドアが開いたら滑り込んで直ぐに下へと急いだ。
―そんなドタバタの様子を外部から眺める人影があった。
1人の人間がホテルの入り口付近にある木に隠れて辺りを見回している。
焦げ茶色のハンチング帽にサングラス、マスクにデニムのジーンズ、白いシャツに濃紺のライダースジャケット。
素顔を隠して路上を歩くタレントそのままの格好でホテルを凝視している。
木の近くを歩く人が不思議そうにその人を見つめて去っていく。
不審者と言われても違いない容姿なので通り過ぎても後ろを振り向くのも何人かいた。
すると本人も気不味くなったのか、暫くホテルを観察しながら静かにその場を後にして行く。
するとホテルの入り口から数人が外に出てきてキョロキョロと巡回しているのが見えた。
バラバラに走り去る様子を遠巻きに眺めてその人はホッと一息付く。
通りに面したベンチに腰掛け、マスクの奥で深呼吸する。
太陽がギラギラ照らされた街ではジーンズとジャケットの生地に熱が籠って体が火照ってくる。
早く着替えたいがなるべく見つからない場所まで隠れないと思うと億劫だと感じた。
気分転換にお茶でも飲もうかとポケットを漁るが出てきたのは僅かな小銭だけ。
財布は部屋にそのまま置いてきてしまったと改めて後悔していた。
酷く惨めな気持ちに揺すられ、ベンチから立ち上がる。
自分には戻る場所が何処にも無い、そんな事を思いながら小走りで街の中心へと向かっていく。
ハンチングから出る銀色のポニーテールを…風で揺らしていきながら…。
【2】
今日は異様な位に熱い。
朝から太陽が照らされて地面からは陽炎が昇っている。
草木が生えていない荒野の大地では特に異常だ。
その中にポツリと聳え立つ小さな建物がある。
黄色い煉瓦の壁に紫の屋根といった目立つ外観ながらも可愛らしい家。
直ぐ近くには柵に囲まれた広場らしき場所もあるがそこは雑草まみれで殺風景だ。
でも家の回りには色取り取りの草花が生えていてそこだけが小さなオアシスと化している。
建物から出てきた年配の女性はジョウロで水やりをしながら花の状態を確認する。
幸いにも枯れているのは無さそうで安心していたら遠くからエンジンの音が聞こえた。
すると2台のバイクが揃って玄関前に停車した。
「お~いおばちゃん、ちょっと停めてもらって良いか?」
女性は何事かと思って向かうと若い2人の男がバイクから下りている。
「おやアンタ達、旅人さんか?」
「正解。ガソリン切れになってさ、この近くにスタンドって無いか?」
どうやら盗賊の類いでは無いと知って女性は家にあったガイドブックを広げる。
「この道真っ直ぐ行くと直ぐの所にあるよ。歩いて5分か6分だね。」
「サンキュー。俺行ってくるから旦那見張り頼むね。」
ジャッキーが札束をコートのポケットに捩じ込みながら走り出そうとする。
「ジャッキー、それなら俺行くよ。」
「そう急かすなって。運んでる途中で漏れたのが自分の能力で引火したらシャレにならねぇだろ?」
ウッ、と一瞬怯んだ隙にジャッキーはコートの裾をバサバサ扇いで歩き出した。
「まぁまぁお兄さん、戻ってくるまでお茶でも一杯飲んでいきなさいよ。」
女性はにこやかに立ち竦むケビンとマナを家に入れてくれた。
一戸建ての家の中はこじんまりしててなんだか寂しく感じていた。
2人は女性に案内されて玄関脇のキッチンに入る。
「済まないねおばちゃん。」
「良いのよ。アタシも1人だし…ここに人が来るのも久し振りだからね。」
ほんの少し寂しい顔を見せて女性は白いポットに茶葉と水を入れて火に掛けた。
それがケビンには気掛かりになり、そっと口を開く。
「…ご家族とかは?」
「旦那と娘と息子がいたけど…もう皆死んじゃったんだ。一昨年にさ…。」
差し出されたクッキー缶に手を伸ばすマナを宥めながらケビンは女性を見つめる。
「ここはさ、元々は牧場やってたんだよ。山羊も牛も羊もいてね、近くの街にミルクなんかを良く卸してたんだ。それに家族連れや遠足で沢山人が来てそりゃあ賑やかだったんだ。」
ケビンはその話を聞いて家の近くにあったあの雑草まみれの広場を思い浮かべる。
確かにあそこだけは柵で区切られていて普通の庭とも思えない。
女性の言う通りに牧場を営んでいた痕跡を意味していた。
シュンシュンと水が沸騰してきてポットの蓋が湯気に押されて飛び出そうとしている。
「あの日…家畜動物保護組合とかいう変な人達が来てね、ウチで育てていた動物達を盗んでいったんだ。息子と娘が止めようとしたけど…無謀にも銃で撃たれたんだ。」
カチッとガスコンロのツマミを回して火を止めると注ぎ口から白い煙が出る。
「病院に運ばれたけど助からなくてね…。息子達の葬儀が終わって直ぐ…旦那も部屋で首を吊ったんだ。警察の人もあれこれしてくれたけど…犯人は見つからず仕舞いで今は誰も寄り付かなくなったんだ…。」
ポットをグルグル回して白いカップに薄い褐色の液体が注がれる。
「アタシに残されたのは娘が趣味で育てていたあの花だけなんだ。娘の事を忘れないように…アタシは1人で世話を焼いてきてね。いつしか話し相手もあの子だけになっちゃったんだ。」
カップをテーブルに運んで席に座った女性は微かに揺れるカップの水面を見つめる。
「あらごめんなさいね。つまらない話しちゃって。」
「気にしてねぇよ。俺も似たような立場の人間だから…アンタの気持ちは良く分かるんだ。」
優雅な仕草でお茶を飲みながらケビンはシャツのボタンを緩める。
長い指が銀色の鎖を摘まんでチャリチャリと鳴る。
「俺も目の前で奥さんと息子殺されたんだ。情けねぇよな。自分がいながら家族守れなくてさ、何が夫だ、何が父親だって文句言われそうな位だったんだ。」
【3】
女性とマナは驚いてケビンを見つめる。
小さなダイヤが光る指輪を握って男は寂しそうに笑った。
「俺はあの日から誰かに頼るのを止めたんだ。自分に関わったら…ロクな目に合わないからな。」
―それは持病とも言える自分の弱さの事。
目の前で大切な誰かを失う恐怖が彼の中に巣食っていた。
「今でもあの日の光景が夢に出てくるんだ。いつも女房が自分に手を伸ばして…俺も伸ばすけど届かなくて…そこでいつも目が覚めるんだ。」
「そうかい。お兄さんも大変だったんだね。」
感心する女性とは真逆にマナはジッとケビンの横顔を見ている。
―それは泣き顔を見せたくないようなワザとらしい作り笑いだ。
ケビンが涙脆い男なのは把握している。
それで弱く見えないように無理に振る舞っている事も。
急に胸の奥がモヤモヤして椅子から降りた。
「どうした?」
「…ジャックが帰ってきてるか見てくる。」
そんな言い訳をしてマナは玄関へ向かう。
本当はそんな事じゃないがとにかくここから立ち去りたかった。
コテージの外に出て玄関へ通じる階段に腰を下ろす。
俯きながらふと左手の薬指をなぞると指輪が触れた。
―自分の親は何処かで生きている。
―でも一緒にいる男は目の前で家族を亡くした。
そう比較して恵まれている自分が情けなくなっていた。
「ふぇん…ヒック。」
ピンク色の宝石に透明な雫が落ちていく。
悲しみを背負った男に甘える自分を責めるように泣いていた。
「マナ…黙っててごめんな。」
後ろから声がした。
振り返る隙もなく自分の隣に誰かが座った。
その証拠に丸まった背中が大きな手で擦られる。
「本当はもっと早く教えようと思ってたのに…悪かったな。」
顔を上げたら目の前に何かが差し出された。
妻と息子の写真が入ったペンダント。
いつも指輪と一緒に持ち歩いているお守りだ。
「初めて会った時…俺は無意識にお前とヒカルの面影を重ねてたんだ。それで二の舞にさせないって体が動いてた。あの時から俺の中で何かが変わり始めたんだ。」
写真に写る女性は美人で優しそうに微笑んでいる。
それを見てケビンが如何にこれを離さないかが伝わってくる。
「ねぇケビン…。」
「ん?」
「やっぱり…マナは一緒にいると駄目なのかな?」
それは満更でもない事実の告白だ。
―自分と関わったらロクな目に会わない。
それを代弁するような呟きだ。
「一緒にいても守れないって言ったよね?だったらお別れしないといけないんだよね?」
辛いがケビンが楽になれるならそうするしかない。
マナはそう感じていた。
しかし本人は小柄な頭をそっと撫でて答える。
「…ほんの少し前まではな。でも今は違う。」
「えっ?」
「お前と出会えて俺は…過去を悔いるのを止めようって考えられた。まだ完全じゃないけど少しずつ前向いていこうって…決められたんだ。」
ペンダントを持つ手ごと大きな掌が包む。
「だから俺も覚悟決めたんだ。お前の親御さんを必ず見つけてやると。何があっても…お前の隣にいてやるって。」
ケビンは石段を降りるとマナの眼前にしゃがむ。
空いたままの左手で頬を撫でながらお互いの額をくっ付けた。
「…一緒に居ても良いの?」
「当たり前だろ。絶対に手放さないって約束だしな。」
ほんの数ミリ先にパッチリした目鼻立ちの男が見えてマナは顔が真っ赤になりそうだ。
見慣れていてもこんなに近距離で眺めれば惚れてしまいそうな美貌。
それがとても魅力的だった。
《うわぁ…睫毛長いし目元もキリッとしてる…。》
顔を若干下に向けているので少しでも動くと唇が触れそうだ。
《えっ?このままチューしてくるのかな…?》
孤児院にいた時に自分はある本が大好きだった。
―物語の最後で眠り姫が王子のキスで目覚めて結ばれる。
その結末が自分にもこないかなと少しばかり期待していた。
目の前の相手が自分よりかなり年上だという事以外は結ばれても良いかなと。
「…。」
でもケビンは接吻するギリギリの地点で止まったまま動かなくなった。
研ぎ澄まされた嗅覚が不吉な臭いを感じ取る。
炭焼きのような…焦げ臭い臭いが。
《この異臭…火事か?》
【4】
悪い予感がしてケビンは遠方を振り向く。
すると遥か向こうに黒煙が確認出来た。
それと同時に玄関の扉が開いた。
「ちょっとお兄さん!あれ火事じゃないの!?」
女性が少しパニックになった声で慌てている。
方向を確認してあっ、と呟いた。
「あそこって確かスタンドある所じゃないの?」
「スタンド…。」
そこで忘れていた事が思い出された。
《そういえばジャッキー、ガソリン買うのにあそこまで行くって…。》
―マズい…!
ケビンは駆け足で走る素振りを見せて徐々に足を速めていく。
「お兄さん…!」
「ケビン待って!マナも行く!」
背後から声が聞こえたような気がしたか最後まで聞こえなかった。
既に頭の中では違う人物の顔のみが浮かんでいたからだ。
走る内に煙の臭いは段々強くなってくる。
《ジャッキー待ってろ!勝手に動くんじゃねぇ!》
やがて強烈な熱波が頬に伝わってきた。
ヒリヒリとドライアイスを押し付けられたみたいな熱さで額に汗が浮かぶ。
パチパチと何かが炎に包まれて燃える音も聞こえてきて益々不安になってきた。
暫く走っていたら轟々と燃える建物の前に到着した。
炎の前には1人の若い女性が倒れており、ケビンは直ぐに掛け寄る。
「大丈夫か!?何があった!」
「家の中にいたら急に天井が燃えだして…それで…!」
その間にも割れた窓からボワッと砲弾のような炎の塊が噴き出してきた。
「ここは危険だ!逃げるぞ!」
「待って下さい!まだ私のお父さんが中にいるんです!」
泣き叫ぶ女性は火柱が立ち上る扉を指差す。
ケビンは咄嗟に指輪とペンダントを首から取り外すと自分を追い掛けてきたマナに手渡した。
「お前はここにいろ。直ぐに戻るからな。」
「え、やだよ!マナも一緒に…!」
「…お前を巻き添えにしたくないんだ。絶対に…絶対に戻ってくるからな。」
5秒ほどハグしてケビンは腹を括ると炎の世界へと突入していく。
家具も柱も天井も全て燃えていて右も左も分からない未知の空間。
煙を吸わないようにハンカチで鼻と口を覆いながら目当ての人物を探す。
すると階段らしき場所の奥が白く靄が掛かっているのに気付く。
良く見るとそこだけ炎が消えているようだ。
《まさか…あそこに…!?》
炭化した木片を踏みながら走ると黒焦げになった廃材の塊があった。
どうやら焼けた天井の一部らしく、しかも消火した痕跡が残っている。
よく見ると靄の中に紅い色が確認出来る。
「ジャッキー!ジャッキーいるんだろ!返事してくれ!」
脆くなった廃材をどかしていくと「うぅ…」と呻きが聞こえた。
「…だ、旦那…?」
「ジャッキー!大丈夫か!?」
炭塗れになったコートの袖をケビンは必死に掴む。
「命だけはなんとかな…。でも腰から下が全く動かないんだ…。」
ジャッキーは左腕で初老の男性を抱き抱えている。
この人物が父親なのは明らかだ。
「どうにかこの辺りの炎はなんとか鎮火させてたんだ…。でもいつ燃え移ってくるか分からねぇ。」
「そうか…。」
一言答えるとケビンは2人に圧し掛かる瓦礫を両手で抱えて放り投げた。
何度も何度も。
やがて2人の衣服が瓦礫の中から出てきた。
「…立てそうか?」
「あぁ。」
どうやら足に怪我はないらしく、ジャッキーは自力で立ち上がる。
「旦那頼むぜ。逃げ道は俺様が作る。」
「分かった、でも無茶するなよ。」
ジャッキーは水流で廊下の炎を鎮火させていき、ケビンが気を失った男性を背負って後から続く。
小走りに駈け出して直ぐに外へ脱出出来た。
「お父さ~ん!!」
先に逃げ出していた女性が泣きながら父親に抱き付く。
「少し煙吸ってるけど気絶してるだけだ。でも念の為に病院連れていきな。」
「ありがとうございます!本当になんとお礼して良いか…!」
頭を下げる女性にジャッキーは構わないと手を振る。
一方でケビンは一緒に待ってた筈の少女がいないと悟る。
「おい、あのツインテールの女の子は?」
「あぁ、そうなのよ!実は火事の時に窓から走り出す怪しい男を見たんだけど…その男を私が見つけたから追い掛けて行ってしまったの!」
女性は大事そうに握る物をケビンに返す。
それはマナに預けたお守りだ。
「…2人は何処に行った?」
「この奥です…。」
家の前には広大な森が広がっている。
確かにここなら逃げるにはうってつけの場所だろう。
《あの野郎…待ってろって言ったのに…!》
「追い掛けようぜ旦那!姫1人じゃ危ないだろ!」
相棒に促されてケビンもあぁと答える。
マナのスキルは発動したばかりでまだまだ弱い分類だ。
今の状態では丸腰のチンピラ1人倒せるのがやっとだろう。
お守りを首に掛けてケビンとジャッキーは森へと入っていった。
【5】
ガサガザと緑色の木の葉が生い茂る森林地帯。
木の上では足音に驚いたシマリスが巣穴に隠れ、頭上では大量の鳥が羽ばたいて飛び去っていく。
「…買い物だけ来たのにお茶出されたから断れなくてよ。そんで談笑してたら床の隅から煙が上ってきて直ぐに火が広がったんだ。」
「放火か?」
「そうみたいだぜ。多分売り上げ盗もうとしたら人がいたから始末しようとしたんだろう。」
一連の出来事を報告しながらジャッキーは咳込む。
火事の際に僅かだが煙を吸い込んで肺が焼けているのだろう。
「でもあそこが住居スペースで幸いだぜ。ガソリンは倉庫に仕舞っている話だからそこを狙われたらもっと被害出てたしな。」
周りに同じ木が広がるばかりの世界でケビンは目当ての人物を探すが見つからない。
この木よりもっと小さな少女では隠すのは容易だろう。
「ん?」
ジャッキーが咄嗟に止まって耳を研ぎ澄ます。
前方より右の方角から鳥の鳴き声がやかましく聞こえてくる。
「旦那、右だ。そこにいる。」
「分かった、行くぞ。」
開けた先の小さな広場。
数か所に切り株が置かれた殺風景な場所でニット帽に黒いセーターを着込んだ男がハァハァと息を荒くしている。
「クソ…手間掛けさせやがって。」
毛深い太い両腕が華奢な少女を押し倒して細い首をギリギリと締めている。
「あぁ…がはぁ…。」
マナはなんとか振り解こうにも力の差で身動きできない。
白いワンピースは所々汚れていて何度も男に襲い掛かった痕跡が目に浮かぶ。
「ガキが調子に乗るんじゃねぇ!」
ガッチリと首を掴んだまま男はマナの体を持ち上げ、近くの大木目掛けて投げ付けた。
ドガッと嫌な音がして少女は木の根元にズルズル倒れ込む。
「どうやら普通のお仕置きでは足りないみたいだな。」
男はニヤリと笑って何度も大きな足で踏み付ける。
マナは横に倒れたままの姿勢で呼吸も辛くなってきた。
「どうだ?降参するなら今の内だぜ!」
靴をどけると下から泥と埃に覆われた傷塗れの体が露わになる。
剥き出しの腕は皮膚が擦れて出血までしていた。
けどそんな姿になっても尚、膝を曲げて立ち上がろうとする。
そのたびに全身に激痛が走った。
びっしりと虚空を埋め尽くす木の葉の隙間から漏れる太陽光に目が眩んでくる。
もうこの場から逃げたいと思った。
―でも逃げたくない。
―自分だって役に立ちたい。
その気持ちが勝った。
「成る程、もっと痛め付けて欲しい訳か。」
男は違う解釈をすると何処からか鋭い棘が並んだ小型のハンマーを取り出す。
そしてよろめくマナの頭部を掴むと背後の大木に背中を押し付けた。
そこから勢いを付けてハンマーを降り下ろす。
―!!
マナは咄嗟に死を覚悟した。
しかし棘付きハンマーは耳の横ギリギリに当てられた。
「ヘッヘッヘッ、直ぐに殺すと思ってたのか?馬鹿な奴だな。」
ギュポンと引き抜くとその箇所は綺麗にハンマーの形に窪んでいる。
「こうしてジワジワ責めて嬲り殺しにするのが堪らないんだぜぇ。」
太い棘の切っ先が白い肌をなぞる。
マナは全身の痛みを忘れて恐怖に怯えた。
「あ…あぁぁぁ…。」
意識とは裏腹にチョロチョロと足の間から水漏れの音が聞こえた。
失禁したのだ。
「ヘヘッ、ションベン漏らす位気持ち良いのか?こりゃあたまげたな!」
もうマナの耳に男の笑い声など入ってこない。
死にたいという気持ちしか考えられない。
「じゃあ遠慮なく…」
自分の頭上一杯にハンマーが抱えられる。
鋼の棘が太陽光に照らされてより鋭く見えた。
「死にヤガレェェェ!」
【6】
その時。
茂みの隙間から飛んできた物体が男の手を直撃した。
「ぐわぁ!」
衝撃でハンマーが落とされる。
その物体は回転しながら真横の大木に突き刺さった。
「クソ…誰だ!?」
ヒリヒリする手を押さえながら男は怒鳴る。
ザッザッと草を掻き分けて進む背中。
砂塗れの黒いパンプスが小枝を踏んでいく。
「こんな静かな所で騒ぐんじゃ無いよ。直ぐに消えな。」
鈴のように軽やかで凛とした声。
木より濃い色のハンチング帽が木陰から姿を見せる。
「誰だテメーは!?」
「…森林浴を楽しむ通りすがりさ。」
ジーンズのポケットに手を入れて現れたのは華奢な体格の人間。
声も甲高く、胸元もふっくらし、ハンチング帽からは淡い銀の髪の毛が垂れている。
変装しているが女性なのは明らかだ。
美女が右手を出すとそのまま真っ直ぐに風の渦が吹き荒れる。
渦はさっき投げた物を大木から引き抜いて持ち主の元へブーメランみたいに戻っていく。
「その子から手離しな。じゃないと…小間切れになるよ。」
女はハンチング帽とサングラスを投げ捨て、マスクを取り払い、ポニーテールを結ぶヘアゴムを解いた。
腰まで届く銀色の髪の毛が重力を失って落ちていく。
「野郎…女の癖に舐めるなぁ!」
落としたハンマーを拾って暴漢が走ってくる。
女性は先程の飛び道具―和紙に天馬と桜吹雪が描かれた鉄扇を広げ、大きく仰ぐ。
すると猛烈な突風が吹いて木々が振動し、男を背後へ吹き飛ばした。
「他愛ないな…。」
鉄扇を腰のホルスターに収納して女性はマナの元へ駆け寄る。
剥き出しの腕や足は痣と傷に覆われ、白いワンピースは泥塗れでスカートの裾が薄く黄ばんでいる。
「大丈夫?怖かったね。」
暴漢への態度とは真逆な優しくて洗練された声。
出血して青紫に変色した手を痛くないように握り締める。
マナは眼球が飛び出る程に目を見開いたままで動かなかった。
それだけ強いショックを感じていたと肌で伝わってくる。
「あぁぁ…うわぁぁぁぁん…。」
白くて柔らかい手が頭を撫でるとマナは緊張が解れたように泣き出した。
撫でられたお陰で目の前に起きた事を呼び覚ましてしまったのだろう、女性にしがみついてとにかく泣いていた。
その痛々しい姿に女性は思わず抱き締めて後ろ頭に手を添える。
このまま落ち着くまで待ってやろうと。
だがその合間を縫うように男はまた起き上がった。
「調子に乗りやがって…死ねえぇぇ!」
直ぐに体勢を整えるも若干遅く、ハンマーが投げられてくる。
だが当たる寸前にギャオオという怪獣のような雄叫びが聞こえてハンマーが水に流された。
「な、ナニィ!?」
更に追い打ちを掛けるように男の腹部に何かが命中し、反動で吹き飛ばされる。
ハッとして女性が振り返ると背後に若い男が2人、仁王立ちしていた。
「よぉお姉ちゃん、ウチの姫君が世話になったな。」
「そのまま下がってろ。こっから先は俺達の仕事だ。」
1人は黒いスーツの黒髪の男、もう1人は紅いコートと帽子に身を包んだ鈍色の髪の男。
「貴方達一体…?」
「アンタと同じただの通りすがりさ。ま、平たく言えば目標のある旅人ってトコだな。」
黒スーツがザッザッと石を蹴飛ばしていく。
すると女性の横から腕を伸ばして少女を抱えた。
「マナ、お前こんな所にいたのか?あそこで待ってろって言ったろ?」
マナはウゥ、と呻きながら薄っすらと瞼を開ける。
「ケ…ビン。」
「挙げ句の果てにこんなボロボロになってるとは…。一体何様のつもりだ?」
身も心も傷付いた少女は両手の甲で目を覆いながら泣きながら訴える。
「マナ…いつもケビンとジャックに守られてばかりだから…自分だって役に立ちたかったの…よくやったなって…お前のお陰だって…聞きたくて…だから…」
この瞬間でもマナは捨てられると覚悟していた。
力が無い癖に命を失うような真似をしたのだから。
そんな厄介者はいらないと捨てられて当然だと信じてたから。
「ごめんなさい…ごめんなさぁい…。」
微かにチッ、と舌打ちする音が聞こえた気がする。
もうここで終わりだな。
そう捉えていた。
「馬鹿野郎…お前はもう充分役に立ってるよ。」
「…?」
唐突な答えにマナは驚く。
「お前は…俺に新しい道を作ってくれたんだ。それだけで俺はもう充分なんだよ。お前がいるから…俺は強くなれるんだ。」
それはケビンの本心だった。
目の前で大事な物を失い、孤独を選んだ自分。
そんな自分にマナは光を与えてくれていたと。
「だからさ…俺に守らせてくれよ。お前の事。俺が今ここに居るのも…お前を守ってこれたからなんだ。」
【7】
顔を隠す手が掴まれて無理矢理引き剥がされると少し切れた唇が急に熱くなる。
ほんの数秒、時間が止まってマナは何が起きたのか把握出来なかった。
言える事と言えば…ケビンが自分にキスして全身の骨が砕かれるほど抱かれている事実だ。
「…しょっぱい味してるな。」
怒ってもいるし泣いているようにも聞こえる声がする。
マナの唇は血と唾液が混じって妙にテカテカしていた。
ケビンはそこから立ち上がると自分の唇をスーツの袖で拭いた。
「ジャッキー…。」
「あいよ旦那。手貸せって言いたいんだろ?お安い御用さ。」
自然な感じで肩に相棒の手が乗る。
ジャッキーは笑顔でケビンを見つめてウインクまで返してきた。
同時に相手へ向かってご愁傷様と心の中で唱えながら。
「…てな訳でお姉ちゃん、ほ~んの少しだけウチの姫様見ててくれよ。」
「え?えぇ…。」
完全に蚊帳の外になっていた女性は倒れた状態のマナに近寄る。
傷を刺激しないよう抱き起こすとジーンズのポケットからハンカチを取り出して顔の涙や血を拭く。
すると目の前でガサガサと音がして例の男が姿を見せた。
「テメーら…舐めた真似しやがって…!」
腹部を必死に抑えながらもまだ立ち向かう気迫を見せており、ケビンは安心したような顔になる。
「なぁに?自分は舐めた事してないって言いたいのアンタ?」
「こ、この野郎!」
間髪入れずに襲ってきた拳をケビンは真顔で受け止める。
「なぁ…俺に喧嘩売ってくれたお礼に1つだけ教えてやるよ。」
拳を握り返す手の甲に血管が浮かぶ。
静かに見えてまるで周りに炎が燃え広がっているように見えた。
「人様の大事な物に手出して…無事でいられると思わない事だな。」
そのまま腕を振り払うと男は振動に負けて背後から倒れた。
間髪入れずにケビンは目だけ横に動かして相棒を見る。
2人は同時に頷きジャッキーが左手、ケビンが右手をガシッとぶつけ合った。
足元から赤と青の渦が吹き荒れて互いの手に龍と不死鳥を模した模様が浮かび上がる。
「頼む!止めてくれ!俺が悪かったから…!」
暴漢は命の危機に瀕して掌返しをしてきた。
でも既に遅かった。
どんなに許しを請うても…怒りが治まる人間がいないのだから。
いや、それは人間だけでは無い。
彼らの背後に姿を見せた…普通ではお目に掛かれない“存在”にも牙を向けたのだから。
もう逃げ道も生きる事も許される筈が無かった。
「安心しな。骨も肉片も残らないように全部燃やしてやるよ。」
「それで海に流してプランクトンにしてやるからな。」
半ば冗談のつもりだが目が全く笑っていない顔で宣言されて男は手を突き出して震えた。
「止めろぉ…こんな所で…し、死にたくねぇ!」
森中の空気が一気に豹変し、怯える暴漢を冷たく睨む目があった。
それは人間では無い。
流れるマグマのような翼を広げる赤い不死鳥と透き通った水のように澄んだ色の青い龍。
2匹の獣は威圧するように雄叫びを上げた。
ヒィヒィ喚く男を見てジャッキーがほくそ笑みを浮かべる。
「それとさ、俺らに謝ったって意味無くね?謝るならウチの姫様に土下座しろよ。ま、もう遅いけどな。」
龍がグルグル唸りながら主を見下ろし、ジャッキーは顎に手を添える。
「…殺れ。」
そこから先は阿鼻叫喚とも言える惨劇が行われたであろう。
バサバサバサっと鳥の羽ばたきが男の断末魔を掻き消し、間を置いて白い煙が切り開かれたその一ヶ所からモクモクと上る。
その辺り一変にはなんとも言えない異臭が漂っていた。
それが生きた人間の焼ける臭いだと説明すれば恐らく誰もが卒倒するだろうと。
フ~ッと蝋燭の火を消すようにケビンは自分の拳に息を吹き掛ける。
その足元には灰の小山があった。
「…えげつない事するねアンタ。」
「…それはお前もだろ。」
その背後に控えていた女性は恐怖を通り越して唖然としていた。
何が起きたのか把握出来ずに瞬きしていたらオイと上から声を掛けられた。
「悪かったな。巻き込んじまって。」
「…えぇ。」
掛ける言葉すら浮かばずにいたらマナがグスングスンと泣き出したのでケビンは手を伸ばす。
「おいで。もう怒ったりしないからな。」
さっきまでの阿修羅みたいな形相は消えてケビンは穏やかな顔でマナに頬擦りする。
まるで二重人格みたいだと不思議がる女性の肩に冷たい感触が走った。
「ひゃっ!」
「おっ、可愛い声出せるじゃん。以外にも天然なんだねお姉ちゃん。」
【8】
グイグイと顔を覗き込まれて女性は払い除けようとするもジャッキーは興味本位に彼女を見つめている。
「…あり?」
「な、何よ?」
ジャッキーのすっとんきょうな声に女性は早く離れてくれと目で訴えてくる。
「いや…お姉ちゃんどっかで見た顔なんだよな。なんか最近も見た気がするんだけど…。」
う~んと暫し唸るポーズを見せていたら思い出したようにポンッと手を叩いた。
「あ、思い出した!お姉ちゃんあれだろ、旦那に見せたポスターに載ってた人だろ。確かエルザ・フィーニーとかって…。」
ジャッキーの脳内で木魚がポクポクポクチーンと鳴り響く。
語尾が自然と裏返って…自分がとんでもない事を聞いてしまったと思い知らされてくる。
「…え?マジで?アンタ…本物…?」
「…マジだけど。」
「…………。」
念の為に確認を取って…事実だと発覚すると間を置かずにジャッキーの悲鳴が喧しく聞こえた。
その声に驚いた鳥が逃げ出し、ケビンは馬鹿野郎と言わんばかりにジャッキーの頭を叩いた。
「声デケーんだよアホ!もっと静かに騒げや!」
「だって旦那~!まさか本人とは思わなかったんだよぉ~!」
帽子の上からでも分かる位の膨らみが見え、ジャッキーは泣きながら酷いと懇願する。
対して正体がバレた女性は面倒臭そうに解いたポニーテールを再度結ぶ。
「てかお前…結構動じないんだな。」
「別に。顔隠しててもバレるのはよくあるから。で?私はこれからどうすればいいの?」
地面に落とした変装道具を回収する女性にケビンはそうだなとぼやく。
「取り敢えず今は一緒に来てくれないか?場所なら確保してるから。」
ハンチング帽の土を払う手が止まって緑色の瞳が見つめてくる。
「私の事信用出来るの?」
「あぁ。お前が悪い人間じゃないのは明らかさ。だったら見ず知らずの子供を助ける真似なんかしないだろ。」
帽子を被る女性はつばを下げながらその下で小さく笑う。
顔は見れないが照れ臭いのを隠してるのがケビンには見えている。
「…面白い人ね貴方。でもそのタイプの人間は嫌いじゃないわ。」
控えめにお礼を述べる声は何故か寂しい気もする。
まるで過去に大きな裏切りに会うのを経験してきたかのように…。
「…まぁ手貸してくれた事は嬉しかったわ。ありがとね。名前は?」
「ケビンだ。それでこの子はマナって言うんだ。」
ケビンにしがみついて泣いていたマナの顔をエルザは優しい目で眺める。
「…良い名前ね。人を愛でて人から愛される…そんな由来が聞こえてきそうよ。」
白い手が小さな頭に乗って静かに叩いた。
濡れた瞳が横に向かれてエルザを見上げてくる。
「…どうやら惚れたみたいだな。お前に。」
茶化すような仕草を見せると女性はツンとそっぽを向く。
少しツンデレなオーラも漂わせるがそれもまた利点だとケビンは読む。
「ねぇ…あの人は?大丈夫なの?」
声を振られた方角では相棒が口から魂的な物を出しながら消沈している。
「気にするな。アイツはああいう男だから。」
でもそろそろ現実に戻した方が良いとケビンはジャッキーを揺すった。
「おい相棒、起きろ。」
何度揺すっても返事は無く、ケビンはヤレヤレと言いながら首の後ろを引っぱたいた。
バッチ~ンと大きな音がして魂的な物が体内に戻り、ジャッキーは飛び上がる。
「びゃああああ!ここは何処だ!天国か!?地獄か!?」
「ここは地上だ。いつまでも夢見てるなよバ~カ。」
意味も無くその場でグルグル回転する男をケビンとエルザは呆れて見ていた。
ジャッキーも視線に気付いてえ?あ?呟きながらスマンと謝る。
「へぇ…アンタも色々惹かれるタイプみたいね。」
「あ、まぁな…。そうそう、俺様はジャクソン。そこにいるご立派なスーツの御方の相棒してるんだ。宜しく、フィーニーさん。」
エスコートでもするようにジャッキーは右手を出し、エルザも答えるように左手を出して握手する。
「…エルザって呼んでいいわよ、ジャクソンさん。」
「言ってくれるねぇ~。俺の事はジャッキーって呼んでくれて充分だ。」
チュパッとヘタクソな投げキッスを見せるとエルザは嘔吐しそうな素振りをする。
ケビンは余計な事を起こさせまいと行動に移した。
「ま、まずはここを離れようぜ。あのおばちゃんに話す事が沢山あるしな。」
「そうね。マナちゃんの傷の手当てもしなきゃだし。ホラ、アンタ先に行ってよね。」
グイグイ押される形になったジャッキーは先頭に立って来た道を戻り始める。
ケビンも後に続こうとしたらマナが微かに体を震えさせてるのを悟った。
「どうした?寒いのか?」
コクンと頷くのにケビンは異変を感じる。
お尻の辺りを支える手がヒンヤリじゃないが少し冷たいと。
《あちゃ~、また漏らしたか。》
暴行された上で失禁するのは想定の範囲内とも言える。
―振り返ると自分と初めて出会った時もマナは恐怖で失禁していた。
同じ事が2度も続くとトラウマになるとケビンは思った。
「帰ったら着替えて手当てしてあげるからな。もうちょっと我慢しろよ。」
焼け焦げた臭いが未だに残る森から逃げるようにケビンも駆け足で相棒を追い掛けた。
【9】
森を抜けた3人はバイクを停車してあるあの元牧場跡地のコテージへ急いだ。
事情を知った管理人の女性は倉庫に保管してあった貴重なミルクを運んでくれた。
最初そんな物を出して良いのかと問うも腐って捨てるよりはマシだという返答にそれ以上は答えなかった。
ジャッキーは温められたミルク入りのカップを両手で持って一息付き、その横に座ったエルザはテーブルに広げたノートに何かを書いている。
「そうなの…この近所じゃ最近不審火が相次いでいるからまさかとは思ったけどね。」
「まぁ燃えたのが家だけで幸いだったな。これで燃料倉庫まで燃えたらエライ惨事になってたから。」
マグカップをフーフーしながら口を付けるとほんのり甘い香りがする。
適温に温められたミルクにスプーン一杯の蜂蜜。
この相性がとてもベストだと誰もが思うだろう。
「ハイおばちゃん、どうぞ。」
キュポンとサインペンのキャップを閉める音がしてエルザがノートを女性に渡す。
ノートには曲線のような文字が書かれていた。
「ありがとうございますフィーニーさん。早速供えてきますね。」
女性はニコニコしながらノートを部屋の隅に置かれた仏壇へと持って行く。
ノートに書かれたのはエルザのサインだ。
亡くなった子供達が大ファンだという女性の期待に答えて特別に書いたのである。
「イキな事するね。やっぱりアンタ良い人かもな。」
ウルサイわねと楽しそうにネチネチ呟く女性にジャッキーも微笑みながら家の奥の扉を眺める。
あの扉の向こうは女性の寝室で今はケビンがマナを運び込んで手当てしている。
スタンドの経営者親子は既に病院へ向かい、ジャッキーは軽傷なので手当てはしてなかった。
テーブルの上には手の付いていないカップが3個置かれてあり、湯気が静かに昇る。
冷めないかなと少し心配していたら年季の入った扉がギィィと開いた。
「あ、旦那。姫は?」
「大丈夫だ。何ヶ所か打撲の痕はあったけど骨は折れてない。直ぐに動ける筈だ。」
ケビンは椅子には座らずに両手にカップを持つ。
「おばちゃん。部屋ちょっと借りていいか?」
「構わないよ。好きに使っていいからね。」
ありがとなと言ってケビンは出てきた部屋に戻る。
ジャッキーとエルザも自分のカップを手にして続いた。
マナは部屋の窓辺に置かれたベッドに横になって眠っている。
サイドテーブルには口の開いた救急箱が置かれてあって消毒液の臭いが鼻に付く。
ケビンはマグカップを1個脇に置いてベッド前の椅子に腰掛けた。
「早く目覚ましてくれよ。皆、お前が心配なんだから。」
ミルクを飲みながらベッドに投げ出された小さな左手を握る。
手首から上に向かっては白い包帯が巻かれ、うっすらと血が滲んでいる様にも見える。
でも光沢を放つピンクの指輪は幸いにも壊れてなくて少し安心した。
指と宝石とを交互に撫でていたらビクビクッと小さく手が痙攣した。
長い睫毛もピクピク動いて右手で瞼を擦る。
「姫…聞こえるか?」
ジャッキーがケビンの横から手を伸ばして額に触れる。
その手が冷たかったのか、マナは空いた右手を伸ばして唸った。
「ジャ…ック…?」
「はぁ~、とりあえず一段落だな。」
窓の下にあった丸椅子を引っ張ってベットサイドに座る。
「姫どうだ?どこか痛い所無いか?」
「うん…。なんか頭がフワフワするけど…ここ何処?マナ…どうしちゃったの?」
どうやら自分でも何がどうなってるか脳が追い付いていないらしい。
部屋中を見渡しながら腕も足も痛くて動けないと知るとそのまま大人しくなる。
「マナちゃん喉乾いてない?起こしてあげるから。」
ここでエルザが男2人の間から現れてマナの首の後ろとお腹に手を添えて上半身を起こす。
「どうぞ。熱いから気を付けてね。」
サイドに置かれていたマグカップを出すとマナはそれを両手で受け止めて口を付ける。
数秒啜ってミルクを飲み込むとフーッと可愛い溜め息を吐いた。
「…おいしい。」
「フフ、良かったわ。」
エルザも自分の事の様に笑いながら頭を撫でるとマナが何か言いたそうに口をモゴモゴさせた。
「あれ?どうしたの?トイレ行きたい?」
答えやすいように目線を低くするとマナは今にも泣きそうな目でこう伝えた。
「…ギュウギュウして。」
「…ギュ…ウ?」
未知の単語を言われてエルザはどうしたものかと後ろを振り向く。
ジャッキーも考える仕草をしながらケビンに助け船を出す。
「…要はハグしてほしいって事だよ。」
「なんだハグかよ。俺様てっきりお胸かほっぺをギュウって…ホゲぇぇ!」
最後まで言えずにエルザに足を踏まれて下品な叫びが響く。
「子供の前で18禁っぽい言葉は慎んでよね。」
アッサリ冷たく言うとマナの手からマグカップを取り上げて脇の下から腕を回す。
よいしょと抱っこする姿勢になると自然とマナの顔がエルザの胸にめり込む。
「…むふっ。」
「お、オイオイ姫…こっち見んな。」
羨ましいとばかりにジャッキーは顔を真っ赤にして横を向くがマナは逆にうっとりした顔で目を瞑る。
「…あったかい…ママの匂い…いっぱいしゅる…。」
【10】
何気なく呟いたその言葉に3人は揃って驚愕し、マナを凝視する。
今確かに…マナは自分の目の前の女性を“ママ”と呼んだのだ。
「姫…マジかよ?」
「エルザ…お前…。」
ケビンの問い掛けにエルザは迷って首を横に振る。
「…ファンだって男に追い掛けられたのは何度かあったわ。でも長く付き合った事は無いの。男は気まぐれな生き物だから直ぐに別の女に目移りするしね。」
「ち、ちょっと、子供の前で言う台詞じゃないだろソレ。」
「あら、この子も大きくなったら男を引っ掛けるべっぴんさんになるのよ。今の内に忠告しておかないとね。」
エルザは顔色を変えずに耳の近くに軽くキスした。
「でも不思議ね。会って間もない人間をママなんてね。」
「いや、不思議じゃ程遠いな。」
ケビンはマナの後ろ頭を軽くポスポスする。
「マナの左手の指輪、生き別れた親御さんの形見らしくてよ…産まれて直ぐに預かって孤児院に置き去りにされたんだ。だからお前の顔見て…無意識に母親だと認識したんだろ。」
マナは埋もれた姿勢で深く深呼吸している。
「とりあえず今はそう呼ばせておきな。大体生きているかどうかもまだ分かってないんだ。」
「…成る程ね。そうしとくわ。」
話が一段落し始めたら壁に掛けられた振り子時計が鳴った。
文字盤の針は正午の時間帯を指している。
「はぁ~、落ち着いたら腹減ったよ。どうする旦那?」
「どうするって…飯より大事な問題が残ってるだろ。」
へっ?として振り向く先には素顔丸出しの有名人がいる。
こんな所で油を売ってる暇は無いのではと教えるのが普通である。
「…お前…これからどうするんだ?」
「どうするって…。」
エルザは直ぐに答えられずに窓の外から見える新緑を眺める。
「お前…サンサシティって街でツアーするんだろ?新聞の広告にお前のポスターが入ってた。」
ケビンは上着のポケットから何重にも折られた紙を取り出して広げる。
それはジャッキーが見せてくれたポスターだ。
「スポンサーの連中血眼になって探してる筈だぜ。戻ろうとは思わないのか?」
時計の針が動くカチカチという音が空しく聞こえてくる。
それが心臓の鼓動のようにも聞こえて温くなったミルクを喉に流した。
「…私ね、イライラが溜まると森に足を運ぶの。誰もいない静かな場所にいると…自分が抱えている悩みとか全部馬鹿馬鹿しく思えるからよ。」
マナの頭部に顎を乗せて不安そうに抱く力を強める。
「そのイライラが何かアンタ達には分かる?やりたくも無いイベントに駆り出されて…終われば端金貰ってポイされるの。そしたら次の雇い主探さないといけないって意味よ。365日その生活するのてっさ…正直キツイよ。」
胸の圧迫感が急に薄れ、マナが心配そうにエルザを見上げる。
「…誰かに求められる分だけ私は疲れるだけ。でも他に逃げ道は無いから結局は留まる事しか出来ない。それが今の私なの。どんなイメージしてるかは分からないけど…今の私は幸せな人間じゃ無いんだ。」
ガタッと立ち上がった衝撃で椅子が床に転がる。
手を腰に回すとジーンズのウエストに挟んでいた帽子を引っ張り出して被った。
「邪魔して悪かったね。」
吹っ切れたとは思えない神妙な顔でエルザは部屋を飛び出し、ケビンはその後を急いで追う。
キッチンを片付けていた女性はドタドタした足音を聞いて顔を出してきた。
「あらあら、もう行くの?」
別にゆっくりしても良いのにと言いたそうな顔なのでケビンは頭を下げる。
「マダム、ご迷惑かけてすいませんでした。俺達出ますので。」
「良いのよ別に。そうそう、実は火事になった家の娘さんがウチに来てね。外に預かり物があるから貰ってくれる?」
案内されて外に出ると女性は庭の隅からガソリンのポリタンクを運んできた。
一体いつの間に?
「娘さんね、お兄さん達が戻る少し前に家に来たのよ。それで伝言を預かってくれって。」
ポリタンクの取って部分に結ばれた白い紙をケビンは広げて読む。
『お父さんを助けてくれてありがとうございました。お金は頂きませんのでどうぞ使ってください。家は全焼しましたが私はガッカリしてません。お父さんさえ無事ならまた何度でもやり直せますから。どうかこの先もお気を付けて。』
丁寧な字で書かれた手紙にケビンははぁ~っと声を落とす。
「良い娘さんだな。」
「そうね。お兄さんのお嫁にするには勿体無いかもね。」
余計な心配をされてケビンは苦笑いしながらジャッキーに向く。
「悪い。給油頼めるか?」
「OK。任せとけって。」
二つ返事で了承を貰うと背伸びをする女性の背後に立つ。
「なぁ、俺らもサンサシティに向かう所なんだ。もしだったら乗せてやるよ。」
―返事が無いので無意識に手が華奢な背中に触れる。
ビクッとエルザが反応してこちらを見た。
「あ、わりぃ遂…。」
「え?そ、そんな気にしないで…あの…」
なんだか自分も相手も戸惑ってしまう。
なんだろう…この言い知れぬ空気は。
《あ~ッ!もうどうなってるんだ俺!?相手は超が付く程のスターだぞ!一般人が手出したら騒動になるだけだろ!第一俺にはマリアがいるのに他の女に惚れたりなんかしたら…!》
《なんなの彼…?私が有名人だって把握してないのかな?でもそんな人なんて今まで出会った事ないから…少し嬉しいかも…。》
―2人は気付いていない。
知らず知らずに互いの右手と左手が繋がれているのを。
周りから見れば何故告げないのかとツッコミたい位な光景になっている。
「ハァァァ~、旦那も鈍感だなぁ。あんなべっぴんさん滅多にいないのによ。」
給油作業をとっくに終えてジャッキーは羨ましそうに2人を眺めていた。
―過去に拘って引きずる弱気な男と少々勝ち気で強気な女。
付き合うのには申し分無いだろう。
「ジャック~、行かないの~?」
「ハイハイ。もう出るからな。」
いつまでもここでグダグダしていたらマナが退屈で押し潰されるだろう。
そう判断してジャッキーは2人を呼びに行く。
その背中を見送りながらマナは溜め息を付いていた。
《やっぱりママみたいな奇麗な人が好きなんだね…。》
心の片隅を針で刺されたみたいにチクチク疼いてくる。
それが嫉妬であるというのを本人は暫く気付かないまま過ごすのであった…。