悪魔の女!猛毒の女狐トキシック!
【1】
小さな職人の町は見知らぬ一人の客人の手によって地獄と化していた。
おびただしい煙に包まれ、人の影は見当たらない。
この状態でも全滅したのかと疑う程に無人のゴーストタウンに変わり果てていた。
決闘の場から眺める一同はその変わりように言葉を失う。
「ジョーカーの野郎を責める気はねぇが…一大事のレベル越えてるぞコレ。」
「まさに“いとも容易く行われるえげつない行為”そのまんまだわ。」
「…てか何気に双眼鏡回して観察するより直接行った方が早くね?」
双眼鏡を右から左に受け流して町を伺う三人。
ケビンがあの煙は普通じゃないので近寄るのは危険だと念押しした事からまずは様子を探っているのだ。
「にしても誰も居ねぇな。皆避難してるみたいだ。」
「まぁ民間人巻き込む訳にはいかないしね。その方が暴れやすいわよ。」
「…アンタらも何気にえげつない事言うなよ。」
もうツッコミ切れないと嘆くジャッキーの横でマナはビッグベアの鼻先を撫でている。
「グゥゥゥ…。」
白い牙を見せて唸る羆の呻きをマナは脳内で感じてケビンに振り向く。
「ケビン、クーさんがおじさんの匂いがしないって言ってるよ。」
「ニャオニャ~オ。」
リンクスも真似しても伝えると大きな羆は目を細めてケビンにすり寄る。
それを見て咄嗟に腋の下に頭を入れてよしよしと撫でた。
「匂いがしないって…あそこに居ないって事?」
「ガオオ。」
「でもこんな所から匂いなんて分かるのか?」
ケビンは顔色を変えずにあながちデタラメでは無いと二人に返した。
「犬の嗅覚は人間より優れてるって良く聞くだろ?実は羆の鼻って犬より鋭くてな、その意味じゃ雑食の警察犬みたいな奴なんだ。」
「ガウウ。」
そうなんだよと自慢するように吠えるビッグベア。
足も速くて鼻も優れておまけに力持ち。
これほど頼りになる用心棒はいないと言葉を喋りそうだ。
「それに…こいつも手掛かりになってるからな。」
黒い鼻先がめり込んでいる緑のジャンパーをケビンは着直す。
ビッグベアはこの上着に付着した主人の匂いが地面に残っているのを感じ、尚且つ町の何処かでその匂いが消えていると推理していたのだ。
「でもなビッグ、主人を襲ったのがどんな奴だろうと人間は食べるな。人肉の味を覚えたら最後…人間しか餌にしなくなるからな。」
「ガオ?」
どういう意味なんだと首を傾げる羆の隣でエルザも青ざめながら聞いてくる。
「熊って…人間も食べるの?」
「あぁ…餌が無くて本当に死にそうになったらって可能性だけどな。でも一度人間を食べた熊は銃も火も恐れなくなる…味を覚えるだけじゃなくて思考も人間に化けちまうんだ。」
もうカオスとかサイコパスだと当てはまる程の言葉を口にするケビンにエルザは頼もしさと恐怖を感じた。
《そんなの普通の人間じゃ言わないわよ。やっぱり…人には言えない生き方してきたのかな?》
ガデフとの喧嘩の時にも自分から彼は言っていた。
―自分は鬼だ悪魔だと恐れられてきた。
―年中血の臭いがする所で暮らしてきた。
それだけでも普通の生活が送れなかったのが丸分かりになっていた。
更に野生動物の知識といい頭の回転の良さと言い、考え方も普通のエリート所の話では無い。
その体に色々な物を背負わされてきたのが目に見えていた。
「…どうしたエルザ?」
「えっ?」
「さっきからチラチラ俺の事見てて…何か気になったのか?」
―何処で気付かれていたのか。
ビッグベアを挟んで向こう側に立つ男が真っ直ぐに自分を見つめていたのだ。
「う、ううん!大丈夫よ。」
「もしかして…俺が馬鹿げた事言ってるって呆れたか?」
「そ、そんな訳無いわよ!そ、そりゃあ…ケビンって凄い物知りだなぁって思ってただけであって…そんな貴方が変だなんて一度たりとも…!」
何とかお茶を濁すとケビンはそうかと振り返って指笛を吹いた。
直ぐにバサバサッと空から大きな羽ばたきが聞こえて赤い不死鳥が降り立つ。
「頼むぞ。」
「キュアアアア。」
その一言にフェニクロウは大きな翼を広げて大地に風を送った。
羽ばたきはスーパースロー映像のようにゆっくりと巨大な風を支配された町に届ける。
熱波を帯びた風は町中を覆っている煙を浄化して掻き消していく。
その有様を窓から眺める人物がいた。
「おい見ろよ!煙が晴れていくぞ!」
ガデフに言われて町の中心にある集会場に避難していた住人が驚いて窓辺に集まる。
死の恐怖を植え付けていったおぞましい煙が見る見る内に消されていくのだ。
「ほ、本当だ…。一体誰が…?」
「でもこれなら外に出られるんじゃないか?」
「そうだぜきっと!早く親分さん助けにいかないと…!」
だがその言葉に数人は顔をこわばらせた。
まるであんな奴忘れろよと吐き捨てるように外に出ようとした数人を睨む。
「おいおい、あんな殺人鬼の男を助けに行く必要なんてあるのか?」
「えっ!?だ、だって…!」
「分からねぇのか?あんな奴仲間じゃないだろ。」
「そうそう。人を殺したのに警察に捕まってないなんて危ない奴じゃねぇか。そんな奴が別に死んでも問題ないだろ。」
集会場にいる住人の半分が外に出るのを止めようとする。
だが残る半数の人間は俯きながらも必死に説得してくる。
「でも親分さんが逃げろって言わなかったら皆死んでたんだぞ!そんな良い人を見殺しにするのか!?」
「そうだそうだ!さっきもこの町を守ろうとして逃げ遅れたんだぞ!早く助けに行かないと本当に取り返しが付かなくなるんだぞ!」
騒ぎは一斉に大きくなって住人は真っ二つに意見が割れていた。
彼らの大半はガデフの過去の過ちを少なからず知らされている。
それでも彼の性格を、必死に自分らを纏めようとする真面目と謙虚さを好んでいる人もいるのだ。
だから追い出すなんてと反対の声が出るのは当然だった。
その声は窓を通り越して外まで響いて当然ながらこの男達の耳にも入ってくる。
「あ~あ、揉めてるな。」
「でも行かないとなぁ…。俺達親分が何処に居るか知らねぇし。」
「まぁ…何事も無いのが一番だけどね。」
【2】
痺れを切らした住人が外に出たのもそのタイミングだった。
その人物はケビンの姿を見て前日にガデフが招いた客だと見抜いた。
「ア、アンタ達戻ってきたんだな!良かった!助かったよ!」
その喜び振りにケビンは違和感を感じた。
確かガデフは自分らを弔った事にすると伝えてる筈…。
疑問に思ったので尋ねてたらそれは嘘だと彼は見抜いていた。
「だって親分さんがそんな真似する訳ないだろ。だから逃がしたって直ぐに分かったんだ。」
「そうか、迷惑掛けたな。」
「そんな…こちらこそ勝手に悪者扱いして…本当に済まなかったな。」
ガデフを探しに行こうとした人間達が続々と外に出てきた。
彼らもケビンが町を覆っていた煙を消したと信じて礼を述べてくる。
「褒美ならいらねぇよ…それよりガデフさんは何処に?」
「そ、それが…。」
逃がされた何人かは町に何が起きたのかを説明してくれた。
ケビンはその中で出てきた黒いドレスの女の存在を知ってそれをジョーカーの言葉と照らし合わせた。
「成程…そのべっぴんさんがジョーカーの言っていた女王様とやらに違いないな。」
「でもどうやら遅かったみたいだな…何処へ逃げたんだ?」
「それは分からないんだ。俺達皆避難するのに必死だったから…。」
でも誘拐犯の正体が分かっただけでも良いとケビンは彼らを称えた。
「とにかくアンタらは危ないからまだ避難してろ。俺達が助けに行く。」
「でもお兄さん大丈夫なのか?あの女…なんかヤバそうな怪物を引き連れてたよ。」
「なぁに、毒を持って毒を制するって言うだろ。怪物を持って怪物を制するだ。」
その通りだとビッグベアは空に向かって雄叫びを上げる。
ビリビリとした振動で窓ガラスや木の窓枠が揺れた。
「…そうだ、毒と言って思い出したんだがな…。」
取り巻きの中にいた白衣の男性が黒い鞄を差し出す。
「ワシはこの町で医者をやっている者だがな…これを持って行きなさい。」
ケビンが鞄を開くと中には薬の瓶が幾つも入っていた。
「…これは?」
「解毒剤だ。ずっと使い道が無いんで倉庫に仕舞っていたがこんな時に役に立つとは思わなくてな…。住人の治療は粗方終わっているからどうか使ってくれ。」
きっとガデフも毒に蝕まれてる可能性があるからその薬を試してくれと医者は言ってきた。
「私はもっと効能のある解毒剤を用意しておく。済まないがそれで持たせてくれ。」
「あぁ、ありがとよ。」
しっかりと鞄を受け取るとケビンは最初に入ってきた南側の出口へと向かった。
その辺りの地面を良く見ると足跡が微かに残されている。
「引き上げてまだそれ程経ってないな…ビッグ?」
「ガゥゥ。」
ジャンパーの匂いを嗅がせるとビッグベアは地面に鼻を擦り付けて歩き出した。
リンクスも興味本位で背中に乗ってニャーニャー鳴く。
二匹の目指す先は町から離れた…開拓が放置されたままの広い荒野だ。
「…あの辺のどっかに逃げたって感じか。」
「ならさっさと捕まえてボッコボコにしてやろうぜ。」
「何よ、さっきまで物騒とか何とか言ってた割にはやる気満々ね。」
完全に勝ち混みのムード全開の男女と裏腹にマナはビッグベアに寄り添っていた。
「クーさん、おじさんならきっと大丈夫だよ。」
「ガ、ガルルル…。」
「何で分かるかって?なんとなくそんな気がするからだよ。だっておじさん、ケビンよりずっと強いもん。だから大丈夫だよ。」
大丈夫大丈夫と言い聞かせながら目の回りの毛を撫でると毛むくじゃらの前足が伸びて小柄な体を包み込んだ。
その仕草はまさに人間そのものである。
マナの目の前には恐ろしげさを感じる牙と分厚い舌が迫るが本人は恐がらずにニッコリと笑う。
「ガルル…ガウゥ。」
「ふえっ?そんなに優しい事言ってくれるのはおじさん以外いなかった?本当?」
「ガオオ、ガルルルァ!」
目の前の宝を愛でるように吠える羆にマナは驚きながらも笑顔を崩さない。
リンクスもビッグベアの頭の上で微笑ましく鳴いて両手に花みたいな状態だ。
端から見ると恐ろしいのにこれでは産まれたての小熊と変わらないだろう。
「ガァア?」
黒い鼻先がピクリと揺れてビッグベアは視線をマナから虚空へと向ける。
そこから何かを見つけたように少女を手放してのしのしと歩き出した。
マナは羆から飛び降りた愛猫を抱いて真っ黒いお尻を静かに見送る。
数歩歩いた先でビッグベアは足を止めると振り向いて小さく吠えた。
「黙って付いてこい…だとさ。」
「まぁ…ペットが飼い主に似るって奴の典型的なパターンだな。」
風吹き荒れる大地を歩くその姿はまさに野生の獣。
その瞳が捕らえる人物は…ただ一人だけ。
主人そっくりの人間臭さと懐の深さがそのまんま現れている。
「…兄ちゃん。」
背後から誰か話し掛けて来た。
目だけ後ろに向けるとガデフと同い年位の男が立っている。
「…何か用か?」
「いや、その…俺らの事恨んでないかなって思ってさ…。こんな事になったのもコレが原因だし…。」
男の手には喧嘩の発端となった新聞が握られている。
しかしケビンは新聞を見ないように男を見つめた。
「…俺がそんな紙切れを信用するとでも思ってたのか?」
「ま、まぁな…。」
予想通りの答えを聞いて不死鳥の男は薄く笑った。
「心配しなくても仕事終えたら直ぐに消えるさ。ここよりもずっと遠い所まで逃げてやるよ。」
そう言い放つと解毒剤を持ってビッグベアを追い掛け始めた。
残された男はその背後を見送って呆然とするばかりだ。
《兄ちゃん…まだアンタには大事な事を伝えないといけないんだ。だから…絶対に戻って来いよ…。》
力を抜いて地面に落ちた新聞が風に飛ばされ、空へと吸い込まれていった。
【3】
家も草木の無い荒野にポツンと現れた廃墟。
貴族の屋敷のようなこの大きな建物はかつてはホテルとして機能していた。
しかしガイズタウンは職人の町、観光向きの場所では無いので経営は厳しく、結局潰れてしまった。
加えて解体にも莫大な予算が掛かるのを理由に壊される事も忘れられて今も残っている。
巷では幽霊が出るなど不気味な声が聞こえる等と噂されており、それでも立ち寄る人間はいない。
―その真相が本当に怪しげな団体の根城だとも…知られていないのだ。
苔塗れになった銅像が目印の廃墟の前に大きな生き物が影を作って立っている。
ブゥゥゥと唸りながらスンスン鼻を鳴らして地面の匂いを嗅いでいる。
犬よりも数倍鋭い嗅覚で探った主人の匂いは的確にかつ間違い無くここで途切れている。
砂まみれになったフサフサの体毛をケビンが優しく撫でる。
「ほう、こんな所にホテルがあったとはな。確かに隠れ蓑にはうってつけの場所だ。」
廃墟の窓ガラスは割れたり曇ったりしていて中は暗く、様子は伺えない。
かつては庭師が手入れしていた筈の庭園も雑草に覆われ、枯れて灰色になった巨木に数和の鴉が止まっている。
蜘蛛の巣を被った入り口の手前には噴水もあるがもう水は止まったままであちこちひび割れている。
これだけ見ても倒産してからかなり時間が経過していると思われた。
「なんか懐かしいなぁ、姫が拐われた時もこうして二人で乗り込んだよなぁ旦那。」
「…そうだな。」
相棒に言われて実際ケビンもそう考えていた。
マナがジャッキーを雇っていたマフィアに誘拐され、二人で助けに行った記憶を。
思い出すとほんの少し前の出来事なのに随分昔の様に感じていた。
「その時からなのね、ジャッキーが変態になったのって。」
「いや、その前からだな。」
「…アンタら…少しは遠慮する気持ちってのも考えてくれよぉ…。」
深い傷口を抉られて涙を流すジャッキーをマナはキョトンとしながら見つめる。
するとリンクスがニャ~と一声鳴いた。
「リンリン?」
「フニャ。」
尻尾で地面を叩く素振りを見せながらリンクスは廃墟の入り口を眺める。
すると扉が開いて二人の人間が出てきた。
見つからないように一行は銅像の裏に隠れて門番の姿を確認する。
カーキ色のコートを羽織って顔にはガスマスクらしき物を装着している。
そこだけ見ると宇宙人と見間違えそうだ。
二人は扉を閉めるとマスクを外してウ~ンと背伸びをする。
「しっかしトキシック様って相変わらずえげつない事するな。今回の獲物ってなんかゴリラみたいな男なんだろ?型物なのにいつも以上にいたぶってるよな。」
「その辺にしとけよ。どんな奴だろうが粉微塵にするのがあの人のやり方だからな。」
マスクの下の素顔はケビンやジャッキーにも劣らないホストさながらのイケメンだ。
主の男好きか辛うじて伺える。
「おまけに見てくれよコレ。」
二人の内、栗毛の男はコートの襟元を引っ張る。
相方が見ると首にルージュで彩られたキスマークが付いている。
「うはっ!どうしたんだよそれ!」
「笑うなよ!仮眠して起きたらこうなってたんだぞ!」
「あれじゃね?お仕事お疲れって労ってんじゃねぇか?」
「勘弁してくれよ…落ちにくいのに…。」
話だけ聞いてると悪の組織の下っ端も色々苦労してるなとケビンは思った。
でも野放しにしておけば必ずしも何かが起きる。
それを考えると仕留めるしかなかった。
「さてと旦那、アイツら俺様が足止めしようか?」
マフィアのアジトに乗り込んだ時を思い出してジャッキーが動こうとした。
「待ってジャック。」
マナが立ち上がろうとしたジャッキーの上着を引っ張る。
「どうしたの姫?」
「なんかね…リンリンがさっきからモジモジしてるの。どこか痒いのかな?」
どれどれと見るとリンクスは自分が座っている場所をグルグル回ったり何度も座ったり立ったりを繰り返している。
ノミでも付いてるか、でもそれなら顔とか腰回りを掻き毟るよなと考えながらケビンはあっ、と呟いた。
「マナ…多分それ痒いんじゃなくてトイレ行きたいんじゃないか?」
ポクポクポクチーンとこの場にいる全員の頭の中で木魚が鳴った。
そういえば昨日家に連れてきてからマナはリンクスに一度もトイレのやり方を教えていない。
そして今朝も牛乳水を与えるもトイレに関しては完璧スルーしていた。
恐る恐る見るとリンクスのお腹はほんの少しだが膨らんでるように見える。
過ぎた時間を計算すると…膀胱に貯まった尿の量は尋常じゃ無い筈。
自分等を気遣って我慢していたがそれも限界に近付いていたのだ。
「おいおい姫ストップ!こんな所でトイレとか勘弁してくれよ!」
「無駄よジャッキー。これ以上我慢しても何れは外に数滴漏れるんだから。」
美人のくせしてなんて事言うんだとジャッキーがツッコミを入れればエルザも即座に頬を引っ張った。
「待てよそれだ!」
「えっ?だ、旦那?」
【4】
―それから二分後。
特に侵入者なんて現れないのでほぼサボり始めた門番の前に小さな客が現れた。
トコトコ歩いてきたのは鼠色の猫だ。
「なんだコイツ?野良猫か?」
「首輪付けてないから野良だろ。」
男と言えども小動物には敵わないらしく、急に顔面が崩壊して猫をあやす。
「あ~でもゴメンな、マタタビとか持ってないんだ。」
「てかそれよりちゃんと手洗えよ。あの人動物の臭いとか大嫌いだからさ。」
顎の下を撫でると気持ち良いのか、猫はもっと遊んでと差し出された手に前足を乗せた。
「ははっ、お利口さんだなコイツ。でももう遊べないんだ。悪いけどどっかに」
「ニャ~!」
や~だよ~と悪戯小僧風に飛び掛かってきた猫を仕方なく抱き上げたまさにその瞬間、
―ブッシャアアアアアアアアアア。
両足の間から生臭い黄色い水が破裂した水道管並みに噴き出して男の顔面を直撃した。
相方はうわぁぁぁぁぁと絶叫しながら後方に尻餅を付き、尿を掛けられた男は真っ直ぐに直立した姿勢で綺麗に倒れた。
リンクスはニャ~オと欠伸しながらもう一人の門番に小さな可愛いお尻を向ける。
「わぁぁぁ!止めろぉぉぉ!!」
懇願も空しくまたもやブシャアアアアと世界一不快な噴水が門番を襲った。
顔面小水塗れになった門番はあうあう言いながら倒れた。
「ニャ~ニャ~オ。」
溜めていた物を出し尽くしたリンクスは満足げに自分の背後を見て一鳴きした。
門番と相対するイケメンコンビは絶望的な顔をしながら倒れた門番に近寄る。
「見ろよジャッキー、俺の思った通りだ。」
「…旦那…俺もう野外で立ちション出来ねぇよ。」
悶絶した敵を迷いながらもズルズルと銅像の裏まで引きずる。
こんな汚らわしい手段を思いつくなんてとジャッキーは改めて相棒のえげつさを実感していた。
「…で、変装して中に入るって訳なの?」
「変に物音立てたら捜索処じゃ無くなるだろ。それならこの方法が打って付けだと思ってさ。」
ゴソゴソと門番のコートを剥ぎ取ると思わず顔を背けた。
原因は勿論、リンクスのオシッコの臭いだ。
「ほ~らやっぱり駄目じゃん。それにそんな臭いの着てたら直ぐにバレるわよ。ちょっと貸して。」
エルザは呆れながら鉄扇を入れるホルスターと対に巻いているウエストポーチを開けた。
手鏡や携帯サイズのヘアブラシやヘアゴムやクリップやらと広げながら小さな香水の瓶を探し当てた。
そしてコートにその香水をシュッシュッと振り掛ける。
「ほら、これで多分大丈夫よ。」
半信半疑にケビンが鼻を近付かせるとさっきまでの嫌な臭いが消えていた。
「スゲー…消えてる。」
「この香水はメンソール成分の特注品よ。だから香り付けよりは服の臭い消しとかに使ってるの。」
「マジか…。女の道具にこんな使い道があるなんてよ。」
ジャッキーは着重ねで熱くなると思い、上着と帽子を脱いで消臭したコートを羽織る。
これでガスマスクを装着すれば最早誰だが分からないだろう。
素っ裸になった門番は目覚めても動けないようにマナが茨で縛り付けておく。
ケビンはガデフのジャンパーを体に対して斜めに羽織い、袖口を結ぶ。
その上から剥ぎ取ったコートを着れば準備完了だ。
「まず俺とジャッキーが中に入ってガデフさんとトキシックって女を探してくる。居場所が分かったらフェニクロウからペガクロスに合図を送るから。」
「分かったわ、気を付けてね。」
そして町医者から預かった解毒剤を一本だけ忍ばせると残りはエルザに預ける。
あの時とは違って今回は女子供と一緒だ。
全員で乗り込んでも返り討ちになる可能性が高く、それを考慮して二人には最初外で待機してもらい後から乗り込んでもらうという算段だ。
少し心細いがビッグベアも一緒なので二人の護衛を任せる事にする。
「よしビッグ、外は頼んだぞ。」
「ガオオオオ。」
「姫、何かあったら俺様を呼んでくれよ。」
「良いから早く行きなさいよ馬鹿。」
こうして二人を見送りながらエルザはリンクスをあやすマナに振り返る。
「マナ、帰ったらちゃんとトイレのやり方教えないと駄目よ。」
「ハ~イ。」
「ニャ~オ。」
本当に分かってるのかと疑いつつ、猫と揃って可愛く返事する娘を抱き締めながら寂しい雰囲気の廃墟を見つめた。
一方、ケビンとジャッキーはガスマスクを付けてホテルの内部へと侵入する。
レンズ越しの視界は少々ぼやけて見えづらいが家具などの姿は見えるので慎重に歩く。
室内は天井も壁も蜘蛛の巣が張ってあって薄暗く、窓から差し込む太陽の光が絨毯で覆われた廊下を照らしている。
おまけに廃墟全体になにやら靄みたいなのが掛かっていた。
レンズが曇りそうなその靄は恐らく…ガイズタウンの住人を襲ったあの毒の煙に違いないだろう。
それを考えるとガスマスクを装着する意味が理解出来た。
「旦那汗かかない?この中かなり蒸し暑いよ。」
「心配するな。俺はこの程度じゃまだ発汗しないんだ。お前こそ水分持って行かれるなよ。」
マスクで顔面に熱が籠もって頭がフラつきそうだがそこを堪えて二人は通路を進む。
「おい、お前ら。」
背後から声を掛けられて自然と足が止まる。
振り返ると後ろにはモスグリーンのコートを羽織ったマスクの人間が立っていた。
「こんな所で何をやっている?お前達は見張り番だろう?」
ジャッキーがそっと横を向けばケビンは脳内で状況を整理する。
《成程、顔が確認し辛いからコートの色で役職を決めてるんだな。》
なら情報を引き出せると決めてズイと一歩前に出た。
「こんな辺鄙な所には誰も入らないですよ、だから見張りしててもつまらないから戻った訳です。」
幸い声も曇って聞こえるが相手は訝しそうに下を向いてもう一度振り向く。
「お前…なんだか声が可笑しいな?ちょっとこっち来い。」
ヤバイとジャッキーが手を出そうとするがケビンはその前に相手の首元を鷲掴みにした。
「な、何をす…!」
「お前…仮にも客人に向かってそんな口の利き方しか出来ねぇのか?テメーらは本当に躾がなってない連中ばっかりだな。」
ケビンの手の甲に熱が籠もり、ジュウウウとコートの襟首が焦げて煙が昇る。
「あ、あづっ…やめっ…!」
「喉元焼かれたくなかったら俺の質問に答えろ。トキシックは何処にいる?それと奴が連れてきた男は無事なんだろうな?」
「き、きざまぁ…!」
だが反論する声に首を絞める力が強くなる。
「どうなんだ?答えるのか?それとも答えないのか?」
「だ、だれっ、がっ、デ、デメーに…!」
「…そうか、分かった。」
殴りかかろうとした男は分厚いレンズの向こうにある侵入者の瞳を見て…悶絶とした。
幾人もの血で染まったような真っ赤な瞳に心臓を突き刺されたように…男はガバッと泡を吹くような声を出した。
そのままケビンが手を離すと尻餅を付く事無く大の字で倒れた。
「クソッ…気絶しやがった。」
「旦那…その脅しの仕方って…?」
ジャッキーは彼の何に怯えたのかが理解出来ずに戸惑うばかりだ。
しかしケビンは男の両脇に手を入れると相棒に声を掛ける。
「足持ってくれ。このままだと見つかるからどこかに運んで隠すぞ。」
「あ…あぁ。」
結局答えを聞けずにジャッキーは相棒に従ってズルズルと男を運んでいった。
【5】
二人が隠し場所として訪れたのは…棚が幾つも並ぶ大きな部屋だ。
中央に置かれた横長の台にはまな板やステンレスのボウルが置かれ、埃まみれの棚には皿や瓶が仕舞ってある。
どうやら厨房のようだ。
ケビンは暗い厨房を手探りで探りながらお目当ての物、冷蔵庫を突き止めた。
扉を開けると当然ながら電気が止まっているので冷蔵庫は機能を失っている。
幸い中に物は入ってないので先程の男の体をそこへ押し込んだ。
「落ちてこないか?こんな所入れて。」
「一番奥まで入れれば多分大丈夫だろ。」
冷蔵庫に生きた人間を閉じ込めるなどとんでもない発想だが背に腹は代えられない。
二人がかりで体を捻って一番奥まったスペースに入れれば作業は完了だ。
やれやれと一息付きながら二人は冷蔵庫の前に座り込んだ。
かつては多くの料理人が働いていただろうこの場所も人が居ないとこんなにも朽ち果てるのかとケビンは溜め息を付く。
「それにしても広いなココ。どこがどうなってるのやら…。」
「…。」
「…ジャッキー?どうした?」
この部屋に煙は広がっていないのでケビンは声が通りやすいようにマスクを外す。
「な、なぁ旦那…その…。」
心臓がバクバクして一瞬言葉に詰まる。
ほんのシンプルな質問だが…尋ねるのにこんなにも勇気がいるなんてと正直恐い。
それでも…自分は彼の相棒、その心の内を知るのも大事だと意を決して口を開いた。
「旦那ってさ…もしかしてマフィアの子供とかなのか?」
ケビンは何も答えない。
それが踏み込んではならない領域だとジャッキーは承知していた。
それでも知りたかった。
彼の素顔、そのベールの裏側を。
「旦那には悪いと思ってずっと黙ってたけど…アンタ普通の人間じゃ無いだろ。その…なんていうか…たまに見せるあのギラギラした目…あんな目…普通じゃまず出せねぇよ。だから…あんまり普通じゃ無い所で生きてきたのかなぁ…って。」
目を合わせるのが恐くてジャッキーは耳を塞いで反対の方向を向いた。
「悪い…怒ってるよな。もし勘に触ったなら殴っても良いぜ。旦那に殴られるなら…本望だからさ。」
一秒、二秒、十秒経っても返事はこない。
その代わりにバサバサと服を脱ぐ音だけがした。
「だ、旦那?もしかして汗かいたとか?なら俺風呂場とか探し…」
「…見ろ。」
低いトーンでたった一言。
今まで聞いた事無い程暗い呟きにジャッキーは思わず振り向く。
するとケビンはコートを脱いで背中を向け、襟足をたくし上げた。
近寄ってみると彼の首の後ろにはなんと刺青が彫られていた。
それもフェニクロウを彷彿とさせる翼を広げた鳥の刺青。
後ろ髪が長いせいで今まで見えなかった彼の秘密だ。
「旦那…いつ入れたんだこんなの?」
「随分昔さ。思い返せば…二十年も前だ。」
「に、二十年!?」
あっ、と大声を出してしまった口を塞いでジャッキーは言葉に詰まった。
二十年前というとケビンはまだ…八~九歳位の年頃の子供だ。
子供の頃から刺青を入れる家柄なんて…どう考えても堅気の家では無い。
《やっぱりか…それにギルクなんて名前の家…まさか旦那…。》
刺青に触れようとした指先が止まる。
それに連動して鼓膜がピクピクとした。
「…あれ?」
気のせいだろうか、何か音が聞こえる。
「どうしたジャッキー?」
「旦那、何か聞こえねぇか?」
ケビンも思わず耳を傾けると音が聞こえる箇所を探る。
辿って着いたのは厨房の一番大きな棚。
そこに面する壁からピシッ、ピシッ、と叩く音がする。
水滴が漏れるのよりも若干大きな音、何かを打ち付けるような音。
―誰かが…この壁の向こうにいる。
それしか考えられなかった。
「…ん?」
ケビンは壁と棚の隙間が少しばかり空いているのが気になった。
目線を下に向けると棚が浮いている気がした。
「もしかして…。」
思わず棚の端を両手に持って引くと重たいイメージの棚が簡単に横にずれた。
下の四隅にキャスターが付いていて移動式になっているのだ。
棚をどかすとそこに壁と擬態しきれていない茶色の扉が顔を出す。
「ほう、隠し扉か…。」
迷いながらドアノブを握ると扉は簡単に開いた。
その先は窮屈そうな小部屋で地下へ続く階段がある。
「ここが厨房なら…この下は食料庫か。」
「じゃあ…親分はこの先に?」
「あぁ…多分な。」
侵入者だと思われないようにケビンはコートとガスマスクを再装着する。
するとスーハースーハー呼吸して息を整えた。
―『フェニクロウ…ペガにこの場所を教えといてくれ。』
―『キュアアア。』
相棒に訴えると覚悟を決めて階段を下りる。
下に近付くに連れてあのピシッピシッとした音も大きくなる。
音を聞くだけでも背筋が凍りそうな恐怖が込み上げてくる。
「ジャッキー、あの音なんだか分かるか?」
「え?なんか八つ当たりする音だろ?」
「…あぁ、人間への八つ当たりの音…って言えばいいか。」
ジャッキーは何の事だが一瞬分からなかったがよくよく考えてゾッとした。
古来より人間にする八つ当たりの仕方といえば…くすぐりや鞭打ちが思い浮かべられる。
「成程、ジョーカーがなんで奴を女王様って呼ぶのかって理由が分かったぜ。」
「それってさ旦那…あれ…ふ、風俗店で女王様ってお呼びって奴の…ソレ?」
「ん?なにお前?もしかしてそっち系の好みなのか?」
「い、イヤイヤイヤ違うって!もしそれなら俺様とっくに姐さんにボッコボコにされてるよ!」
ジャッキーの頭の中には鞭と蝋燭を持ったボンテージの女のイメージが浮かんでくる。
考えるとジョーカーより百倍恐ろしい相手だと足がガクガク震えてくる。
「でもエルザにいたぶられるのは嫌いじゃ無いんだろ?なら好きだって事じゃねぇか。」
「だから違うって!てかなんでそんな事ストレートに言えるんだよ旦那は!」
いつもの女子供に優しいケビンが言うような台詞では無いと反論しながらも段々大きくなる鞭打ちの音にジャッキーは自分がお仕置きされてるみたいに全身が寒くなってきた。
「もう早く行こうぜ…俺こんな所嫌だぁ…。」
「そうだな、生きて帰れたら好きなだけエルザに尻叩いて貰えよ。」
相棒をからかいつつ、ケビンは見知らぬ地下へと足を進めていった。
【6】
―その女は組織の中では最も危ない人間と呼ばれていた。
ケビンの宿敵であるジョーカーさえも身を引く程に人の苦痛や嗚咽を快感とする厄介者。
まさに女王と呼んで敬いたくなるその姿はある意味で男を魅了させていた。
そして恐ろしいのは…彼女の仕打ちを一度喰らうと大抵の人間は快楽に落ちる事だ。
それだけ見ていられない程の痛みを、恐怖を刻み込まれるのである。
人間の筋肉をいたぶる音がカビ臭い倉庫の中で何度も音を上げている。
ハァハァと歓喜の息遣いに浸るのは黒のボンテージに身を包んだ爆乳の金髪美女。
手に持った黒の鞭がシュッ、と空気を切り裂いて固い筋肉に一筋の痣を付けている。
ピシピシっと肉体を痛め付けられているのは若い屈強な男。
下着一丁にされ、両手を天井から吊るされた縄で括らている。
更に目は黒の手拭いで目隠しされ、口は白の手拭いで猿轡として結ばれ声を出す事も自分を傷付ける相手の姿を見る事も封じられていた。
「もうたまんないわぁ~、貴方みたいなちょっと筋肉質な男を虐めるのがこんなに楽しいなんでねぇ~。」
白い頬が興奮で火照り、口からは荒い息が漏れる。
彼女にとって一番の快楽の得方は化粧や買い物では無い。
無抵抗な人間にお仕置きをするのが自分の不満を晴らす魅力的な手段なのだ。
「それにしても良い男じゃなぁ~い。このワタクシと比べると好みじゃないけどねぇ~気に入ったわぁ~。」
肘まで長いグローブで包まれた細い指がガッシリした顎を摘み上げる。
いたぶられる男は先刻飲まされた毒の影響で思うように体が動かず、抵抗出来ない。
でもまだ意識はハッキリしており必死に女から顔を逸らす。
「ウフフフ…鏡でもあればもっと良いお顔が見れるのにねぇ~、残念だわぁ。」
毒の色をイメージさせる紫の唇が触れるか触れないかの微妙なタッチで剥き出しの首筋をなぞる。
虫が這い上がってくるようなゾワゾワした感覚が足先から昇ってきて汗が滲んでくる。
「あら?もしかして気持ち良いのかしらぁ。もう~お兄さんったらぁ、照れるじゃないのよぉ~。」
「………!………!、……!」
男は止めろと叫ぼうとするが猿轡に遮られて喚く声しか出せない。
唇は首筋を真っ直ぐに這うと耳の穴に近寄ってフーッと息を吹き掛けた。
男は硬直して目隠しと猿轡の間の頬を赤く染める。
「そうよぉ~我慢ばっかりすると体に悪影響を及ぼすわよぉ~。」
小動物みたいに震える筋肉を撫でて割れた腹筋の線を上下にくすぐる。
女の指先の力なんて蟻が体を這うのと同じだと思っていたが違う。
くすぐったく、それでいて全身から抵抗する力を奪われていく。
「貴方が招いたあのシルバーヘアーの女の子じゃ物足りないでしょ?駄目よぉ~。あんな男みたいな女と付き合っても気持ち良くなんかならないわよぉ~。」
「……ッ!…~!」
「あんなガサツで直ぐに手上げるような女は幸せになんかならないわよぉ~。」
ギリギリと括られた両手が熱くなる。
それは怒りの熱だ。
自分をいたぶるだけならまだしも…何故エルザの存在まで出してくるのか?
おまけに当人がいないからって彼女を好き放題悪く言うなど…男としてのプライドが許す筈が無い。
女が言う通り、彼女は確かに男勝りな面が強い。
でもそれでいて子供には優しいし、何よりケビンが一番に自分の安らぎとしている。
そんな優しい女性まで巻き込んでしまった自分が情けなくなった。
「だ・か・ら、ワタクシが骨の髄まで教えてあげるわぁ。本当の女の毒って言う物をね…ウフフフフ。」
咄嗟に持っていた鞭を床に投げると女は右手を腹筋の線に、左手を背中に当てた。
更に唇を真っ赤に染まった耳に寄せる。
視界を封じられた男でも何をされるのかは予測出来た。
女は耳に息を掛けながら両手で腹と背中のラインを同時にくすぐり始めた。
男は吊るされた巨体を左右に揺らすがその程度で収まる筈など無い。
「あらぁ?くすぐったいを通り越して気持ち良いですってぇ?ア~ン…堪らないわぁ~。」
鋼の筋肉は汗ばみ、プルプル震えて女に未知なる興奮を与えてくる。
男は抵抗感を完全に注がれ、太い首がガックリと項垂れてしまった。
もうこの拷問からは逃げられないと絶望し…死をも覚悟していた。
「…あら?あらぁ?上のお顔も下のお顔も大洪水になってるわぁ。」
黒の手拭いの間からは透明な水が流れ、唯一身に付けているグレーのボクサーパンツの間にも見られたくない染みが浮き出ている。
抵抗感と一緒に緊張感も削られた証拠だ。
「あららぁ~、こーんなにガタイの良いおじさんが泣くなんてみっともないでちゅねぇ~。」
わざとらしく赤ちゃん言葉で更に嬲り殺してくる女。
その興奮と男の喘ぎは扉を突き抜けて外まで聞こえていた。
当然ながら…女への抗体が無い男にとっては理性が崩壊しそうな衝撃を与えていた。
「…旦那ぁ…駄目だ…もう…我慢出来ねぇ…。」
「おい止めろジャッキー、気持ちは分かるがアッチに行くんじゃねぇ。」
床に座って腰を震わせる相棒を押さえながらケビンは耳に手を当てて目を閉じた。
―『フェニクロウ、作戦変更だ。ペガとビッグに突っ込んでくれって伝えろ。』
―『キュイイ?』
―『ん?それだと完全に包囲される?上等だ。これ以上あの女のお仕置振りをを見てたら吐き気がするからな、だからパニックを起こして止めさせるんだ。』
簡潔に伝えるとケビンは相棒の尻に蹴りを見舞いした。
「おい相棒、さっさと突撃しようぜ。」
「だ、旦那ぁ…そこ蹴っちゃ駄目だってば…。」
【7】
ゲスゲスとこちらも酷いお仕置きをしていたらドゴォォォンと廃墟が全体的に揺れた。
今だと見計らって二人は部屋に突入する。
「もう貴方達ぃ~。一体何なのぉ~?」
「ご報告致します。どうやら侵入者が現れたようで…。」
「なんですってぇ~!?ワタクシのこの愛の巣を荒らすなんてどこの誰なのよぉ~!とっちめてあげるわぁ~!」
女は部屋の机の上に置かれていた壺を取る。
町を襲った怪物が収まっている壺だ。
「…この男はどうしましょう?」
「好きにしても良いわよぉ~。ワタクシはもう思う存分可愛がったからねぇ~。」
承知、と頷けば女は壺を片手に部屋を後にした。
離れたのを確認すると二人の内の一人は男の手拭いと猿轡を外した。
身動き出来ない姿勢で彼は屈辱の涙で泣き腫らした瞳をガスマスクの人間に向ける。
「なんやおまんら…さっさと殺すなり…なんなりすればえぇ…。」
失禁して濡れた下着が肌に貼り付いた姿は同性から見られても恥ずかしい。
こんな思いをするならさっさと始末しろとガデフは舌を動かす。
「…知ってる?女ってさ、猫と同じで気紛れな生き物でよ、その癖怒らせると手が付けられないんだ。まぁ普段から女に免疫が無かった故の結果になっちまったみたいだな。」
ガデフの脳内で電球が光った。
ガスマスク越しでくぐもっているが…自分が聞き慣れた声がすると。
「お、お前ら…まさか…。」
「…よぉ、遅くなって悪かったな。」
ガスマスクを外し、コートを脱いだ人間の正体は自分が町から逃がした男達だった。
傷付いて惨めになった自分を笑わず、情けを問わずに晴れやかな笑みを浮かべる男。
その手が括る縄を解放し、自分は冷たい床に横になった。
「しっかし思った以上にやられたなぁ~ガデフさんよぉ。ウチの相棒がもう壊れるじゃないかってレベルだったな。」
ケビンは体に結んでいた上着を掛け、持参した解毒剤を取り出す。
「飲んでくれ。町医者の爺さんから預かってきた薬だ。」
ガデフの腕が動かないのを見越したケビンは薬瓶の蓋を開け、注ぎ口を唇に当てる。
薬液が口腔内に入ると力を振り絞って薬を飲み込んだ。
「どうだ?気分は?」
「あぁ…走馬灯が見えるギリギリ一歩手前って感じやな。」
ハァハァと呼吸する額に滲んだ汗をジャッキーがハンカチで拭う。
ふと視界の片隅に入った段ボールに目が入った。
観察すると何やら衣類の類いが突っ込まれている。
もしやと思って運んだらそれはガデフの着ていた衣服に違いなかった。
「親分、その格好だと流石にマズイから着替えな。アンタの服捨てられてなかったから。」
「おぉ、済まへんな…。」
肩を支えられてガデフはなんとか立ち上がる。
解毒剤の効果は覿面で手足は多少震えながらもしっかりと踏ん張っていた。
「ゴメンなジャッキー…ワシの事嫌いになったやろ?過去に人を殺しといて…なのに悠々と生きているワシが…。」
「全然、俺様も旦那に会う前はマフィアに雇われてたからな、だからアンタの気持ちは良く分かるよ。」
着替えを手伝いながらジャッキーはケラケラと笑っている。
裏社会に雇われていた自分はケビンと会わなければ表の世界へ戻れなかった。
その恩を忘れないようにこうして一緒にいるんだと伝えればガデフは驚きながらも納得する。
「そうか、やっぱりアイツには敵わへんちゅう訳か。」
「まぁ、俺様も旦那の過去なんかまだ一切知らないからな。でもどんな生い立ちだろうが俺はあの人に付いていくさ。じゃないと旦那、本気で一人になっちまうからよ。」
四苦八苦しながら服を纏って男は足を踏み出す。
三人は食料庫を抜け、厨房までなんとか脱出した。
「ケビ~ン!ジャッ~ク!」
開きっぱなしの扉から聞き慣れた呼び声と一緒に走ってくる影。
ニャオニャオと叫ぶ猫と一緒にマナが走ってきてジャッキーに抱き着いた。
「ワ~オ!我が愛しの姫様がぁ…!」
「…おいもう何とかしてくれよコイツ。」
完全に女性恐怖症間近の相棒を見下ろしてケビンは誰にも聞こえない叫びを上げる。
付き添ってきたリンクスはガデフの靴に甘咬みして尻尾をブンブン振る。
「おいおいニャンコ、こんなんじゃ動けへんだろ。はよ離してくれへんか?」
「フーッ、フルルルル…。」
大人しく離れるとリンクスは遅れて入ってきたエルザに呼ばれて彼女に抱かれる。
「ガデフさん、良かった無事みたいね。」
「あぁ…たっぷり搾られたがなぁ。」
これ見よがしにタンクトップを捲ると赤い線上の傷が幾つも付けられている。
過去に異性から暴行されたエルザにはその痛みがはち切れんばかりに伝わってくる。
「とにかく外に出ましょう。ペガとビッグベアが囮になってくれているから。」
「えっ?ビッグの奴連れてきたんか?」
思わぬ事実に目を見張るガデフにケビンはその通りだと頷く。
「なんかどうしても見捨てておけなくてよ…あの後連れ回してたんだ。やっぱりアンタと一緒に居たいって嘆いてたよ。」
「そうか…迷惑掛けて悪かったなぁ。」
何かを思い詰めてガデフは自分の拳を見つめる。
ビッグベアがどんな思いでケビン達に付いてきたのかが手に取るように分かった。
そしてそんな相棒を見捨てずに傍らに置いてくれたケビンの優しさも一緒に…。
《あんだけ冷たく突っ放してもこんな所まで追っ掛けて来る命知らずな馬鹿共はおらん。そない優しい連中に…ワシはなんて酷い事をしてしまったんや…。》
救われてばかりの自分を悔やみ、そして男は何かを決めた。
《こんな優しい命知らずを放っておいたらアカン。ワシも…コイツらと一緒に…。》
【8】
一人の男が決意を固めだしたそのタイミングで厨房の扉が回りの壁ごと破壊された。
砂煙が舞う中で大きな黒い影が飛び込んでくる。
「ビッグ…!?」
「グォガガガ…。」
目の前で倒れるように蹲る毛むくじゃらの背中。
顔面蒼白になってガデフは顔の方へ回った。
厳つい羆の顔には怪しげな紫の液体が掛けられ、フサフサの毛で覆われた太い腕の中には力無く横たわる天馬を抱き抱えていた。
「ペガ!?どうしたの!?」
まさかの事態にエルザは取り乱しながらもペガクロスの顔を撫でる。
良く見ると首の真下に出来た傷からジワジワと緑色の液体が滲んでいた。
「エルザ触るな!そいつは毒だ!」
傷に触れようとしたエルザはケビンの一括で手を引っ込める。
そこから彼女を下がらせると傷口の上に掌をかざし、マグマのようなドロッとした雫を落とす。
雫は傷口に染みてジュウジュウと音を立てペガクロスは苦しむ。
「ゴメンな、痛いけど少し我慢してくれ。」
「プ、プフフゥゥゥ…。」
息が絶え絶えな天馬を見守りながらケビンはビッグベアの顔に付着した毒液も熱消毒で剥がす。
「なぁ旦那…コイツら襲ったのって…。」
「あぁ、間違いねぇ。」
嫌な予感が走ってケビンは厨房から廊下に出た。
廊下の前にはエルザに倒された女の部下が転がり、その眼前の壁は壊されている。
建物の強度はかなり脆くなっており、ビッグベアの体重の圧に耐えきれずにここまで飛ばされたんだろう。
「オーホッホッ、これはワタクシの愛の巣を荒らした報いですわよぉ。」
広い荒野で迎え撃つのは黒のボンテージの女。
その彼女を守るように周囲でとぐろを巻いている蛇の怪物。
怪物の口から滴る唾液が地面に落ちてジュッと音を立てる。
「おどれ…女だからって何やっても許されると思ったら怪我するで…!」
「あらあら、ワタクシに可愛がられた男が言っても説得力の無い台詞ねぇ。」
弱味を握られて悔しがるガデフを嘲笑いながらその女…女帝の体は紫の煙で包まれる。
煙が晴れて現れたのは頭部に鳥の翼を生やし、手足も鳥の足を彷彿とさせるボンテージ衣装の美しい美女だ。
鼻から下をベールで隠しているがその甘い瞳は確実に獲物を定める。
「お遊びは終わりよぉ~。ワタクシに歯向かうのがどんなに恐ろしいのか思い知らせてあ・げ・る。」
頭部の大きな翼がはためいてトキシックは空に舞った。
「喰らいなさぁい!」
(パープルフェザーレイン!)
空で一回転すると翼が羽ばたいて無数の紫の羽が弾丸の様に降り掛かる。
「させるかっ!」
(メラーガフェニックス!)
ケビンは愛用の弓矢を装備して羽の弾丸へと一矢を放つ。
上空に向けて放った矢は巨大なマグマの不死鳥になって弾丸の雨に飛び込み、大きな爆発を引き起こした。
「フシャアアア!」
そこへ蛇の怪物が牙を向け、長い体をくねらせて飛んできた。
「ゴルァ!」
怪物がケビンに噛み付こうとしたのを予測したガデフは地面に正拳を打ち付ける。
割れた石の突起が鱗を削り取って緑の液体を噴射させた。
液体は回りの雑草に着くとジュワジュワと炭酸のような泡を出して瞬時に溶けた。
「まぁ!よくもワタクシの可愛い可愛いヒュドラちゃんに怪我をさせたわあねぇ!んもう許さないわぁ~!」
怒りに触れた麗しき鳥人は足の爪に猛毒を纏わせて急降下してくる。
「お死になさぁい!」
(ポイズンストンピング!)
高速回転しながらギラリと光る鉤爪の蹴りがケビン目掛けて落ちてくる。
それをギリギリで回避したケビンはトキシックの顔面目掛けてフィンガースナップを打つ。
すると火花が魔女の顔に燃え移って火柱が上がった。
「ギィヤァァァァ!」
悲鳴を上げて苦しむトキシックは燃える自分の顔を掻き毟る。
すると顔の皮膚がフェイスパックのように取れて地面に落ちた。
「アァ!良くもワタクシの顔にぃ…貴様ぁ…!」
焼けただれた顔は化粧が崩れて若さに固執する熟女さながらだ。
「こんな事しで…おのれぇ…!」
「上出来じゃねぇか。サディストの女王様にしては最高級の美貌だぜ。」
一番の魅力である美しさを嘲笑われたトキシックは爪に毒を滲ませる。
(ポイズンスネークバイト!)
爪から蛇のような蛇行した刃がケビンに放たれる。
「…そう来るか。」
対して不死鳥は笑って瞳を一瞬だけ後ろに向けた。
「…エルザ。」
「オッケー。」
痛みに苦しむビーストを介抱していた踊り子はケビンの背中目掛けてカマイタチを繰り出す。
「二対秘技…」
(炎熱カマイタチ!)
ケビンはその技を素手で受け止めて更に投げ返した。
風の力に自身の火炎を宿らせた赤い刃が毒を帯びた一閃と衝突して起爆した。
「アハァッ!ワタクシの攻撃を無効化するなんて卑怯よぉ~!」
「悪く思うなよ。直に触れて危ないなら燃やす方が手っ取り早いんでな。」
歯ぎしりをするトキシックの傍らで毒蛇が牙を見せて唸ってくる。
蛇の発するシューシューという空気の通り道みたいな声が砂の混じった乾いた風に乗って流れていく。
「グゥルルルル…。」
ヒュドラの唸りに反応した羆が背後で吠える。
その声にケビンはそっと瞳を真後ろに向けた。
「ジャッキー、ソッチどうだ?」
「…辛うじて命に別状はねぇな。でももう少し休ませた方が良い。」
ビッグベアとペガクロスの傷はマナが治療してくれていた。
傷を癒すのに特化した花のスキルなら毒を消すのも大差無いだろう。
「分かった。動けるまでガデフさん手伝ってくれ。」
「上等や。やられた分のお返ししなアカンとワシも気が済まないのでな。」
【9】
―背後を振り向いて状況確認をするその隙が命取りとなった。
リンクスはヒュドラが飛び掛かってケビンに迫るのを生き物特有の第六感で感じ取り、咄嗟に足を動かした。
「フギャアアア!」
甲高い悲鳴にケビンは絶句した。
何事かと思って見た先には…その小さな胴体の半分を蛇に咥えられたリンクスがいた。
「リンリン!」
「野郎…!」
咄嗟に矢を放とうとしたらヒュドラはリンクスを思い切りぶん投げた。
鋭い犬歯で噛まれた痕が背中に生々しく残っている。
「リンクス戻れ!コイツは俺が…!」
だが逃げようとした矢先にヒュドラはそうはさせまいと無防備な尻尾に噛み付いてきた。
それでも尚リンクスは逃げようと前に進もうとする。
その度に尻尾に激痛が走った。
「フギィ…フゥウウウウ…!」
歯を食い縛って猫は主人の元を目指そうと踏ん張った。
しかし蛇の怪物は非情にもフサフサの尻尾に容赦ない仕打ちを掛ける。
そして―。
「ニャギャアアアア!」
この世で一番の絶望的な悲鳴が聞こえた。
リンクスのお尻の上から真っ赤な血が噴き出したのだ。
何が起きたのか証明するようにヒュドラは地面にベッと何かを吐き捨てる。
それは…血と毒に塗れた鼠色の尻尾だ。
「テ…テメー!!」
ケビンは逆上して起き上がれないリンクスの元へ走る。
だがそれよりも前にヒュドラは小柄な体を咥えて地面へと潜っていった。
「良いわよヒュドラちゃ~ん!そのままお仕置きしててねぇ~!」
ペットを褒めながらトキシックは頭の翼をケビンにぶつけて飛び去った。
飛び散る羽を振り払う間にヒュドラは廃墟の北に広がる森の中へ消えていく。
「そんな…リンクス!」
「あ、マナ!駄目よ!」
モコモコと地面に広がる線を追うようにマナは森の奥へと向かった。
しかもそれだけでは無い。
さっきまで満身創痍だったペガクロスとビッグベア、更に未だ無傷のフェニクロウとドラグーンも主人の肉体から飛び出してマナの後を追い始めたのだ。
「おいフェニクロウ!どうした!?」
「兎に角ワシらも追うで!嬢ちゃんに何かあったら連帯責任やろ!」
トキシックの存在も腹正しいがそれよりもマナの方が大事だと四人もビーストを追い掛ける。
緑が生い茂る森でマナは地面のモコモコを頼りにヒュドラを探した。
「リンクス~!何処なの~!」
声が出せない状態なのは承知の上。
それでも…掠れてても良いから鳴いて欲しい。
そう願ってマナは何度もリンクスの名前を呼んだ。
だが自分の声は数回エコーして空に吸い込まれていくばかりだ。
《そんな…リンリン…嫌だよ…!》
―どうしてあの時守ってあげなかったのか。
ビーストの方にばかり意識が向いてて…気が付かなかった自分が情けなかった。
自分より小さな動物すら守れないなんて…スキル使い以前の話だ。
それ以上に…自分よりも真っ先にケビンを助けようともしていた。
この僅かな間に小動物に追い越されて…内心悔しかった。
《リンクス…嫌…そんなの嫌だぁ…!》
絶望に押し潰されそうになったその瞬間、マナの耳に空気を切り裂く声が聞こえた。
間違いなくヒュドラの唸りだと分かってマナは急いで音のする方角へと走った。
どれ位走ったのか…気が付くと少女は切り開かれた場所に出ていた。
そこは回りの木々や草が枯れ果てて…朽ちている空間。
その中央には真っ赤な血の水たまりが広がり、小さな動物が横たわっていた。
「…リン…クス…?」
パシャッと血溜まりを踏んでマナはその生き物を持ち上げた。
四本の足は付け根から噛まれて裂け、腸も食い千切られて穴が空いている。
鳴くどころか動きもしない。
「リンクス…ねぇリンクス!起きて!」
血の海の中でマナは膝を付き、ワナワナと唇を震わせる。
「ねぇリンクスってば!お願いだから返事して!ねえってば!」
咄嗟に胸の中で抱き締めると氷の塊みたいに冷たくて…重かった。
自分と出会った時は小鳥みたいに軽くて湯たんぽみたいに温かい筈の体じゃ無い。
それはリンクスの体の中で…命の炎が消えてしまった事を意味していた。
「嫌…リンクス…そんな…!」
マナの震える右手がお尻の真上に触る。
フカフカの尻尾は付け根から引き千切られ…残された穴から赤黒い液体が流れている。
止まる事無く流れ出る血はマナの手を汚し、白いパーカーを真っ赤に染めていく。
「イヤ…イヤァァァァァ!」
この世の全ての不幸が押し迫ったような哀しみの悲鳴は森林の木を揺らし、驚いた鳥達が一斉に飛び去る。
ギャアギャアという断末魔は巨大な四体の獣達も受け止めていた。
「ガォオオ!」
「なんやビッグ?嬢ちゃん見つかったか?」
テラテラ光る鼻先を触ってガデフは翻訳する。
「なんだって?」
「“声はするけど匂いがしない”って言っとるで…ちぃとヤバいやないんか?」
そこでエルザがヤバそうな顔で俯いた。
「ケビンごめん…万が一逃げられるようにマナにあの香水振り掛けちゃってたの。それで匂い消えてるんだ…。」
エルザはウエストポーチから件の香水を取り出して見せた。
トキシックの隠れ家に侵入する際にケビンも使ったメンソールの香水。
対してケビンは良いんだと言いそうな顔で肩に手を置く。
「気にするなよ。もしかしたらリンクスの血の臭いも多分まだ残ってると思うんだ。そこから辿れるかも知れないだろ?」
確かにそうだけどと飲み込みながら視線を地面に戻した時だ。
「グォォ…。」
ビッグベアの足がピタリと止まり、ガデフの手がお尻に当てられる。
「見つかったんかいな?」
「ガゥオオ。」
【10】
細い木々の間を薙ぎ倒すように羆が走り、他のビーストもそれに続く。
ビッグベアの鼻は甘ったるい血の臭いを確かに嗅ぎ取っていた。
ドタドタと太い足音が徐々に収まり、やがてドシンっと土の地面を踏み付けて止まった。
「グォォ…。」
哀しく一声吠える羆の横にペガクロスとドラグーンが並び、フェニクロウが背中に着地する。
四色の瞳は…血の海に座り込む小さな少女を捉えて離さなかった。
少女が抱き抱えて離さない鼠色の小さな動物は血に濡れて動かなかった。
「おいビッグ!一体どうし…!?」
やっと追い付いたビーストの宿主達も何が起きているのかがやっと分かった。
一言で言うなら…遅かったのだ。
「ケビン…ママぁ…。」
愛猫の血で真っ赤に染まった衣服を身に着けたマナが絶望に溢れた顔で振り向く。
その手はリンクスを決して離さず…抱き締めていた。
「リンクスが…リンクスが死んじゃったよぉ~!」
溜めるに溜め込んでいた悲しみが、怒りが、悔しさが涙となってポロポロと溢れてくる。
その姿にケビンは怒りに歯を食い縛りながら…エルザは必死に泣くのを堪えながら二人してマナとリンクスを抱き締めた。
「ケビン…ウゥ…ヒック…ウワァァァァ…!」
謝ろうにも喉が震えて…頭が回転仕切れなくて…言葉にならない言葉しか出てこない。
でもケビンはマナの気持ちが痛い程分かっていた。
―自分よりも小さな動物すら守ってやれなかった弱さ…その動物にすら守られる愚かさと未熟さを。
「自分を責めるな…リンクスが死んだのはお前のせいじゃねぇ。」
「そうよマナ…だから…これ以上自分を傷付けちゃ駄目…。」
後ろ姿だけ見てもその光景は本物の親子その物だ。
サファイアブルーの瞳で三人を写すドラグーンは天高く雄叫びを上げた。
それは自分達よりも小さくて大きな勇敢な獣を称えた雄叫びだ。
ペガクロスも首の傷が疼くのを構わずにエルザの肩の辺りに顎を乗せる。
「ありがとうペガ…慰めてくれて。」
「プルルル…。」
感謝はされてもこんな慰めしか出来ない自分を悔やみながらペガクロスも空を見上げる。
無意識に背中の翼も天を向いて今にも羽ばたこうとしている。
自分の傷などどうでも良い。
それよりもリンクスにまで手を出したヒュドラが許せなかった。
一刻も早く見つけて空一杯に引き摺り回さなければこの怒りは収まらないと空に向かって叫ぶ。
「……。」
誰しもが言葉を発せられない時の中でフェニクロウが飛び立つ。
赤い羽根が主人の真正面…マナの背後に落ちてきた。
「…どうした?」
「キュアアアア…。」
フェニクロウは静かに血に染まった小さな体に嘴を当てる。
その瞬間―。
「…フャァァ。」
まさか、と全員が凝視した。
「…リ、ン…リン…?」
「…ャァァ。」
マナの涙で濡れた瞼が…ほんの少しだけ開いた。
まだ血の色になっていない…青い瞳が僅かに見えたのだ。
「キュルルルル…。」
不死鳥の瞳…血より何倍も美しい緋色の瞳をマナは見つめていた。
「リンクス…まだ生きてるの…?」
ゆっくりと不死鳥は瞬きで答える。
それはまさに奇跡だ。
リンクスの心臓はまだ完全に止まっていなかったのだ。
「キュル…キュイイイ…。」
不死鳥は優しくマナに何かを語り掛ける。
するとジャッキーが何を言っているのか理解したのか、即座にマナの横に寄り添った。
「姫、今ならまだリンクスは助かるかもしれないだとよ。」
「えっ!?」
涙で濡れた瞳を拭うようにジャッキーは瞼に指を添える。
「自分の力を貸してやるって…そうすればリンクスも元気になるって言ってるんだ。」
「…フーたん…。」
それはフェニクロウが編み出した最後の策だ。
リンクスがまだ辛うじて命を繋ぎ止めているのは事実、ならマナのスキルで何とかして蘇生出来るかも知れないと考えていたのだ。
しかし一人で蘇生する代償は大きく、だから自分の力を分け与えると提案したのだ。
「キュイイ…。」
「…ドラグーン達にも協力して貰えないかだって?」
「キュルゥゥ…。」
その直訳に他のビーストは反応して一斉に不死鳥を見つめる。
どの瞳は迷いは無く…真っ直ぐにフェニクロウに向けられていた。
こんなにも小さくて勇敢な英雄をこのまま無駄死にさせたくない、そう叫ぶように輝く瞳にケビンは相棒を…そして仲間を眺め回した。
「…良いよな。」
「えぇ…。」
「ワシもこの誘い乗るで。」
「勿論に決まってるだろ旦那。」
それなら自分達も同じだ。
リンクスはもうただのペットでは無い。
彼の獣も…誇り高きバディビースト。
自分らの仲間なのだ。
だからここで死なせるなど言語道断だった。
その覚悟を受け取った四体の獣はマナを囲うように周囲に並んだ。
ヒューヒューと必死に息継ぎをする猫にビースト達は寄り添う。
赤・青・緑・そして紫色の四色の光がリンクスに注がれる。
《フーたん…ドラ…ペガちゃん…クーさん…。》
マナも涙を拭いて…力強く頷いた。
―リンクスは命懸けで自分を守ってくれたのだ。
―だから今度は…自分がリンクスを助ける番なのだ。
こんな所で泣いている場合では無いのだ。
《分かってるよ…マナだって…泣いてばかりじゃ…駄目なんだから…》
【11】
マナはビーストの想いを受け取り…血に染まった額に唇を当てる。
体温が下がってても…その毛並みはまだ柔らかいままだ。
自分が手入れしたお陰でリンクスは野良猫から上品なお嬢様へと変身する事が出来た。
それはリンクスにとって…この上無い喜びでもあった。
誰からも嫌われ…避けられてきた自分に救いの手を差し伸べた少女を…リンクスは愛していた。
マナがいたから…自分は人を愛し…信じる心を掴む事が出来たのだ。
「…フィィィ…。」
掠れた喉を振り絞り…リンクスはマナを呼んだ。
「リンリン…。」
「フゥ…ゥゥ…。」
泣いちゃ駄目だと自分を責めても自然と溢れる涙で視界が霞む。
ゴシゴシと強く拭いても涙は止まらず、目元は忽ち真っ赤になった。
「大丈夫だよ…マナ…泣いて…なんか…いないから…。」
マナは涙を吹き続けて笑顔を保とうとする。
それはリンクスと過ごしていた時間、いつも笑顔を見せていた事へ繋がっていた。
―“貴方が居るから皆笑顔になれる。”
それを一番に教えたかったのだ。
「もうリンリンは…一人ぼっちじゃないよ。マナが…ずっと一緒にいるからね…。」
―泣いちゃいけないと懸命に耐えるが次第に目の前は暗く沈んでいく。
ふと目が覚めるとそこは…真っ暗な世界になっていた。
柔らかなピンクの花畑…そこでマナは一匹の動物を見つけた。
鼠色の毛並みと…青の瞳が美しい一匹の猫。
「リンクス!」
「ニャオニャオ!」
思わず飛び込んだ先には元気に鳴いて自分に甘えるリンクスがいた。
何処にも怪我はしておらず、尻尾だって元通りになっている。
「リンクス…ごめんね。」
「フニャ~?」
モゾモゾ動く猫をあやしてマナは叫んだ。
―守ってあげられなかった。
―でも自分はもう逃げない。
―何があってもリンクスと常に一緒にいると。
するとリンクスは瞳を細めてマナの頬を冷たい舌で舐めた。
《マナ…アリガトウ。》
今まで聞いた事無い声がした。
《リンモ…マナト…ズット一緒ニ居ルヨ。》
か細く泣き叫ぶリンクスの瞳が花と同じピンク色に輝く。
その輝きは…マナの瞳にも伝わった。
今までに無い力が体の奥から溢れ出てくる。
小さな花弁が風に乗って何処かへ流れていく。
気が付くとそこにはマナだけが立っていた。
マナは自分の胸に手を当てて…瞳を開いた。
そこにもうリンクスはいない。
でも居なくなった訳では無い。
大切な親友は…自分の中に居る。
姿は見えなくても…いつも一緒にいる。
それをマナは実感していた。
《リンリン…マナ強くなるからね。何があっても…一緒にいるからね…。》
ピンクの花舞う黒の世界。
そこで少女は一筋の光を見つけて歩き出した。
その光の先には…自分を必要としてくれる人達が待っているのだ。
自分を…自分とリンクスを待っている人に背中は向けていられなかった。
―もう誰も失わない。
―今度こそ…全てを終わらせてやる。
光の扉を開けた少女は…満面の笑顔で…帰還していった…。




