挫けぬ覚悟!潜入!秘密研究所
【1】
大都市の直ぐ間近にありながら決して人が足を踏み入れない深い森林。
その森にチラチラと雪を落としながら歩く獣がいた。
白と銀を織り混ぜた体毛が風で揺れて冷たい空気を流していく。
時折立ち止まって地面の匂いを嗅いでは真後ろから付いてくる人間に振り向いて吠えた。
「やっぱりこの奥みたいだな。」
宿主の青年は歩きながらシガレットの箱のセロハンを切って地面に落とす。
本当はゴミでも吸い殻でもポイ捨ては良くないが人が居ない場所なら問題ないとケビンも止めなかった。
「でもこんな近くの森にミステシアの施設があったなんて…少し驚きですね。」
「そうだな。でもこの森結構空気も澄んでるけど…元から人は近寄らないのか?」
最後尾を歩く男の質問に少年は首を捻る。
「広いから一度入ると出られないって噂が立っているんです。それに本当は空港の近くだからってホテルか何かを建設する予定だったんですが予算が合わなくてそれも白紙になったそうで…。」
以来立ち入り制限こそ設けられてないが自然と足を運ばなくなったと言えばケビンは森を見渡す。
「でもこのままの形で残すのも逆に良いかもしれないな。一度切り開かれた山や森は長い年月を経たないと元の姿に戻らないからな。」
『それに森を切る事は…そこで暮らす生き物の住処を奪う事ですからね。自然のサイクル的にも問題ですし。』
大樹の根本でシマリスを眺めていたラビは手招きされてキドマルの手元に戻る。
「全ては人間の欲のままに…か。」
不遇だなと告げた所でケビンは足を止めた。
先頭を歩く狼が座り込んでハァハァと舌を出して呼吸しているのだ。
「ヴォルフ?」
リュウガは側に寄って唖然とした。
ヴォルフの目の前に動物が倒れていたのだ。
それは樹木のように何本も枝分かれした立派な角を生やした鹿だ。
横倒しになった鹿の顔には血管の筋が浮かび、無理矢理筋肉を増幅させた痕が残っている。
「兄貴、ここ見て。」
リュウガは首の後ろを指差す。
そこにはラビと同じドックタグが埋め込まれていた。
「まさか…キラービーストですか?」
「…間違いない。タグにミステシアのロゴが彫られてる。恐らく実験に失敗して捨てられたか…或いはラビと同じで脱走したのは良いけど途中で力尽きたんだろうな。」
鹿の顎の下に座ったラビは閉じられた目を見て瞳を潤ませる。
その獣から自分と同じ匂いを感じて。
「酷い…埋葬とかしてやればまだマシなのに。」
「アイツらはそんな小綺麗な真似はしない連中だ。使えなくなった物は人でも武器でも全部ゴミとして扱うからな。」
冷たく言い放つケビンもその悲しい亡骸には涙も出なかった。
こんなにも立派な角を携えた凛凛しい獣を何故切り捨てたのか?
その真意が計り知れなかった。
「でもここまでえげつない真似されれば…流石に俺も黙ってられねぇよ。」
「そうだね、俺も兄貴の気持ち分かるよ。こんな悲しい動物が造っては捨てられて造っては捨てられての繰り返しに会ってるんだから。」
研究所を潰さなければキラービーストは永遠と負のサイクルを繰り返す事になる。
それだけは阻止しないと駄目だとケビンはラビの背中に語った。
「安心しろラビ、お前が居たくない場所は全部焼き尽くしてやるからな。」
『…分かってます。行きましょうケビン様。』
ラビも覚悟を決めて主の肩に乗る。
もう迷わない。
自分は前に進むと。
『急ぎましょう。フェイクの事ですから…私が来るのを待たずに何か仕掛ける可能性があります。』
「そうと決まればチンタラ歩いてる訳には行かねぇな。走れるか?」
二人の弟は頷きラビも吠えるように頭を上げる。
「俺は空から探す。来い!フェニクロウ!」
「キュアア!」
突き上げた右手から炎が舞って不死鳥が出現し、ケビンが華麗に飛んで着地する。
一歩先を歩いていたヴォルフも戻って主を背中に乗せた。
それを見てキドマルも意識を集中させた。
ラビも「マスター頑張ってください。」と祈るばかりに手合わせする。
指の間からパチパチと静電気並みの火花が溢れ、爪先から登ってくるそれに意識を合わせる。
髪の毛が流れ雄叫びを聞いた瞬間、見開かれた少年の瞳が黄色に染まった。
「行くよ!トラピカ!」
「ゴルァァァ!」
足を広げ、真下に突き出した右手に稲妻が走る。
猛烈な痺れに耐えながら唸りを上げ、一喝と同時に獣が飛び出した。
黄色の体に黒の縦縞、太い牙と爪を生やした獰猛な虎だ。
「グルル…。」
「ゴフゥゥ…。」
共に主と離れ、ひっそりと隠れていた二匹は互いに接近してマーキングをする。
自分達も主と一緒に自由になれると分かってるのか、じゃれ会うようにお互いを擦り付けていた。
「なんだか嬉しそうだね。」
「そうだな。今まですっと閉じ込めてたからその分思いっきり…」
「「ゴル(ブル)ルルルァ!」」
いきなり森の葉っぱを吹き飛ばしそうな二体の雄叫びで鼓膜がビリビリした。
「…っておいぃぃぃぃ!なんでそこで喧嘩になるんだよお前らぁ!」
ガウガウガオガオ等の叫びを上げながら取っ組み合いを始めるビーストにリュウガがツッコむ。
「ねぇリュウ兄、これもしかして一昨日の続きなんじゃ…。」
「だからって今やる事じゃねぇだろ!状況考えろ馬鹿!」
いつになったら伏線を回収するのかとリュウガは二体の足元を凍らせた。
「ガ、ガルル?」
「後でやれお前ら!テメーらの愛しの猫ちゃんが酷い目に会ってるんだぞ!」
―酷い目に会ってるんだぞ!
最後の言葉が何度もエコーしてビーストは眼光を光らせた。
「あ、あれ?トラピカ一体」
「「ゴルルルァ!」」
我先にと駆け出した二体は各々の主を背に乗せて走る。
―自分がリンクスを助けると訴えるようにだ。
「おい待てヴォルフ!気持ちは分かるがスピード緩めろって!」
遊園地のジェットコースターにも引けを取らないスピードでヴォルフは駆け出し、トラピカも負けじと後を追う。
だが狼と虎では速度が違う。
ヴォルフは力こそ弱いが足の速さには誰にも負けない自信があり、それを見せ付けるようにどんどん速度を早める。
上空で停滞していたフェニクロウもこれはマズイと直ぐに飛び出した。
「…また変な奴らが仲間になったな。」
「キュアアア。」
同情すると鳴いて赤い翼を大きく羽ばたかせる。
そのままケビンの手が添えられるのを感じてフェニクロウは森の奥へと急いだ。
【2】
どこまでも続く広大な森の中心。
そこだけがドーナツの穴みたいに切り開かれ、鈍色の建造物が頭を出している。
真四角を組み合わせたようなその建造物をフェニクロウは空から見事に捉えた。
「よし、あの手前に降りろ。」
このまま突撃しても問題ないが前回と同じで蜂の巣になるのを避けるべく、フェニクロウはバサバサと翼を上下させて地面に降りた。
そこへ白銀の狼と金色の虎が迫ってきて頭を下げる。
主は?とケビンが言うとその背後にゴミみたいに捨てられていた。
走りの勢いで握力が尽きて投げ捨てられたのがその理由だ。
「おい、もうリタイアか?」
「…空飛んでる奴に言われたくねぇ…。」
「ぼ、僕握力どころか脚力が尽きて…。」
『け、ケビン様…私に洗面器をお恵みくださ…ヴォロロロロロロ!』
バラエティの大食いシーンではお馴染みのキラキラを口から盛大に吐いてラビは沈黙した。
ケビンは取り敢えずとその汚物を熱消毒して三人の背後に進む。
「とにかく起きろ、着いたぞ。」
分かってると身を起こしてリュウガとキドマルは横に並ぶ。
込み上げた物を吐き尽くしたラビもヨタヨタとケビンの足元に寄る。
そこから先には冷たい空気が漂う…怪しげな建物があった。
屋根には幾つもの通気口のパイプが走り、無骨な自動ドアが聳える研究所。
窓は無いので内部の様子は伺えない。
「ここが…ケミカラボトリー?」
「想像以上にヤバいって空気だな。」
ラビも懐かしむように自動ドアの見えない奥を見つめる。
すると頭の中がグルグル混乱して思わずケビンの靴に噛み付く。
「やっぱり…頭の片隅にこびり付いてるんだな。ここのイメージが。」
『…今でも夢に出てくるんです。私はこの悪夢から逃れられないと…。』
自分が産まれた場所であり、それでいて居たくもない場所に威圧されてラビは心が折れそうだ。
ケビンはかがんでラビを靴から引き剥がす。
「どうだラビ?入れるか?嫌ならここで待ってろ。」
犬のように耳の先端を顎に当てて怯えるラビは震えながらも角の先端を額に現す。
『いえ…私一人が留守番する訳にはいきません。私にはマスターを守るという…使命がありますから。』
「…そうか、強い子だなお前。」
ほんの一瞬だけ抱き締めると背後から獣臭がした。
ヴォルフとトラピカがケビンの腕の横から顔を出してラビをペロペロと舐めたのだ。
「へぇ~、仲悪そうで案外息ピッタリなんだな。」
人間臭い慰め方を見せる二体にケビンは感心しながら更に前を進んだ。
研究所の敷地に妨害装置の類いは見えず、普通に進めば自動ドアから簡単に侵入出来そうだ。
なのだが…ケビンは警戒していた。
「兄貴…見張りも居なそうだけど一体?」
「…あそこ見て見ろ。」
顎で示した先は入り口の斜め右横、そこにレンズの着いた真四角の機械が設置されている。
「監視カメラ…ですね。」
「カメラがあるって事は…その映像を受け取るモニタールームが必ず存在する。このまま入っても直ぐにお陀仏だ。」
隠れて侵入してもカメラの追跡から逃れるのは難しいとケビンは断言し、一旦入り口の横に向かう。
カメラのレンズは幸いにも自動ドアの足元ばかりを見ているので確認しながら建物の横へ回った。
「どうするの兄貴?通気口から侵入するとか?」
「いや、それよりも良い方法がある。」
彼は探していた物の前に着くとそこで足を止めた。
それは建物の外観よりも黒の比率が多い暗い灰色の箱らしき物体だ。
壁に密着されていてよく見ると表面は蓋らしく、繋ぎ目が見える。
指先を伸ばすとバチッと叩かれたような衝撃と痺れを感じた。
「これだな…。」
目当ての物だと確信して口元を緩ませるとキドマルに振り向いた。
「キド、お前の初仕事だ。これをショートさせろ。」
「シ、ショートですか!?」
「これは配電盤…この研究所の電気を賄っている命綱だ。これを狂わせばカメラも言う事聞かなくなるだろ。」
『…そうすればモニターも正常に作動しなくなり、その状態で身を隠せば…!』
「…隙を見て反撃出来るって訳か!凄ぇよ兄貴!そんな事思い付くなんて!」
ウキウキと興奮するリュウガとケビンを交互に見て少年は拳を握り、決意した。
「…分かりました…僕やります!」
『うぅ…貴方がそんな言葉を口にするとは…私は…わだじはぁぁ…!』
どこの教育ママだよとケビンに抑えられながら感動するラビ。
対してキドマルは兄貴分に大丈夫だと励まされ、配電盤の蓋に手を付けた。
手の甲に皺が寄り、バチバチと火花が弾ける音が聞こえてくる。
無闇に使うと周りが恐れてしまう自分の秘密。
でももう…隠す必要は何処にも無い。
今度は周りを恐がらせるのでなく…周りを守る為に使うのだから。
意識を集中させようとキドマルは蓋に当てた右手に空いた左手を重ねる。
火花はどんどん大きくなり、手で抑える範囲がボコッとへこむ。
今だ、と確信して少年は二の瞳を開いた。
「ハァ!」
バキュンと銃の発砲音みたいな音がして蓋が外れて地面に落ちる。
だが中の機材に異常はまだ無い。
でもこれこそがケビンの狙いだった。
その狙いを知ってキドマルはトラピカを召喚した時のように手合わせする。
すると手の甲に虎の紋様が浮かんだ。
両手に溢れるほどの電気が集まり、LEDライトも涙目な明るさが目に焼き付いてくる。
パワーが漲るのを感じたキドマルはパンパンっと手を二回叩き、左手から電撃の帯を飛ばした。
溜めるに溜められた電圧の塊は複雑に入り組んだ配電盤のケーブル全てに伝わり、容量を超える勢いの電力にケーブルが数本焼き切れた。
すると配電盤全体が限界を迎え、バーンッと破裂して白い煙を上げる。
火花が静まる左手を下ろしながら少年はケビンに振り向いた。
「良くやったキド、まずは第一関門突破だ。」
リュウガも弟を労うように水筒を手渡し、それをゴクゴクと飲む。
だが休む間もなく、建物の中からビービーと警報が聞こえた。
「兄貴…感付かれたみたいだぜ。」
「上等だ。カメラが使い物にならなくなればアイツらは縦横無尽に走り回る事しか出来ないんだ。その背後を取って数を減らしながら進むのが一番だな。」
三人が自動ドアの前まで戻ると待ち構えていたバディビースト達が主の体に戻っていく。
揃って深呼吸すると同時に一歩を踏み出した。
キドマルはケビンの手を握ろうとしてその手を伸ばすのを止めた。
ずっと繋いだままでは何も変わらない。
自分から動かないと意味が無いと。
ガックリと項垂れた監視カメラを嘲笑うように眺めてケビンは自動ドアの前に立つ。
配電盤を破壊された今、自動ドアは手動ドアに変貌していた。
「リュウ、そっち持て。」
「了解。」
二人してせーので扉をこじ開ける。
重い鋼鉄の扉の隙間がどんどん広がり、パックリと口が開かれた。
扉の向こうから警報が更に大きく聞こえてラビは無意識に角を伸ばした。
『急いで下さい。向こうも頭数集めてきますよ。』
「分かってるさ、行くぞ!」
「「おう!」」
―この時点でケビンは気付かなかった。
開け放たれた入り口を…そこから中に侵入する自分達を静かに見守る人影があると。
それも自分が良く知っている人間だ。
仮面の奥で笑いながら…その人物は自分を見送ってくれていた。
待ってたよとでも呟くように。
「ジョーカー様、我々も中に…。」
「お前はここで待ってろ。流石に二人で入ると怪しまれるからね。」
そうですかと護衛の男は残念がる。
やっと現場復帰出来てリハビリ代わりに同伴したのにと。
「心配しなくても様子だけ見て戻ってくるよ。助けたらもっと騒ぎが広がるからさ。」
「ご承知の上でございます。どうかお気を付けて…。」
悠々と膝を曲げて見送る護衛に手を振って…仮面の男は人知れずに研究所に入っていった…。
【3】
ケビンの仕掛けた先制攻撃の効果は絶大だった。
電気系統は全て破壊されて監視カメラは無用になり、侵入者をいち早く発見するモニタールームの画面は全部ノイズが走って使い物にならなくなっていた。
「駄目ですチーフ!ビクともしません!」
白衣を着た研究員がモニターの真下にあるキーボードを操作するが画面は復旧しない。
天井に設置された赤い赤色灯がグルグル回って丸い明かりが時折画面を通過する。
「非常用バッテリーを作動させなさい、その間に外の配電盤を調べてくるのです。あと変電室の電圧もMAXに上げといた方が良いでしょう。」
研究所の所長というべき地位の男は慌てずに部下に指示を出す。
「お客様の方は暗殺部隊が対応してくれますから、貴方達は復旧作業を優先してくださいね。」
「分かりましたチーフ!」
何人かは白衣を脱ぎ捨てて部屋を飛び出し、フェイクは様子を見ながら廊下に出る。
カメラが作動しない今、この広い研究所のどこに誰がいるかなんて探すのは無駄骨だ。
まだ自分の出る幕は無いと非常用階段を使って彼は上の階に戻った。
研究所の最上階、暗証装置が設置された部屋の前に向かうと首に提げていたカードホルダーを装置に翳す。
ピピッと小さな電子音がしてロックが解除されるとその部屋に入った。
そこはまるで研究所の内部とは思えない…競技場のような広い空間だ。
その空間の中央には不相応なゴツい檻が置かれ、中には人影が見える。
「どうですか?ここは広々してるから落ち着かないでしょう?」
「……。」
檻に入れられているのは後ろ手に手錠で拘束された四人の人間。
不満を漏らすように手錠の鎖をカチャカチャ鳴らす。
「いくら暴れても無駄ですよ。その手錠はスキルを封じる特殊合金製…加えて強度はダイヤモンドとオリハルコンを結合させてるからマウンテンゴリラや恐竜でも破壊する事は不可能です。」
―まさにスキル封じとも言える凶器に繋がれてはその手の人間は一般人に成り下がるだけだ。
フェイクは鉄格子の隙間から手を入れ、自分の真正面に座る踊り子の顎を持ち上げる。
「獣をその身に宿す人間にとっては辛いでしょうね。自分達が獣になって檻に入れられるのですから。」
捕らえられた者はさっきから無言を貫く。
だが逃げるのを諦めた訳ではない。
死が訪れるのを恐れている訳でもない。
彼らは待っているのだ。
ある人間がここへ来るのを…。
「まさか予定通り来るとは思いませんでしたよ…あの男が。」
半分閉じられたエメラルドの瞳は怪しく笑う眼鏡の男を睨む。
「私としてはPXを取り戻せれば充分なんですけどね…。あれはまさに私の最高傑作…キラービーストを超えたビーストなんですよ。奴に再改造を施せばその力もキラービーストやバディビーストを遙かに凌駕する怪物になるのですから。」
それを手に入れた自分に敵はいないと自慢するフェイクに踊り子は手錠で繋がれた白い手を握る。
「でも奴が戻るのを拒否すれば…ここで皆殺しにするだけですよ。あの男もPXも…そして貴方達も。どうですか?私に買われれば命は助けてあげますよ。」
命乞いを命じるような言葉にエルザは俯き、それでいてニヤリと笑った。
「…悪いわね。私ら全員…とっくにアイツに買い取られてるのよ。」
「…。」
「ラビはアンタの所には戻らないわ。それにアンタもあの子を取り戻そうとは考えてないんでしょ?」
フェイクは眼鏡を光らせてエルザを見つめる。
彼女が自分の言葉を予期して…伝えるそれをただ聞いていた。
「ケビンは必ず来る…彼は自分が買い取ったのは物でも人間でも絶対に手放さないからね。」
セントラルでケビンと別れた時にエルザは覚悟していた。
―もしかしたら捕虜になるかもしれない覚悟を。
でもそうなってもケビンは絶対に助けに来ると信じているのだ。
「ついでに言っとくけど…ラビも既に彼の所有物になってるわよ。まぁゆくゆくは始末するからこんな事言っても無駄だけどね。」
フェイクの指が顎から離れ、エルザは恐ろしい気配を察した。
彼の行動が異常だと。
「そうか、なら貴様は見せしめにしておく必要がありますね。」
瞳を吊り上げ、不気味に笑うフェイクは白衣に忍ばせた手を何故か止めた。
殺すのを躊躇ったのでは無い。
この部屋に誰かが入り込んでると感じたのだ。
「…出てきなさい、居るのは分かっているんですよ。」
フェイクは自分が入ってきた入り口を振り向く。
そこにはいつの間にか、エルザ達も見慣れた男がいた。
「貴様…どうやってこの部屋に?」
研究所の中でも最高クラスのセキュリティで守られたこの部屋に侵入者は容易に入れない筈。
だがその男…仮面の貴公子はクスクス笑った。
「なぁに、ここの職員のカードを借りて入っただけさ。」
ジョーカーは自慢げに首に下げたホルダーを見せる。
それは自分の部下全員に支給したセキュリティカードだ。
―隙を見て盗んだか、それとも気絶した人間から奪い取ったのか。
どちらにしても迂闊だ。
「この部屋が何なのか理解しているのですかお前は?」
「勿論さ。全線投入が決定したキラービーストの戦力を測定する部屋、通称コロシアム…だろ?」
よく見れば部屋の四方には大きなゲートらしき出入り口があり、扉には番号が振ってある。
あのゲートからキラービーストを出して…争わさせているのだ。
「まぁここで敗北したビーストは処分されるのが一般的、様は強い奴ばかりを残したいんでしょリーダーは?」
フェイクの額に青筋が浮かぶ。
自分のプライドを貶された感じがして…腹立たしくなってるのだ。
「何が言いたいんですかジョーカー?人の根城に土足で踏み込んで何を企んでいるのです?」
フェイクはエルザに向けようとしていた改造拳銃をジョーカーに向けた。
だがジョーカーは自慢の武器を取り出さずに表情だけを変える。
「ソイツらはリーダーが始末するには勿体無い連中だよ。ギルクの仲間は一人残らず俺の獲物だって決めてるんだ。勿論…PXもね。」
引き金を掛ける指が強まるがジョーカーは素振りを変えずに仮面に人差し指を添える。
「ギルクもその取り巻きも勝手に殺させない、俺が全員を相手にする。だから余計な真似はしないで貰おうか?」
「…貴様!」
ならばお前から片付けると引き金を引こうとした時にフェイクの懐から電子音が聞こえた。
ゴソゴソと取り出したのは古い携帯電話のような機械だ。
「何ですか一体?」
『大変ですチーフ!侵入者が変電室で暴れて…ぐわぁ!』
ブツッ、と数秒で会話が途切れてフェイクはクソッと呟きながら通信機を仕舞う。
「ホラ早く戻ったら。心配しなくても俺も直ぐにバイバイするからさ。」
嘲笑うように手を振る男にフェイクは唾を吐き捨てた。
「ならお言葉に甘えて引かせてもらいますよ。だが次に私に刃向かったら…命は無いと思ってくださいね。」
フェイクはジョーカーの横を素通りして部屋を出て行く。
その背中を見送ってジョーカーは蚊帳の外になっていた捕虜達のいる檻へ近寄った。
「ハロハロ、ウェルパにフィーニー、それにシュトロゼフにプリンセスちゃん。」
さっきとは違って軽快な様子のジョーカーにエルザは眉を顰める。
「災難だね、こんな目に会うなんて。」
「…アンタに言われても同情の余地は無いわよ。」
「相変わらず刺々しいね。俺こう見えて心配してたんだよ。ギルクの仲間がセントラルで捕まえられたって聞いてわざわざ足を運んでやったんだから。」
貴族の執事並みに腰を下げて会話する好敵手にガデフがフンと鼻を鳴らす。
「信用ならんな。大方コイツと同じでストーカーしてたやろお前?」
「バッ、親分!なんて事を!」
捕まってるのも忘れて巻き込まれたジャッキーにジョーカーはアハハと笑う。
「そんな会話が出来るなんて余裕だね。流石アイツの仲間だけあるな。」
「…どういたしまして。」
ジョーカーは笑いながらエルザの横で正座した少女に視線を移した。
「プリンセス…キミまでこんな目に会わせてゴメンな。」
腕を入れてポスポス頭を叩くとマナは顔を上げた。
大きな瞳は涙で潤み、それで尚泣くのを堪えている。
「大丈夫、キミのパパには何もしないよ。それにここでプリンセス達を助けるような真似をしたら俺も危なくなるんでね。」
敵とは思えない穏やかな物腰をエルザは興味本位で見守る。
「ジョーカー、ケビンは一人?」
「いや、PX以外にも同伴者を連れて来てるよ。金髪のイケメンとPXの今のご主人様だ。」
―金髪のイケメンとラビの現主人。
マナはハッとして顔を上げた。
「キド兄と…リュウ兄ちゃんが?」
「あぁ。チラっと見たけどすっかり手懐けられてるねあの二人。いつスカウトしたんだ?」
「ヘッ、お前なんかに教えてもどうせ意味ないだろ。分かったらさっさとその生臭い手を姫から離して貰おうか?見てるとイライラするんでね。」
ジャッキーが腹が立つと手錠を鳴らすとジョーカーは素直に引き下がる。
「なぁにウェルパ?もしかして嫉妬してるの?」
「…違ぇよ。」
「嘘付いたってダ~メ。顔にハッキリ出てるよ。」
子供っぽく笑うとぐうの音も出ないと無言になるジャッキーに貴公子は立ち上がる。
「でも俺も信じてるよ。ギルクは必ずこの部屋に来るってね。だからフィーニー達も希望を捨てないで。自暴自棄になったアイツと決闘するのは嫌だからさ。俺は誰かを守って…誰かに守られているアイツと決闘がしたいんだ。」
仮面の奥でマナにウインクするとジョーカーはマントをエルザ達に見せた。
「だから…助けて貰えなかったってアイツを責めないでくれ。次に会う時までもっと繋がりを深くしといてくれよ。俺待ってるからな。」
じゃあなアディオスとお決まりの捨て台詞を吐いてジョーカーは部屋を去って行った。
―自分はいつも見張ってると…伝え残しておくように。
【4】
研究所の廊下を武装した兵隊が駆け抜ける。
職員が壁に張り付いてその波から逃れながら行く先を見守る。
「そっちに居たか?」
「いや、もぬけの殻だ。」
「ええい探せ!どうせ出口は無いんだ!虱潰しに探すんだ!」
廊下も部屋もボンヤリとオレンジの光で照らされた中で暗殺部隊の人間は捜索に翻弄していた。
このオレンジの光は非常用の電力システムが作動している証だ。
外の配電盤に続き、予備の電力を供給する室内の変電室も襲撃され、文字通り停電状態になっているのだ。
非常用システムもそんなに長く持たないのは承知沙汰であり、電気が切れる前に侵入者を確保する必要があった。
停電の現況ともなった変電室には数人が倒れており、電気設備は見事にショートしていた。
その片隅に重い金属のパネルが落ちていた。
この部屋の天井に設置された通気孔の通り道の蓋だ。
侵入者の一行は明かりのない真っ暗な天井裏を忍者のように腹這いで進んでいる。
「兄貴、ここジメジメして俺嫌だ…。」
「文句言うな。全員気持ちは同じなんだぞ。」
先頭を進むケビンは背後でワガママばかり垂れる弟に告げる。
清潔なのは有り難いがどうにも空気が淀んで良い気分ではない。
そんなケビンの眼前にはフワフワした可愛いお尻があった。
『あそこです。』
顎の代わりに角で指したのは階下の光が漏れる蓋だ。
『あそこから出てそこからは廊下を進むしかないでしょう。』
「そうだな、こんなジメジメした場所は御免だ。」
こうなったら蜂の巣覚悟で殴り込みするしかないとケビンが決めていたらラビは足を止めた。
「…?」
声でも聞こえるのか、試しに耳を澄ませるが聞こえてくるのは騒がしい男の声ばかり。
ジャッキー達は違う場所に居ると告げようとして横に回ったら目が点になった。
ラビの真正面に小さな動物がいたのだ。
リンクスと同じ雪のような白いからだに丸い耳、細い尻尾。
三角帽子を逆にしたような丸っこい顔付きのその正体は…鼠だ。
普通の鼠は茶色っぽいがこの個体は白い。
新薬の臨床実験等で使用される専用のマウスだ。
《なんでこんな所に?研究室から逃げ出して迷い混んだのか?》
何れにしても害のない動物を傷付けるのは性に合わないので捕まえようとして…驚いた。
静止したラビの目が瞼が切れそうな程に大きく見開いていたのだ。
しかも瞬きもせずにさっきからマウスとにらめっこしている。
「おいラビ、コイツは恐くないからそこ退いてくれ。」
ビックリさせないようにお尻を優しく叩くがそれでもラビは気付かない。
いや…反応すらしないのだ。
臨床用のマウスなど見慣れている筈なのにと無理矢理退かせようとしたその時、
「チュウ!」
マウスが可愛く鳴いてその場からジャンプし、ラビの顔面に張り付いた。
更に間を置かずに、
『イギャアアアアアアアアア!』
潜伏しているのも忘れて発狂したラビが猛烈な速度で走り出した。
「おい止めろ馬鹿!ラビ!」
ケビンの声も無視して走り回るラビの悲鳴と足音は直ぐに真下の階にも響いてしまっていた。
「おい!天井裏に誰かいるぞ!」
「入り口を探せ!」
最後尾にいたキドマルが青ざめて匍匐前進してケビンに並ぶ。
「ケビンさんどうするんです!見つかりましたよ!」
「こうなったらしょうがねえ!降りるぞ!」
ラビが目指していた通気孔の蓋へと急ぎ、主であるキドマルは暴れるラビに電撃を放って大人しくさせた。
倒れたのを見て回収すると間接キスしているマウスを引き剥がして逃がしてあげた。
『マ、マスター!ね、ねね鼠ぃぃがぁぁ~!』
「ラビ落ち着け!こら!」
一番のお仕置きと称する耳綱引きを掛けるとラビはようやく大人しくなった。
しかし真下からはドタドタと足音が聞こえていた。
ケビンは蓋を開けると腹を括って下に降り、後ろの二人も続いた。
―当然の結果が待っていたとばかりに降りた場所には同じ服装の人間が集結していた。
「貴様ら!よくも好き勝手暴れやがって!」
「観念しろ!」
マフィアを思わせる黒のスーツにネクタイにサングラス。
手にしているのは拳銃やナイフや日本刀。
ケビンはその服装でこの人員の正体を直ぐに把握していた。
「…やっぱりか。コイツら全員暗殺部隊だ。」
三人は円陣を組むように背中合わせになる。
「フェイクが招集掛けてたんだな。俺達が来るからって。」
「だからって…こんなに人集めるのか?」
「僕遺言残して無いのに…。」
刀の切っ先と銃口が一斉に向けられ、ラビは唸りながらもソワソワする。
「それはそうとラビ…お前はどれだけ人様に迷惑を掛ければ気が済むんだ?」
『だ、だっていきなりマウスが走ってきたんですよ!そりゃビビりますわよ!』
「てかお前ゴキブリも嫌いで鼠も嫌いとはな…本当に頭の中が人間に改造されてるみたいだな。」
降りてきた穴を見上げてケビンは溜め息混じりに何かを考えていた。
しかし殺しのプロ連中はそれに気付かずに武器を構えてくる。
「バーナクル総長、及びフェイク様の命令だ!貴様らにはここで消えてもらうぞ!」
隊長格に満ちたガタイの良い男が日本刀を鞘から抜いて構える。
しかしケビンは薄笑いしながら彼らを見回した。
「おいおい、何勘違いしてるんだ?ここで消えるのはお前らの方じゃねぇのか?」
さも余裕がありそうな笑顔にリュウガが引き攣る。
「兄貴…?」
「確かに状況的にはテメーらの方が断然有利だ。でもな…人は何か小さなキッカケが生じればいくらでも逆転のチャンスは掴めるんだぜ。」
リュウガはその横顔を見て驚いた。
セントラルで奇襲された時と違い…ケビンは余裕を持っている風に見えた。
本当なら仲間を人質に取られて内心焦っているのに…それは一切見せないのだ。
「後悔するんだな、俺を本気で怒らせたらどうなるかを…!」
甲に皺を寄せた右手を顔に当て、ケビンは目を閉じた。
彼の頭の中にある光景が浮かんでくる。
―それは炎で燃える屋敷…その奥で落ちてきた柱に潰されて消える人影が見えた。
自分が必死に手を伸ばすも届かずに…業火の中に消えていったある人物の笑顔を。
それはケビンが今まで見せるのを隠してきた…自分の本当の素顔だ。
人に嫌われるのを恐れて封印してきたその顔を…彼は見せようとしていた。
《…許せフェニクロウ。俺は…。》
熱を帯びた右手に紋様を浮かべて男は覚悟した。
《俺は…ちょっとばかし鬼になってやるからよ…!》
【5】
顔を押さえて動かなくなった男。
これ見よがしとばかりに笑って殺し屋達が動いた。
だがそれを待っていたようにケビンは…威圧した。
緋色とも血の色とも思えないおぞましい赤い瞳を見た彼らは…僅か一秒で気力も魂も削られて崩れ落ちた。
円の内側から外側に向かって綺麗に倒れていく隊員に同伴者達は白目で驚くしか無い。
「あ、兄貴?」
「何だったんだ…今のって?」
『何故でしょう?とてつもない恐怖が…込み上げてくるのですが…。』
二人と一羽は呆然とする男に振り向く。
彼の目は赤く染まったままだが…辛うじて光は失われていない。
それに安心したのか、背筋が凍るような感覚が静まっていく。
「…ウッ。」
瞳の色から赤色が消えるのに合わせてケビンは突然しゃがんでしまった。
額に汗が滲んでるのを見てリュウガはハンカチを取り出して拭ってあげる。
「兄貴大丈夫?傷口開いた?」
「…心配するな。少し目眩がしただけだ。」
左手を壁に付けて荒い呼吸をしながらケビンは歩き出した。
先程の威嚇で神経を酷使した結果で全身を病んでいるのだ。
「それよりも急ぐぞ。アイツらに何かあったらマズイからな。」
「あ、あぁ…そうだな。」
父親の仕事風景を見て育ってきた彼には分かった。
ケビンの容態は思っている以上に深刻だと。
少し休ませないといけないのに時間をロスしたくない当人の粘りは認めるが…やはり心配だった。
その証拠にケビンは数歩進んでは止まり、息苦しいのが伝わっているからだ。
持参したデイパックの肩紐を握り、リュウガは耐えきれないと荷物を下ろす。
「兄貴待って…やっぱり休んだ方良いよ。」
デイパックから取り出した水筒を持たせて「飲んで」と頷き掛けるとケビンは渋々ながら口を付ける。
すると水よりも少しドロッとした甘い液体が流し込まれてきて目が点になる。
「これって…。」
「お袋のスムージー入れてきたんだ。本当はスポーツドリンクの方が良いけど…コッチの方が元気出るかなって思ってさ。」
喋りながらリュウガは更に小さな透明ケースを取り出す。
中に入っているのはなんと注射器だ。
ここまで来ると彼の思惑が直ぐに判明した。
「おいリュウ、まさか…。」
「大丈夫、ビタミン剤とブドウ糖入れるだけだから。座って。」
素人で注射をするのは麻薬の常習犯のイメージがある位。
いくら仕事ぶりを見てても見様見真似でやるのは危険だ。
だがケビンはリュウガの瞳が真剣なのを見て…素直に受け入れる事にした。
リュウガは箱からディスポ注射器とアンプルを取り出すと何も見ずにアンプルの蓋を切って薬剤を吸い上げる。
肘の血管を探り、丁寧に消毒されて針が当てられた。
病院で採血をする看護師みたいだが新人とベテランとでは器用も全く違う。
新人に注射される時は針が誤って血管の外に入れられ、思わぬ事故に遭遇する場面も少なく無いからだ。
通路の壁に背中を付けてもたれるケビンはそんな事を考えていた。
「…本当は俺が注射とかするの駄目なんだ。親父には教えて貰ってるけど…やっぱり危ないからって。」
針の痕にテープを貼って止血させながら空いた片方の手でケビンの手を握る。
「どう?指とか痺れてない?」
「…針痕が少し痛いだけだ。」
「それ位元気なら問題無いな。巡るのに時間は掛かるけどそこは勘弁してね。」
異常が無いのを確認して道具を片付けていたらラビが耳をピクリと動かした。
「どうしたの?」
キドマルが声を掛ける側でラビは耳を震わせ、角も伸ばして四つん這いになる。
誰かが近くに居て警戒するポーズだ。
『マスター、急いで離れた方が良いでしょう。』
「うん。あ、でもケビンさん…歩けます?」
敵以上に心配な事を思い出して振り向くとケビンはよろけながらも立ち上がる。
「俺の事は気にするな。それよりも行くぞ。」
ラビは動くのを待たずに彼の体に登って首にスリスリする。
『あまり無茶しないでください。奴と対面するまで温存しておくと良いでしょう。』
二人の会話にキドマルとリュウガは互いに頷き、リュウガが代わりに先頭に立つ。
『…どうなさいましたリュウ坊ちゃん?』
「俺が連中を蹴散らしていく。兄貴は付いてきて。」
その提案にラビも何かを感じたのかケビンからリュウガにダイブする。
『私が案内します。ここの構造は頭に全部入っていますので。』
「そりゃ結構だ。行くぞ。」
肩に自分の髪色と同じ兎を乗せて青年は走り出した。
いや走ると言うよりは…廊下をスケートみたいに滑りながら優雅に疾走しているのだ。
足元に残る氷のラインを目印にキドマルもケビンの手を握って小走りに歩き出した。
「あの野郎…。」
「恨まないでください。ああ見えてリュウ兄心配症なんですよ。」
進めば進む程に冷たい冷気を感じるが気にせずに二人はリュウガを追い掛ける。
騒ぎを聞き付けた暗殺部隊員が現れるもリュウガは全員氷付けにしながら道を作っていく。
廊下は迷路の様に入り組んでおり、所々に番号が描かれた縦長の自動ドアがある。
それを見ながらリュウガはラビに振り向いた。
「なぁラビ…今更こんな事言うのも可笑しいけどさ。」
『何でしょうか?』
「外で捕縛した人間とかこういう研究所で捕まった人間は…大体どこの部屋に監禁されるんだ?」
スピードを緩めながら壁に手を付いて止まるとラビは黙って考える姿勢になる。
『…過去に侵入者が押し入った記録は無いと思います。ここの存在自体がシークレットな上、まず歯向かう人間など存在しませんから。』
リュウガが何を言いたいのかラビには分かっていた。
ケビンの仲間がどこに閉じ込められているかだ。
研究所となるとどこかの部屋にいるのは分かるがその部屋の位置を知りたいのだ。
『ですがフェイクが私と取り引きをしたいのなら…広い場所にいるのは確実です。』
「でもその場所が分からないと?」
『はい。ここでそんなに広そうな部屋は…。』
その瞬間、背筋がゾっとした。
この研究所で一番広くて大人数が入れそうな空間は確かにある。
あるのだが…地理的には一番ヤバい場所だとラビは思い出していた。
《まさか…あの部屋に?》
急にプルプルと震えだしたラビを心配したリュウガは優しく顎をチョロチョロする。
「どうしたラビ?何か思い出したのか?」
『…かなり最悪な展開になってますわ。私の勘が正しければ…恐らく…は…。』
【6】
そこでまた言葉を区切ってラビは震え上がった。
リュウガも前を見るとそこには一人の人間がいたのだ。
足音も立てずに現れたのはタキシードに仮面の男。
仮面は左半分が焦げていて過去に誰かと争った形跡がある。
「ハロ~PX、それにそこのイケメンは…コルタスだね。」
軽々しく自分の名前を呼ぶこの男をリュウガは見た事無い。
だが存在を知らない訳では無かった。
「お前が…ジョーカー?」
「あれ?俺の名前知ってるの?あ、そうか!ギルクに教えて貰ったのか!」
高らかに笑う男にリュウガは一応臨戦態勢を取る。
「あぁ、ケビンの兄貴から聞かされたよ。兄貴の家族を皆殺しにした男だって。」
ラビはリュウガの肩に乗ったままジョーカーを睨む。
額の角が仮面の真ん中を切り裂くように伸びて重なった。
『貴方…どうしてここにいるの?』
「風の噂が入ってきたんだ。ギルクの仲間が暗殺部隊に捕まったって。それでここに連行されたって聞いて様子を見に来た訳さ。」
自分達で捕まえた捕虜の様子を伺う物好きも中々存在しない。
それでもケビンとその仲間を特別視するジョーカーにとってはそれが当たり前の行動なのだ。
「まぁキミ達がここに来るのは予測してたよ。何よりギルクが黙ってる訳無いからね。そうだろギルク?」
ジョーカーの視線にリュウガも振り向くと自分の後ろに噂になっている男が立っていた。
キドマルはケビンの後ろに隠れて顔だけこちらに向けている。
「よぉ、相変わらず何考えてるか分からない野郎だなお前は。」
「そっちこそ相変わらず無愛想だね。俺は肝心な事を教えに来たんだよ。」
黒の羽根付き帽子のつばを握って目元まで深く被るとジョーカーの唇が堅く結ばれた。
「ウェルパ達はこの研究所の最上階…コロシアムと呼ばれる大部屋にいるよ。」
「コロシアム…?」
「全線投入が決まったキラービーストの最終試練の場だ。様々なステータスのビーストを競わせて最後まで勝ち残った奴を正式に外に放つんだ。逆にそこで負けると次の実験に繋げる為に臓器を取り出されて残った肉体は破棄されるんだ。どう?えげつないにも程があるだろ?」
スラスラと機密事項を話すジョーカーにケビンは静かに拳を握っていた。
ジョーカーを殴りたい訳では無い、そんな部屋を監禁場所に選んだフェイクへの怒りだ。
「酷過ぎる…そんなの実験じゃ無くてただの動物虐待だよ!」
キドマルは隠れた姿勢のままで反論し、ジョーカーは新たに見知った少年を眺める。
「…プリンスの言う通り、でも憎いけどそれが現実だ。実験の最終段階まで来るとビースト達はロボトミーの他に体に麻薬を入れられるんだよ。人間で言う麻薬常習犯にして…徹底的に薬漬けにして操るんだ。だからPXのように脱走出来る奴はほぼ皆無に近い…ソイツは本当に運が良かったんだ。」
ラビは決して消えない罪悪感に角を引っ込めていた。
ジョーカーに言われた事はほぼその通りなのだ。
麻薬を入れられ、脳を弄られて自我を失う仲間を置いて自分は逃げたのだ。
本当は自分の他にも逃げたいと思う動物達は沢山いたのに…その沢山の命を自分は見殺しにしてきたのだ。
ラビはその罪悪感を忘れられず、この二年間苦しんできたのだ。
「人の細胞結合に成功し…そしてこの監獄から命からがら逃げてくるなんて…大した奴だよPXは。」
『…。』
「あの日…リーダーが物凄く悔しい顔してたのは今では有名だからね。それだけ改造されてれば…人の脅威にもなってたんだよお前。俺がこんな事言うのも変だけど…お前は逃げて正解だったよ。そうじゃなかったら…もっと酷い事が起きてたからね。」
バサッとマントがたなびく音がしてジョーカーが自分達に背中を向けた。
「…何処に行くんだ?」
「おいとまするだけさ。流石にお前らに手を貸す訳にはいかないからね。」
ただ、と小さく呟いて再び帽子のつばを握る。
「急いだ方が良いよギルク。リーダーがお前に見せしめをしようと動いてるんだ。それにウェルパ達も…容易に動けない状態になってるからね。」
「…何!?」
「全員スキル封じの手錠で繋がれてるんだ。ダイヤモンドの数倍硬いからシュトロゼフの怪力でも壊せない厄介な物でさ、それに捕らわれている以上…逃げる事が出来ないんだ。」
トントンと靴で床を叩きながらジョーカーはマントごとこちらに振り向く。
「ついでに暗殺部隊もコロシアムに集まるよう命令が掛かってる。当然バーナクル総長も一緒にだ。」
『バーナクル…。』
「ウェルパ達を攫った張本人はソイツだ。奴は護衛人最強とも言われる男…クイーンの仇討ちだけで済ませるような男じゃねぇ。用心しろよ。」
じゃ、アディオスと手を振りながら今度こそ貴公子は退散する。
その背中が見えなくなるのを待ってリュウガはケビンの目を見た。
「兄貴…どうする?」
「暗殺部隊が皆いるなんて…勝ち目あるんですか?」
目に見えなくても予想出来る。
自分達が罠に嵌められようとしているのが。
下手すれば全員全滅なんてのも有り得なくは無いのだ。
「…行くしかねぇだろ。」
シンプルに、簡潔でいるその言葉に三人は驚く。
「こんな所でくすぶってるよりは…一発こっちから喧嘩吹っ掛けた方が良いだろ?ここで立ち止まってるのは尻尾巻いて逃げる事と同じなんだ。俺は…もうそんな真似したくねぇんだよ。これ以上大切な物は何一つ手放したく無いんだ。」
呆然としていたリュウガもその言葉に気付いたのか、自分の握り拳に目を落とす。
「…そうだよな。今ここで戻ったら…男どころか人間ですらねぇよ。それに何の為にここまで来たのか理由が無くなるからな。」
「…言われてみればそうですね。そんな事したら…前と同じに戻りますよ僕。」
兄弟であり、幼馴染みでもある若き二人の戦士は互いに頷いてケビンの手を握る。
「兄貴、俺は兄貴が言うなら何処だって着いて行くよ。来るなって言っても無駄だからな。」
「僕も同行します。これ以上…弱いままの僕でいるのは嫌ですから。」
リュウガが右手を、キドマルが左手を自分らの手で包み込む。
氷の冷気と雷の痺れが…自分の中に流れていくのをケビンは感じていた。
『ケビン様…。』
ラビはリュウガの肩から降りてケビンの足を引っ掻く。
『お願いです。この研究所を潰して下さい。』
「ラビ…。」
『今更言えた義理では無いですが…私は自分が生き延びるのと引き換えに多くの命を置き去りにしてきました。私もう嫌なんです、人の手で何もかも変えられてしまう動物達を見るのは…。』
前足の爪をズボンに引っ掛け、二本足の姿勢でラビは垂直する。
『彼らを弔うにはそれしかありません。犠牲にするのは惜しみないですが…キラービーストはもう産まれてはならない存在…ここで全て終わらせてやりたいんです!ですからどうか!彼らを…』
「ラビ!」
ケビンがいきなり怒鳴りながらラビを持ち上げ、抱き締めた。
「お前…自分が裏切り者だと思ってるだろ?同じキラービーストでありながら…奇跡的に脱走出来た自分を今まで憎んでたろ?」
『…。』
「お前は命を置き去りにしてなんかいない。寧ろその多くの命がお前を逃がしたんだ。そうは思わないのか?」
何の事か分からずにいたらケビンの手に撫でられた耳が自然と下がる。
「お前は生かされたんだラビ。犠牲になってきたビーストや…逃げられなかったビースト達全員の思いを背負われたんだぞ。自分達の代わりにフェイクを倒してくれ、ってな。」
『私が…?』
「人間も動物も…この世に産まれて何も役割を与えられずに死ぬ事は絶対に無い。産まれたら必ず何かを背負って生きる宿命があるんだ。お前が産まれたのは…キラービーストの看板として生きる事だと俺は思うぜ。看板として…その獣達の悲しみや怒りを伝えるのがお前の役割なんだ。」
―役割、看板。
その二文字にラビの頭の中には山のように積まれた動物の死体が浮かぶ。
その山を見つめて…怒りを燃え上がらせる自分も。
「お前は生きるんだラビ。生きて…自分の存在を知らせるんだ。それが救えなかったビースト達への…せめてもの罪滅ぼしだからな。」
ラビは子供のように震えながらコクコクと頷く。
それを見てケビンは主の少年に手渡した。
「ラビ、コロシアムへの行き方は覚えてるか?」
『…普通ならエレベーターですが停電している今では使い物になりません。それ以外では非常階段が唯一の連絡手段なんです。』
「了解、じゃあさっさと一仕事終えないとな。」
ケビンが疲労を忘れて先頭に立ち、二人の若者が隣に並ぶ。
ラビは主の頭の上に移動してケビンを見上げた。
『ケビン様、一つお願いがあるのですが…。』
視線が下ろされるのを待ってラビは伝えた。
『コロシアムに向かう前に…ある部屋に寄って貰えませんか?』
「ある部屋…?」
『私が…生涯忘れる事の出来ない部屋です。そこへ私を連れて行ってくれませんか?』
ケビンは自分と同じ色の瞳を見つめて…無言で頷く。
『ありがとうございます。私が案内するので付いてきてください。』
ピョンと床に降りてラビは駆け出し、三人は遅れないようにその後を追った。
【7】
まるでその部屋が自分を呼んでいるかのようにラビはひたすら走った。
野生動物そのままの動きで階段を登り、遭遇した人間や殺し屋を蹴散らしながら。
走りに走ってラビは…上の階まで到達した。
コロシアムの一歩手前とも言えるその部屋には縦長の自動ドアで分断されている。
勿論普通の自動ドアと違って人が目の前にいても開けられない。
横にある暗証パネルにセキュリティカードを翳さないと駄目なのだ。
「ラビ~、早いよぉ~。」
ゼーゼーと息切れしながらキドマルが一番手に辿り着く。
日頃からラビと過ごしているだけあってその体質は知り尽くしているが本気で走ると追い付けないのだろう。
「お前…次振り回したら…タダじゃ…置かねぇからな。」
「…ハァ~、酸素ボンベ…持ってくりゃ…良かった…。」
ゼーゼーヒューヒューと喘息みたいな呼吸をしながら三人は扉の前に立つ。
当然ながらドアは開かない。
ましてや停電しているのでカードを盗んでも開かなくなってるのだ。
『どうしましょう?考えたら突破口を思い付いてませんわ。』
闇雲に来た代償にラビは謝るもケビンは責めずに左手に火の玉を生み出す。
「諦めるなよラビ、開かないなら壊すだけだ。」
火の玉が弓に代わり、扉から数歩離れると右手から青と赤が混ざった不思議な色の炎が揺らめく。
その炎を瞬時に一本の矢にすると弓の弦に引っ掛け、引き絞った。
「吹き飛べ…。」
舌打ち混じりの一言と同時に矢が放たれた。
矢は赤と青の不死鳥になり、扉に命中すると大爆発を引き起こした。
凄まじい轟音で建物全体が揺れる。
やがて煙と振動が落ち着くと目の前の扉は無惨にも破壊され、パックリと開けた穴から何かしらの機械が見えた。
「…なんだありゃ。」
ケビンは扉の瓦礫を避けて中に入る。
室内には緑色の液体が浸かった太い試験管が柱のように並べられ、至る所に置かれた机にはレポートや薬品の瓶が丁寧に整理されている。
それに試験管の液体には赤茶色の塊やら細長い尾のような物が垂れ下がったメロンパンもどきやら得体の知れない物がホルマリン漬けみたいに浸かっている。
先程見た機械の正体は部屋の奥に設置された大型のコンピューターの操作盤だ。
『ここは…フェイク専用の研究室です。他の研究者が立ち入るのは原則禁止されてるので…中の構造は機密事項になっているんです。』
ラビは懐かしむように部屋を眺めながらコンピューターの操作盤に飛び乗る。
その目線はかつての自分が入れられていた試験管に釘付けになっていた。
「じゃあ…ここでキラービーストの開発が?」
『そうです。私はこの中で…ひたすら外を見つめる日々を送ってきました。時々聞こえてくる猛獣の叫びに怯えながら…ひたすら…!』
トラウマが蘇ってきたのか頭を抑えて震え出したラビをケビンが慰める。
「この試験管の中にあるの…差し詰め脳とか心臓だな。これがコロシアムとやらで負けた動物の物なら…もうえげつないレベル超えてるぞ。」
物体の形状を確認しながら呟くリュウガの側でキドマルは嗚咽を堪える。
―ラビも下手したらこんな姿になってたかもと想像しながら。
『本当は…入るのが恐かったんです。でもこの部屋をどうしても…貴方達に見せたくて。』
謝ろうと腰を上げたらふとコンピューターの画面がホワーンと起動して青白く光った。
「あ、あれ?勝手に付きましたよ?」
ケビンが慌てて見るとラビの後ろ足がキーボードのボタンを押していた。
どうやらその拍子に電源が入ったのだろう。
「…好都合だな。破壊記念に奴の研究成果を覗かせて貰おうか。」
ケビンは操作する感覚でキーボードの真ん中に仁王立ちする。
ディスプレイにはお決まりのパターンとしてパスワードの入力欄が表示されていた。
「ラビ、分かるか?」
『…ラブ…LOVE&PEACEです。』
試験管の向こうを洗い浚い見て育ったラビは薬の名前からコンピューターのパスワードまで全て知っているのでこんなのは朝飯前だ。
愛と平和…ミステシアが引用するには相応しくないパスワードを入力するとハードが読み込まれて画像が切り替わった。
画像はオフィスのパソコンのように幾つものアイコンが等間隔で並べられたシンプルな物だ。
普通のパソコンと違ってマウスが無いがケビンは矢印のキーとエンターキーを使ってフォルダを漁り始めた。
すると画面の一番下の隅に《DIARY.P》なるフォルダを見つけ、キーを叩いてそれを開いた。
フォルダには日記らしき文書が何個も区分されており、保存された日付は殆どが二年前の物だ。
二年前といえばラビが研究所を脱走してクラウンセントラルに流れ着いた時であり、ケビンは小さな違和感を抱きながら一番古い日記を開いた。
《今度こそこれが最後のチャンスだ。一体何回これが最後のチャンスだと言ってきたのだろう?毎回毎回このプランを実行する度に私はこんな事を言ってきた。その度に沢山の肉塊が出て廃棄処分に困ってしまう。内蔵こそ再利用出来るがそうなると同じサンプルしか産まれなくなってしまう。それでは駄目だ。より強力な生物にしなければ組織の戦力は大きく下がる。だから私はこのプランに培ってきた全てを注ごうと思う。》
そこで文章が終わり、続いて二つ目の日記を開く。
《捕獲チームが実験体を連れてきた。とある野山で罠に引っ掛かっていた兎だ。これまでの肉塊は全て爬虫類や鳥類、両生類が主なので私は思った。人間もある意味では哺乳類の一種、これなら結合出来る確信が生まれていた。元々人間は猿から進化した生き物、哺乳類の軌跡から辿れば大きな一歩となる。早速明日から実験に移ろう。》
三個目の日記はこうだ。
《一回目の適合試験が終了した。いつも通り二十四時間監視で様子を見たが副作用は起きていない。やはり哺乳類同士の遺伝子は素晴らしい。これなら成功するだろう。この日は捕獲チームから警戒報告があり、国際警察が近く動き出すという。予定を早める必要があるだろう。》
―四個目の日記。
《モデルチェンジに行き詰まり、諜報班から資料を提供して貰った。その中に世界の幻獣図鑑たる分厚い本があり、そこにアルミラージという兎の幻獣が載せられていた。これだ、一角獣たるこの姿なら愚かな人間が絶望するのは間違い無い。早速奴の海馬にこの画像を認証させよう。そうすれば何もしなくても自然と生まれ変わるからだ。》
ケビンの予感は当たっていた。
この日記はラビ…PX-07の製造記録だと。
だがまだ確信が書かれていないので続けて読む。
《本日三回目の適合試験が完了。未だ奴の体に変化は無い。やはり少量ずつ入れても直ぐには言葉を話さないのだろう。外観も元のままだ。だが焦ると何が起こるか分からない、引き続き粘るしかないだろう。》
《餌上げでケージを開けた職員が怪我をしたとの報告。直ちに医療班を呼び寄せ、応急処置と奴への電気ショックを命じた。するとショックで大人しくなってから徐々に体色が変化したとの知らせが届いた。確認したら奴の体毛が白から金色に変わっている。アルミラージの角も完璧に生えている。やったぞ!まずは第一関門突破だ。》
《五回目の適合試験、この時点でウー、アー、と奇声を発するようになっていた。人間で例えるなら赤ん坊と同じ時期だろう。言葉を口にするのも恐らく近い。引き続き観察が必要だ。》
《早朝、アルミラージが初めてオハヨウと口にした。私は天にも登る位の嬉しさが舞い上がった。だが問題はここからだ。今日から培養液のプラントに隔離して細胞の増殖を試みる。これに耐えてくれれば私の長年の苦労も報われるのだ。》
《昨日、そして今日とアルミラージがプラントの水槽を破壊する勢いで暴れ始めた。電気ショックで抑えても時間が経つとまた起きてしまう。何回もショックをやれば体に抵抗が付くので歯止めが聞かなくなる。次からは酸素量を一時的に減らすのも検討しよう。》
【8】
深く掘れば掘る程に出てくるのは狂気に満ちたフェイクの自慢話だ。
背筋が凍えそうだがケビンは肩唾を飲んで日記を更に進める。
《アルミラージという名前もそろそろ潮時だ。改めてコードネームを名付けよう。現時点では私の思惑通り…このまま成功出来るのを祈願した名前を送ろうと思う。人間と獣の混合種、PERSON XROSSOVER…そこにラッキーセブンを追加してそう…PX-07と。》
日記を閉じようとしたケビンの指が止まった。
遂に出てきたのだ。
忌まわしき…人との結合種との名前が。
『ケビン様構いません…続けて下さい。』
ラビは読むのを止めないで欲しいと訴え、ケビンは静かに次の日記を開く。
《職員の声をテープで録音し、PX-07に電気信号で伝える実験が開始された。上手くいけば奴の言葉は大人以上になる。同時に知能の発達にもなるので益々期待が出来そうだ。》
《細胞の数が増加している。しかも子供のように辺りをキョロキョロ伺う姿も見せてきた。どうやらこの様子なら実験成功は目前だろう。プラントの中で浮かぶコイツを見るのはなんとも気持ちが良い。》
《次のステップ、肉体強化の提案が出された。人間の知能があるなら余計な改造は無用だ。下手に力を加えるなら…本物の人間に改造すれば良い話だ。まずは筋肉を倍増させるのが手っ取り早い、電気治療での強化で様子を伺う事にする。》
《最近貴公子が研究所に顔を出すようになった。私の留守を利用してPX-07に接触しているらしい。けしからん事態だ。奴に余計な事を吹き込まれれば私の努力は水の泡になる。暗殺部隊を呼び寄せて警備させる必要がありそうだ。》
《PXの体温が45℃まで上昇、医療班に解熱剤を投与させて貰う。同時に細胞の一部が悪性化してる傾向を確認、再結合させて二十四時間監視を行う。》
《食欲が低下、餌が残る日が目立った。経管栄養のチューブを挿入する。原因は不明、細胞が癌化しているかもしれないので採血も実施。》
《二日後に癌化が確認された。ただし結合で入れた物ではなく、元からPXの体内に残存していた動物の細胞だった。恐らく外から入った人間の細胞を異物と見て闘争本能が働いたのだろう。迂闊だった。》
《ドクターに相談し、癌化したのも含めてオリジナルの細胞の死滅治療が決まった。同時に血液の入れ換えも行うという。ただし脳や心臓はそのままではないといけない。そこは注意する。》
《手術が始まった。暴れるのを想定して朝から絶食させ、全身麻酔を掛けて眠らせた。動物を人間にするなどまさに神の領域か邪道なやり方と言われ、比喩される。だがこれは仕方の無い犠牲だ。何れ愚かな人間にも無理矢理理解させる時は来るのだから。》
《PXの麻酔が切れた。目の焦点は合わず、動く気配もない。これから二十四時間の酸素吸入を行い、経過を見ていく。》
《他の職員が私の噂をしているのを気にするようになった。もう時間がない、早く最終段階に漕ぎ着く必要がある。》
《感染症予防の為、滅菌室に移した。酸素吸入は終了、経管栄養と念押しの為に透析もやっておこうと思う。》
《筋力増強剤投与と電気治療を再開、ここまで体に異変は起きていない。峠は越えたそうだ。》
《根城から帰宅すると滅菌室が騒がしくなっていた。確認すると見知らぬ金髪の子供が暴れていた。これは奇跡だ。遂にPXは人間になれたのだ。素晴らしい、私は自分の研究に改めて酔いしれた。》
《検査の結果、PXの肉体はほぼ人間に近い状態になっている。私が目撃したあの姿も何かの拍子に自然と化ける物らしい。これなら実践投入は近い。脳改造の期日を早めておこう。》
《久し振りに貴公子が姿を見せた。私は手土産の酒に酔った勢いでPXを奴に見せた。貴公子はいつもと違って様子は暗く、PXを悲しげな目で見ていた。こんな男にも情はあるのかと感心していた。》
そして日記は急速に動きを見せていた。
《緊急事態が起きた。PXが脱走したと言うのだ。公務で席を外していた私が戻ると滅菌室は原型を留めておけない程に破壊されていた。一体何故?ここ数日は私に逆らう素振りも見せていない。何が起こったのだ?》
《諜報班に連絡し、ドックタグに取り付けた発信器の電波解析を頼んだ。しかし研究所の通気孔から抜け出して数キロで電波が途切れていた。どうやら処分されたらしい。おのれ何故だ?何故発信器の存在を知っているのだ?考えられるのは誰かが意図的に逃げるのを進めた事…尋問する必要があった。》
いよいよ最後の日記に辿り着いた。
不死鳥は怒りを抑えてキーを叩く。
《PXの生体反応が途絶えた。諜報班を確認に向かわせたが所在不明、生きているか死んでいるかも分からなくなった。最早奴の体内に動物的な獰猛さは無い、奴は半人間状態の化け物になっているからな。そのせいで寿命が縮まっていたとしても可笑しな話では無い。だが私は諦めなかった。人間の知能を持ったアイツは…必ず何処かで生き延びている。探索機器を強化させて探すしかない。奴は私の最高傑作、どんな手を使っても取り戻す必要があるからだ。だから待っていろよ、PXー07。》
それを最後に日記は書かれていない。
フェイクが心変わりしたのか、それとも実験対象が居なくなったので切り捨てたのか。
どっちにしても本人は辛い話だ。
ケビンはフォルダを閉じ、コンピューター本体をシャットダウンさせた。
真っ暗になったディスプレイを眺めてラビは何も言えなかった。
ある意味では黒歴史に近い自分の成長が全て綴られていたのだ。
全部の話が本当とは言い難いが…この日記だけでも強烈だ。
自分は体は勿論、細胞や血液すら弄られてどっち付かずの生物に改造されていたのだ。
人間とも動物とも言えない異形の存在…ビーストを超えたビースト。
自分は…文字通りの化け物なのだ。
無言を貫いていてラビは…背後に恐ろしい気配を感じた。
振り向かなくても分かった。
ケビンが背後で闘志を燃やしていると。
「ラビ…怒らねぇからそこ退いてくれ。」
彼の視線の先には…忌々しい記録が詰まったコンピューターがある。
それを見てラビは前足を開いて這いつくばる姿勢を取った。
『これを破壊すれば煙を感じて警報が鳴ります。そうなったらもう…逃げられませんよ?』
「上等だ。あの鬼畜眼鏡の顔面…好きなだけ殴られるならな。」
弓の先端を見せるとラビはそれを写した瞳を瞬きさせた。
この男は嘘を付く男では無い。
だから信じられると。
『分かりました。』
操作盤から降りるとタタタッと主の足元に向かう。
それを見届けた不死鳥は一本の矢を静かに用意した。
瞳を閉じた脳裏に浮かぶ男の顔を見て…その口を開きながら。
「…首洗って待ってろや、ゲス野郎。」
―この時、男の中では何かが目覚めていた。
卑劣極まりないその行為に怯え、震える自分の中で目覚めたもう一人の自分が。
ただ相手の血が飛び散るのを好む残虐なもう一人の自分が。
それは今まで周りが離れるのを必死に恐れ…隠してきた力が。
静かにモクモクと頭をもたげて来ようとは…まだ思い付かなかった。
【9】
所変わってクラウンセントラル。
テレビのニュースはセントラル支局の爆発事故の報道を繰り返しており、外に人は殆どいない。
二次被害を防止する為に不要不急の外出を避けて欲しいと警察が警告してきたので市民は自分の家や会社や学校に身を潜めていた。
幹線道路沿いに立つコルタスドックはこの事態では患者も来ないと判断し、《休診中》の札を掛けていた。
待合室のテレビではどこのチャンネルも同じニュースばかりやってるのでカリーナはつまらないとチャンネルをガチャガチャ切り替えていた。
「お~い、歌番組やってないのか?」
「駄目ね。ラジオもテレビも皆統一されてて面白くないわ。」
なんか聞き飽きてくると遂にはテレビの電源を落とすとカリーナは長椅子にもたれて首だけを後ろに反らした。
「ダーリンどうするの?」
「どうするたって…大人しくしてるしかないだろ。」
デパートもコンビニも機能していないので買い出しも出来ず、何も起こらない。
これじゃあ引き籠もりやニートと同じだなと思っていたらコーヒーの香りがした。
「先生、景気付けにどうぞ。」
ヨシノが勝手知ったるコルタス家のキッチンでコーヒーを湧かしていたのだ。
コルタス夫婦もサクラヅカ親子のアパートには自宅同然で出入りしているので文句は言わず、素直にコーヒーを受け取る。
「ヨシノさん、寝て無くて大丈夫?」
「平気よ。少し楽になったから。」
ヨシノは病衣に着替え、カリーナのカーディガンを羽織っていた。
息子が帰宅しないのを心配して飛び出したは良いが持病に襲われ、この状態になっているのだ。
本当なら安静にした方が良いが本人は平気だと意地を張っていた。
「キドに比べれば…私の体なんか大した事ないもの。だから元気でいてあげなくちゃ。」
「…そうだな。」
砂糖もミルクも入っていない黒い液体を啜ってファマドはふと思った。
「なぁヨッちゃん。今更なんだけどさ…。」
カチャリと陶器のカップを優しく置いてファマドはヨシノに振り向く。
「どうしてキドが旅に出る事反対しないんだ?俺はてっきりそう言うかなって思ってたんだが…。」
母一人息子一人の家庭、しかも親が病弱なのが原因でキドマルは幼い頃から苦労してきた。
本来なら学校に通わないといけないのにそれも切り捨て、ただ母親を養っている少年。
当然居なくなれば自分の世話は自分でやらなければならなくなるが…果たして本当なのか真実が知りたかった。
「私はあの子から何もかも奪ってきたの。勉強する事も…友達を作る事も。このまま閉じ込めてたらあの子は何も与えられず…誰にも会えずに大人になってしまうの。そうしたら何があるか分からないから…だから行かしてあげたいの。」
彼女らしいもっともな意見にカリーナもそうねと同情する。
「私もリュウに関して同じ事言えるわね。まぁウチの場合はダーリンが提案したんだけどね。」
「…おい。」
コイツ余計な事をと呟きながらコーヒーを飲んでファマドは本心では納得していた。
思えば自分は…リュウガを強引に跡取りにさせようと決めて色々な事を教えてきた。
言い換えれば自分がやってきたのは子育てでは無い…洗脳なのだ。
自分に化けさせる為に…自分その物にさせる為に洗脳してきたと言っても過言では無い。
だからヨシノの考えに反対は出来なかった。
「確かに生きて戻ってこないのは分かってる。でもそんな理由で引き止めたらもっと可哀想になるの。それに私信じてるから。キドは強い子だから、側に居なくても大丈夫だって。」
「まぁケビン君が付いてるしね。変な事吹き込まない限り大丈夫よきっと。」
そこまで言って笑う妻を横目にファマドは少し悩んでいた。
あの事を告げても良いのかと。
告げれば疑われるのは分かってる。
だが彼の内面を知る人間はこの先必ず現れる。
それならばとファマドは咳払いした。
「カリーナ、ヨッちゃん、良いか?」
「なぁに先生?そんな改まって。」
「どうしたのダーリン?てか顔が物凄い真剣なんだけど一体どうしたの?」
二人が振り向くのを待ってファマドは俯き加減に口を開いた。
「実は大事な話があるんだ。昔…死んだ親父から聞かされた話なんだけどな…。」
読み込んできた資料の内容を思い出しながら彼は話始めた。
あの男と同じ名前の…伝説とも言える一人の人間の軌跡を。
「…え?本当なのそれ?」
「確実とは言えないが本当だ。実際本にも載ってるからな。」
「それで今は?」
「なんでも二十年前に死んだらしい。住んでいた豪邸が火事になって逃げ遅れたみたいなんだ。放火か火の不始末かも分かってなくてよ、捜査しようにも既に時効になってるんだ。」
大雑把に纏めて話終えると二人の母親は信じられないと口を揃えた。
同時に不安だった。
愛する我が子が…その人物の末裔とも呼べる男と共にいる事を。
「でも俺思ったんだ。いち、いや百歩譲ってもアイツは堕ちたりしないって。この先自分の体に異変が起きても…受け入れてくれると信じてるんだ。」
自分は医者であって占い師や予言者ではない。
外れるリスクも考えていた。
それでも賭けたいのだ。
彼の成長に。
「あんなに瞳の優しい人間には見た事も出会った事も無いんだ。それに偽りならリュウが近寄ったりなんかしない。それで思い付いたんだ。」
黒いコーヒーの水面に自分の顔を写しながらファマドが呟くとヨシノもそうかもしれないと同情した。
「先生の言ってる事分かるわ。だってキドが先生以外の人にあんなに懐くの初めてだもの。先生がそれに賭けるなら…私も賭けるわ。」
カリーナはここまで来たら自分の出る幕では無いと敢えて何も言わずに頷く素振りだけ見せていた。
なら大人しく待ってようと決めたその瞬間、ドーンと大きな音が聞こえた。
自動ドアのガラスが微かにビリビリしてファマドは立ち上がる。
「カリーナ、テレビ付けろ。」
「う、うん。」
自動ドアの向こうから外を見ると遠くの方でまたドーンと音がした。
爆弾が爆発したような音なのでまた何処かの建物が狙われているのかと思った。
祖父の代から大切にされてきたこの家も標的になってるなら恐ろしいが背に腹は変えられない。
逃げる準備を急ぐ必要があった。
「ギルク…。」
首に引っ掛けた聴診器のチェストピースを握り、冷たい金属の中に彼と同じ熱を滾らせる。
《早死になるんじゃねえぞ。俺はまだ…お前に聞きたい事が沢山あるんだからな。》
だから絶対に戻ってこいと念じてファマドは目を閉じた。
業火の中に佇む…一人の人間のシルエットを浮かべながら…。




