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エレメントバトリッシュ  作者: 越後雪乃
~第五幕・新たなる敵と兄弟の登場~
27/34

波瀾万丈!不死鳥と天馬と山猫の親子

【1】


山の上は夜明けが早い。

山の天気は変わりやすいと良く言うがそれに通ずる物だろう。

窓の外が白くなり、自然とその光が睡魔を消し去っていく。

《…ふぅ。》

布団の外で丸くなって眠っていた小動物は寒さで顔をお腹周りに埋めていた。

毛に覆われているとはいえここは山の中腹、完全に寒い訳では無いと言い切れないからだ。

《…うぅ…冷えますわね…。》

足先が妙に冷たくなってラビは自分が乗っている布団の中に潜り込んだ。

なんとか寒いのは治まったが冷えた足先は何故か温まらない。

《お許しをマスター、貴方と一緒でも結果は同じですわ。》


主人を起こさないように布団を出て足先の方へと向かう。

向こう側には二組の布団が敷かれ、その内の一組には三人の人間が固まって眠っている。

足音を立てないように静かに接近すると眉毛が隠れそうな程に長い前髪が敷き布団から垂れていた。

暫く観察するがその男は起きる気配を見せない。

今までの疲労が重なって熟睡しているようだ。

《少しだけなら…良いですわよね?》

布団の端から中に入り、体を飛び越えて腕の近くまで接近する。

すると主とは違って湯たんぽみたいにポカポカしていた。

男の腕は自分の隣で眠る少女を優しく抱いていた。

その上に重なるように白い女性の腕も見える。

《これが家族の温もりですか…こんなに温かい物だなんて…。》

少女の胸の上に乗り、布団からひょっこりと鼻先を出す。

圧迫感がある筈なのに当人は寝ていて気付かない。

《ふわぁ~…気持ち良くてまた眠くなってきましたわ…。》


瞳が垂れてラビはそのまま二度寝の姿勢に入った。

そのタイミングでさっきまで自分がいた布団が動いた。

「…うん…寒い…。」

暖房の効いていない部屋の空気に晒された少年が掛け布団で全身を包む。

「ラビ…外寒いから入ってもい…?」

伸ばされた手が敷き布団のシーツを皺くちゃに握り締めた。

昨日の夜は確かに枕元で眠っていた毛玉が居ないのだ。

「あれ…ラビ…?」

布団から亀みたいに頭だけ出すといつも自分に張り付いている獣がいない。

両隣ではリュウガとガデフが未だにグーグー寝ている。

二人を起こさないように布団を出るとそのままケビンの元へ忍び寄った。

枕元に回ると黄色い毛並みと黒ぽちみたいな鼻が見えた。

「あ~、お前そこで寝てたか…。」


ラビはマナの胸の上で熟睡していた。

恐らく寒くなって潜り込んだのだろう。

「僕よりケビンさんといる方が温かい訳か…。」

なんだか力の差を見せ付けられたような気がしてキドマルは少し悔しかった。

自分もケビンみたいに強くなれば温かい人間になれるのか?

正直そう思った。

「やっぱり…僕はまだまだなのかな…。」

胸の奥がモヤモヤしてその場から立ち去ろうとした時だ。

ガシッと自分の手が引っ張られた。

「あ、あれ?」

「…丸聞こえだぞ、お前の独り言。」

長い前髪の隙間から緋色の瞳が自分を見つめる。

「ケ…ケビンさん…?」

「…ホラ。」


ケビンは布団を捲って入れと催促してくる。

場所的には彼とマナの間だ。

「そこにいても寒いだろ、入りな。」

「は、はい…。」

素直に受け入れて布団の中に入ると足先がジワジワ熱くなってきた。

キドマルは顔が真っ赤になってケビンに振り向く。

「どうしたんですか急に…?」

「…お前が悩んでるから相談に乗ろうとしただけだ。」

そっと髪の毛を撫でる手付きはとても優しい。

もっと小さい頃、ヨシノと一緒の布団で寝ていた時を思い出してふと手を握った。

「ケビンさん…僕…。」

「勝手に自分一人で悩むなよ。何かあるなら言ってみな。」

大きな手が熱くなって自分の手を包む。

父親を知らずに育った少年にとっては初めての体験だ。

「…別に何でもないです。ただケビンさんが羨ましくて…。」


自分より大人で、強くて、統率力がある目の前の男。

そんな彼は自分の大きな目標になっていた。

自分も彼のような男になりたいと無意識に願っていた。

「…お前、もしかして俺に嫉妬してるのか?」

「…悪いですか。」

どうせケビンにしてみれば小さな悩みだと口を尖らすとワシャワシャと頭を撫でられた。

「良い事だぜキド。それは俺の強さに憧れてるって意味だからな。」

「…?」

「自分も俺みたいな人間になりたい、あわよくば俺という人間その物になりたいって思ってるだろ?」

ケビン特有の難しい例えを言われてキドマルは答えに悩んだ。

「嫉妬する程惚れて羨ましがる、それは強くなりたいって本音の裏返しでもあるんだ。その気持ちを置き換えれば自然と強くなろうって気持ちは持てるようになる。その気持ちが自分の心と体を動かすんだ。」

益々訳が分からなくなって首を捻る少年にケビンは微笑む。

「お前にはまだ理解出来ないだろうな。でも何れ分かる日は来るさ。だから言われた事だけでも覚えといてくれよ。」

「…はい。」


取り敢えず返事だけするとケビンの手が頭の後ろに回った。

なんだか父親が添い寝している気分がして胸がドキドキする。

《ケビンさん…なんだか僕のお父さん代わりになってるみたいだな…。》

自分が未だに持っていない父親への愛情を教えて貰ってるみたいで…少し嬉しい思いはあった。

《もしお父さんが生きていたら…ケビンさんみたいな事言ってたかな?》

父親については自分が産まれる前に死んだとしか教えられていない。

いつかは自分の口から聞こうとは思っている。

父親がどんな男だったのかを。

その身に何が起こったのかを。

でもまだ秘密にはしておこうとキドマルは不死鳥の温もりに体を預けたのであった。


【2】


チェックアウトのピークを迎える午前九時。

お揃いの和服に身を包んだ女性陣が大勢の客に挨拶して見送っていく。

温泉街の方でも店が開く頃なので観光へ向かうお客も外に出ていく。

「あ、女将良いですか?」

小振りの巾着片手に廊下を歩いてきた女将を若い女性が引き留めた。

「何かありましたか?」

「本日宿泊予定の団体様からお電話が入りました。土砂崩れで回り道するから到着が遅れる見通しですと。」

「宜しいですわ。お迎えの準備は済ませておいてください。」


適格に指示を出してミヤコは正面入り口へと向かう。

そこで意外な男と鉢合わせた。

「あら?ケビンさんお出掛け?」

顔見知りの青年が連れてきた男が同い年位の女性と小さな子供と一緒に玄関付近にいた。

「おはようございます。実は…」

「あのね!パパとママと一緒にデート行ってくるね!」

ケビンが説明するよりも先にマナはミヤコの足元に引っ付いて目をキラキラさせた。

あまりの大声にエルザはマナの口を塞ぐが時既に遅し。

他の客や授業員が微笑んだりクスクス笑いながら去っていく。

「すいません…騒がして。」

「良いんですよ。お気になさらずに。」


子供連れの客を大勢相手にしてきた女将にしてみればこんなのは日常茶飯事だ。

確かにこの山の麓はデートするにも絶好の場所とも言える。

「でも珍しいですね。お子さんもご一緒でデートなんて。」

「まぁこの子甘えん坊なもので…そうなると二人きりになれないんですよ。」

なっ?と目配せする若い男女の姿はさながら子育てに苦労する新米の親だ。

でもミヤコはそれはそれで仲睦まじい三人だと見惚れていた。

「どうぞごゆっくりしてきてくださいね。」

その場で頭を下げる女将に挨拶すると三人は外に出た。

若い仲居も「行ってらっしゃいませ」と見送って頭を下げている。

「よし行くか。」

「そうね。」


二人は互いに顔を合わせ、自分等よりずっと小さな子供を間に入れた。

そこからケビンが右手を、エルザが左手を優しく握る。

三人はバスには乗らず、麓までのアスファルトをゆっくりと歩いていった。

それを悟られないように双眼鏡で観察する視線もあった。

しかも何故か厨房の窓からだ。

「しめしめ、行ったぞ。」

「リュウちゃん…怒らないから部屋から出てくれないか?」

板長である男は昼の準備をしながら訪問者を咎めている。

本来ここは一般客の入る場所ではない。

でもフドウは過去の縁からリュウガを中に入れていた。


「そんなに気になるなら尾行すれば良い話だろ?」

「無理だよおじさん。兄貴って警戒心強いから後ろでコソコソしてたら直ぐに気付かれるんだ。」

「…ならそのコソコソしているのもバレてると俺は思うけどな…。」

背後で人が喧しく動き、床がギシギシ軋む。

かなり年期の入った建物なので最近はこまめに補修工事を行っているが厨房はまだ改装されていないのだ。

「次は上からだな。ありがとねおじさん、今出るから。」

「あぁ。早くしてくれよな。」

床を壊さないように厨房を出るとその足で部屋へと戻る。

部屋ではジャッキーがキドマル相手に神経衰弱しており、ガデフは二日酔いで寝込み、ラビは窓際の椅子の上で日なたぼっこしていた。

「おっちゃんどう?まだ頭痛い?」

「…なんか目がグルグルしとるで。」


布団の中でウンウン唸る男にリュウガは呆れながら枕元に落ちたタオルを手にした。

「あんなに勢いでガバガバ飲むからだよ。今度からは二日おきとか三日おきにしないと。」

洗面所で濡らしたタオルを額に当てて念の為に洗面器も傍らに置く。

本当はデートの護衛次いでに観光しようと思ったのにガデフが起きられないせいで自分達はお留守番となっていた。

「僕もお店巡りしたかったなぁ…。」

「我慢しろプリンス。親子水入らずの時間を邪魔するのは男としての恥だからな。また今度連れていってやるよ。」

次々にカードを捲りながらジャッキーはふと昨日の事を考えていた。

《でも姐さんも姐さんだからな…。どこでボロが出るのか分かったもんじゃねぇし。》


エルザは悩みや不安が顔に出やすいタイプだ。

ケビンの事もあって早々に口を開くなんてのも充分有り得た。

「…ジャッキーさん。」

「なんだ?」

「まだ秘密にしておいてほしいんですけど…エルザさん、昨日から様子が違いますよね?」

ジャッキーの手からカードが一枚すり抜けて畳の上に落ちる。

「なんか寂しそうだし…いつもの迫力は無いし。どうしたのかなぁって…。」

「そういえばそうだな。でも相変わらず兄貴とはラブラブなんだけどな。」

気紛れでその日の気分が変わるのかなと疑うキドマルの頭にジャッキーは手を乗せた。

「…お前は良い子だなプリンス。心配しなくても旦那と姐さんは俺がしっかり見張っておくよ。」

『お言葉ですがジャッキー様、貴方が見張りなんて言うとストーカーするとしか聞こえませんが…。』


ラビがいつの間にかジャッキーの足元に座り、後ろ足で耳の辺りを掻き毟っていた。

「ストーカーとは失礼だなウサ吉。あれは姐さんへのスキンシップなんだぞ。」

『成る程。ではジャッキー様は包丁を向けられたりジャイアントスイングされたり風呂にすし詰めにされる事を快感と感じるドMストーカーで解釈して宜しいのですね?』

「ラビ!外の人に怒られるから駄目だって!お前ただでさえ放送禁止用語ばっかり使うんだから!」

現実世界で放送禁止用語なんてのも中々出てくる物ではない。

リュウガは側で聞いて思わず吹き出していた。

『そこまで自信があるなら私も口出しはしません。ですがちょっかいのやり過ぎも過剰に見られますから注意ですわよ。』

「偉そうな口を叩くな動物風情が。人間様を舐めるんじゃねぇぞ。」


【3】


留守番チームが変な喧嘩を繰り広げるとは知らず、多人数が出入りする温泉街に到着していたケビン達。

道行く人々が立ち食いしたり足湯に浸かったりしており、麓の街へ繋がる階段からは新規の客がゾロゾロと現れている。

屋台が並ぶ一本道は繁華街の大通りのように賑やかになっていた。

「ねぇ見て、硫黄成文100%のアロマオイルだって。一つ買ってみようか?」

「そんなもん付けたら臭いだろ。俺パス。」

通りの中では一番大きな土産物店でエルザは《源泉配合》というポップで表示された香水を手にしていた。

「第一お前ポーチの中に色々詰めてるだろ。」

「失礼ね。女は荷物が多いの当たり前なんだから。」


その横でマナは試食用のクリアケースに入れられた温泉饅頭に食い付いていた。

薄皮の中に粒餡・白餡・うぐいす餡の三種類の餡が詰められた製品だ。

「パパ~これ買おうよ~。」

「待ってろマナ、ママの用事が終わってからな。」

するとレジのおばさんがニコニコしながらお代わりの皿を持ってきた。

「はいどうぞ。気に入ったならもっと食べてね。」

「わ~い!ありがとう~!」

両手に饅頭を持ってご満悦なマナにケビンはすいませんと謝罪する。

「気にしないで良いのよ!沢山作っても所詮売れ残るんだから!」

「そうよケビン。あ、おばさん。これ買うわね。」

目を付けた硫黄のアロマオイルをエルザはレジに持って行く。

「やっぱ買うのかよ…。」

「大丈夫よ。体に付ける訳じゃ無いから。何かの役に立つかも知れないでしょ?」


結局その店でケビンはオイルとマナが試食した温泉饅頭を1ダース購入した。

饅頭の方は宿で留守番しているジャッキー達への詫びの証だ。

なんやかんやで店を出るとケビンは鼻をヒクヒクさせた。

「どうしたの?」

「いや…何処からかお茶の香りがするんだが…。」

香りのする方向へ向かうとデパートのフードコートに良く置かれているソフトクリームの模型が見えた。

城の瓦屋根の店から湯気が出ている。

「いらっしゃいませ~。宜しければ一杯どうぞ~。」

店員がお盆に湯飲みを持って差し出し、ケビンは試しに一杯飲む。

芳醇な抹茶の苦みと喉越しの良い水がスルリと喉に吸い込まれた。

「美味しいですねこのお茶。」

「はい。この山の湧き水を湧かした物でして…茶葉もこの山の一部で栽培された物でございます。」

「あらホント、そんなに苦くなくて飲みやすいわね。」


カウンターの台にはメニュー表の紙があり、マナが両手を付いて繁々と眺めている。

「パパ~、アイス食べようよ~。」

「じゃあ抹茶ソフト三個、あとお茶のお代わりも一緒に。」

「畏まりました。」

カウンターの外れにある赤い布が敷かれた椅子に座ってマナはソフトクリームを舐めた。

「ひゃっ!冷た~い!」

「そんなに急に舐めるからだろ。もっと味わって食べろ。」

そういうケビンのアイスは少し舌を付けるとジワジワと表面が崩れそうになっていた。

舌先でさえ高温なのでアイスの類いを食べようとすると直ぐに溶け出してしまうのだ。

「アンタが言えた義理じゃ無いでしょ。待って。」

エルザはクリームに差したプラスチックのスプーンで掬うとケビンの口に運ぶ。

「おい馬鹿、ここでア~ンはマズイって…。」

「つべこべ言わないの。ほら。」


仕方無く口を開くとスプーンが突っ込まれ、ケビンはクリームを舐め取る。

マナは羨ましくなり、ソフトクリームを口元に近付けてエルザを見つめた。

「ね~ね~、マナも~。」

「分かったわ。」

母親は笑いながらスプーンでクリームを掬ってマナに食べさせた。

「どう美味しい?」

「うん!マナもア~ンしてあげる!」

スプーンを借りてア~ンとお返しするその様子を通りすがりの人々が不思議そうに見つめている。

ケビンは少し緊張して二人と他の客を交互に見た。

「エルザ程々にしとけ、見られてるぞ。」

「気にし過ぎよ。」

ハンカチで口周りを吹きながらエルザはマナとキャッキャッウフフな空気になる。

流石にこれ以上ア~ンするのは避けようとケビンは自分のソフトクリームを舐めてコーンまでかぶりついた。

胃の中で熱い物と冷たい物が混ざり合ってムカムカしてくる。

《クソッ…なんでこんなにイライラするんだ…?折角の初デートなのによ…!》


そもそもデートなんて二人で楽しむ時間だ。

だけどマナがいるせいでエルザが自分に振り向いてくれない。

加えてデートしようって言い出した時、マナが寂しがるから三人でしようと提案したのも彼女だ。

その意味ではマナが邪魔者のようにケビンは見ていてしまっていた。

全部食べ終えて淹れたてのお茶を飲んでもムカムカは収まらなかった。

《クソ野郎が…!人が見える所でみっともない事してんじゃねぇ…!》

禁断症状とでも言うのか、ケビンは頭を抱えて足を踏み鳴らしていた。

身勝手、大人げない自覚はある。

それでも体は反応を止めなかった。

この場にいるから悪いとまで思い詰められ、男は無言でその場から立ち上がった。

それで何も発せずに店から去って行った。


歩いて辿り着いたのは通りの外れ、山の木が中途半端に伐採されて出来た空間だ。

そこは高台になっているらしく、古びたベンチがポツリと置いてある。

ベンチの向こうには広々とした街が見渡された。

ケビンは胃の辺りを擦りながらベンチに腰を下ろした。

さっきまでのイライラが静まり、安堵の溜め息が漏れる。

「…ハハッ…何やってんだろ俺…。」

有名な鼠のキャラみたいな笑い方で誤魔化すが何も嬉しくない。

心の奥に穴が空いたみたいで妙にスースーする。

《情けねぇな…マリアにすら嫉妬なんかした事ねぇのに…。》

確かに息子が産まれた時は悔しかった。

子供のせいで夫婦二人だけの時間が作れなくなる事に。

でも日々成長する我が子を見てそんな気持ちはいつしか消えていった。

そんなのは分かっていた。

「…ハァ。」


【4】


どうにも表現出来ない空気に包まれ、ケビンは落ち込んだ。

木の葉が風でカサカサ揺れて心の穴を通過していく。

「…ん?」

突然ケビンは耳をピクピクさせた。

風に乗って一瞬だが…声がしたのだ。

ベンチから腰を上げて…目を閉じて聴覚を集中させる。

耳に届いてくるのは…子供の泣き声。

甲高い悲鳴は自分でも良く知っている声だ。

「…マナ!?」

声の主を当てるとケビンの足が自然と動いた。

温泉街の通りのある一角で大勢の客がざわついている。

「ちょっとアンタ謝りなさいよ!」

「うるせぇ!ソイツがぶつかったんだろうが!」


何やら揉め事が起きているようだ。

ケビンは人の波を掻き分けて騒ぎの場へ向かうが前の様子は見て取れなかった。

「すいません、何かあったんですか?」

「なんかガラの悪いチンピラが子連れの姉ちゃんと喧嘩してるみたいでさ…。」

割烹着の男性が指差すとケビンは前に進もうとした。

群衆を作る客達は素直に道を空けてくれる。

「テメー…女の癖に舐めた真似すんじゃねぇぞコラ!」

いきなり声のトーンが裏返り、ドサッと押し倒される音がした。

状況がどんどん深刻になっているとようやくケビンは悟った。

彼の意識はそっとシャツの内側に隠した鎖をたぐり寄せた。

「…マリア。」

もう何度も願掛けと称して握り締めてきたお守りを手にケビンは目を閉じた。

「そうだったな…いつまでもお前の思い出引き摺らないって約束したもんな…。」

忘れていた誓いを思い出し、男は笑った。

「ゴメンよマリア…だから力貸してくれよな…!」


鎖ごとペンダントを外し、それを左手で握り込む。

その姿勢で前に突き出し、手首を右手でしっかり押さえた。

「おい、そこ空けろ。」

「え?」

「いいから空けろって言ってんだろ!死にてぇのか!」

声を掛けられた男性が慌てて前の客にその場から避けろと促す。

その間にもケビンはペンダントを包んだ左手にオーラを込めていた。

視線の先…開かれた一筋の道の出口が開かれたまさにその時だ。

ハイスピードカメラでも追い付けない速度で…赤い弾丸が発射された。

ビュゴォッと空気を切り裂いた弾丸は人垣の一番奥にいた男に命中した。

「ホゲッ!」

情けない悲鳴を上げて男は倒れ、足元に刃が飛び出した折り畳み式のナイフが転がり落ちた。

「皆離れろ!ナイフ持ってるぞ!」

「誰か警察呼べ!」


ナイフの一本で大騒ぎになる観光客達。

ケビンは混乱する空気の中を逆走するように歩いた。

足を止めた先には自分が聞いた泣き声の主とそれを優しく包む女性がいた。

「…ケビン?」

エルザが目をパチクリさせているのをお構い無しにケビンは男の顔にめり込んだペンダントを回収した。

「…ったく、勝手に俺以外の男に振り回されるなよ馬鹿。」

驚いて立ち上がれなくなっていたエルザにケビンは手を差し伸べた。

「ほら、立てるか?」

「…何とかね。」

ゆっくりと腰を上げるとマナがケビンの手に気付いて抱き付いた。

「うわぁぁぁん…パパぁ…怖かったよ…。」

スーツの裾を掴んでマナはワーワー泣き出した。

しゃがんで顔を見ると額の所が赤くなっている。

「どうしたこれ?ぶつけたか?」

「ぶつけたって言うか…ぶつかったのよ。」


エルザが説明するには騒ぎが起きたのはケビンがお茶の店から立ち去った後に起きた。

直ぐに探しに行こうとしたらマナは勢い余って道に飛び出し、店の前を歩いていたあのチンピラの足にぶつかったのだ。

マナはその場で謝ったが相手の男は頭に血が上ったらしく、怒鳴り付けたという。

「おいおい、一捻りすれば良かったのによ。」

「そんな事したら余計に騒ぎが大きくなるでしょ。だから手出し出来なかったのよ。」

下手に警察の世話になりたくないと言えばケビンはそれが自分への気遣いだと直ぐに思った。

思わず抱き締めたくなったが場所の関係で迂闊には手が出せなかった。

「悪かったな…俺もどうかしてた。」

「良いのよ。私達こそ勝手に盛り上がったりしてたから…。」

さっきまでの人混みが消えていく中、あまりここにいても詮索されると三人はその場から離れた。

辿り着いたのはケビンが見つけたあの高台だ。

ケビンはマナを抱っこした格好でベンチに座った。

「よ~しよし、大丈夫だからな。」


後ろ頭をポスポスするとマナは真っ赤に染まった目を擦ってケビンを見つめた。

「パパぁ…ギュウギュウして…。」

「分かった分かった。パパも勝手に拗ねて居なくなってゴメンな。」

限界まで腕を回し、顎を肩に乗せるとマナはぐずりながら顔を付けてきた。

ポッカリと空いた心の穴が見る見る内に塞がっていく。

「驚いたわね。道の外れにこんな場所があったなんて。」

「あぁ、これが夜だったら絶好の告白スポットだけどな。」

告白、その一言にエルザは言葉を詰まらせた。

ケビンはまだ正式に自分にプロポーズしていない。

心の準備はしているがどうしても心配はしていた。

「…エルザ。」

「何?」

「怒らないから聞かせてくれ。お前…本気で俺の事好きなのか?」


木の葉を揺らす風が銀髪を扇ぐ。

今更どうして…自分はケビンの事を本気で好きではいる。

なんで彼が気にしているのか…?

「…勿論好きよ。それが?」

「正直言うけどさ…お前過去に男に振り回されただろ?それも一回や二回じゃ無い筈だ。」

その答えは嘘では無い。

踊り子として働いていた頃、自分に仕事を持ち掛けた人間に男は大勢居た。

でもエルザはその誘いを全部断ってきた。

男など所詮は美貌と金を欲しがるだけの生き物だと断言して。

「どうしたのケビン?そんな話題今まで一度も…」

するとケビンはマナを地面に下ろし、頭を撫でた。

「マナ、パパ達大事な話があるからここで待ってろよ。」

泣きながらウンと頷くマナに笑うとケビンはエルザの手を引っ張って近くの茂みに潜んだ。

マナに見られない所まで来るとエルザを壁ドンの要領で大樹に追いやり、もう片方の手で腹部に触れた。

「…傷。」

「え?」

「マナには残酷だから死んだって形で丸めたけど…本当なのか?堕ろしたりとかしてねぇのか?」


いきなり何の話だとエルザは混乱するが直ぐに合点がいった。

ケビンは自分の腹に傷があるのを知っている。

それも自分は一度たりとも見せていない。

機会があるとすれば…あの時しか無かった。

マナに自分の傷を見せたあの瞬間に。

「…ジャッキーが聞いてたんだよ。お前の事。」

「…あの馬鹿。」

「責めるなよ、心配してたから。」

本当に覗いてたなんて信じられない。

いや、ジャッキーならやるに違いないと信じていた。

でも姿を見せなかったのは予想外だ。

多分自分を責めたくないから早々に撤退したのだろう。

「…確かに産む事は産んだわ。分かった時にはかなり大きくなってて…中絶は無理だったから。」

「…それで?」

「…駄目だった。あと少しって所で容体が変わって…結局…。」


【5】


頭の中に赤ん坊の声が聞こえ、エルザはズルズルと木の下にしゃがんだ。

薄れた腹部の傷が疼き、銀のポニーテールの毛先が揺れる。

「私が馬鹿だったの。一回付き合えばそれで縁も切れるからって…。」

食道がジワジワと熱くなり、火傷しそうな物が口の中に広がって吐きそうになる。

「男なんかどうでも良い、でもお腹の子を死なせたのが辛かったの…。」

出産後、対面した我が子は透明なガラスケースに入れられていた。

泣く事もせず、安らかに眠っていた。

そこから先の記憶は覚えていない。

それ程の衝撃だった。

「私…もう自分が恐ろしいの。だからもう男と付き合いたくないし…子供だって諦めたの。でも何も変わらなかった。私はもう…逃げられないって…。」


剥き出しの腕に鳥肌が立ち、背中が疼く。

座り込んだ足元には透明な雫が落ちていく。

糸が緩んでポロポロと泣いていたらケビンが自分を包んだ。

「ケビンだって…本当はこんな汚らわしい女とは一緒に居たくないって思ってるよね?でも良いの。貴方ならそう言うって私…分かってたから。マリアさんがどんな人なのか分からなくても…彼女と比べたら私なんて…小綺麗な女じゃないから…。」

いつでも捨てられる覚悟は出来ている、そう訴えると頭の天辺が重くなった。

ケビンが顎を銀髪に乗せているからだ。

「…アホ、今更切り捨てるとでも思ってたのかお前?」

「だって…。」

「だってもクソもねぇ。お前は俺が選んだ女だ。いくらマリアとソックリでも…世界中探してもお前の代わりなんて居ねぇんだよ。だからここにいろ。何があっても俺の隣にいてくれ。」


強気だが優しい声にエルザが顔を上げるとケビンは首の後ろに指を回した。

救い上げるように取り出したのは銀色の鎖で繋いだ指輪。

マリアの形見であり、ケビンの心の支えになっているお守りだ。

ケビンはその指輪をエルザの左手に乗せて優しく握らせた。

「ケビン…これ…。」

「俺さ、初めてお前と会った時に決めたんだ。いつになるか分からないけど…自分の気持ちに整理が付いたらこれをお前にやろうって。」

エルザは思わず瞬きしながら涙した。

ケビンは覚悟を決めていた。

自分と運命を、人生を共にする事に。

「生きてくれエルザ。俺と一緒に。」

指輪を両手で包む踊り子の唇に熱い唇が重なった。

熱くて重くて…とても愛おしい唇。

優しい風が涙も不安も消し飛ばしてくれる感覚が走った。


木と木の間の隙間から見えた二人だけの世界。

それを見つめるマナは心臓を糸で縛られたみたいに胸が痛くなった。

自分がいないだけであんな事が出来るんだと。

除け者にされたみたいで…エルザとは違った意味の涙が瞳から零れた。

「…ま。」

ふと後ろから声がした。

でも今の状況でマナの耳には何も入ってこない。

袖でゴシゴシと目元を擦っていたら足が引っ掻かれた。

『お嬢様、お嬢様ってば。』

マナがやっと気付いて下を見ると雫で毛並みを濡らしながら小さな動物が必死に自分に登ろうとしていた。

「ふぇ…?ラビちゃ…キャッ!」

ラビが片足にへばり付いた衝撃でバランスを崩し、マナは背中から倒れた。

その真上にラビが人間の姿で覆い被さる。

「ラビちゃん…ラビちゃぁん…!」


さっきまで自分の中にあった寂しさをぶつけるようにマナはラビに抱き付いてきた。

ラビはよしよしと撫でながら耳で瞼の辺りを擽る。

『分かりますよお嬢様。今日は帰ったら思う存分甘えると良いですわ。』

敏感な耳先が木の葉が揺れる音を聞き分ける。

ラビは少々いけないと感じてマナを横抱きにするとベンチに横にさせた。

そのタイミングで木の間から一人の男が現れる。

「マナ、一人にさせて悪かっ…?」

ベンチの上に黄色い物体が見えてケビンは思わず二度見した。

マナはベンチで横に倒れ、その隣には一匹の動物が正座して見守っていた。

「…ラビ?お前いつの間に来てたのか。」

『悪かったですか?』

「そんな事はねぇよ。一緒にいてくれてありがとうな。」

しゃがんで頭を撫でるとマナはケビンの手を握って頬ずりしてきた。

「パパぁ…ママぁ…。」

「よしよしゴメンな。もう何処にも行かないから。」


額も頬も真っ赤になってぐするマナをケビンが抱っこするとラビもするすると肩に登る。

「ラビ…お前いつからいたんだ?」

『ちょっと前からです。マスターがもう留守番するの飽きたからって…。』

「マジか…。悪い事したな。」

「それならこれで気分直して貰おうよ。」

エルザが手にした紙袋を差し出す。

中身はマナが試食していた温泉饅頭だ。

『ケビン様…。』

しかしラビは饅頭に目もくれず、ケビンの首筋を舐めた

『お嬢様を蔑ろにしないでください。貴方達に見捨てられるのを一番に恐れていますから。』

なんだか怒っている風にも聞こえてケビンは上等だと頷き返す。

「当たり前だろ。マナは…俺とエルザの心臓だからな。」


自分もエルザもこの少女無しでは最早生きられない。

誓ったのだから。

自分達が親になると。

『…私はその言葉が建前ではないと信じていますよ。けどそれが偽りの愛であるのなら…。』

空気が切り裂かれ、ケビンは条件反射で左腕でガードした。

ガードの先にはラビの掌底が見える。

『お嬢様の目の前で…その首切らせて貰う覚悟であります。』

「人間擬きが舐めた口聞いてくれるな。わざわざお前に苦言されなくても…分かってるさ。」

ラビは拳を離すと丁寧に頭を下げ、瞬時に戻って通りへと戻ろうとした。

『忠告しておきますが…先程の言葉は横流しにしないでください。ケビン様がそんな真似はする筈はないと一応信じてはいますが…念の為でございます故。』


タタタッと小さな足音を響かせてラビは走り去った。

遠目から見れば単なる動物なのに不思議だ。

その思想、考え、覚悟の強さに至ってまで…ラビは人間と変わりなかった。

「あの野郎…余計な事しやがって。」

暫し見送っていたらマナが泣きながら震え出したので抱き抱える姿勢を直す。

「ケビンどうする?もう帰る?」

「だな。また変な奴に絡まれると悪いし。」

エルザは指輪をズボンのポケットに仕舞い、ケビンの左手を握った。

自分にくれたのと同じ指輪がそこにある。

その重みを受け取るように手を握りながら三人は宿への道を歩き出した。


【6】


山の上は空気が澄み、夜になると月が良く見える。

大都会では工場の煙や排気ガスで空が曇って見えないからだ。

こんな夜空の下で露天風呂に入り、酒を酌み交わしたら忘れられない思い出となるだろう。

そんな事を考えながらケビンは部屋の窓から月を眺めていた。

現在の時刻は夜の八時。

温泉に浸かり、食事も済ませてあとは寝るだけだが就寝の時間にはまだ早かった。

「な~んか暇だな、俺飽きてきたよ。」

昼間に勝った温泉饅頭にがっつきながらリュウガは口を開く。

「何が不満なんだ?」

「だっていつまでもここにいてもやる事無いだろ?退屈で死にそうだよ俺。」


部屋のテーブルには昼間購入したお土産もとい夜のおやつが並べられ、キドマルとリュウガが二人で男子会していた。

部屋の隅ではマナが寝てしまったのでエルザとラビが付き添い、ジャッキーは宿の売店へ買い出しに行き、ガデフは再度温泉に行っている。

「確かに。警察の人も追ってこないみたいだし…そろそろ出発した方が良いかもしれませんね。」

勿論ここを出て何処へ向かうのかまでは言わない。

行き先はケビンに決めて貰うからだ。

「兄貴…マナのお父さんと話がしたいって言ってただろ?だったら明日にでも出発したらどうなんだ?」

ケビンはカーテンを閉めて畳の上に座る。

「お前の言う通りかもしれないな。それに連中が先回りしている可能性もあるし…。」


プランを考えようと決めていたら入り口の扉の前、部屋に入る襖が開けられた。

「旦那いる?女将が話があるって。」

ジャッキーがビニール袋片手に部屋に上がってきた。

その後ろにはガデフと何故かミヤコまで付き添っている。

「どうしたのばっちゃん?」

「お寛ぎの所すいません、ケビンさんにお電話が入っておりまして…。」

キドマルは持っていた饅頭の欠片を口に入れてお茶に流し込む。

エルザも電話の単語に耳が反応して振り向いた。

「誰からですか?」

「シュバルツという男の方からですが…。」

初めて聞く名前だ。

警察関係の人間かとケビンは名前を思い出して…ふと何かに気付いた。

《まてよ…シュバルツって確か…。》


記憶の片隅に封印していたある名前を紐解き、ケビンはまさかと疑った。

「女将、その男はまだ何か言ってなかったか?」

「えぇ。貴方を呼びに行くから待っててほしいって告げたらこう伝言してきたの。シュバルツでは通じにくいかもしれないからカーマインから電話がきてると…。」

―カーマイン。

自分の二つ名であるスカーレットと同じ“赤”を意味する単語。

ケビンは確信し、立ち上がった。

「その電話は何処へ掛けられた?」

「フロントの固定電話からですが…。」

ミヤコが止めるのも無視してケビンは無我夢中で部屋を飛び出し、ロビーへ急いだ。


ロビーにある受付のカウンターではフロント係が受話器を手にして待っていてくれていた。

ケビンは代わりますと受話器を受け取る。

「もしもし?」

『ケビンか…久し振りだな。』

疲れたような陽気な声。

その一声にケビンの瞳が緋色に変わっていく。

「ちい兄…ちい兄なのか!?」

『おいおい、実の兄貴の声も忘れたのか?まぁ二十年経ってるし…お互い声変わりもしてるから当たり前か。』

電話の相手は大都会の真ん中にある高層ビルにいた。

大きな窓ガラスから見える夜景を見つめて目を細める。

「どうしたのちい兄?どうしてここの番号を?」

『なぁに、俺は国際警察に就職してよ、リーゼゲイトのおっさんが俺のいる支局に直に連絡してきたんだ。』

「…ちい兄が…警察に?」


驚くのも無理はなかった。

ケビンは二十年前、生き別れた母親と兄達からこう約束されていたのだ。

―暗殺の対象から逃れる為にこれからは互いの素性を隠して生活していく。だから連絡は寄越さないでくれと。

だから三人が何処にいるのか、兄達がどんな仕事をしているのかも分からなかった。

『実はお前に話したい事が沢山あるんだ。お前今…柊荘って宿にいるんだろ?俺おっさん達と明日そこに向かうから一応チェックアウトだけ済ませてといてくれ。』

「…分かった。」

通話は事切れたが…ケビンは受話器を戻せずに更に口を開いた。

「ちい兄…。」

『なんだ?』

「俺もちい兄に話したい事が沢山あるんだ。母さんや兄者が今どうしてるとか、ちい兄は結婚してるのかとか…。」


そして一番伝えたい事を…ケビンは一呼吸置いて言い放った。

「俺…ずっと昔に結婚したんだ。でも前の嫁と息子はミステシアに殺されたんだ。それで俺旅してるんだよ。それで…」

『分かったよ。明日会ったらウンザリする程聞いてやるから。』

電話の相手はエルザと同じ銀色の鬣のような髪の毛を探る。

『とにかく今日はもう休め。明日眠れなかったって情けない顔を俺に見せるなよ。』

「分かってるよちい兄。俺なら大丈夫だから。」

瞼を押さえて答えると相手はじゃあなと呟いて電話を切った。

フロント係が気遣ってタオルを差し出し、ケビンはそれで両目を隠す。

「ケビンさん大丈夫ですか?何かご都合でも?」


いつの間にかミヤコが真後ろに立っていた。

ケビンはタオルを取ると真っ赤になった瞳を女将に見せる。

「すいません女将、明日朝一で警察車両が来るって他の人に伝えておいてください。」

「け、警察!?」

慌てる従業員をミヤコは宥めてケビンを見据える。

「私達も応じた方が?」

「いや、俺一人で充分です。」

迷惑かけましたとケビンは頭を下げて部屋へと戻っていた。

フロント係の囁きはロビーの振り子時計の音に掻き消され…闇に落ちていった。


【7】


扉が施錠された雛菊の間。

部屋に戻ったケビンはキドマルに新しいお茶を用意させて貰い、電話の内容を話した。

「…兄貴のお兄さんが?」

「あぁ。明日ここに来るんだ。だからいつでも出発出来るようにチェックアウトだけ済ませとけって。」

湯飲みを口付ける横で缶のプルトップを開ける音が盛大に聞こえた。

「旦那、それって罠のフラグじゃねぇのか?警察に就職してるなら間違いなく逮捕のルートじゃねぇの?」

「それは俺も覚悟してるさ。でもちい兄はそんな男じゃない。俺が間違った事してるなら…口よりも手で止めるタイプの人だから。」

ケビンはお茶を飲み干すと空いた湯飲みにジャッキーが開けたノンアルコールビールを入れて一口飲む。

「俺…父さんの職業柄苛められてたんだ。そんな時はいつも兄貴達が一緒にいてくれた。ちい兄が苛めっ子追い払って…兄者が慰めてくれるパターンだったから。」


忘れられる訳なんて無い。

二人の存在を。

二人がいなかったら自分は苛めの重圧にどうなっていたかも分からなかった。

「でもさ伯父貴、兄貴の兄貴なら凄い人だと思わねぇか?俺会ってみたいよ。」

『坊ちゃん…下ネタに聞こえるのでその艶かしい表現は止めてください。』

「いやお前が言うなよ中二病が。」

「いちいち馬鹿な事せんでええ。それよりええか?」

漫才のようなやり取りをする若手組をガデフが止める。

「なぁケビン…ワシはお前の兄貴とやらに会うのは賛成出来へんな。」

ジャッキーが唐突にビールを喉に詰まらせ、咳き込む背中をリュウガが撫でる。

「ゴホッ…!なん…でさ親分…!」

「分かってるのか?ケビンがしてる事は余所様から見れば誘拐と同じ事なんや。しかも対象は警察総司令の子供…身代金にしたら億越えはする宝石やぞ。」


だったらキドマルもその対象なのではとラビは疑ったが余計な事を言われて怒られると思い、沈黙した。

「いくら保護してるとは言え…向こうの人間全員がお前を信じる確率は低い。お前の兄貴も…。」

―血を分けた実の弟でも容赦はしない。

その次の言葉を予測して言えばガデフは無言で頷いた。

「お前の身分が分かればその人も警察を追われる事だって有り得なくも無い。そうなったらお前責任取れるのかいな?」

「待てって親分…何もそこまで…。」

キツキツに説教するガデフにジャッキーはそこまでにしとけと手を伸ばそうとした。

と、ここで部屋の隅からぐずる声が聞こえた。

「…マナ?どうしたの?」

「…ぐすっ…ママぁ…。」

布団を敷かず、ケビンの上着を毛布の代わりにして眠っていたマナが泣きながら魘されていた。

エルザは怖がらないようにマナの頭を撫でる。

「大丈夫寒い?今お布団出すから。」


畳の上では流石に寝られないと思って立ち上がろうとしたらマナの手が自分の白い手を掴んだ。

「やだぁ…ママ行かないで…ここに居てよぉ…。」

手首まで掴んでマナは自分の顔の近くまで隠そうとした。

その仕草にエルザは敢えて掌を小さな頬に擦り付ける。

「大丈夫よ。久し振りに変な夢見たから恐いんだよね、よしよし。」

柔らかい手の感触が伝わってマナはほんの少しだが表情が安らかになっていった。

すると黄金色の毛玉が近寄ってエルザの手を舐める。

「ラビありがとうね。」

『いえ…お嬢様は…?』

「心配しないで。マナ…一人で眠るといつも悪い夢見ちゃうの。それで手とかほっぺとか撫でないと泣き止まないの。」

ラビもそうかと観察していたら背後にケビンの視線を感じ、エルザが頷いて上着ごとマナを抱き起こした。

「マナおいで、パパが抱っこしてくれるって。」


優しく抱かれてマナは父親の元に運ばれる。

ケビンは様子を見るとエルザの腕の中から我が子を受け取った。

「ガデフ落ち着いて。貴方が間違った事言ってないのはケビンだって分かってるわよ。分かってるからこそ譲れないのよ。」

「…どういう意味や?」

「ケビンはこれ以上…自分の目の前で大事な人を失いたくないの。回りにどう言われても…自分の中でマナは血を分けた子供だって認めてるの。あーだこーだ言われてマナを手放すのを…一番怖がってるの。」

それにと小さく呟いてケビンの横に座り、小さな頭の後ろに手を置いた。

「マナ…ケビンと一緒にいるとこんなにも嬉しそうな顔になるの。これでマナがケビンの事避けてると見えてるの?」

ガデフはそこまではと口を紡いだ。

元々親としての責任は持てと二人に忠告したのを思い出して目を固く閉じる。

「心配してくれるのは有り難いわ。でも面会については私達に任せて貰える?ケビンのお兄さんが相手なら何とか理解してくれると思うから…。」


時計の音をバックにガデフは腕を組んで唸る。

ジャッキーは気分を変えようとビールを新しい湯飲みに注いで差し出した。

「…そこまで言うならワシも男じゃき。お前らの好きにせい。」

「ありがとう、感謝するわ。」

チラリと時計を見ると時刻は夜の九時を回っていた。

明日に備えて今日は早めに休もうと思い、エルザは押し入れの襖を開けた。

「リュウ、布団出すから手伝って。」

「あいよ。」

あんまり遅くなるとマナが眠れなくなると考え、リュウガは妹を何度か見ながら布団を引っ張り出す。

ガデフは差し出されたビールを飲み干すとゆっくり立ち上がった。

「任せてガデフさん。ちい兄は見た目はチャラ男っぽいけど根は面倒見良い奴だからさ。多分マナの事話しても分かってくれるから。」

「だとよ親分。その石頭で止めるのも良いけど程々にしとけってか。」


ジャッキーは湯飲みを洗面所へ運び、キドマルは寝る準備の邪魔になるとラビを連れて避難した。

ケビンは布団が一組セットされる直ぐにマナを横にさせた。

「キド、俺荷物纏めるから終わるまで一緒にいてやれ。」

「は、はい。」

『私もご一緒致しますわ。』

キドマルは掛け布団を捲ってマナの隣に寄り添い、ラビは枕元へ移動する。

部屋では寝る準備が手早く行われ、全員が寝入ったのは夜九時半を回った頃であった。


【8】


カラコロ山から遙か西へ向かった先にある歓楽街。

その街で一番背の高いホテルの部屋でケビンに電話をくれた男が携帯を手にしていた。

『そうか…元気そうだったか。』

「あぁ。色々あったけど大丈夫そうだぜ。」

男はベッドの枕元に寄り掛かって楽しそうに目を細めた。

シャワーを浴びて下りた銀髪が天井の照明に照らされている。

「久し振りに声聞いたら驚いたよ。アイツの声…親父にソックリだったから。」

『まぁ俺らの中一番父さんに似ていたのはケビンだからな。それにアイツ父さんっ子だからな。』

「父さんっ子か…あんちゃんと真逆だな。兄ちゃんはお袋に甘えてたし。」

ケラケラ笑うと電話越しの相手が呆れた声で返す。


『馬鹿な事言うなユーリ。俺はマザコンじゃねぇぞ。』

「でも実際はお袋の面倒見てるんだろ?ちょくちょく帰国してるの俺知ってるんだぜ。“彼女”が電話してくれるからな。」

意外な協力者を教えられて相手の男はアイツと呟いた。

「で、兄ちゃんどう?こっち来れそうか?」

『何とかして抜け出して見せるさ。でも直ぐには無理そうだ。』

「まぁ慌てるなよ。俺教えとくからさ。兄ちゃんも合流するって。」

男はそうかと答えて一瞬沈黙した。

『それにしても奇跡だな…まさか俺達がまた揃う日が来るなんて。』

「だよな。親父が生きてたら泣いて喜んでたぜ。」

銀髪の男は自分の手の甲を見つめる。

そこにはある動物の紋様が浮かんでいた。

大鷲の体と翼にライオンの後ろ足を持つ幻獣、グリフォンだ。


『俺達はもう隠居みたいな暮らしはしなくても良い。俺達は俺達の出来る事をやるんだ?お前も同じだろう?ユーリ。』

「あたぼうよ兄ちゃん。これ以上…ケビンにばかり辛い目に会わせるのは御免だ。」

二人の兄は電話越しで誓いを立てていた。

父親の血を分けた弟がこの二十年間どんな思いで生きていたか。

その全てを受け入れ…こらからは人生を共にすると。

「じゃあな兄ちゃん。俺朝の飛行機があるからもう寝るね。」

『了解だ。コッチもカミさんがそろそろ風呂から上がりそうだから切るぞ。』

ブツンッと電波が途切れ、男は携帯を充電器に戻す。

同じテーブルに置いてあった白ワインをグラスに注いで窓から見える夜景を眺めながら一口飲んだ。

白ワインは死んだ父親が好きな飲み物だ。


―赤ワインは血の色だからと言って嫌い、ワインはいつも白を選んでいた父親。

白ワインが好きで…家族が好きで…本当の平和を求めていた父親。

脳裏に笑顔が蘇って男は目元を熱くさせた。

「親父…。」

この綺麗な星のどれかが父親の魂だと信じ…男はガラスに手を当てた。

「見ていてくれよ親父、親父が果たせなかった願いは…俺達が必ず叶えさせるからな。」

ワインを飲み干してグラスを置くと男は部屋の電気を落とした。

ボトルの中は先程の一杯で終わりになっており、静かに酔いが回ってくる。

「ふぅ~…。」

少し飲み過ぎたかなと考えながら目を閉じた。

頭の中で男は懐かしい光景を思い出していた。

自分と兄と弟、三人で遊んでいた記憶を。

「ケビン…今まで一人きりにさせて悪かったな。お前が今どんな目に会っていようとも…俺は迷わないさ。お前の事は…俺が引き受けるからな。」


父親と同じ家族思いで…泣き虫で…甘えん坊だった弟。

今日、久し振りに電話出来た時も弟の声はどこか寂しそうだった。

それで彼は分かった。

弟が今日まで背負ってきた物が何かを。

「俺も兄ちゃんも…お前の味方…だからな…。」

酔いが回り、男は意識を手放した。

一人だけの部屋で寝息が聞こえてくる。

ホテルの外では車が引っ切り無しに走り、街の明かりも消えずに照らされている。

そのホテルを全部見渡せるビルの屋上にマントをたなびかせる人影があった。

「見つけたよ…あの男だ。」

手にした写真を見て標的を確認し、男が被った仮面がライトで輝く。

「ヒェ~!ジョーカー様~!もうここを離れましょうよ~!」

「何言ってるの?そんなに風が強いから落ちる事は無いって。」


ボルバが大きな体を震わせ、子犬のように怯える仕草にジョーカーは呆れた声で返答する。

「それよりもやっとターゲットが見つかったんだ。今夜は張り込みだよ。」

「は、張り込み!?冗談はよして下さいよ~!」

「心配しないで。ほら、アンパンと牛乳も用意したから。」

刑事の張り込みには必要な必須アイテムを誇らしげに提示するとボルバはそんなぁと諦めた。

「うぅ…どうせなら牛乳じゃなくて熱燗が飲みたいですよ俺。フーフーして冷まして飲みたいのに…。」

大男が持つ牛乳パックはかなり小さく見える。

端から見れば牛乳をストローで吸うのも中々シュールな光景だ。

「ダーメ。そんなの飲んだら酔って転落するだろ?終わったら奢ってやるから。」

アンパンを頬張りながらジョーカーは消えたホテルの窓を見た。

「それと今夜は寝るなよ。寝たら往復ビンタ千発な。」

「ふぅええ…ジョーカー様許して~。」


子供のようにワンワン泣き喚く男をジョーカーは笑って見ながらパンを食べ続けた。

幸いこの辺りに警察の気配は無い。

もし見つかっても自分の能力で妨害すれば良い話だ。

「…やれやれ。アイツが味方に付いたら流石に今の俺じゃ適わなくなるな。」

古い写真を月明かりで照らして仮面の男は口元を緩ませた。

「でもお前達兄弟の絆を見て学ばせて貰うぞ。その本当の力を…。」

大事そうに写真を懐に仕舞い、ジョーカーはパンを食べきって牛乳で流し込む。

「絶対にギルクを見限るなよ…カーマイン。」

銀色の仮面の奥で…純粋な瞳がその男を写して炎の中に消えさせていった…。

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