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エレメントバトリッシュ  作者: 越後雪乃
~第四幕・微かな絆に集いし七人の戦士~
19/34

走れ雷よ!虎少年キドマルと人間兎のラビ

【1】

大都会のビルとビルの間から太陽が顔を出す。

薄暗いセントラルの空は太陽の光で薄い金色に染まり、街に1日の始まりを教える。

小鳥が窓枠に止まってチュンチュンと囀ずるとその小さな囁きを聞いた不死鳥は布団の中で蠢いた。

簡素なベッドのゴワつきと腹部の圧迫感で寝づらくなり、自然と目が覚める。

パラリと薄い布団を捲ると微かに消毒薬の臭いが鼻に付く。

「…。」


寝癖を直しながら見回すと他のベッドは既にもぬけの空になっている。

どうやら自分だけ寝過ぎたようだ。

「…いっつ。」

ズキンと脇腹の傷が痛んで顔を顰めていたら扉が開いた。

「あっ!パパおはよぉ~!」

天使のような元気な声に顔を上げるとマナが駆け足でベッドに向かってくる。

ただ勢いを付け過ぎたのか、ケビンにダイブする寸前でベチャッと盛大にずっこけた。

「おいおい、朝から騒がしいな…。」


起こしに来てくれたのは嬉しいが足元は気を付けてくれと教えるべきだったか。

そんな事を考えていたらマナが顔を上げた。

怪我はしていないがかなりの衝撃が走ったのだろう、顔は真っ赤になってポロポロと涙を溢している。

「ふぇええ~ん…パパぁ…。」

「だったら走るなよ。全く怪我人に世話掛けさせやがって…。」

もうどっちが怪我人なのか分からないとケビンはヤレヤレといった顔になる。

でもその口元はどこか嬉しそうだ。

「ほら、立ってここまでおいで。パパはまだ無理出来ないんだから。」


ケビンは傷口を防護しながら方向転換してベッドに腰掛ける姿勢を取る。

マナはあうあう言うがケビンは断固としてそこから動かなかった。

「グスン…パパぁ…ヒック…。」

「ダ~メ。自分で転んだから自分で立つのは当たり前だろ。ゆっくりでも良いからおいで。」

マナはボロボロ泣き続けるも父親の顔が真剣なのを見て堪忍したのか、ヨロヨロと手を床に付いて立とうとした。

足元はフラフラしてるがしっかりと踏ん張って左足が擦れるように前に出る。

「大丈夫だよ。パパここで待ってるから。」


受け止められるように両手を前に出しながらケビンは応援する。

マナと自分の間に空いた距離はたったの1メートル弱だ。

でもその1メートルすらもマナにとってはかなり遠い道のりだと見えてしまっていた。

少しでも縮めようとマナは右と左と足を交互に動かして着実に近寄ってきた。

ズリズリと引き摺る音だけがしてマナの体はケビンが手を少し伸ばせば届く位置まで来ている。

そして向かってきた小さな手が落ちそうになるタイミングでケビンはそれをしっかりと握り、マナは膝の前でぶつかって止まった。

「おぉ~、良い子だなぁ。ちゃんと来れて偉いぞ。」


ケビンの大きな手が小さな頭を撫でてよいしょと抱っこした。

マナは予想通りギャン泣きし、後ろ頭をポスポスして宥める。

だが圧迫感を与えて脇腹が少し痛み、顔が歪むのを見たマナが病衣の肩回りを掴んだ。

「パパお腹大丈夫?痛くない?」

「あぁ、昨日に比べれば随分楽だ。まだちょっとズキズキするけどな。」

そのままの姿勢でケビンは窓辺に立ち、ガラス戸を1枚開けた。

爽やかな風が籠もりきった部屋の空気を浄化していく。

「マナ~、パパ起きた…ってあれ?」

「よぉ、どうやら俺寝坊したみたいだな。」


マナの後を付けてきたのか、エルザが開けっ放しの扉から姿を見せる。

髪型はいつものポニーテールではなく、寝る時のアップのままだ。

「ケビン大丈夫?そんな力入る格好してて。」

「いつまでも寝たきりだと治る傷も治らないだろ。これは俺流のリハビリだ。」

「もう…そう言って直ぐまた無茶するんだから。」

呆れ顔で部屋に入るとエルザはケビンの真横に立つ。

そのまま細い右腕を背中に回した。

「でも…本当に良かった。」

「ん?」

「このまま助からないってなったら私…何しでかすか分からなかったから。」



【2】

手が背中から腰へと下がり、病衣越しに包帯を触る。

「…昨日は迷惑掛けて悪かったな。」

そのお詫びの言葉にエルザは首を横に振る。

「私もう怒ってないよ。流石に駄目かもしれないって覚悟はしてたけどね…。」

朝日に光るエメラルドの瞳が自分を優しく見てケビンも目を赤く染める。

思えばガイズタウンからここに来るまでこんなにのんびりした事は無い。

それを考えるなら…やっぱり神様が罰を与えたかもとケビンは思った。

「…エルザ。」

「何?」

「実は…お前にどうしても頼みたい事があるんだ。」


緋色の瞳がエルザの緑色の瞳に吸い込まれる。

「退院したらさ…俺とデートしてくれないか?今まで振り回して来た詫びとして…。」

「何それ?もしかして死亡フラグでも立てる気なの?」

そんな筈はと答える前にエルザはケビンの両頬に手を当てた。

「言われなくても…私も同じ事考えてた。」

「…マジ?ホント?」

「ここ最近…ケビンにばっか負担掛けさせたから…ちょっとでも楽させたいの。良いわよね?」

言われなくてもと互いにキスするとマナが母親に振り向いた。

「…良いなぁ。」

「あら?どうしたの?」

「パパとママばっかり楽しそうで…。」


一緒にいるのに置いてけぼりを喰らって寂しがるマナの様子にエルザは優しく笑って前髪を流す。

「あらら?もしかしてママに嫉妬しちゃった?」

「…うん。」

それを見てケビンは寂しく呟く我が子を床に下ろす。

そこからマナは母親の腰回りに顔を埋めた。

「じゃあマナも入れて3人でデートしよっか。ね?」

「えっ?良いの?」

ツインテールを引っ張られる位に上下に揺らしてマナが顔を上げる。

「でもマナが一緒だと邪魔じゃないの?」

「そんな事無いわよ。2人より3人の方が楽しいし、マナが行きたい所あったら連れて行ってあげる。」


屈んで頭を撫でてくれる母親を見つめてマナは自分の両手の指を絡ませる。

「じゃあね…。」

「うん。」

「マナ…新しい服買いたいの。あとパンケーキとアイス食べたいし…プリクラも撮りたいし…。」

あれもこれもと色々言いながら最後にはこんな事を言い出した。

「マナ…パパとママと手繋いで歩きたいの。」

自分の両手を繋いでマナは泣きそうにそう呟いた。

それを聞いてケビンはマナのある姿を思い出していた。

―まだエルザが仲間になる前、サンサシティを観光している際にマナはある光景を目撃して落ち込んでいる事があった。

彼女が見ていたモノ…それは両親に手を繋がれて道を歩く子供の姿だった。


自分はあまり気にしていないがマナがそれを見て俯いていたのは鮮明に覚えている。

同時に声を掛けてやれなかったと今では後悔していた。

親と手を繋いで歩く…一見するとごく普通の光景が親の居ない子供にとってどんなに羨ましい物なのかはケビンも熟知していた。

「分かった、じゃあパパが元気になったら絶対にしてあげる。パパも良いよね?」

「…な~んか強制的だけどお前に嫌われるのは御免だ。」

要は自分も構わないと遠回しに言ってマナの背後から両手を入れ、お腹を抱える。

「それにここ最近バタバタしてたしな…マナにも構ってあげられなかったから丁度良かったな。」

「なら決まりね。じゃあ大人しくしてないと駄目よ。」


いちいち一言多いと念じつつも笑っていたらコンコンと壁か扉をノックする音がした。

「ハ~イ、お元気そうで何よりね。」

エルザとは真逆の金髪の女性がストローを差した紙コップを持って入ってくる。

「おはようございますカリーナさん。」

「おはようケビン君、調子はどう?」

ケビンは腹部を摩って首を傾げる。

「激痛とかは無いんですけど…妙にチクチクする感じが…。」

「まぁ傷口疼くのは当たり前よ。ダーリンの治療って少し荒っぽい所あるから。それでも治りが早いから皆頼ってくるしね。」


ファマドの仕事を一番間近で見ているだけあって正論を告げながらケビンにストローを突っ込んだコップを渡す。

「朝ご飯用意したけど食べる?もし食欲無いならこれだけでも良いから飲んで。」

じゃあ遠慮無くと言ってストローに口を付けるとドロッとした液体が吸い上げられてきた。

果実入りの青汁みたいな爽やかさ、それでいて濃い牛乳みたいな喉越しの飲み物だ。

「…なんすかコレ?」

「カリーナ様お手製・リンゴと豆乳のスムージーよ。匂いが少し癖だけど慣れると病み付きになるから。」


自慢げにドヤ顔するカリーナにケビンは二口程飲んでコップを振った。

「どう?ご感想は?」

「…スムージーって苦いイメージあるから嫌いなんだが…これいけますね。」

「まぁ苦いのは野菜だけ使った物だからね。果物と牛乳使うとデザートみたいに滑らかになって飲みやすいから。」

また啜ると確かにドロドロの中に甘酸っぱさを感じてケビンはほぉ~と関心していた。

「なんか何杯飲んでも飽きなさそうだな。」

「あら本当?気に入ったならまた作ってあげるわね。」

「あぁ、どうせなら今度は嫁さんが作ったのが飲みたい気分だ。」


お世辞を付け加えると余計な事言うなと耳を引っ張られ、それを見てカリーナはクスクス笑った。

「この様子なら大丈夫そうね。私とダーリンこれから仕事あるから後はリュウに居て貰うね。」

「いいんですか?アイツ助手やってんだろ?」

空になったコップを返却すると母親は首を左右に振る。

「良いのよ。ダーリンにブラック労働されてるから少し休ませてあげたいの。それにリュウだって貴方の事気にして仕事処じゃ無くなるし、一緒にいると楽しそうだし…。」


最後の言葉が酷く寂しそうな響きに聞こえてエルザが眉を顰める。

「あぁゴメンね。あの子進学出来なかった時期に近所の人がヒソヒソしてるの聞いて今でも根に持ってるの。それ以来…周りの声気にするようになっちゃったから。」

小さくうずくまる息子の背中を思い出してカリーナはケビンを見つめる。

「ケビン君…私からこんな事言うのもなんだけどお願いね、リュウの事。」

それだけ、じゃあねとカリーナは今の言葉は忘れてくれとばかりに部屋を飛び出して行った。



【3】

太陽が東に昇り、街がいつもの日常を始めた時間。

コルタスドック付近は始業時間前から数人の患者がうろついていた。

見かねたカリーナはいつもより早めに正面扉の鍵を開け、患者を中に通していた。

「おはようございます。」

「おはようさん。昨日はどうしたの?急に休診にしちゃって。」

初老の男性数人が診察券を見せながら尋ねてくる。

「ごめんね。リュウが怪我人連れてきたのよ。かなり重傷だったから。」

「なんだまたか。リュウちゃんも変わらないね。」

「でもまぁリュウちゃんなら仕方ないね。前は歩道で心臓マッサージしてたし。」

「俺が見た時は大人2人おんぶしてたぜ。普通の医者でもあんな芸当はしないのになぁ。」


診察に来たのも忘れて受付で談笑する患者達。

ここの常連はリュウガの人柄を誰よりも良く知っている。

故に昨日みたいにリュウガが怪我人を見つけて運んだりその場で応急処置する姿を度々目撃していた。

「で?今度の怪我人はもう治ったのか?」

「ううん、まだ居座ってるわよ。だからリュウが付き添ってるの。」

「へぇ~珍しいね、今まではそんな事無かったのに。」

ワイワイと飛び交う噂は奥には聞こえなくても人には伝わる物だ。

受付から随分離れた病室では「ヘーックシュン!」と豪快なクシャミが響いた。

「どうしたヤング?風邪引いたか?」

「いや、そのクシャミは噂話されてる証拠やな。誰や?お袋さんか?」


病室でケビンの血圧を測定していたリュウガは鼻の下を擦って首を横に振る。

「多分ウチに良く来る患者連中だよ。オバサンみたいに人の噂するの好きだから。」

「マジか、女って人の欲を隅から隅まで洗い浚い知り尽くしてる生きも…おわぁっ!」

プラスチック製の洗面器で頭部を殴られたジャッキーが床に間接キスをする。

「アンタ…次言ったら容赦しないよ。」

「いやだからって洗面器はちょっ…待て待て姐さん!流石にそれは駄目だって!」

エルザが切れ味鋭いメスを手にしているのを見てジャッキーは慌てて制止させる。


カッターナイフでさえ使い方を誤れば人の命を奪う凶器になる時代、メスで人を斬り殺すのは珍しくない。

しかも医療施設で殺人事件はヤバイと止めるとエルザも溜め息交じりにメスを置いた。

そのやり取りを眺めるリュウガの瞳が違う事にガデフが察する。

「リュウちゃん…なんか嬉しそうやな。」

「え?」

「自覚してないんか?お前…ケビンと話してる時目が物凄いキラッキラしとるんやぞ。その瞳、普通なら喜んでるって誰しもが思う証拠や。」


デジタル式の血圧計がピピッと鳴り、数値を記録しながらリュウガは答えた。

「…おっちゃんの言う通りだよ。俺ケビンさん達が羨ましいんだ。」

「リュウちゃん…。」

「端から見れば馬鹿馬鹿しくてアホな奴らだと思うけど…見直すとどこかで繋がっている、そんな感じがするんだ。」

血圧計を仕舞いながらリュウガは椅子から立ち上がった。

そのまま数歩進んで窓のサッシに手を置く。

「でも怖いんだ。その輪の中に入りたいけど入れない自分の弱さが。手を伸ばしても決して掴めないその繋がりに触れられない自分が…。」


窓の向こうに広がる空を眺めてリュウガの瞳がオレンジ色に変色していく。

このガラス戸を一枚開ければ行けれる世界なのに…どこか遠い場所に思えてしまうのだ。

「…リュウ。」

ガラス戸に写る男を見つめてリュウガは振り向かずに目を瞑る。

「でも俺…この街が好きなんだ。それに俺が居なくなると親父1人で手一杯になるし…うん…仕方ねぇよ。こっから逃げ出すなんて不可能なんだからさ。」


言い訳がましく笑いながらリュウガはカーテンを閉めた。

それはこの空を憎んで入り口を閉ざす行いにも見えた。

カーテンの裾を弄りながら溜め息を付くとふと部屋の扉に向かう。

「何処行くんだ?」

「迎えだよ。ヨシノさんもう来てると思うから。」

「ヨシノさん?」

「昨日話してた弟のお母さんだよ。診察終わったら紹介してあげるから。」

そう言ってリュウガは病室を出ると受付まで向かった。


待合室には未だ数人の患者が詰め掛け、入り口からも引っ切り無しに人が出入りしている。

「あらリュウ?どうしたの?」

突然現れた息子の姿に振り向いた母親は驚く。

「…ヨシノさん来てる?」

「もうすぐだと思うけど…。」

カリーナが言った直後、診療所の入り口が開いた。

「おはようございます。」

慣れ親しんだ声にカリーナの顔が明るくなった。

「あらヨシノさんおはよう、丁度今話してた所よ。貴方の事。」

「あら本当?珍しいわね。」


少し赤染めした栗毛を後ろで結んだ落ち着いた感じの女性が診察券をカウンターの上に置く。

その手前からは女性の腰辺り位の身長の少年がひょっこりと顔を出した。

「カリーナさんおはよう。」

「あらおはようキド、元気?」

呼ばれた少年は頷いて受付の横を無断で素通りする。

普通の患者ならこの場で止められるがカリーナは気にせずに奥へ通した。

「キド。」

「おはよリュウ兄。」

待ち構えていた金髪の青年に少年は嬉しそうに抱き着く。


マナより少し年上で顔が腰辺りまで来そうな小柄な少年はリュウガの服に鼻を沈めた。

「お前が来るの待ってたぜ。実は頼みがあってな…。」

「頼み?」

いつになく余所余所しい兄貴分の姿を少年は不思議そうに見つめる。

「昨日怪我人連れて来たんだよ。その人が感じの良い人でさ、お前にも紹介してあげようってウズウズしてたんだ。どうだ?」

「へぇ~、リュウ兄が見知らぬ人を気に入るなんて初めてだね。僕も会いたいな。」

「だろ?今案内するよ。」


リュウガは静かに見守る母親に会釈して少年を奥に招き入れた。

見守る母親はカリーナに囁く。

「なんかリュウちゃん…目がキラキラしてるわね。なんか良い事でもあったの?」

「えぇ、今のあの子…人生で最高の気分に浸ってるの。その人のお陰でね。」

母親2人の噂も余所にリュウガは弟を病室の前まで連れてきていた。

まずリュウガが扉を少し開けて片目を覗かせる。

「ケビンさん、連れてきたよ。」

「あぁ。」

そこから扉を開けると少年はお邪魔しますと部屋に入る。

「初めまして僕…あれ?」

「…お前は。」


リュウガを除く全員が互いを凝視して硬直した。

まるで…“前にも一度お会いしました”的な雰囲気のように。

「…ケビンさん?」

「まさか…お前が弟?」

「え?もしかして…まさか…。」

ケビンらの目に写った少年の姿は…黒の短髪。

見間違える筈無かった。

―ケビンの負傷のキッカケともなるべき存在になった…あの少年だったのだ。



【3】

全く同じタイミングで診察室でもファマドを驚かせる事態が起きていた。

「…本当かそれ?」

「はい…ほんの一瞬だけなんだけど。」

ヨシノに採決前の消毒を施していた手が思わず止まった。

昨日、彼女の息子が遭遇した出来事の話を聞かされて伝えて良いのか迷っていた。

―買い物帰りの息子が路地裏で男に脅迫され、偶然通り掛かった子連れの旅人に助けられたと。

まさかと思ったファマドはディスポの注射器を袋から取り出して目を瞑った。

「ヨッちゃん…こんな事話したくないんだが…その男多分、リュウの連れてきた怪我人だ。」

「えっ!?」

「脇腹をナイフで刺されたんだよ。んで全治一週間だ。」


そんなとヨシノの顔が青ざめる。

―息子の命の恩人がそんな目に会ってしまったなんてと。

「しかも刺した男はまだ見つかっていないそうだ。次に遭遇したら危ないかもな。」

白い腕の間接に注射を刺して血液を抜くとガーゼで針の痕を押さえ付ける。

「だからってキドの事は責めるな。本人が一番辛いんだからよ。」

「…そうね。」

ヨシノは思い当たる節があるように俯く。

「昨日帰ってきた時も元気無かったの。どうしたの?って聞いても何も言わないから…そっとしといてあげたんだけどね…。」


或いはもっと深く踏み込んでれば少しは慰められたと思うと胸が張り裂けそうだった。

「それで…彼は?」

「大した男だよ。死んでも可笑しく無い傷なのに平然と生き返ったんだ。俺も長年医者やってるけど…あんな患者は初めてだぜ。」

子を思う親心とはまさにこの事だろう。

二人と全く同じ会話の内容を聞かされたリュウガは床が壊れる程に手を付いて頭を下げていた。

「ケビンさん済まねぇ!まさかアンタが弟を助けてくれてたなんて…俺はなんて礼を言って良いのか…!」


ガンガンと額をぶつける音がして少年は止めてよと隣でウロウロするばかりだ。

「別に特別じゃないだろ。でもまさか…その子がリュウと繋がってなんて驚きだな。」

「特別とか関係ねえ!もしアンタ達があの時すれ違わなくて…代わりにキドが刺されたと思うと俺は…!自分を捨ててまでソイツを半殺しにしていたに違いないんだ!だからアンタは命の恩人…いや奇跡の人だ!本当にありがとう!」

リュウガはありがとうを連呼しながら顔を上げる。

何度もぶつけた額は内出血で青紫になってとても痛々しい。

「弟を助けてくれた縁だ!ケビンさん…俺は…俺は狂いそうな程アンタに惚れちまったんだ!頼む!これからはアンタを“兄貴”と呼ばせてくれ!」

「お、おい待てリュウ…そんなトントン拍子に言われても」

「いいや!誰になんと言われようがこれだけは譲れねぇ!アンタみたいな良心の塊みたいな人間には出会えた事が無いんだ!一生のお願いだ!頼むよ兄貴!」


這いつくばってケビンの足にしがみつくリュウガの姿に周りはどうしていいか分からない。

弟分の少年も今まで見た事無い彼の姿勢に戸惑うばかりだ。

「分かったから落ち着け。その子もリアクションに困ってるだろ。」

指差した先に呆然とする弟を見つめてリュウガはそうだったと咳き込んで立ち上がる。

「…で?話を改めると…その子が自慢の」

「あぁ…この子はキド、キドマル・サクラヅカだ。」

ペコリとお辞儀する少年は礼儀正しく、その肩を掴む青年は荒々しくて好奇心旺盛。

これだけ見ると位置が真逆なのでは疑ってしまう。

「…えっと、その…貴方は…?」

「…ケビン・ギルクだ。」

「そう…ケビンさん…。」


少年はオドオドしながら唇を噛み締めて頭を下げた。

「ゴメンなさい!僕が警察の人に知らせてれば…こんな事にならなかったのに…!」

シャツの裾を握り、少年は奥歯を噛み締める。

昨日から悔やんできた思いが込み上げて涙が出そうだ。

「僕があんな真似したせいで…それを思うと…僕は…!」

瞼が熱くなり始めたその時、ポスンと頭のてっぺんが重くなった。

不意に見上げるとケビンが自分の真正面にしゃがんで頭を撫でている。

「もういい、それ以上自分を責めるな。」

「え?」

「いつまでも過ぎた事悔やんでも仕方無いだろ。それにお前のお陰で俺達はリュウガやファマド先生に出会えたんだ。ある意味でお前は…俺に奇跡をくれたんだよ。」


ニヤけながらケビンはおいでとキドマルを抱き寄せた。

―母親でも兄でも無い…知り合ったばかりの男。

でも不思議と恐怖等の感情は湧いてこなかった。

「でも良かった…お前ちゃんと家に帰れてたんだな。それならもう安心だ。」

「ケビン…さん…。」

心臓がバクバクして…喉の奥がヒリヒリして言葉に詰まる。

それを振り絞ってキドマルは口を開いた。

「恨んで無いんですか…?僕の事を…!?」

「…お前を恨み殺した所で何も残らねぇよ。俺はお前みたいな子供を目の前で失うのが一番恐いんだ。だからお前は生きろ。まだ人生始まったばっかだろ、この先また悲しい事が沢山待ち受けてるんだ。こんな所で足踏みするな、そして前見て進めば良い。」


後ろ頭と背中を大きな手で撫でられて少年の瞳から透明な雫が流れる。

半分怒られる覚悟でいた分、反動が大き過ぎて脳が対処仕切れないのだ。

「…良い子だなお前、俺の思ってた通りだ。」

病衣の裾で涙を拭いてやろうとしたら腰が捻れたのか、激痛が走った。

「…イッテテ。」

「兄貴、力むような事すると駄目だって。昨日治療したからって直ぐに治る訳じゃ無いんだから。」

ゆっくり立ち上がったケビンをリュウガは摺り足でベッドに腰掛けさせた。

代わりにエルザが自分のハンカチをキドマルに渡す。

「ほら、男がいつまでもメソメソしてちゃ駄目よ。」

「…グスン…ゴメンなさぁい…。」

ほんのり香水の香りがするハンカチを瞼に当てて少年は鼻を啜った。

「ちょっと姉御、虐めるなよ。」

「アンタも甘やかさないの。それになによ姉御って?」


キドマルを自分に背後に隠してリュウガはシガレットを咥える。

「エルザさんの呼び名だよ。兄貴の仲間ならその位敬わないと駄目だろ。ねぇ叔父貴?」

「おい、俺様はヤクザじゃねぇよ。」

「でも前はマフィアの用心棒だったんだろ?それで今は兄貴の相棒、ならピッタリな名前じゃんかよ。」

憎い思い出を抉られてジャッキーはぐうの音も出せず、エルザがそれを聞いてプフフと笑った。

「リュウちゃん。」

この場で空気を変えた方が良いなとガデフが足を一歩出した。

「そろそろ教えてくれへんか?お前とこの子の馴れ初めを。」

「分かってるよ、俺も話そうと思ってた所だ。良いよなキド?」

啜り泣く少年は涙を拭いて頷く。

良しと見かねたリュウガはマナに手招きした。

「マナおいで、お前に紹介するの忘れてたから。」

リュウガは駆け寄ってきた少女を弟と向かい合わせに立たせる。

「キド、お前の新しい友達だ。仲良くしてやってくれよ。」


泣きじゃくる少年の目の前には自分よりももっと幼い子供がいた。

真珠のような光沢の大きな瞳が少年を写す。

「キド、年上の男がこんな様じゃカッコ悪いだろ。早く涙拭けって。」

「ウン…分かってるよ…。」

いつまでも泣いてちゃ駄目だとキドマルは今度こそ眉を吊り上げた。

「初めましてマナちゃん、おいで。」

ケビンの真似事でもしたいのか、キドマルはマナを抱き締めた。

しかし日頃から両親にハグされているマナは驚く素振りも見せずに少年を見つめる。

「あれ?嫌がらないの?」

「だってパパとママがよくこうしてくれるもん。」

「そうか…お前もある意味強い子だな。」

関心するリュウガの姿は端から見つめれば幼い弟と妹をあやす兄貴その物だ。

観察するジャッキーがいやらしい目つきになってるのを見てエルザはゲェッとした顔になる。

「アンタ顔気持ち悪いわよ。洗ってきたら?」

「…姐さん…俺…死んでも良いかな…?」

「馬鹿な事言うなやジャッキー。リュウちゃんもはよ本題に入ったれや。」


【4】


やっと落ち着きを見せた七人は四人部屋の病室で各々のベッドに腰掛けた。

リュウガは退屈しないように作り置きしてあったカリーナのスムージー入りピッチャーとコップをキッチンから運び、全員に手渡す。

「…プハァ。」

スムージーを飲んで泣き腫らした喉を潤す弟を見てリュウガは自室から持ってきた写真をケビンに見せた。

自分と両親、キドマルとヨシノの五人で撮った写真だ。

「俺達が出会ったのは十年前、キドが産まれて間もない頃だ。ヨシノさんはキドを出産する直前にこの街に引っ越してきたんだ。」

「引っ越し…?住み慣れた土地で子育てしたくなかったんか?」

スムージーを半分飲んでキドマルはコップを握り締めた。

「お母さんは引っ越す前は小さな田舎町に住んでました。お母さんは産まれた頃から肺が弱くて…元々は空気の綺麗な所に暮らそうってその田舎に移住したんです。でも僕を妊娠して半年後位かな…その田舎の近くに大きな工場が建ったんです。それでその田舎は工場の騒音と煙に悩まされて…止むを得ずここへ…。」


療養の場に選んだ土地で公害に悩まされる程不幸な事は無い。

しかも妊婦なら口から摂取した物は食物でも空気でも全部お腹の赤ちゃんに影響を及ぼしてしまう。

それなら同情の余地は無かった。

「…発展の為の犠牲として振り回されたって感じか、皮肉だな。」

「はい。僕が産まれたのはここに着いて暫く経ってからでした。その後にお母さん…軽い肺炎になったんです。その田舎で吸ってきた煙が毒になって…全身を蝕んでたって。」

「…先生とはいつ?」

「倒れる直前です。何日も咳が止まらないからって僕を連れてこの診療所に来ました。でも受付して待っている間に急に吐いてパニックになっちゃって…。」

まだ生後間もないキドマルからしてみれば何が起きているかなんて把握は出来ないだろう。

赤ん坊を抱えて激しく苦しむ母親を想像してケビンはそうかと呟いた。

「そんで親父が他の患者そっちのけでヨシノさんを治療したんだ。その間俺は親父に命令されてキドをずっとあやしてたんだよ。それから入院するって事になって俺が面倒見てた訳だ。」


引っ越して間もなくこんな目になり、戸惑うヨシノにとってファマドはまさに命の恩人だ。

退院後も彼女はその恩からこの診療所に通院するようになり、その際はキドも連れてきてリュウガの遊び相手になっていた。

その過去から二人は血の繋がりを超え、兄弟となっていたのだ。

「…お父さんは居ないの?」

「僕が産まれる前に死んだって…でもそれ以上は話してくれないんです。」

二杯目のスムージーをコップに注いでキドマルは息を吐いた。

「でも先生…母子家庭だって説明したらこう行ったんです。具合悪い時は電話すれば往診に行くから、お金とかもツケにして良いからって。それがなによりも嬉しかったんです。」

「おいおい、お前の家も赤字の一環…ゴホッ!」

首の後ろをお盆で叩かれてジャッキーが悶絶する。

「でもお父さんが居なくて寂しいって思った事は一度もありません。僕にしてみれば…先生がお父さんみたいな存在ですから。」


その言葉を片手にケビンは写真に目を落とす。

幼いキドマルの肩を持って笑うファマドは本当に父親の顔をしている。

多分口にしなくてもファマドもキドマルを息子みたいに可愛がってる事だろう。

「診療所がお休みの日は僕の家に遊びに来るんです。それで皆でご飯食べに行ったり買い物行ったりして…僕もここに泊まりに来ても良いってリュウ兄も言ってくれたから…。」

頬を赤く染めてキドマルはリュウガの横に寄り掛かる。

本当は膝の上が好きなのだがそこはマナが占拠してるのでここで我慢していた。

「じゃあ今も通院してるって事は…お母さん治ってないの?」

「肺炎自体は完治したんですけど…たまに喘息の発作が起きるんです。この街は工場とかは無いけど車の行き交いが激しいから排気ガスが溜まってるので…。」

窓から見える青空を眺めてキドマルの目が潤む。

空は晴天だがその下で排気ガスの波が押し寄せてるのがこの街の現実だ。

なのに再度引っ越さないのは経済的余裕もそうだがやはりコルタス一家の支えを無駄にしたくないという気遣いからきていた。


ケビンから返された写真をリュウガに渡すとキドマルはポツリと口を開いた。

「ケビンさん…。」

「どした?」

「怪我が治ったら…もう行くんですか?」

コップの中の氷が水で溶けてカランとぶつかり合う。

まるで繋がれた糸が切れたみたいなその音に耳を傾けて不死鳥は頷く。

「傷口の抜糸が終わり次第な。ここは国際警察の監視下だから…ミステシアの連中も楽に侵入してこないだろう。そうなる前に消えないと俺らが危ないんだ。」

そうですかと呟くように俯く少年は唇を小刻みに振動させていた。

何かを訴えたいのが明確だとケビンには感じ取れる。

「なんだキド?何か言いたいのか?」

「えっ?い、いや、何でも…ないです…。」


ゴメンなさいと縮こまる背中にリュウガも心配そうな表情を浮かべた。

その胸の内で…弟と同じ思いを抱きながら。

「まぁでもせっかく巡り会えた縁だ。良かったら明日も見舞いに来いよ。俺まだ出掛けられないから暇でしょうがなくてな。」

「え?でも後ろの人達が居るのでは…?」

しどもどろな質問にエルザが吹き出す。

「何?私らの事気遣ってるのキド?良いのよ!私達もケビンだけ置いてショッピングとか行く訳にもいかないしね。」

「俺様も昨日ガッポリ稼いできたから暇だし…。」

「それに嬢ちゃんもお前に懐いたからのぉ。会いに来てくれないと寂しがるけん、遠慮するなや。」

ジャッキーもガデフも同意見だと述べるとキドマルの瞳がウルウルした。

リュウガもこの展開に見ていて泣きそうになる。

「あ、兄貴ぃ…アンタって人は…!」

「なんでお前が泣くんだよ。全く世話が焼けるな…。」


―その会話が丸聞こえになってるのか、診察室でもこんなやり取りが繰り広げられていた。

「…てな訳でよ。ヨッちゃんが不安じゃないなら…そうしてあげたいんだ。」

「あら良いわね。私も賛成するわ。」

胸部のレントゲン写真の結果をカルテに記入するファマドはおいおいと開き直った。

「そんな簡単に答え出して良いのか?下手したら二度と会えなくなるんだぞ。」

「それなら覚悟してるわ。それであの子が楽しんでくれてたら…私も心残りは無いからね。」

毅然として伝えるヨシノの顔に嘘は感じられない。

ファマドも反論しても無駄だと腰を下ろしてレントゲンをホワイトボードに貼る。

「じゃあ決まりだな。まぁ最後は本人達に決めてもらうから…余計な口は出さない方が身の為だ。」


意見を取り纏めながらファマドはカルテの診断結果をヨシノに見せる。

「話戻すぜ。結核とかの兆候は無いからいつもと同じ咳止めと抗生物質の処方で充分だ。」

「分かりました。ありがとうね。」

丸椅子から立ち上がるとファマドも同じタイミングで席を外した。

「今日はもう帰るのか?」

「うん。家でキドとお茶会する約束してるから。」

「でもアイツ帰りたそうな雰囲気じゃねぇぞ。どうするんだ?」

医者の心配も余所に彼女は微笑む。

「無理して引き取る気は無いわ。自分から帰らせるつもりだから。」

「成程、それはグッドアイデアだな。」


【5】


診察を終えたヨシノは受付へ戻らず、慣れた様子で病室に向かう。

ファマドも同行して彼女を先導すると息子達のいる部屋の扉をノックした。

「リュウ、開けるぞ。」

返事を待たずに扉を開けると全員がこちらに振り向いたのでヨシノはお辞儀した。

「よぉ先生。その人がヨシノさんか?」

「あぁ、手荒な真似はするなよ。」

顔を上げた母親は病衣姿の青年に深々と再度頭を下げた。

「改めまして…ヨシノ・サクラヅカと申します。この度は息子がご迷惑をお掛けしまして…本当に申し訳ありませんでした。」


謝罪の仕草の綺麗さと丁寧な物腰を見ながらキドマルの性格は彼女譲りだなとケビンは感心する。

「お母さん良いんですよ。息子さんが怪我しなかっただけで充分なんですから。」

「そうかもしれませんが…。」

「見知らぬ他人に怪我させる位ならとっくに自首してますよ。だから気にしないでください。」

必死の説得にやっと心が折れたのか、ヨシノもそうだなと頷き返す。

「お母さん…。」

兄の背中に体を半分隠してキドマルが囁く。

「もう帰るの?」

「えぇ。帰ったらパイ焼かないと…。」

甘いパイの匂いをイメージしつつ、それでいて少年はリュウガの服を握る。

「やだぁ…僕…帰りたくない。」


予想していた答えにヨシノは笑みを浮かべて後ろに纏めた髪を掻き上げる。

「…そう言うとは思ってたわ。私先に帰るから…落ち着いたら戻ってきてね。それでいい?」

「…うん。」

じゃあ後でねと言い残して立ち去る母親を見送り、ファマドはケビンの方を見る。

「ギルク…お前結構しぶとい男だな。ウチのせがれに続いてキドまでお前に懐くなんてよ。」

リュウガの元を離れ、自分に寄ってきた少年の頭を撫でてケビンはすみませんと謝罪する。

「なんかお前…不思議な男だよな。そう…女王蜂みたいにな。」

「女王蜂…?」

「そ、出会った人間や自分に命を救われた人間を虜にするフェロモンでも撒き散らしてるのかって例えだよ。でもそれがお前の良心なら…余計な事は言わねぇよ。」


ニヤリと笑ってファマドはその場を離れる。

部屋の外に出て背中を見送りながらケビンはキドマルに振り向いた。

「キド、足止めさせて悪かったな。」

「気にしないでください。多分お母さんも分かってましたから。僕が帰りたくないって。」

泣きそうになって真っ赤に染まった目を擦りながらキドマルは申し訳無く頭を下げる。

「ねぇキド。」

エルザがマナをあやしつつ質問してきた。

「お母さん…パイ焼いておくって言ってたけど…それって…?」

「診察が早く終わるとよく家でお茶会するんです。お母さんと二人で。」

「へぇ羨ましいわね、そう。」

エルザの言葉が艶かしいのにリュウガは恐る恐る後退する。

「あ、姉御?」

「ねぇねぇ、もしだったら私達も招待してくれない?もっとお母さんの話聞きたいの。」

「い、いや姐さん…そんな強引…に…。」


ジャッキーはそれ以上反論するとパイを顔面に投げられると危惧し、口を塞いだ。

「良いですよ。いつも二人だけだからお母さんも喜びますし。」

「じゃあ決まりね。ほら皆支度して。」

パンパンっと手を叩いて指示する美女を横目に男連中はしばかれると悪いと動き始めた。

「ケビンも着替えて。」

「え、ちょ?俺も行くのかよ!?」

「当たり前でしょ。アンタがいないと盛り上がらないじゃん。ほら早く。」

エルザは急かすように床頭台の引き出しから畳まれたスーツの上下を取り出して渡す。

「あ、そうだ兄貴。」

何かを思い出してリュウガがコップを片付ける手を止めた。

「ゴメン、兄貴の着てたオレンジのワイシャツ処分しちゃったんだ。何度か洗濯したんだけど血の色が落ちなくてさ…。」

「いいって気にするなよ。どのみち脇腹の部分破れてもう着れないしな。新しいの買うまではジャッキーのシャツ借りて着るから。」


弁明しながらケビンは相棒から借りたシャツに腕を遠し、上からブレザーを羽織る。

自分の着替える様子を少年がガン見していると気付いてケビンは目だけ横に向けた。

「キド?」

「あ!すいません!ケビンさんのスーツ姿がカッコよくて…つい。」

自分もあと十年したらあんな風にスーツを着こなせるのかと思っていたらケビンと目が会った。

「心配するなよ。お前チビだけど成人式までには何がなんでもデカくなるんだから。」

「そうやでチビ助。今の内から牛乳いっぱい飲んで大きくならんとアカンで。」

「おいおい、旦那も親分もチビチビって言うのはイジメだぞ。せめてプリンスって呼んでやれよ。」

「え?チ、チビ?プリンス?チビ助?えっ!?えっ!?」


予測も無しに変なあだ名を三個も付けられてキドマルは混乱し、エルザが男連中を引っ叩く。

「アンタらは来なくて良いわよ。パイは私らだけでいただくから。」

「じ、冗談だって姐さん!」

「手遅れだよ叔父貴、アンタもとんでもないあだ名付けてるから。」

人の事言えた義理かよとリュウガは呆れ半分で受付へ向かう。

そこへファマドが車椅子の患者を連れて待合室に訪れ、リュウガが呼び止めた。

「親父、これから皆でキドの家行ってくるけど…兄貴も連れ出して良いかな?」

丁度受け付け越しにカリーナと目が合い、二人は無言で頷く。

「良いわよ、リハビリになるなら止めないから。でも無理させないでね。」

「あと容態変わったら直ぐに戻ってこいよ。」

「分かってるよ、ありがと。」


お墨付きを貰ったと病室に報告したらケビンは嬉しそうに微笑んだ。

彼にしてみれば外の空気を吸えるのがどんなに有り難い事なのかは自分でも分かる。

だからリュウガも嬉しくなった。

《この人ならきっと…アイツも心開いてくれるな。それにキドの奴、俺と同じでもしかしたら…。》

この先…自分達の日常やら運命やらを覆す出来事が起きると予測してリュウガは自分の荷物を取りに自室へ急いだ。


【6】


コルタスドックの所在地は車が昼夜激しく通る国道の手前。

そこから左に歩くと高層マンションが道に添ってデンと構えられている。

そこへ入る一歩手前、T字路の先端にある小さなアパートがサクラヅカ親子の自宅だ。

診療所の近くなのでリュウガら一家が往き来しやすいのはこの事かとケビンは歩きながら思っていた。

最初は車椅子を出そうかとファマドは提案したがゆっくり歩けば支障は無いと告げて自力でアパートまで向かっていた。

二階建てアパートは中央がくり抜かれ、そこに階段が通されている。

その手前で掃除をしていた女性が足音に気付いて腰を上げた。

「あらキドちゃん、今お帰り?」

「はい。」


リュウガもどうもと頭を下げて階段を昇ろうとし、女性はその後ろの団体を興味津々で見つめる。

「その人達は?」

「ウチの患者だ、折角なんでお茶会に誘ったのさ。」

「あら珍しいわね。キドちゃんがお客さん連れてくるなんて。」

ゆっくりしてってねと女性に言われて一行は階段を昇る。

目指すはアパートの二階の左の部屋だ。

インターホンを鳴らしてドアを開けるとコーヒーの匂いが漏れてきた。

「いらっしゃい、待ってたわよ。」

玄関の右にあるキッチンからヨシノが顔を出す。

「あら?ケビン君外出して大丈夫なの?」

「親父とお袋に許可貰ってきた。リハビリになるなら無理して止めないって。」

「すいません、お邪魔します。」


親子二人で暮らす部屋は2LDKという小さな間取り。

そこへ六人も押し掛ければかなり部屋の中が窮屈になる。

しかしヨシノは気にせずにケビン達を上がらせた。

キッチンへ戻るとヨシノはコンロの火とオーブンの火力を交互に確認しながら戸棚を開けたり閉めたりする。

「まだパイが焼けるまで十分位掛かるの。待っててくれる?」

「あぁ、コーヒーでも飲みながら待たせてもらいますよ。」

そのやり取りを見てキドマルはあっ、とした表情になる。

「ケビンさん達、もしだったら僕の部屋来ませんか?」

「お前の?」

「はい。もう一人って言えばいいかな…紹介したい人がいるので。」

俯きながら両手の指を弄る少年の様子にケビンは首を傾げながら部屋に案内された。

キッチンの奥の廊下を進んで左の部屋、扉を開けると机やベッドや本棚が置かれた子供部屋に通された。

「なんだ?誰も居ないぞ?」

ジャッキーの言葉に全員が見回すと確かに人の姿は無い。

「ここです、ここ。」

「えっ?」


キドマルが指差す先はベッドの上。

良く見ると掛け布団とペアのスカイブルーの枕の上に…本当に何かいた。

枕の中央を陣取るように丸まっている毛玉。

収穫間近の稲穂を連想させる黄金色の体毛がフワフワと盛り上がっている。

犬でも猫でも無い…何かが。

「…何なんだコレ?」

ケビンがそっと手を伸ばそうとしたその時だ。

ビクンっと気配を悟ったようにその「何か」の耳が反り経ったのだ。

それも犬や猫よりずっと長い、先端が丸まった耳。

その耳を見たマナがまず最初に正体を見抜いた。

「パパ見て、これ兎さんだよ。」


少女の声が届いたのか、モコモコと金色の毛玉が動いた。

体勢を崩したその正体は…一羽の兎だ。

ケビンと同じ炎を連想させるルビー色の瞳が体毛の隙間から見知らぬ人間達を睨んでいる。

可愛い兎のイメージとは程遠い存在なのが明らかだ。

更にそれだけではない。

兎といえば白い体に赤い目が特徴的な生き物。

でもこの兎は目こそ赤いが…体毛は黄金色。

新種、珍獣と呼ぶのに相応しい兎だ。

―そんな獣が何故一般家庭で飼育されているのか?

疑問が膨らむばかりだ。

「これ…本当にただの兎か?」

「どう見ても…“普通”じゃないわよねまず。」

「てかさっきからずっと睨んでるけど…。」


ベッドの上でお座りした兎は見知らぬ人間達を見回しながら主人に振り向く。

『…ター。』

「えっ?」

一瞬だが…聞いた事の無い声がしてケビンが驚く。

『マスター…この人達は誰ですか?折角スヤスヤ寝てたのに目が覚めてしまいましたよ。』 

「「「「「……………。」」」」」

―これは夢なのだろうか。

いや、夢でも現実でも人間は驚くのが当たり前。

でもアパートの室内であるのを考慮してリュウガが叫ばないでと人差し指でシーッと合図する。

なので五人はアイコンタクトで合図し、心の中でこう叫んだ。

―《《《《《兎が喋ったぁぁ~!》》》》》


それから三分間待ってもらい、キドマルは兎を抱いてベッドの上に座り、リュウガとマナも何故か横に付き添う。

三人乗るとギュウギュウなシングルベッドを大人四人が囲っていた。

「…で?お前は一体何者なんだ?」

モコモコ蠢く毛玉がケビンを凝視する。

『見て分かりません?兎ですよ。』

「いやそれは分かるが…どう考えても普通の兎じゃねぇだろお前。」

マナが恐る恐る触れようとするのを嫌がって兎は後ろ足で顔を掻き毟るような仕草を見せる。

『まぁ言われてみればその通りですね。私は少しワケアリの生き物なので。』

主人の少年に撫でられて落ち着いたのか、兎は耳を垂らしてにこやかな顔になる。

「もうラビ、お客さんの前でそんな素っ気なくしないの。」

『ですがマスター…うわっ!』

ビックリ箱を見て腰を抜かしたように兎が腕の中から抜け出す。

「あ!逃げないで!イタズラしないから大丈夫だよ。」


様子を見る限りではどうやらマナが触ろうとして驚いたらしい。

当人は猛スピードでその場を離れた。

「お前…ラビって名前か?」

『…あくまで簡略化した名前ですの。フルネームはラビネス・ザ・チェリーマウンドと申します。』

「…なんだその漫画やアニメに出てきそうな長ったらしい名前は?」

『私に文句を言っても無用です。この泣き虫なお方が名付けた物ですから。』

ベッドから降りて本棚の隅に避難していた兎はトコトコと主人の下へ帰る。

「ラビ、許可無く人の事を泣き虫とか言うな。」

『どうでしょうね。学校にも行かないで母親の世話ばかりしている生意気な十歳児には言われたくない台詞ですわ。』

雌雄同体なのか、雄とも雌とも思えない話し方に首を傾げつつエルザがギョッとした顔になる。

「ちょっと待って、キド…学校行ってないって本当?」

『残念ながら本当ですわ。自分が居ない間にマザーに何かあると困るからって。この人の頭の中は家の事とマザーの事で手一杯で…イダダダダダダァ!』


【7】


まん丸に目を見開いてラビが悲鳴を上げた。

笑顔で青筋を浮かべたキドマルが片手で胴体を支え、もう片方の手で耳を引き千切りそうに引っ張ったからだ。

「ラ~ビ~?言って良い事と悪い事があるのって分かる?」

『わ、分かります!分かりますからお許しを!じゃないと…み、耳がぁ…!』

短い前足をジタバタさせて暴れるペットにキドマルはよぉしと頷いて耳を解放する。

「うわぁ…えげつないなお前…。」

「普段温厚な人間は怒ると恐いって言うが…本当だったとはなぁ。」

「それやったら一番敵に回したくない奴やな、コイツは。」


なんかエルザの分身みたいな動物に男連中は恐れ、リュウガは表情で「止めとけ、ぶっ飛ばされるぞ。」と訴える。

『まぁ勉強に関してはリュウ坊ちゃんが教えてるので遅れはありませんが…どうにかして貰いたいものですよホントに。』

さっきのお仕置きが余程効いたのか、ラビは涙目で主人を見上げる。

『それでマスター…この方々は何者ですの?』

「昨日話してた命の恩人だよ。挨拶してね。」

やっと話を戻してラビは耳を垂らしたまま瞳を閉じる。

『大方の事情はマスターから伝えられました。この度は我が主の命を救ってくれた事…誠に感謝しております。』

「そんなに畏まるなよ。あとその中二病みたいな話し方もどうにかならないのか?」

『お許し下さいませ。私も…あまり知られたくない素性がありますので。』


ラビはキドマルの手元から離れるとケビンの立ち位置の前まで接近して首を上げた。

『貴方の名は?』

「ケビン、ケビン・ギルクだ。」

『ケビン様…貴方になら話しても良いかもしれません。見知らぬ他人であるのにマスターを助けてくれた心優しき貴方になら。』

何の事かと周りが傾げる中、ラビは体を反転させてケビンにお尻を向けた。

するとケビンの目付きが急に鋭くなる。

緋色に染まった彼の瞳は柔らかな体毛に埋もれた…鈍色の不純物を捉えていた。

厚い革のグローブの指先が体毛に触れてラビはビクリとするが逃げずに堪える。

ケビンはお尻から背中に向かって指をなぞり、首の付け根に到達した所で止まった。

すると体毛ではなくて冷たい金属の感触が伝わってくる。

「皆、ちょっと見てくれ。」

これは全員が受け入れるべき事実だとケビンが告げると仲間達は反論せずにラビの首の後ろに目を凝らす。

「な、なんやコレは!?」

「…酷い。」


黄金色の毛に埋もれていたのは小さな金属のプレート。

それも表面には文字が彫られている。

「PX-07…それにコレは…。」

アルファベットと数字を結ぶハイフンの真上にはMとTを織り混ぜたようなマークがある。

そのマークでケビンは全てを理解した。

ラビに隠された秘密を…。

「まさか…ミステシアのドックタグか!?」

『はい、確かに。』

ラビの返答にジャッキーもケビンの言いたい事を悟った。

「おい待て旦那!ミステシアってまさか…!」

「間違いない。コイツは…ミステシアで産み出された改造生物だ。」

ゾワゾワと虫が這い上がるようなおぞましい空気が部屋を覆っていく。

「お、おいチビ助!お前なんでそんな危なっかしいのを匿っとるんじゃ!」

「ガデフ落ち着いて。ねぇケビン、それ本当なの?ラビが改造生物って。」

「…普通の動物にこんな無機質なプレートなんかまず埋め込まないだろ。それにこのマークはミステシアのロゴだ。そうなれば言い逃れは無用さ。」


パーティの中ではミステシアとの関わりが一番深いケビンの目は誤魔化せなかった。

事実彼は組織の内部構造もある程度頭に入れている。

組織のロゴマークがどんな形なのかも既にお見通しだ。

「そうなんだろラビ?誤魔化してもそのドックタグが何よりの証拠だ。」

『……。』

動かぬ事実を見せられて無言を貫くラビにケビンに更に追い打ちを掛ける。

「どうしてお前はこんな人の多い所にいるんだ?スパイか?」

「待ってケビンさん!それは…」

『マスター。』

とうとう観念したのか、ラビは主人と目を合わせる。

『ご心配なさらずとも…全てをお話します。』

「でも…!そんな事したらお前…」

『ケビン様は貴方の命を救ってくださったお方、そのような人間ならばきっと受け入れて下さいます。ですから止めないで貰えますか?』

凜とした瞳で訴えられてキドマルは何も言えなくなる。

だが直ぐに分かったと頷きで了承してくれた。

『ありがとうございます。』


水浴びした犬の様にブルブルと全身の体毛を震わせるとラビはケビンに再度向き合い、お座りの姿勢を構えた。

「じゃあ教えて貰おうか。お前…キドとはいつ?」

『もう二年も前になります。激しい雨の中…私は奴らの研究所から脱走してここへ迷い込んだんです。気力も体力も消耗して倒れていた所をマスターが保護してくれて…それから一緒に暮らしています。』

「脱走…?」

ラビは目を堅く閉じて辛い思い出を蘇らせる。

本当はもう思い出したくないが何れは語らないといけない事実、背に腹は代えられなかった。

『私は自分が誰なのか分からないんです。目覚めた時…私は水槽の中にいました。緑色の液体…ガラスの向こうで怪しく笑う眼鏡の男…周りを見れば自分と同じ状況になっている沢山の…動物…!』

ラビはそこで耳を垂らし、羽毛の中に顔を沈めた。

辛い光景を振り返って心身共に苦しみ始めたのだ。

キドマルはオドオドしつつもリュウガに制止されて手出しせず、静かに見守るしか出来ない。

するとケビンが優しくラビを抱き上げた。

『ケビン…様…。』

その様子にキドマルは驚いた。

ラビは見知らぬ人間に撫でられたり、ましてや抱っこなんかされると凄く嫌がるのに何故か安心仕切って甘えているのだ。

「無理して話さなくても良い。自分の心に響かない程度でも充分だ。」


赤ん坊や小さな子供を落ち着かせるようにケビンはラビを撫でる。

その手触りは…研究所で自分を雑に扱っていた研究員の手とは全然違う。

そんな事を思ってラビは胸元に顔を乗せた。

「ラビ、お前が言っていた眼鏡の男って…もしかしてフェイクか?」

『…!ご存じでしたか!?』

「まぁな。ミステシア四幹部の筆頭にして…研究開発班のチーフ。お前から見れば産みの親に当たるな。」

ゴボゴボという水の音とアルコールの臭い、計器のスイッチの電子音が蘇ってラビは目を瞑った。

『奴は産みの親なんかではありません。あの男は…さながら殺人鬼なんです。生前の私のように罪の無い生き物たちを四方から連れてきて…無理矢理実験を施しているマッドサイエンティスト…絶対に生かしてはおけない巨悪の根源…!』

殺したい程憎い男の顔を思い出してラビは号泣しそうになり、悟られないようにケビンの胸に埋まる。

『殺戮兵器用改造生物…通称キラービースト、一体の動物にあらゆる生物の細胞や武器等のデータ・プログラム全般を組み込んだまさに生きる殺人兵器…それが私達の正体なのです。』

辛そうに話すラビは同時に警戒心を緩めたのか、潤んだ瞳でケビンを見つめる。

それと同時に額の部分からムクムクと何か生えてきた。

「ラビ…貴方それって…!」

「それが…お前の本当の…!」


仲間達が見つめたのは…一本の角。

螺旋状に閉められたような鋭い角は確かにラビの額から伸びていた。

その姿は神話に登場する神獣、ユニコーンだ。

「…アルミラージか。」

『はい。私の外観モデルに選ばれた神獣の名前です。普段は化け物扱いされないように隠しているのですが…。』

さらけ出した角は伸縮自在なのか、またニョキニョキと額の中に収まっていく。

『私が人の言葉を喋れるのも…人間の細胞を組み込まれからなんです。故にフェイクからは特に目を付けられてました。私の前にも奴は優秀だと判断したビーストに人間の細胞を結合する実験を行っていました。しかし人の細胞移植はリスクが高過ぎて…大半は命を落としていったのです。ですがフェイクはその後も結合実験を繰り返し…私を産み出したのです。』

「成程、失敗は成功の母って言葉を実現させたのか…その沢山の命と引き換えに。」

『…私は奴が憎いんです。己のエゴの為に命をオモチャのように扱う奴は人間ではありません。私は実験に成功してからも多くの人間から意図的に何かを入れられてきました。それが苦痛で…恐ろしくて…憎くて…悲しくて…だから私は逃げ出したんです。あの地獄のような場所から…!』


【8】


ラビの脳内にはどうやっても末梢する事が出来ないある男の笑顔がある。

紛れもなくフェイクの顔だ。

それを思い出す度にラビは苦しんでいた。

あの悲しい日々を思い出して。

『キラービーストは前線に投入される前、実験の最終段階で脳の改造が施されます。自分達に逆らわないようにそのビーストの意思も言葉も全部奪い取ってロボットみたいに変えるんです。』

「おいおい、それ洗脳のレベルって話じゃねぇな。それにロボットみたいに…って…?」

ケビンはそこで言葉に詰まり、冷や汗が滲んでリュウガに振り向いた。

「リュウ…まさか…!」

「その通りだよ兄貴。ラビと同じ境遇の動物達は…ロボトミーをされているんだ。」

突然の質問にリュウガは迷う事無く答える。

医療従事者の子供故にその類の質問は父親からある程度学んでいるので問題は無い。

「何なんだヤング?そのロボトミーって?」

「簡単に言うと前頭葉を切り取る手術の事だよ。前頭葉は考え事をしたり記憶を引き出したりする働きがあってさ、そこが事故とかで傷付いたり…ましてや切り取ったりするとやる気が出なくなったり今までやれた事が出来なくなったりするんだ。早い話が…動物が動物じゃ無くなるって事なんだ。」


専門用語だけでは分かり辛いとリュウガは自宅から持ってきたノートを広げて詳しく説明する。

ノートには臓器のイラストの他にも様々な病名が細かく記載され、治療法や発症の原因、症状までビッシリと書かれている。

その中にロボトミーの概要もちゃんと記されていた。

「実際大昔にロボトミーは行われてたんだ。でも手術を受けた人は皆無気力になったり自殺したりしたから批判が集中して…今では有名な闇の治療法として伝えられているだけだ。」

実際教えて貰ったときはゾッとしたと付け加えるが確かに医療を超えた技術なのは誰しもが理解出来た。

『私は人の細胞を組み込まれていたので…ある程度自分の意識を持っていました。だからこそ私は逃げられたのです。タイミングを見計らって。』

「そのお陰で脳の中を弄れずに自我を保ち続けられている訳…か。」

でも結合さえなければラビも感情を失い、文字通りの兵器と化していた。

それを考えれば…なんとも言えない状況だろう。

皮肉な運命を辿ってきた所で扉越しからチーンと音がした。

「あら?色々話している間にパイが焼けたみたいね。」

「姉御…なんでそんな簡単に話題変えられるんだ。」


ある意味で恐ろしいなと呟いていたら部屋の扉がノックされた。

「キド、パイが焼けたわよ。」

「分かった、今行くから。」

母親の声にラビは慣れた様子でキドマルの胴体によじ登り、頭の上に腹這いになる。

『マスター、重苦しい話はここまでにしましょう。いざレッツゴーですわ。』

「いちいち五月蠅いなお前は。あとあんまりそこ乗るなよ、重たいんだから。」

子供を肩車させる父親気分でキドマルはベッドから降りて扉を開けた。

キッチンに戻るとエルザの言葉通りにパイの焼けた匂いが家中に充満していた。

「皆お待たせ、好きな所座ってね。」

包丁で熱々のパイをヨシノが切り分け、皿に乗せていく。

ラビはキドマルの頭の上に乗っかったまま、甘い匂いに鼻をクンクンさせながらケビンに囁く。

『ケビン様…さっきの話…真実を知っているのはマスターとリュウ坊ちゃんのみです。マザーや他の身内には内密にしておいて貰えますか?』

「他の身内って…先生とカリーナさんにもか?」

『えぇ。私が喋れるのは存じてますのでそれ以外の事実をです。知られると言い訳がましいので。』

「分かってるよ。第一そんな事話しても直ぐには信じられないからな。」


とにかく今は冷めない内にパイを食べようと椅子に座るとラビも主人の手元からそこへ移動する。

「どうしたのラビ?そこが気に入ったの?」

素性を隠して暮らすペットの行動にヨシノは何も知らずに簡素に告げる。

『悪いですか?』

「そんな事無いわよ。でも珍しいわね、貴方がキド以外の人に懐くなんて。」

事実ラビはパイの匂いとケビンのグローブの臭いとをさっきから交互に嗅いでいる。

その姿から懐いたと結論付けたのだろう。

「何してんだお前?」

『いえ…ケビン様の手から甘ったるい臭いがするので気になってしまって…。』

ケビンは嫌がる素振りを見せずにパイの先端を齧ってラビの背中を撫でる。

焼きたての生地に閉じ込められてたリンゴとシナモンの香りが口一杯に広がって幸せな気分になる。

食べながら触るラビの体毛はスポンジケーキみたいに柔らかくて撫で心地が良く、いつまでも触りたい程。

お菓子の世界にでも迷い込んだかのような夢心地な感覚に酔い痴れていた。

「急に大人しくなったなお前。さっきはあんなに嫌がってたのに。」

『私…見知らぬ人間に撫でられるのが大嫌いなんです。研究所にいた頃…一定間隔で無理矢理拘束されて注射をされてましたから…どうしてもその時の記憶が蘇ってしまって…。』

「あぁ、そうだろうなって思ってたぜ。でも今は平気そうだな?」

『自分でも分かりませんが…ケビン様の手から優しい匂いがするんです。マザーの手と同じ…太陽みたいな温かくて心地良い匂いが…そのお陰でしょうか。』


パリッとサクサクの生地が砕かれる音がし、スイッと小さなパイ生地の塊が差し出される。

何気なしに口に含むと目と耳の間をムニッと掴まれた。

「お前には…そう感じるのか。俺の手は。」

『…?』

「俺の手からするのは…甘ったるい血の臭いだ。嗅いでも心地良い物じゃないだろ。」

咀嚼音に紛れて呟かれた寂しげな声にラビは思わず瞬きした。

何か悪い事でも聞いてしまったように…その場の空気が冷めていく。

『じ、じゃあケビン様、私はどんな匂いがするんですか?』

「お前はそうだな…天日干しした布団みたいな匂いだ。ついでに付け加えるとリュウは薬品とアルコールの匂いがするし…キドは食べ物とスパイスがごっちゃに混じった匂いがするんだ。」

『そう…ですか…。』

「あと深追いするとマナは花と蜂蜜でジャッキーは海の潮、エルザは香水と森のお香、ガデフさんは掘り起こした畑の土の匂いがするんだ。」

『す…凄い!そこまで分かるなんて…!』

どれだけ嗅覚が優れてるんだとラビは自然に驚く。

同時にふと思った。

どうしてケビンは自分の匂いだけ…そこまで比喩してるのかと。

自分が彼の立場ならコーヒーみたいな大人の匂いがするとかと言いたいが…逆に例え憎いと言われそうで黙ってしまう。

「まぁ俺もお前と同じで人に愛される人生送って来てないからな。自分の過去に捕らわれてばかりで…未来なんかとっくに捨ててるんだ。だからこの手も…殺めた数の血の臭いしか染み付いていないんだ。」

『……。』


自分の体毛を撫でる手が急に冷たくなっていくのが感じられた。

同時にケビンの手から狂おしい程憎む男と同じ匂いがしてラビは耳を逆立てた。

この男は…腹の裏側に何かを隠していると。

『ケビン様…貴方…。』

そこでラビは言葉を詰まらせた。

頭の片隅に浮かんだ違う男との会話を思い出して…まさかと疑ったのだ。

《もしかして…この人があの…。》

そこでガタっと椅子が引く音がして驚いたラビは膝の上から降りた。

ケビンは自分の手を見つめながら椅子から立ち上がる。

「…どうしたの?」

「ヨシノさん、トイレ貸してくれ。」

「え?い、良いけど…。」

急な発言にエルザも立ち上がって背後に回る。

「大丈夫ケビン?もしかして気持ち悪くなったとか?」

「どうしたのさ兄貴!?なんなら俺も付き添うよ!」


ゆっくりとトイレに向かう背中にリュウガが半分真っ青になって詰め寄る。

だがケビンは心配そうに自分の肩に置かれた手を振り払う。

「大丈夫だ。直ぐ戻るから。」

迷惑掛けて済まないと言った顔で彼はトイレに向かった。

便器の蓋を開けてしゃがむと…喉の奥が焼けるように熱くなった。

胃の中で暴れ回る「何か」が食道を逆流して口まで急上昇してくる。

「…ハァ…ウッ…オウッ…!」

胃酸混じりの液体が口から溢れた。

舌や歯もピリピリして痺れてくる。

同時に額の奥もズキズキと疼いて破裂しそうだ。

《クソッ…なんでこんな時に…!》

最近は全く襲ってこなかった特有の発作だ。

診療所を出る前から若干手の痺れは感じていたが…まさかこんな所で来るのは想定外だ。

視界が反時計周りに目眩を起こし…視界がグラグラしてくる。

腰から足に掛けて力が抜けていき、倒れそうになったその時、

「兄貴!」

半開きになっていたトイレの扉が開いてリュウガが横にしゃがんだ。

そのまま吐き尽くすのを待ってリュウガはケビンを背負うとキッチンに戻る。

「ケビン君どうしたの!?大丈夫!?」

「ヨシノさんゴメン…兄貴具合悪くなったから連れて帰るね。」


深く謝罪するとリュウガは真っ直ぐ玄関から外に出た。

楽しいお茶会の空気が急激に冷めてしまい、ヨシノは何も出来ない自分を責めたくなった。

でもそれ以上にケビンを責めるのも何故か辛くなった。

彼が座っていた席には先端だけが齧られたパイと飲みかけのコーヒーが残されている。

「旦那…。」

ジャッキーはケビンの皿を手に取って深い溜め息を付く。

パイの甘い匂いがガラス戸の隙間から外に漏れ、風に流されて消えていく。

些細な男の思いを…掻き消すように…。


【9】


一行はそれから一時間して診療所に戻ってきた。

噂の当人は病室に戻って眠っており、ファマドは不安な顔でジャッキー達を出迎えた。

それによるとケビンは帰宅した後に診療所のトイレで二回目の嘔吐を催し、それから睡眠導入剤を懇願して飲んで一眠りしているようだ。

リュウガは病室に入ってケビンの枕元に寄り添っていた。

「どやリュウちゃん?容態は?」

「…説明の仕様が無いね。熱とかも出てないから。」

グローブを外した素の右手を握り締めてリュウガは泣くのを堪えていた。

その隣にマナとラビを抱っこしたキドマルが立ち尽くす。

「ケビンさん…どうして?」

「…自分を責めるなキド。兄貴はお前を恨んだりしてねぇよ。だからそんな顔するな。」


泣きそうになる寸前の弟を慰めていたら背後で姐さん!とジャッキーの慌てる声が聞こえた。

どうやらエルザが見ていられないと部屋を飛び出したようだ。

するとラビも何かを悟ったのか、強引に主人の腕の中から脱出して廊下に飛び出した。

パンプスのヒールの音をヒントに辿り着いた場所は…診療所の待合室だ。

丁度昼休みなので患者は一人もおらず、探し人である踊り子は待合室の長椅子に突っ伏して踞っていた。

エルザが病室を飛び出した理由がラビには理解出来た。

―自分が無理に誘ったせいでこんな事になってしまったと。

その辛い心境を感じてラビは長椅子に飛び乗った。

『己を悔やんでも得られる物はありませんよ…エルザ様。』


銀髪の間に鼻先を埋めるとエルザの緑色の瞳が自分を見つめてきた。

『ケビン様は誰が悪いとか、誰を恨むかなんては申しておりません。ですからお顔を上げになってください。』

か細く自分の名前を呼ばれる声がし、気が付くとラビはエルザに抱き締められていた。

ラビはケビンの匂いがする人間だと安心し、瞳を真一文字に閉じる。

『それ程までに愛しているのですね…彼を。』

「…当たり前でしょ。じゃなかったらこんな真似してないわよ。」

あくまでも強気に振る舞うエルザの健気さにラビは呆れながら語る。

『ケビン様も…立場が逆だったら同じ事言ってましたね多分。そしたら貴方は彼を責めますか?」

「そんな事するわけ無いでしょ…!そんなくだらない理由で…彼が離れるなんて…絶対…!」


―絶対にない、いや…してほしくない。

その本音をぶつけられてラビは考えた。

あの男はそれ位までに誰かに慕われていると。

『素敵なお方なんですね…彼。』

自分の毛並みとは正反対の銀色の髪をクンクン嗅いでそっと頬を舐める。

冷たい舌先の感触にエルザは細長い指でラビを撫で返す。

『エルザ様のお気持ちはケビン様も分かっています。だから貴方が悲しんでいると彼も悲しんでしまいます。どうか…立ち直ってください。』

ラビの体毛を撫でる指先の震えと嗚咽を誤魔化せられず、エルザはその場から動けなかった。

自分よりずっと小さな動物に励まされる情けといつも威張り散らしている自分の愚かさを感じながら。

『戻りましょう。今はケビン様のお近くに居てあげるのが貴方の務めです。それと涙もお拭きになってください。目覚めた時に同じ顔だと…彼も心配してしまいますから。』


スルリと抜け出したラビは冷たい床に着地してエルザに振り返る。

踊り子は剥き出しの腕で目元を強く擦ると震える足でゆっくり立ち上がった。

「ラビ…貴方って強い子なのね、見直したわ。」

『…研究所で人間の欲というのを洗いざらい刻まれてきましたから。マスターにお世話にならなければ一生人間不信でいましたわ。』

トタトタとエルザの歩幅に合わせて何度も歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりを繰り返してようやく病室の前に戻った。

開きっぱなしの扉を潜るとジャッキーが駆け寄ってきた。

「姐さん何処行ってたんだよ?大丈夫?」

エメラルドの瞳が真っ赤になっているのを気遣い、ジャッキーは優しく抱き締める。

「ジャッキー…私もう…どうにかしそう…。」

「分かるよ姐さん、辛いのは皆同じだ。でも一番意地っ張りな姐さんが泣いてたら…流石に俺らもどうしていいか分からなくなるんだよ。だから泣かないでくれ。」


いつも自分に容赦ない彼女がこんなに憔悴する姿は初めてなのでジャッキーは戸惑いながらも銀のポニーテールを纏めるゴムに指の腹を押す。

少しぐずってエルザは枕元から愛する男の頬に触れた。

いつもはジンワリと熱い頬が…やけに冷たい。

まるで背負ってきた物を全部降ろしているように…。

「…いつまで泣いてんだよお前?」

枕元から怒鳴りそうな寂しげな声がしてエルザが、周りの人間全員が振り返る。

見るとエルザの白い手を…男の左手がしっかりと握っていた。

「あ、兄貴…。」

もう薬が切れたのか、ケビンは虚ろながらも綺麗な緋色の瞳を恋人に向ける。

「…ケビン…。」

どう声を掛けていいか迷っていたら右手の皮膚が引っ張られる。

「…スしろ。」

「…?」

「頼むから俺とキスしてくれ。そうすれば元気になるから。」


こんな状況で何言ってんだと周りが動揺する中、エルザは力強く頷いた。

ケビンの為なら彼の頼みも我が儘もなんだって引き受けてやる。

そう…彼女は心に誓っていた。

それを見たケビンも握力を緩めて彼女の手を解放した。

掛け布団の上に投げ出された男の左手を改めて握り…静かに互いの唇を合わせる。

ケビンの左手の指輪が窓から入る日光に当たってキラリと輝いた。

新しい自分の半身を…認めたように…。


【10】


―夕刻時―

午後の診療時間もとうに終了し、ファマドは診察室のブラインドを下げると携帯電話を取り出して会話していた。

「あぁ…本人は発作って説明してる。多分後遺症だ。今まで病院に行ってないツケがここに来て落ち始めたんだろう。」

電話相手はキドマルの母・ヨシノだ。

ケビンの容態説明と体調不良なのに満足に看病出来なかったのを悔やんでいる彼女を慰める為だ。

「心配するなよ。アイツは簡単には死なねぇから。決してヨッちゃんのパイで腹壊したとかじゃねぇから安心しろよ。」

『…分かったわ。それとキドは?』

「夕飯だけ作ったら帰るだとよ。それでも良いか?」

『構わないわ。あの子も心配してるし…もし無理そうだったら泊まらせてあげて。』

「分かった。そうなったらまた連絡するよ。じゃあな。」


通話を終えるとファマドはケビンの元へ向かった。

病室ではリュウが付き添って腹の包帯を解いていた。

十字にテープで貼られたガーゼも外すと小さな真一文字の傷が現れる。

「親父どうかな?まだ掛かりそう?」

傷の容態をリュウガは父親に見せる。

「そうだな…下手な衝撃が加わると開く可能性はまだ充分にある。でもこれなら長くはないな。最長であと三~四日だ。」

「そうか…。」

傷口に殺菌目的で消毒薬を塗りながらファマドは険しい顔になった。

「ギルク…こんな所で言うのも何だが…お前の体はもう完全には治らねぇよ。俺の腕でもな。」

「…。」

「お前は自分を痛め付け過ぎだ。昼間の発作とやらもこの古傷の後遺症だ。お前の体は悲鳴を上げまくって喉も枯れ果ててるんだ。分かるか?それ位まで追い詰められてボロボロになってるんだよ。」

新しいガーゼをテープで留めながら替えの包帯の端を腹部に当てる。

「これ以上無理すればお前の寿命も短くなるんだ。死にたくないならもっと自分の体を大切にしてやるしか方法は残されていない。守れそうか?」

「……。」


リュウガも包帯を巻くのを手伝いながらケビンの肌を改めて観察する。

確かにこんな傷だらけで生きてきたのは本当に奇跡みたいな事だ。

それなら父親の言う事も確証に満ちていると信じられる。

「それが嫌ならいつでも俺に匙投げても良いさ。俺も信頼してた患者に裏切れられた事は沢山ある。今更お前みたいな無名な旅人に避けずまれても…構わないからな。」

巻き終わりをクリップで留めてファマドは椅子から立ち上がった。

そのまま白衣を翻してケビンに吐き捨てる。

「…でもお前みたいな馬鹿は嫌いじゃ無い。お前ならリュウとキドを…自由にしてくれそうだからな。」

息子に聞かれないように静かに小さく呟くと彼は部屋を後にした。

残されたリュウガは眩しくないようにカーテンを閉めて夕日を遮断させる。

するとファマドと入れ替えにキドマルが病室に入ってきた。

「ケビンさん…これ良かったら食べて下さい。」

両手で運んできたお盆の上には深めの皿とレンゲが置かれ、皿の中には飴色の汁に浸された米らしき物体が見える。

「その雑炊…お前が作ったのか?」

「僕…良くお母さんに料理作ってるんです。学校に行ってない分何かしないとって思って…。」


お盆を床頭台に置き、皿をケビンに渡す。

試しに一口掬って食べると…寝ぼけ眼の瞳が見開いた。

「……!」

「凄いだろ兄貴、キドの料理の腕前はそこらのレストラン以上に格別なんだ。」

リュウガが褒める横でケビンはその味に感動していた。

エルザの料理で肥えた舌で美味しく感じる料理になど今まで無かった。

それ程までにキドの料理は…美味で優しい味がしたのだ。

「どう…ですか?」

咀嚼して飲み込むのを待っていたキドマルにケビンは口元を緩ませる。

「…お前チビだけど腕はデカイな。うめぇよコレ。」

「ほ、本当ですか!?」

チビだと言われたのを素通りする程の感想にキドマルは興奮して嬉しくなった。

「良かったなキド、兄貴にお墨付き貰えるなんて大した奴だ。」

リュウガも嬉しくなって弟の頭を撫でながらふと考えた。

―自分はケビンの体を治療出来るし…キドマルは美味な料理を作れる。

それがケビンに認めて貰えた今…もしかしたらと思った。

「…リュウどうした?」

「あ、兄貴…あのさ…。」


リュウガは畏まりながら…真っ直ぐにケビンと向かい合った。

「もし…もしもの話だよ。俺とキドが仲間に入りたいって言ったら…兄貴は受け入れてくれるのか?」

キドマルもまさかの質問に興奮するのをピタリと止めてリュウガを見上げる。

「リュウ兄…それって…。」

「親父が言ってたよな。兄貴の体はもう治しようが無いって。それならこれ以上無茶しても大丈夫なように応急手当の出来る人材が必要になるって思わないか?」

「…。」

「親父とお袋を残して行くのは確かに不安だよ。でもいつまでもこの家で閉じ籠もってるのは俺もう嫌なんだ。俺も兄貴と一緒に世界を救いたいんだよ。色々な事学んで…次に帰ってきたら親父の元で修行してこの診療所を継ぐ…そう決めたんだ。」

「リュウ…。」


自分の覚悟を教えるようにリュウガはデイパックのサイドポケットから古い写真を取り出す。

何処かの戦地だろうか、十人程の白衣姿の人間がテントやジープをバックにして写っている写真だ。

《この連中…MSFか。》

色褪せてボロボロで分からないが…リュウガの曾祖父もどこかにいる筈とケビンは見つめる。

「曾祖父ちゃんの…じいじの話は嫌って言う程聞かされてさ…俺正直ウンザリしてたんだ。“俺は自分でやりたい事を見つけたい、自分で自分のレールを敷きたい”ってずっと思ってたんだ。でも結局駄目だった。俺にとってこの家は…優しい牢獄みたいな場所になっていったんだ…。」

デイパックを投げ捨て、リュウガは部屋の角にしゃがんで頭を抱えた。

「でも兄貴が足手纏いだと思うなら無理しないで。俺も男だ、腹括る覚悟はしてるからさ。」

ザッザッと床を擦る音が聞こえ、リュウガの目の前に写真が見えた。

「…纏めろ。」

「え?」

「まだ早いが荷物纏めておけ。抜糸が終わり次第この街を出るからな。」

「兄貴…荷物…街を出るっ…!」


ようやく話の意図が見えてリュウガはガバッと顔を上げる。

「兄貴…連れて行ってくれるの…!?本当に…!?」

「あぁ、お前みたいなお人好しの馬鹿は断ってもくっ付いてくるタイプが多いんだ。不満か?」

「そんな事ねぇよ兄貴!この恩は必ず返すよ!ありがとう!本当にありがとう!」

両親に丸聞こえしそうな大声にケビンは静かにしろと怒鳴る。

「良かったねリュウ兄。」

「何関心してるんだキド?お前も家帰ったらラビに伝えろ、面白い事が起きるってな。」

「…!ケビンさん…!」

まさかの期待がキドマルの全身を駆け巡る。

「あとヨシノさんには出発ギリギリまでこの事隠しとけ。バレたらバレたで俺が説得する。」

「…ケビンさん…良いんですか…!?」

「どのみちリュウがいないと寂しくなるだけだろ。それなら二人一緒にした方が効率が良いからな。」

「…あ、ありがとうございますぅぅ!」


感謝の土下座をしながら自分を両手を引っ張る二人にケビンはヤレヤレと呆れる。

でも表情はなんだが幸せそうだ。

「キド、俺は平気だから家に戻りな。それとヨシノさんに昼間はごめんなさいって伝えてくれ。」

「はい!それじゃあ!」

バッタバタと軽快に部屋を飛び出したキドマルを見送るとケビンはベッドに戻った。

「兄貴…アンタは本当に奇跡みたいな人だよぉ…グスン…。」

「いつまで泣いてんだよお前は、全く世話掛けさせやがって…。」

最早慰めるのも面倒になったと空を見つめると既に夕日が沈んで星が薄らと見えた。

その星を見てケビンは胸の内が熱くなってきた。

―この先…もう一人の自分が蘇ってくる事を知らずに。

―加えて病室の扉の隙間から…ヒッソリと隠れて様子を伺う視線があるのも気付かずに。


【11】


その日の深夜。

人混みが消えたセントラルの街は止む事の無い波の音と風でヤシの木が揺れる音に包まれている。

満月の明かりは夜の街を照らして静かに浮いている。

光が照らすその一角のアパートの部屋で少年は中々寝付けずにいた。

「はぁ~ラビ、どうしよう…僕眠れないよぉ…。」

布団で頭までスッポリ覆っても少年は胸の鼓動が睡魔を消し去ったせいで眠れなかった。

『随分嬉しそうですねマスター。』

「だってだって…!ケビンさんが僕を仲間にしてやるって言ってくれたんだよ!僕…もう胸がドキドキして…夢じゃ無いかって何度もほっぺ抓ると痛いから…夢じゃ無いって…本当だって…!」

『気持ちは分かりますが落ち着いて下さい。じゃないと余計寝れなくなりますよ。』


枕元で猫みたいに丸まっていたラビは興奮した主人の声でコッチまで眠れないと抗議していた。

でもキドマルの頭の中にはもう…夕方の会話しか記憶されていない。

信じられないのだ。

ケビンが自分を選んでくれた事が。

「おまけにラビも連れて行くなんて…僕もう死んじゃいたいよ…!」

『それで本当にショック死したら洒落になりませんわ。』

ラビはいい加減寝させようと姿勢を崩して主人の布団の中に侵入する。

『でも良いのでしょうか?私なんかも一緒で…。』

「…ラビ?」

『私の体にはミステシアのドックタグが埋められています。これがある限り…フェイクの取り巻きが私を奪いに来る可能性は充分有り得るんですよ。そうなったらどんな事が起きるか…。』

キドマルの手首を掴んで警鐘するラビは赤い瞳を潤ませる。

だがキドマルはそっと手を伸ばしてドックタグに触れた。

「大丈夫だよラビ。」

『…?』

「ケビンさんは多分…そのフェイクって男をわざと誘き寄せようとしてるんだ。その為にはラビが必要だって…考えてるんだよ。」


言うならば自分を囮にしようとしている訳だ。

考え直すと恐ろしいがラビは何故か恐怖を感じずに耳を後ろに垂らす。

「幹部の筆頭が倒れれば直ぐに組織のバランスは大きく崩れる…そこを狙って一気に畳掛ければアイツらも準備やらする前に一網打尽に出来る…そうは思わない?」

『…!?』

「勿論危ない方法だってのは僕にも分かる。一歩間違えれば誰かが死ぬというのも。でも…ケビンさんなら必ずやり遂げられる…そんな気がするんだ。」

『マスター…貴方どうしてそこまで?』

「ほら!アニメとか漫画ってそういう展開になる事多いじゃん。それが現実になったら凄い事が起きそうだよ。それこそ世界がひっくり返そうな位凄い事がね。」

ふわぁ~楽しみだなぁ~と覆っていた掛け布団を降ろしてキドマルは天井を見上げる。

するとラビが布団の上から主人の胸の上に移動した。

『マスター、現実は漫画やアニメの様に上手くはいきません。何が起こるか分からないんですよ?』

「それは覚悟してるさ。でも僕やってみたいんだ。リュウ兄の話聞いて考えたんだよ。僕も今のままじゃ駄目だって。僕も…弱い自分とおさらばしたいんだ。」


無意識に伸ばされたラビの額の角に指先を当てる。

すると静電気のようにバチッと鈍い音がした。

「僕はずっと…本当の自分を隠して生きてきたんだ。無論この力も封印して…。」

『…。』

「この力は万能だけど必ずしや人の命を奪ってしまう…そう教えられて僕は自分から力を捨てたんだ。でも決めたよ僕。ケビンさんなら必ず…本当の自分を受け入れてくれるって。」

少年の視線は角に触れた指先に凝視される。

バチバチと微弱な火花が見えて指先がビリビリ痺れてくる。

「だから僕は…この力を再び宿す。大事な人を守る為にね。」

痺れる指先を握り込んでキドマルは頑なに瞳を閉じた。

ラビも角を縮めて前足で主人の服を引っ掻く。

『…分かりましたわマスター。それなら私も止めはしませんから。』

「ありがとラビ。じゃあそろそろ寝ないとね。」

チュッとフワフワの毛玉にキスして枕元に降ろすと頭を横にして枕に付けた。

「お休み…ラビ。」


満月に照らされた…月と同じ黄金色の体毛を見つめるキドマル。

彼のその瞳は…知らない間に月と同じ美しい黄色に染まっていた。

それはラビの体毛が映り込んでいるのでは無く…自然と自分で変えた瞳。

今まで隠していた…本当の自分の正体なのだ。

背中を撫でる主人の手が落とされた事にラビは察し、静かにベッドから降りる。

そして首を持ち上げて満月を見つめていた。

背後で眠る少年は昔こんな事を言っていた。

まだ自分を拾ったばかりの頃…自分の正体を告白する前にキドマルは今日みたいな満月の出る夜にこう話してくれた。

―ラビ知ってる?月には兎が住んでいるんだよ。

―ラビって月と同じ色だね、もしかしたら月から落ちてきたのかもね。

―いつか二人で一緒に…月に行こうね。


瞳を星空みたいに輝かせて…叶う事の無い夢を語ってくれた主の少年。

その主は今…その叶う事の無かった夢を実現させようとしている。

自分から思い扉をこじ開けて歩き出そうとしているのだ。

『マスター…。』

雲の切れ間から伸びる月光が照らし、ラビは瞳を閉じた。

外の木々が風に揺れて獣が取り過ぎたような不思議な時が流れる。

やがて風が落ち着くと…キドマルの部屋には見知らぬ人影が姿を現していた。

長い耳の付け根を覆う金色の髪の毛、瞳と同色の赤いベストに白いシャツ、そしてグレーのズボン。

それは主人にすら未だ見せていない…もう一人のラビだ。

『貴方のお命と夢は…私が守って見せます。』

兎の耳を生やした少年は貴族に仕える執事のように左膝を床に付けて座り、左手の掌を胸に当てて頭を下げる。

『私も…貴方と共に死にに行く事…今ここに誓います故。何卒…お使いになってください。』


再び外では風が吹き出してヤシの木を揺らしていく。

その風の音を耳に彼は主人の布団を直すとベッドに上がった。

すると手品その物の早変わりで彼は人間から元の獣の姿に戻った。

スヤスヤと眠る主の枕元で丸まり、今度こそ眠りに就く。

自分達の日常が急変するのを…楽しみに待つように。

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