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エレメントバトリッシュ  作者: 越後雪乃
~第三幕・襲来する危機と小さな戦士の目覚め~
14/34

轟け大地よ!大熊の大将ガデフ

【1】

この世界の何処か、果ての向こうにある巨大な城。

中世の歴史の面影を残すこの城は廃墟でも文化財でもない。

この世の罪悪の塊であり、悪の尊厳である犯罪組織の根城なのだ。

城の西側の小さな塔に繋がる渡り廊下を仮面の男が小走りに駆け抜ける。

目の前の塔は医務室を儲けており、砦の城内では貴重な救護スペースとなっているのだ。


石造りの廊下の壁に電球は吊るされず、数本の蝋燭の炎が薄暗い廊下を照らしていた。

左半分が黒く焦げた男の仮面が蝋燭の炎で全容を浮かばせている。

塔の入り口前に立つ2人の騎士はその姿を見ると即座に敬礼した。

「ジ、ジョーカー様!何とぞここへ?」

「そんなに畏まらないで。暫く持ち場を離れてくれる?」

「さ、左様であります!」


門番が去るのを見届けてジョーカーは扉をゆっくりと開けた。

医務室の奥、北側の窓の下にあるベッドへと足を進める。

ベッドの掛け布団が丸く盛り上がり、ガタイの良いスキンヘッドの男が横になって鼾を掻いている。

その口元には酸素マスクが当てられ、上腕からは点滴のチューブが伸びていた。

「心配ないよ。脈も呼吸も安定しているからな。」


電気の消えた医務室の机に座る人間が手持ち式ランタンの蝋燭に火を付けた。

炎で浮かぶのはかなり年配の医者だ。

「済まないなドクター、公務で席を外してしまっていて…。」

「フォッフォッ、ジョーカー様が多忙なのは理解しとるよ。だから自分を責めんでも良い。」

医者はランタンを持って患者の枕元に立つ。

「しっかし運の良い男じゃな。あれだけの量を盛られて生還するとは。」


医者はベッドの反対側に座るジョーカーに試験管を渡した。

細長いガラスの管には青紫色の禍々しい液体が入れられている。

「仕方ないよ。クイーンが表に出る時は必ず誰かが犠牲になるんだから。」

「そうじゃな。でもこれまで仕打ちを受けた中で無事だった奴は1人もおらん。そういう意味ではこの男は奇跡の人と言ってもいいじゃろ。」

ブクブクとマグマのように泡立つ液体をジョーカーは仮面の奥の瞳で見つめる。

素顔は分からなくとも悔しさが滲み出ていた。

「それで彼女は?」

「あぁ…実は。」


ゴニョゴニョと耳元で囁くと窓から入る月の光で仮面が輝く。

「成程…あそこにも確かフダ付きのスキル使いがいる筈だ。なら彼らもそこへ来るかもな。」

ジョーカーは予言していた。

自分が最も恐れ、好機を抱く男がもしかしたら訪れるかもと。

一通り話を聞くとジョーカーは試験管を返して椅子から立ち上がる。

「ドクター留守番頼む。俺は急用が入った。」

「フォッフォッ。精々盛られんように注意するんじゃぞ。」


大丈夫さと懐から拳銃を出して弾を詰める仕草をする手を誰かが掴んだ。

「ジョーカー…様…。」

「なんだよボルバ~。起きてるならおはよう位言ってよ~って、もう夜だけどね。」

患者の男は酸素マスクを外して自分が従う若者に目を瞑る。

「申し訳ありません、つい誘惑に乗ってしまって…この有様に。」

「しょうがないって。クイーンが俺以上のサディストなのは承知してるさ。私の勝ちに賭けてねブチュッっとかって言われたんだろ。」

「むむ…なんとも…勘の鋭いお方…恐るべし…。」


体内の異物は全て吐き出せたのにまだ何か残ってそうにだるいと訴える護衛の男。

ジョーカーの仮面がその揺らぐ瞳に焼き付いてくる。

「とにかく大人しくしてろ。心配せずともクイーンだって敵わないさ、今のアイツには。」

「そうだと…宜しいんですが…ブホォ!」

ガホッ!ゴホッ!と突然咳き込んだボルバの背中を医者が慌てて撫でる。

「まだ無理をするんじゃない。成分はまだ少なからず体内に残っとるんじゃからな。」

医者は状態を落ち着かせようと丸太の腕に注射を施す。

「じゃあなドクター、行ってくるよ。」

「おおそうかい、気を付けてな。」

「あぁ。ボルバ、戻ってくるまでくたばるなよ。もし約束破ったら俺も後追いしてやるからな。」


拳銃をクルクルと回して腰のホルスターに仕舞うとジョーカーは部屋を飛び出した。

そのまま渡り廊下の欄干に足を乗せて勢い良くダイブする。

普通の人間なら高い所から落ちると足の骨を折るのが一般論だ。

だが彼は落下しながら自分の胸元に羅針盤を出現させた。

すると羅針盤が白く光って何かが飛び出してきた。

ギィィィィと鳴いて羽ばたくのは体の倍はある大きな翼を持った蝙蝠だ。

アクロバティックに飛びながらジョーカーを受け止めてそのまま夜空へと向かう。


真上の空には月が浮かんで月光が仮面に反射される。

彼は笑いながら月を眺めていた。

《ギルク…俺は何処に行こうが必ずお前を見つけるからな。》

薄い口元が斜めに吊り上がってニヤリと笑みを作る。

主を乗せる蝙蝠もギィィと鳴いて忙しく羽ばたいた。

1人と1匹は城を離れ、遠き地へと飛んでいく。

自分が何よりも望む男の行く末を見守るべく…そして彼の成長を見届ける為に…。



【2】

草木が無い荒野に走る1本の幹線道路。

支柱の曲がった矢印看板以外は店も人もない寂しい通り。

そこでこれまた珍しいオブジェが立っていた。

いや正確には…オブジェの真似をしている人間が立っているのだ。

グラビアアイドルのようなポーズを取って道路の端に立っているのはついこの間まで世間から注目されていた元有名人の女性。

当然ながら車も人もいないので誰も振り向かない。

「…水投げて。」


後ろの方からポ~ンとステンレス製の水筒が投げられ、軽くそれを受け取る。

コップに注がずに中の水を直に飲んでまた蓋を閉じた。

「ポーズ変えたらどうだ?無理だろそれじゃ。」

「その前に何も通らないけどな。」

美女の背後で漫才みたいなやり取りを繰り広げる二人のイケメン。

話題の当人は奥歯を噛み締めて振り向いた。

「ねぇいつまで続けるの?この無謀なヒッチハイクは?」

「とにかくやるしか無いだろ。確かここから西に行くと大きな街があるから車の一台なら必ず通るって。」

ガイドブックを覗き込んでケビンは根拠のない言い回しをするだけだ。

エルザは呆れて深い溜め息を付く。

「もう信じられな~い!こんな所でガス欠だなんて!」

「パンクじゃないだけまだマシだろ。良いから姿勢崩すなって。」


彼らがヒッチハイクを始めてかれこれ一時間半は経過している。

理由はエルザが言う通り、移動の足であるバイクが二台ともガス欠で走れなくなったからだ。

でも元から交通量が少ない道路なのでいつまで経っても車は見かけず、お陰でエルザのイライラは限界寸前だった。

「アンタらも手伝ってよ!こういう時こそ連帯責任でしょ!」

「そうは言ってもさ姐さん、女の方が停まりやすいのがヒッチハイクの本音だろ。」

ケラケラと笑うジャッキーの顔面めがけてエルザは水筒を強引に投げ返した。

向こうは「あでっ!」と言って仰け反る。

「もうずっとこのポーズ取ったままなのよ!コッチの負担も考えてよね!」

「大丈夫だって。お前足の筋肉パンパンだから筋肉痛とか起こさないようだし。」

「…後でアンタの足複雑骨折にしてやる。」


ボソッとロリコン野郎と最後に小さく呟くがケビンの鋭い聴覚は最後の言葉を聞き逃さなかった。

「オイテメー!またロリコンって言ったな!」

「だってその通りじゃないの!そんなに文句言う元気あるならアンタ代わりなさいよ!このウジ虫のリーダー風情が!」

益々ヒートアップする二人の喧嘩にジャッキーが溜まらず中に入る。

「おい落ち着けって、そんな事してたら停まってくれる方も見逃して…」

「ジャッ~ク~。」

グイグイとコートの裾を誰かが引っ張った。

ん?と視線を下げると自分の足の長さ位しかない小さな少女が首が痛くなる程自分を見上げている。

「どしたの姫?」

「あれ、アソコ。」


マナが指差すのは自分らから見て道路の右側、街へ向かう側の車線だ。

よく見ると確かに一台のトラックらしき車が走ってくる。

「おい姐さん!お客さんが来たぞ!」

「…待て。」

エルザが再度ポーズを直そうとしたらケビンが双眼鏡で観察しながら待ったを掛けた。

「あの車…寧ろ向こうから停まってくれるみたいだ。」

「マジ!?どんだけ優しい人なんだよ。」

こんな名も無き旅人を見つけてくれるとは大変有り難い。

ケビンの思惑通りにそのトラックは速度を緩めて路肩に寄ってくる。

やがて車は自分達のいる地点の数メートル手前で停車した。

運転席の扉が開いて人が降りてきた。

身長がケビンより高い坊主頭の男、モスグリーンの襟付きジャンパーに黒のシャツらしき衣服、迷彩柄のズボンにブーツと如何にも職人と言った風貌の男だ。

「どうしたんや兄ちゃん方?ワシに何か用か?」


コテコテの関西弁で喋る様子からは陽気で豪快なイメージが伺える。

ケビンはそこまで計算して話の合う人間だと判断した。

「悪いなオッサン、実は乗っていたバイクがガス欠で走れなくなっちまってよ。ちょっと隣町まで乗せてくれないか?」

「おぉ奇遇やな。ワシはその隣町に住んでおっての。丁度仕事終わって帰る所だったさかい。構わんで。」

男は着ているジャンパーを脱ぐとそれを持っててくれとエルザに渡した。

シャツはノースリーブで剥き出しの上腕は太く、胸筋は鍛えられているのがシャツの上からでもハッキリと分かる。

トラックの厚布で出来た荷台の扉を開けると細長い板を斜めに立て掛け、バイクを押して乗せてくれた。

「あらおじさん、力持ちなのね。」

「ワシゃあこう見えて運送の仕事やってての。こんなの朝飯前やで。」

軽々とバイクを乗せると脱いだジャンパーを再度羽織る。

「スマンな、このトラック前に二人しか乗れんでの、悪いが三人は荷台に乗ってくれへんか?」

「良いわよ。じゃあケビンが助手席ね。」

「ちゃんと人の許可を取れっての。全く…。」


渋々ながらケビンは車の助手席に座り、残る三人は荷台に乗り込む。

男は扉を閉めると運転席に戻ってエンジンを掛けた。

中を見る限りでは車もかなり年期の入っている車体だと伺える。

「サンキュー、助かったよ。」

「気にせんでもええで。ところで兄ちゃん見ない顔やな?旅人さんかいな?」

ガタガタとタイヤが砂利を巻き込んで走り、車が小刻みに揺れる。

座席の振動に震えながらケビンはあぁと答えた。

「悪くないなら話してええで。ワシも運転ばっかやと呆れるからな。」

「そうだな。ありがとよオッサン。」

「兄ちゃん、ワシはまだ三十路になって三年目の若者やで。そない頑なに呼ばんでも平気や。」


【3】


ガハハハとイメージ通り豪快に笑う男にケビンは思わずプッと吹き出した。

どうやら自分の予想より面白い男に巡り会えたとなんだか嬉しくなる。

「なら遠慮しないぜ。俺はケビン・ギルクだ。アンタは?」

「ガデフ・シュトロゼムや。宜しくなケビン。」

自己紹介しながらガデフは左手をハンドルから離すとジャンパーのポケットに突っ込み、煙草の箱を取り出してケビンに差し出した。

しかしケビンは優しくそれを押し返す。

「なんや?吸わへんのか?」

「生憎喫煙者なんでね俺。ガデフさんこそ吸うイメージ無さそうに見えるけどな?」

「実はワシも吸わなくてな。でも仕事仲間から貰った手前、捨てるのも失礼やから形だけでも保管してるんや。」


町へ走るトラックの中でケビンはガデフにこれまでの経緯を説明していた。

自分の過去、今の仲間との出会い、そして―

「そうか…ミステシアの連中と無限ループの喧嘩しとるんか。」

急に雰囲気が変わってガデフの口調が重くなる。

それを聞いたケビンも眉間に皺を寄せながら座席にもたれ掛かった。

「まぁな、ガデフさんも被害受けてるのか?」

「直接的ではあらへんけどな…。」

ハンドルの空いた箇所を指で突く。

「ワシが今住んでいるガイズタウンっちゅう所はな…一言で言えば職人の町や。」

「職人の町…?」

「せや。色々な所から受注を受けて物を作っては売ったり届けたりして生計を立ててるんや。せやけどミステシアが各地で好き放題やるせいで受注が激減しての、仕事がめっきり減っているんじゃ。」

「成程…確かにそれは一大事だな。」

「オマケに主要道路も壊しまくるお陰で物流もストップに近い状態でな。ワシの仕事もかなり参って困ってるんや。」


トラックは英文が書かれた古い看板を通過していく。

文字は読めないがもうすぐ町に着きそうだ。

「だから遠くまで配達か、ご苦労なこったね。」

「まぁワシの町は独身男の溜まり場やさかい。一人分の生活費稼ぐ位やからそない困窮してる訳でもないけどな。」

へぇ~とケビンは関心しながら腕を頭の後ろで組む。

「それと比べたらケビンが羨ましい限りじゃの。昔は綺麗な奥さんと可愛い息子さんがいて…ほんで今は可愛いお嬢ちゃんと格好いいイケメンと綺麗なお姉ちゃん引き連れてるんやろ?えらい幸せ者やんか。」

ガデフは羨ましそうに隣の男を横目で見つめる。

独身生活の長い自分から見ればケビンはかなりな幸運の持ち主だ。

年齢も住む世界も超えた人間を引き連れての旅など早々出来る訳では無い。

その点では別世界の人間に見えた。

「まぁ…俺も色々ワケありの世界で生きてきたからな。俺からすれば…一人で自由に生きるアンタが凄く羨ましく見えるよ。」


古ぼけた座席に深く沈んでケビンは唐突に生欠伸をする。

ガデフは運転しながら口だけ動かす。

「どうした?寝不足かいな?」

「いや、睡眠はちゃんと取ってる。でもなんか眠くてよ…。」

車の中はエアコンが付いていないので早々眠くはならないが…なんだか変な気分がする。

堪えようにも瞼が反抗して閉じてきてガクッと前のめりになる。

「もう少しで町に着くさかい、そしたら家案内するからな。」

「そうか…恩に着るよ。」

それを聞いてガデフは少し案内した。

同時に心の中でこう呟く。

《コイツ…不思議な男じゃな。堂々としない割にはなよなよする事もあらへん…どっち付かずな奴じゃの。》


一方、マナは荷台の覗き窓から運転席の様子を観察していた。

ものの数分でガデフはケビンの心に引っ掛かってきた。

自分もそうだが何故彼は色々な人間から好かれるのだろう?

それが凄く不思議だ。

「ママ、ガデフのおじさんって見た目怖いけど優しい人みたいだね。」

「まぁ、人は見かけに寄らないって昔から言われてるしね。」

「そうそう。姐さんだって見た目は美人だけど中身はチーマーだも…イデデデデッ!」

余計な口を開いたジャッキーは当然ながらほっぺ引っ張りの刑を受ける。

バチンッと勢い良く手を離すと引っ張られた頬は赤く染まってヒリヒリ疼いた。

「もう痛いよ姐さぁ~ん。」

「だったら余計な無駄口叩かないの。全くキリ無いんだから。」


不安定な荷台に揺られながら三人は和気あいあいと会話する。

話している間に車のスピードが落ちてきた。

「見えたで、あれがワシの町や。」

前方の遠くにレンガを組んで作ったアーチが見える。

その奥からは煙突から昇る白い煙も見えた。

「ウチはそんなに事件とか起きないからゆっくりしていくとエエで。」

「ありがとな。何から何まで。」

ブロロロとエンジンを吹かしてトラックは昔ながらの空気が残る町に入っていった。


【4】


大工道具や車のエンジンが響く小さな町並み。

そこで暮らす人達が町の音を作って仕事に励んでいる。

入り口近くで積み荷を整理している数人が町に入るエンジンの音に気付いて車を誘導してくれた。

「はいオーライオーライ~、はいストップ。」

アーチからバックしてきたトラックの運転席から大柄な男が降りてくる。

「お帰り親分さん。」

「おぉ。ちぃと客人来てるんや。暫くここに泊まるさかい、持て成してくれ。」


ガデフは荷台の入り口を開けてバイクを降ろした。

その後ろからジャッキーらも外に出る。

「おい見ろよ、女だぜ。」

「しかも子連れ…か…?」

「でもあの顔何処かで見たような…。」

男達がジロジロと見てくるのでマナはジャッキーの背後に隠れる。

悪気は無いようだが執拗に睨まれるのもなんだか良い気分ではない。

「姫大丈夫だよ、悪い連中じゃ無いから。」

ジャッキーが首を後ろに回して見るとマナはコートの裾を掴んでプルプル震えている。

ペットショップや保健所から引き取ったチワワを彷彿とさせてジャッキーは顔面に熱が籠る。

《はわぁぁぁ…抱き締めたい…!!》

「おい何考えてるんだ相棒、戻ってこい。」


ケビンは呆れながら肩を叩いてジャッキーを夢の世界から連れ戻す。

マナはと言うと震えながらケビンに抱き着いている。

「ハッ!え~っと旦那?俺様何を…?」

「お前今変態百パーセントの顔付きになってたぞ。危ないから戻ってこい。」

そのまま抱っこの姿勢で先を行くガデフの背中を追い掛ける。

加えて彼の仕事仲間二人がバイクを押すのを手伝ってくれていた。

「なぁ親分さん。客人来てもこの町に目ぼしい宿は無いよ?」

「心配いらへん。ワシの家に泊まらせるさかい。お前らは構わず仕事に励めば宜しいで。」

路上で作業する住人も見慣れぬ客人に思わず振り向く。

ガデフの言う通り、男ばかりのこの町では女子供は好機の対象になりやすいそうだ。

「あ!待てコラ!」


突然前から大声と砂埃が巻き上がる。

するとガデフやケビンの足元を素早く通る小さな影が現れた。

ヒョイヒョイと交わして背後に姿を見せたのは一匹の猫だ。

鼠色の体で背中と額には黒の縞模様が施され、口にはトウモロコシを咥えている。

「フフフッ―…。」

口に咥えているせいで猫特有の甘い鳴き声を出さない。

それでもこちらを警戒しているようだ。

猫は暫く威嚇するとそのまま走り去って行った。

「親分さ~ん!」

麦わら帽子の男が猫が来た方角から汗まみれで走ってきた。

「どないしたズベさん?」

「灰色の野良猫見なかったか?今日収穫したばっかのモロコシ盗んでいきやがったんだ!」


一同は一斉に後ろを振り向く。

土の地面には肉球と爪が残る小さな足跡がしっかり刻まれていた。

「あちゃあ~、捕まえとけば良かったなぁ。」

「そうか…あんのどら猫~!見つけたらタダじゃおかないからな!」

この言葉を聞いた若い男が自分も見かけたと手を上げてきた。

「昨日俺の家にその猫上がり込んでよ、縁側に立ててた畳にオシッコ引っ掛けて出て行ったんだ!折角二日掛かりで作ったのに売り物にならなくなっちまったんだ!」

「ウチなんか出荷用の襖が爪砥ぎに利用されてよ~!パァになっちまったよ!」

出てくる出てくる猫の悪行三昧にガデフは分かったと仲間を窘める。

「ワシも探すから落ち着いてくれや。それに猫だって生きるのに必死で仕方なくやっとるんやし…大目に見なアカンで。」

「そうだな、頼むよ親分さん。」


頼りにしてるよと次々に去っていく同志を横目で見ながらガデフはとある一軒家の前に到着した。

入り口から歩いて奥まった所にある石造りの家だ。

「バイクは玄関脇に置いて構わん。後はワシがやるから下がってくれ。」

重厚な木製の扉を開けると中は薄暗く、ガデフは壁のスイッチを捻る。

電気の灯された下には小綺麗に掃除された室内が披露された。

「あら、男の一人暮らしってもっとゴチャゴチャしてそうだけどそうでも無いわね。」

「そないな事言うたらアカンよ姉ちゃん。男一人でも掃除は外されない仕事やからな。」

他人の家でも毒を振り撒くエルザを咎めながら家主はシンク横の戸棚を開ける。

「コーヒーと抹茶あるけどどっちがエエ?」

「コーヒーで良いわ。ありがと。」


エルザとジャッキーが我先にとテーブルに座る側でケビンはフラフラ歩きながらベッドに倒れ込んだ。

「あ、旦那!」

「ケビンどうしたの?大丈夫?」

マットレスに持たれる姿勢を取る男はのそのそと起きて上に横になる。

「ゴメン、ちょっと寝させてくれ。」

「あぁ…別に構わんけど。」

許可が降りる声を聞いてケビンは上着だけ脱いでそのまま目を閉じた。

それもベッドの中に入らずに布団の上で。

「なんか車の中でも眠たそうにしてたんやが…体調でも悪いんか?」

「そうは思えないけど…。」

「でもこんな真っ昼間から寝るの初めてじゃねぇか?今までこんな事一度もしてないぜ。」


スースー寝息を立てる男を見守りながら三人は無表情になる。

旅のストレスで疲労が蓄積されたのではとも思った。

その証拠にマナがスキルを使えるようになった直後、能力の反動と旅の疲労で倒れた事があったので強ちそうなのかと考えてしまう。

「そういえば…あのお嬢ちゃんどうした?」

「「えっ?」」

ふと振り向くと一緒にいる筈の少女がいない。

加えて玄関の扉が開きっぱなしになっている。

「マジかよ、もうどっか行ったのか?」

「まぁこの町はそない広くないし…迷子になる可能性は低いから心配せんでも大丈夫やろ。」


お湯入りのポットを火に掛けるとガデフはクローゼットの引き出しから毛布を取り出してケビンに掛ける。

床に投げられた上着は皺が寄らないように畳んでソファーの上に置いた。

「ごめんなさいね、手間の掛かるリーダーなのよ彼。」

「そうやろうな。コイツより姉ちゃんの方がリーダーっぽく見えるもんな。」

一瞬エルザは返事出来なかった。

性格的に見れば自分がリーダーに相応しいが…それでもケビンは自分に無い物を持っている。

それを思うと彼の方が纏め役に相応しいと考えた。

「そんな事無いわ。ケビンこう見えて以外と不思議な場面が多々あるの。だから私の方から彼に導かれるの。」


エルザはベッドの上で丸まる男の揉み上げに触れる。

わしゃわしゃと弄っても起きる素振りは見せない。

「彼は私に新しい生き方をくれたの。だから私も…彼とずっと居るわ。何があってもね。」

そのまま暫く夢の中で休ませてあげようと踊り子は眠る不死鳥にそっとキスを送った。


【5】


職人の町の裏手にある小さな広場。

ゴミ置き場として利用され、売り物にならない出荷品が寂しく捨てられている。

その広場には鴉が住み着いてゴミを漁るのを日課にしていた。

そこに堂々とトウモロコシを盗んだあの灰色の猫が迷って侵入してきた。

頭の賢い鴉達は縄張りを荒らす余所者だと判断してギャアギャア鳴き出した。

猫は一瞬怯むが餌を咥えたまま全身の毛を逆立てる素振りを見せて威嚇してきた。

「ガァァ!」

「ギニャァ!」


そこへ一羽が突っ込んできて猫の首の後ろを突っついた。

堪らず猫は悲鳴を上げてトウモロコシをその場に落としてしまう。

だが拾うとした瞬間、四羽五羽と鴉が一斉に襲ってきて返り討ちに合った。

鋭い嘴が体毛を毟り、トウモロコシは持ち去られてしまう。

辺りにはカァカァという鳴き声と黒い羽が待って怪しげな雰囲気と化していた。

真っ黒な渦の中央には全身の毛がボロボロになった猫がグッタリと倒れている。

それでも鴉は攻撃を止めない。

とうとう猫も恐れを成してフラフラとその場から逃げてしまった。

貴重な食料は奪え返せずにトボトボと帰路を歩く猫。

その時だ。

「いたぞ!捕まえろ!」


麦わら帽子の男が指差して数人が走ってきた。

逃げようにも鴉に襲われた傷が痛んで足が動かず、そのまま背後から抱き抱えられた。

「このどら猫め!観念しろ!」

大切な食料や売り物を台無しにされた側にしてみれば決して許すまじき存在。

しかし猫は気紛れな生き物、奪おうが何しようが自分が生きる為には仕方ないと見栄を張る達人だ。

猫はフーフー鳴きながら町人を睨む。

「どうするんだコイツ?」

「どうするも何も追い出すしかないだろ。じゃないとまた何か狙われるし。」

満場一致でこの猫を追い出そうと決める職人達。

そこへタッタッタッと誰か走ってきた。

「待っておじさん、その猫貰って良い?」


えっ?と呟いて振り向くと自分らよりずっと小さな子供が背後に立っていた。

それもこの町の住人では無い。

「あれって…親分さんが連れてきた客人だよな?」

「そうだな。でも貰うって一体?」

男達はイマイチ理解出来ずにマナに尋ねる。

「なぁお嬢ちゃん、貰っていくって…この猫育てる気なのか?」

「ウン、そうだよ。」

一気にその場がザワザワと騒がしくなる。

引き取ってくれるのが有難い反面、どうしてそんな結論を出したのかと懐疑的になる。

「お嬢ちゃんなぁ、この猫は悪さばっかするんだぞ。一緒にいて平気なのか?」

「平気だよ。猫大好きだもん。」


笑顔で淡々と答える仕草にいつしか彼らも警戒を緩めていく。

その言葉が真意なら…預けても良いのかなと。

「でも親分さんなんて言うかなぁ…。家連れ込んだら好き放題にされそうだし。」

「かと言って子供の前で放り投げるって真似絶対出来ない人だしな…。どうなるんだか…。」

ガイズタウンの土地は今まで見た街より若干狭い。

なので住人も多過ぎず、全員が全員を熟知している感じだ。

ガデフに関しても大半が彼の人柄を知っているのでどんな素振りを見せるのかは目に見えているのだ。


口々に飛び交う声を聞きながらマナは泣きそうに大人を見上げる。

「おじさん…猫嫌いなの?」

「そうじゃないよ。ただ連れて帰ったら家の中が荒らされるか心配って事なんだ。」

「まぁあの人見た目に反して結構子供好きの世話好きだし…断りきれないと思うけどなぁ。」

「でも頼まれた荷物滅茶苦茶にされたら流石に黙ってられないタイプだしな…。」

ウ~ンと悩み苦しむ男達を見ながらマナはハァ~と深く溜め息を付く。

素直に渡してくれれば良いのにどうしてこう複雑になるのかと。

「お嬢ちゃんゴメンな。気持ちは分かるけどコイツは予想より危険だ…ってイデェ!」

「おいどうした!?」


と、ここでハプニングが発生した。

観念して大人しくなっていた猫が前足を振り回して自分を押さえる男の手を引っ掻いたのだ。

力が抜けたその一瞬の間に猫は逃げ出してマナの足の近くに隠れた。

「フニャ~。」

短い爪を砥ぐようにピョンピョンと跳ねる猫。

それを見てマナは咄嗟に抱っこし始めた。

ヤバイだの危ないだのと忠告する男達は思わず驚いた。

あれだけ騒いでいた猫が人が変わったように大人しくなり、マナの手をペロペロ舐めているのだ。

「猫ちゃん怖がってるだけなんだよ。だから良いよね?」


向日葵のような満面スマイルにその場の全員は脱力しそうな空気になった。

この笑顔の前ではどんなにしかめっ面しても無意味だと。

「なぁ…やっぱり親分さんと掛け合わないか?」

「だよな。」

「うわぁ…俺クビにされるかも。」

自分等もどんな事を言われるかを怖れつつ、彼らは一人の人物の元へと向かうのであった。


【6】


―同じ頃、一人の若者は夢を見ていた。

いつも見る…自分の家族が死んだ夢ではない。

それよりももっと昔の光景が広がっていた。

目に飛び込んでくるのは艶かしい炎。

人里離れた場所に建つ立派な豪邸が火事になっていた。

上に下に広がっていく炎の空間の中央に一人の男が倒れている。

その真後ろ、横倒しになった柱から見守る少年がいた。

―何やってんだ!逃げるぞ!

動かない自分の右手を誰かが引っ張る。

―ここにいたらお前も死ぬんだぞ!早く!


声の主は自分よりちょっと年上の少年。

切羽詰まって逃げろと言い聞かせてくる。

―待ってよ…!まだ…があそこに!

―もう無理だ!逃げられなくなるぞ!

あの男を少年は知っている。

誰よりも大切で、誰よりも自分を愛してくれている大事な人。

そんな人を置き去りになんて出来なかった。

そうしている間にも炎の柱が崩れてきて自分は思いっきり後方へ引っ張られた。

―そんな…嫌だよ!……!

燃え盛る炎はその人物の影すらも飲み込んでしまった。

―……!………!!


バチンッとブレーカーが落ちたような音が鼓膜に響いて男は飛び起きた。

ベッドの軋む音と毛布が跳ね上がる音に他の仲間が驚く。

「ビックリしたな~旦那、どうしたよ?」

近寄ってジャッキーは思わずウッ、と怯む。

熟睡していた相棒の顔は青ざめ、唇は紫に変色し、目の下には薄っすらとクマが出来ている。

とても熟睡していたとは思えない顔付きにジャッキーは胸が張り裂けそうだ。

「だ、旦那!?大丈夫か!?」

一応額に手を当てるが至って発熱している雰囲気は無い。

「どうしたの旦那?悪い夢でも見たのか?」

ケビンはハァハァと荒く呼吸するばかりで中々声が出せない。

落ち着かせようとジャッキーは床に落ちた毛布を上半身に掛けた。

「ジャッ…キー…居る…のか?」

「旦那…。」


雪が降っている訳でも無いのにブルブルと凍える相棒の姿にジャッキーはどうしたら良いか分からなかった。

「ジャッキー…お願いだ…俺の側に居てくれ…。」

肩の真下に垂れる毛布の裾を掴みながらケビンは丸くなるように顔を埋める。

「一人になると駄目なんだ…だから一緒に居てくれ…。」

今にも泣きそうな声にジャッキーは眉を顰めると自分のコートを脱いでケビンに羽織らせた。

そこからコートごと優しく抱き締める。

「そんなの当たり前だろ、俺様は旦那の…唯一無二の相棒だからな。」

乱暴にブラッシングされた黒い毛髪に鼻先を埋めてジャッキーは瞳を閉じる。

「俺様は旦那の影になる男だ。どんな事があっても…アンタが何者だろうと…俺様はずっと着いていくからな。」


優しく後ろ頭を押さえてジャッキーはケビンに訴える。

その胸中はとても複雑の一言で済ませられない程にズキズキ痛む。

ケビンがこんなに弱音を吐く事なんて一度も無く、ましてや自分を求める発言なんて一言も言ってこなかったからだ。

彼は自分の思う更に上までの深い悲しみを引き摺ってるんだと感じ取った。

「もしかしてまたいつもの夢か?」

「違う…それよりもっと…タチの悪い夢だ。」

「タチの悪い…俺様や姫や姐さんが目の前で死ぬ夢か?」

「…そう…かも…な…。」

自分の腕の中でケビンはひたすら嗚咽を漏らす。

心臓が凍り付く位の寒さが全身を巡って不安がどんどん蓄積していく。

大の大人がみっともないと思われるがそんな言葉など届かない程自分は憔悴しているのが分かる。

「自分でも分からないんだ。なんだか知らないけど…一人になりたくないんだ…。」


自分の意識を無視して歯がカチカチ鳴って背筋が寒くなる。

その冷たさをジャッキーは手の温度で感じてひたすら背中を摩ってくれる。

「ゴメンなジャッキー…ゴメンな…。」

「良いよ旦那。アンタずっと一人で肩張ってたんだし…たまには俺様に泣き付くのだって大事なんだよ。」

迷子になった子供をあやすようにジャッキーは背中を摩る手を止めない。

それ以上にケビンの悲しみに気付かなかった自分を責めてもいた。

口だけでは無い、本気でその相手の心に寄り添うのも相棒としての大事な役目だと今更ながら思っていたのだ。

一方、エルザとガデフは一言も発せられず、一ミリも動けずにずっと二人を眺めるばかりだ。

「アイツら…なんやろうな…この空気…。」

「えぇっと…なんて言えば良いのかな?」


エルザは仲間になってもうかなり経つがジャッキーはその前からケビンと一緒にいる。

順番的にはマナが一番最初だがそれを省いてもケビンとの付き合いは長い。

故に本心も性格も全部知り尽くしているのであんな芸当も出来るのだと思った。

比べると自分はケビンを責めたり咎めたりするばかりであまり彼に寄り添ってはいない。

彼の踏み込んではいけない所へ踏み込まないようにブレーキを掛けていると感じていた。

《ジャッキー…貴方やっぱり大物ね。羨ましくなるなぁ…。》

あまり邪魔してはいけないと入り口横の窓に振り向いた時だ。

「ん…あの人って?」

「なんや?誰かおるんか?」


【7】


ガデフも確認すると窓の外に仕事仲間が立っている。

それも窓ガラスをノックして呼んでいるようだ。

椅子から立ち上がって扉を開けると四~五人が固まって立っていた。

「どうした?揃いも揃って珍しいやないか?」

「親分さん…実はその…ちょっと…。」

しどろもどろになっていたらその間から誰か出てきた。

自分より頭三個分も小さなツインテールに目が行く。

「なんや嬢ちゃん?ん…その猫って…?」

ガデフはマナが大事そうに抱える生き物を見て目を丸くした。

それは今この町を騒がしているイタズラ猫そのものだ。

「おじさんお願い!この猫置いてくれる?」


エルザも横に立ってその猫に釘付けになった。

さっき出かけたのはこの子を探す為だったのか思いつつ、腰に手を当てて溜め息を付く。

「あ~あもう、連れてきちゃって。」

「嬢ちゃん…コイツの世話するつもりなんか?」

「そうみたいなんさね親分さん。俺らも止めようかどうか迷ったんだけど…。」

男も半ば諦め半分な表情をしており、その顔色で全てが悟られる。

そして問題の猫に至ってはあの時と違って威嚇せず、マナの腕の中で喉をゴロゴロ鳴らしていた。

「おじさん、この子乱暴されて怖がってただけなんだよ。だからマナがお世話すればいい子になってくれるかなぁって…思って…。」

マナもガデフの顔を見て段々声が小さくなる。

つい勢いでここまで来たがいざ交渉となるとさっきの勇気が見る見る内に萎んでいく。

「親分さん、今はこのお嬢ちゃんの言う事信じてみたらどうだ?もしかしたら本当にイタズラしなくなるかもしれないんだよ?」

「そうそう。じゃなきゃお嬢ちゃんショック受けるしさ。」


仕事仲間に促されてガデフはヤレヤレと小さく呟く。

押し付けられた感はあるが自分が責めてもケビンやエルザが黙ってないと知ってここは乗るしかなかった。

「そこまで言うならしゃあないな。その代わり世話するならそれなりに責任持たなアカンで。」

「ホント!?ありがとうおじさん!!」

猫と一緒にガデフに抱き着く素振りを見せると大きな手が頭に乗せられた。

エルザもガデフの横顔を見てしょうがないとマナの肩に手を置く。

「まぁ私らも要所要所で手伝えば良いしね。この猫ちゃんが嫌わなければ…」

「ニャ~オ!」

突然猫は鳴きながらピョイとマナの腕から離れてベッドの方に向かう。

ケビンはまだベッドに座ったままの姿勢でおり、そこから猫に視線を向ける。

「お、あの時のニャンコか。やっぱこの家に置くのか。」

ジャッキーに慰められて安心したのか、声も表情もいつもの彼だ。

「そうよケビン、貴方も何か言ってあげて。」

「フニャニャ~。」


猫は後ろ足で立つ素振りを見せて前足をヒョイヒョイと動かす。

ケビンは微笑みながらヒラヒラと手を振った。

「悪いな、生憎猫じゃらし持ってないんだ。今度探してくるよ。」

「ニャ~ニャ。」

分かったとでも言いながら今度はジャッキーの足に触れてくる。

「おいおい姫、今度は猫を仲間にするのか?」

よしよしと撫でてあげると猫はキョトンとしながらトタトタとマナの方へ戻る。

「ジャック駄目?」

「全然平気さ。匂いはちょっと苦手だけどな…。」

最後の方は小声で聞こえなかったがマナはニッコリ笑って猫に振り向く。

「フフ、良かったね猫ちゃん。」

「ニャ~オ?」


何が良かったかイマイチ理解出来ずに猫は首を傾げるばかりだ。

でもそんな仕草がなんとも可愛らしくて周りも穏やかになる。

「この様子ならもう大丈夫やな。お前らも仕事に戻ってくれや。」

「ハイ、分かりました。」

男達が家から出るのを見計らうとガデフは冷蔵庫から牛乳瓶を取り出した。

それを平たい皿に入れるとそこに水を少し入れて猫に差し出した。

「ホレ、まずはこれでも飲んでくれ。」

猫は牛乳水の匂いをクンクン嗅いで恐る恐る舌を水面に付けた。

そのままペロペロと牛乳水を飲んだ。

「おぉ、飲んでくれたな。」

ガデフは険しくも笑顔を作って猫の背中を撫でる。

念願の水に有り付けて嬉しいのか、襲う素振りは見せない。


他の三人もマナの言葉を信じて猫をまじまじと観察する。

「でも餌はどうするの?キャットフードなんか無いんでしょ?」

「でも野良なら色々な物口にしてるだろ。雑食なら何でも食べるんじゃないか?」

「冗談で札束とか食べるとか?あ、いやゴメンって姐さん…危ないから。」

相変わらず一言余計なジャッキーは台所の包丁を取り出して向けるエルザにビビる。

猫は牛乳水を飲み干してミィミィと嬉しそうに鳴いた。

「あ、お水ありがとうって言ってるよ。」

「本当か嬢ちゃん?猫の言葉分かるなんて対した子やな。」

まん丸い瞳をクリクリさせて猫はマナの方に歩いていく。

おいでおいでと出された手の中に入るとお腹を見せてゴロゴロ唸る。

「なんや~、ただの甘えん坊さんかコイツ。」

「きっと腹が減ってストレス溜まってたんだろ。だから色々やらかしてたんだろうな。」


猫の本性を知っていっていつしか家の中は優しい空気に包まれていった。

動物が一匹いるだけでこんなにも暖かな空間が生まれるなんて思わなったと誰もが考えた。

そして猫の方も自分に優しくしてくれる人間に囲まれて幸せな顔になっていく。

仲間内の笑い声は窓から外へ流れ、道を歩く人々は振り向いて耳を傾ける。

あの猫の被害を受けた男達も苦笑いしながら家を見つめていた。

所々でやっぱり任せて良かったな、あの猫も自分に甘えて欲しいと本性を現す声もどんどん町中へ広がっていくのであった。


【8】


太陽は次第に傾き、町は暗闇に包まれる。

一日中汗水流して働いた男達も各々の家に帰って体を休ませている。

町の一番奥まった所にある独身男の家の中は多くの笑い声と騒ぐ声で包まれていた。

「ほらじゃんじゃん飲んでくれや。遠慮は無用やで。」

昨日まで一人暮らしだった家のテーブルには溢れる程の御馳走が乗せられている。

食材は仲間が作ってくれた野菜が殆どであり、エルザがそれを上手に料理してくれていた。

そこに地酒も加わって益々ムードが盛り上がる。

「お、良い出汁やなコレ。何処の乾物使ってるんや?」

「まぁ私らも色々な所行ってるからね。その場所の名品を手に入れてるのよ。」


ガデフは酔い気味に味噌汁のおかわりを促す。

因みに出汁はマリンウェスでジョーズ討伐のお礼に貰った昆布から取った物だ。

やはり港町で直に仕入れた物は違うなとケビンも笑みを浮かべて汁を啜る。

テーブルの近く、収納棚の横に敷かれたマットの上では猫が皿にひっくり返す勢いで餌に食い付いている。

この餌はエルザが作った野菜たっぷりのおじやもどき。

鴉に襲われて餌に有り付け無かった猫にとっては何よりの御馳走である。

マナはマットの前にしゃがんで食べっぷりを見守る。

「どう?美味しい?」

半分平らげて猫はミャア~と一言鳴く。

言葉は分からなくても喜んでいるのは感じられた。

「マナ、猫ちゃんは大丈夫だから貴方も食べなさい。」

支度の段階から猫の傍を離れないマナにエルザが忠告する。

食事が出来てもマナはずっとマットの前から動かないからだ。

「ハ~イ、ちょっと待っててね。」

「ニャ~ニャ?」


猫は何処行くの?と目を丸くしてマナを見上げる。

するとマナが椅子に座るのを見てトコトコ近寄ってきた。

「待ってねリンクス、後でお風呂入れてあげるから。」

「…リンクス?その猫リンクスって言うのか姫?」

ガデフにお酌しながらジャッキーがマナを見つめる。

マナは目をキラキラさせて頷いた。

「ウン、良い名前でしょ?」

「そやな。でもリンクスって偉いシャレた名前…何処から思い付いたんや?」

マナは椅子の足に抱き着く猫を見つめて口を開いた。

「施設にいた頃ね…マナが大好きだった絵本があったの。“魔法少女アイリと魅惑の猫”って絵本なんだけど…その本に出てくる猫がリンクスって名前なの。」

マナは瞳を閉じ、胸の前で両手を組んでポツリポツリと語り始めた。

それは先程言っていた絵本の内容についてだ。


―絵本の主人公アイリはある日、リンクスという言葉を喋る猫と出会いふとした事から魔法の世界へと案内された。

―そこでアイリは魔法の世界を統べる女王様と出会い、この世界が悪い魔女に狙われているという事を教えられた。

―そしてリンクスはその女王様の仕い猫であり、アイリに魔法の力を与えて共に魔女を倒す旅に同行する。

簡潔に言うとこんな内容の絵本である。

大雑把な説明だが一緒にいる大人組はとても良い絵本だとマナに説いてくる。

「それで…その話はどう終わるんだ?ハッピーエンドか?それともバッドエンドか?」

ケビンが地酒を飲みながらマナに聞くと本人はコクリと頷いて答える。

―アイリは無事に悪い魔女を倒して人間の世界に帰れる事になったがその時にリンクスも一緒に連れて行くと女王様にお願いしてきた。

―リンクスは女王様の弟子や他の動物から「腰巾着」「猫の癖に生意気」と言われて虐められ、アイリと出会うまでは友達が一人もいなかった。

―それを教えられていたアイリは自分と別れたらまた一人ぼっちになってしまうと感じ、リンクスを人間界に連れて行くと決めたと女王様に告げた。

―それを聞いた女王様はリンクスは人間界に連れて行くと二度と喋れなくなるし魔法も使えなくなる、更にはこの世界で自分と過ごした記憶も消えてしまうけどそれでもいいかとアイリに尋ねてくる。

―しかしアイリは記憶が無くなっても自分が新しい思い出を作ると女王様に伝え、それを聞いた女王様もアイリを信じてリンクスを託した。


こうしてリンクスは魔法も言葉も記憶も失って普通の猫になったがアイリから沢山の優しさと愛情を貰って彼女と新しい人生を送っていったという結末で物語は終わるという。

住む世界も種族も越えた一人と一匹の成長とはなんとも感動させられる絵本だなとケビンは考えた。

「そこから取ったのか。自分もその主人公みたいにリンクスを幸せにしてやりたいって。」

マナがこんなにもロマンチックな事を言うなんてと子供の想像力にさながら感動する。

そういえばヒカルもヒーローになって世界を守るんだって自分やマリアに言い聞かせてたと思い出しながら酒を喉に流し込んだ。

「マナね、もし猫が飼えたら絶対この名前にしようって決めてたの。絵本と違って喋れなくて魔法が使えなくても…幸せにしてやる事は出来るって。」

「流石だな姫。その底知れぬ優しさは人だけでなく動物にも幸運を与えし…か。」


意味が良く分からずにジャッキーの発言にマナは首を傾げる。

するとリンクスが膝の上に乗ってマナの手を舐めた。

小さな舌はチロチロと白い肌をマッサージしてくる。

「フフッ、リンリンってばくすぐったいよ~。」

もうあだ名を付けて呼んで顎の下を撫でると猫はゴロゴロ鳴いて前足で何かに触れてきた。

肉球で押しているのはピンクの宝石、マナが肌身離さず身に着けている指輪だ。

「あれ?これ気になるの?」

「ミャア。」

一声鳴くとリンクスは指輪の宝石を優しく舐める。

でもマナは怒らずによしよしと撫でた。

「ハハッ、嬢ちゃんすっかり母親の顔になっとるな。」

「まぁ猫に夢中で食べないのは勘弁してほしいけどね。」


エルザは片付かないと背後からリンクスを抱き上げた。

恨めしそうに鳴くのもお構いなしに寝床に戻すと観念したのか自分の餌に食い付く。

「やれやれ、やっと離れたか。しつこいのは勘弁してほしいぜ。」

ケビンも流石に呆れてマナに食べろと促す。

マナもぶすっとしながら自分の食事に手を付け始める。

「猫は女と似て気紛れな奴だからな、一度気に入った人間にはとことん付き合うタイプだろうによ。」

「成程、姐さんが旦那を気に入って離れない理由が良く分かるな。」

「って、どういう意味よそれ。」

空身のトレーでジャッキーは頭を叩かれるも気にせずに酒を煽る。

それを見ながらリンクスは空の皿を弄ってニャアと小さなあくびをした。


【9】


満月が昇り、草地からは虫の鳴き声が響く夜。

気温が若干下がって肌寒い日ほど風呂に入ると心地良い。

それは人間だけではなくて動物も同じだ。

ジャアジャア水温が響く浴室は湯気に包まれて開き扉のガラスが曇る位熱くなる。

「リンリン気持ち良い?」

「ニャ~。」

フワフワの体毛がシャンプーの泡に包まれて羊みたいな姿になるリンクス。

マナはリンクスが嫌がらないように優しく毛並みを撫でる。

ずっと外を走り回って生きてきたリンクスの体毛は泥と砂と埃でかなり汚れていたがシャンプーしたお陰でかなり綺麗になった。

「良かった、これで病気とかにならないからね。」

「ニャ~オ。」


シャワーの勢いを緩めにして泡を流すと濡れた体毛はベッタリと張り付く。

それから柔らかいバスタオルで包むと最初は暴れるも直ぐに大人しくなった。

顔を覗くと瞳が真一文字に閉じられてとてもにこやかな顔になっている。

「リンリン眠いの?」

「ニャ~…。」

答える声も段々小さくなっていてマナは睡魔が迫っているのかと気付いた。

充分に体を拭くと抱っこして浴室からリビングへと戻る。

寝床用のマットに乗せるとリンクスは丸くなってゴロゴロ唸りながら眠りに就いた。

「お休みリンリン。」

お腹を撫でるとマナは自分の着替えを持って再度浴室に戻る。

そのやり取りを見ながら大人四人はテーブルで談笑していた。

「姫の奴完全にママになったなぁ。頼もしい限りだ。」

「そうだな。出会った頃はただの甘えん坊だったのにあそこまで世話焼きだとはな…。」

「多分子は親に似るっちゅうモンやろ。ケビンの形振り見て自分も真似してるんやろうな。」


ケビンはその言葉に暖かいお茶の入った白いマグカップを落としそうになる。

マナは自分に家族が居るのを知っている。

それを思いながら接する自分が…マナに何かしら影響を与えているのだろう。

「親分がそう言うなら俺様も同じだな。だって姫見る時の旦那の目…親みたいに優しい目してるもん。」

「同感ね、私も同じ事思ってたわ。でもマナはケビンの事パパって言ってないわよね。遠慮しなくてもいいのに。」

エルザが何気なく呟いた一言にケビンはカップを持つ手が震えているのに気付く。

マナは自分を…父親だと思っているのか?

もしそうなら嬉しいような悲しいような感覚がする。

「おぉそうや。確か嬢ちゃんって親御さん探してるんやろ?もし見つかったら引き渡すんか?」

「それはまだ分からないの。最後はマナに決めてもらうって約束してるから。」

健気に言いながらもエルザは胸の奥が急にザワザワして深く目を閉じた。

「本当は実のご両親の元に帰してあげるのが一番なんだけど…マナは自分の親の顔はおろか…名前すら知らないって教えてくれたの。だから会えても…きっと戸惑うと思うわ。」


この場にいない少女の親が何者なのかは分からない。

でもきっと娘思いの優しい親に違いないとエルザは思った。

そうでなければ指輪を持たして手放す真似など有り得ないからだ。

「じゃあ…もし嬢ちゃんが戻りたくないって言ったらどないするんや?」

その質問を待っていたかのように長い睫毛が縁どられたエメラルドの瞳が開かれた。

「…私が…あの子の母親になるわ。」

パチパチと燃える暖炉の中で薪がパチリと弾ける音がする。

その答えに三人の男は何も答えずに次の言葉を待った。

「自分でも馬鹿みたいな事言ってるのは分かってる…でもそれでもマナの事見過ごせないの。親に見限られたら…あの子は立ち直れなくなるって。だから一緒にいてあげたいって。」


取り出した指輪を見せて緑の瞳が暖炉の炎で赤く染まる。

瞳の光はピンクの宝石をいつまでも見つめていた。

「そうか。でもエルザが嬢ちゃんのママになったらきっと世界一の母親に化けそうやな。」

「俺様も同じだぜ親分。何かあると直ぐに包丁一本さらしに巻いて追い掛け回す…って、だからそのなまはげの顔は止めて…イヤマジでスンマセン…ごめんなさい…許して…!」

音もなく包丁を向けるエルザの顔はマナと話している時のようなニコニコ顔。

それが余計に怖くてジャッキーは椅子から転げ落ちて必死に土下座していた。

「ホンで…嬢ちゃんはそれに答えるのか?」

「きっと大丈夫だろ。だって出会った時点からエルザを“ママ”って呼んでるんだ。マナも恐らく…受け入れると思うぜ。」


お茶を飲み干してケビンは椅子から立ち上がり、ベッドへと向かう。

「俺達もそろそろ休もうぜ。睡眠不足はお肌に悪いって言うだろ?」

「そうね…ってかジャッキーいつまで土下座してるのよ?」

ゲシゲシと頭を叩くとロクな目にしか会わない彼は泣きながら立ち上がる。

「もう嫌だ…助けて旦那…。」

「知るか。自分が言ったせいだろ。」

と、言いながら寝床へ行くと足がピタリと止まった。

「そういえばさ…ベッド一つしかないけどどうするんだ?」

「心配あらへん。貰い物の布団あるから出すで。」

ガデフは言うなや奥の部屋から敷き布団の山を軽々持って現れた。

「なら問題なしか。エルザ、お前マナと一緒にベッド使えよ。女に雑魚寝させる真似は性に合わないからな。」

「そんなご丁寧に言わなくてもそのつもりよ。ありがとうね。」


そそくさと布団を準備するケビンにエルザは呆れ混じりに感謝の言葉を言う。

その光景は恋人、或いは夫婦そのものだ。

ガデフはそう感じてふと考えていた。

《アイツらが将来結ばれるんやったら…どのみち嬢ちゃんは二人の子になるんやろうな。》

あの二人が親になったら…マナはどんなに喜ぶ事だろうか。

優しくて強くて…それ以上にマナへ強い愛情を傾けるその志し。

それこそ親にしても相応しい器を二人は持っているのだ。

「どしたの親分?なんかニヤついて。」

「おっと、何もあらへんで。気にするやな。」

ジャッキーは訳が分からずに首を傾げながらケビンに手伝えと頼まれ、作業に加わるのであった…。


【10】

満月が空の中央に昇って優しく地上を照らす深夜。

職人の町の明かりは全て消され、音も声もしない静かな時間が流れている。

寝床に選んだ1軒家からは男2人分の鼾が窓を通過して外まで喧しく聞こえていた。

石畳の床に敷いた綿布団の上でケビンは思わず耳を塞ぐ。

ただでさえ寝相の悪いジャッキーに加えてこの家の家主の鼾が重なり、正直言って寝られないのだ。

《勘弁してくれよ…。これじゃあ寝不足になるだろうが…。》


こんな小さな事で2人を蹴飛ばす真似はしたくないばかりに次第にイライラが貯まっていく。

耐えられずにケビンは布団から跳ね起きて女性陣の眠るベッドへと足を運んだ。

鼾に掻き消されるように小さな寝息が聞こえて自然とイライラが静まっていく。

マナとエルザはシングルベッドの中でお互い向い合わせの姿勢で眠っていた。

起こさないようにしゃがんでケビンはマナの耳の辺りを撫でる。

マナは一度寝ると滅多な事では起きないので自分がいるのも気付かずに眠り続けていた。


指先で柔らかい肌を愛でながらケビンはふと思った。

―『マナはケビンの事パパって言ってないわよね。遠慮しなくてもいいのに。』

頭の中にエルザの言葉が蘇る。

過去に自分をパパと呼んでくれたのはマリアとヒカルだけ。

それでもなんか引っ掛かって頭を悩ませていた。

―マナは自分を父親と自覚していないのか?

同じ異性メンバーではジャッキーもいるがどちらかと言うとジャッキーは父親より兄の感覚がある。

それなら自分は…単なる同伴者に過ぎないのかと疑った。


それに…問題はもう1つある。

《俺は…この子を…。》

もし仮に父親になっても…また失うのではないか。

一度ならず二度も同じ過ちを。

それを考えたら無理して親にならなくても良いと納得する自分もいた。

急に瞼が熱くなって胸が締め付けられる。

このまま見守ってても寝不足が蓄積されると感じて布団に戻ろうとした時だ。

「…グスン…ふわぁぁん…。」

突然マナが眠りながらぐずった。

出会った頃からそうだがマナは寝ていると良く悪夢に魘されるようにぐずり始める癖がある。

なのでエルザと会う前はいつも自分が慰めて寝かし付けていたのだ。


エルザもその声を聞いて自然と当たり前のように後ろ頭を撫でながら慰め始める。

でも今日は何故か…様子が可笑しい。

いつもなら数分で落ち着いてまた眠るのに珍しく中々泣き止まなかった。

「マナ大丈夫?ちょっと待ってね。」

エルザはゴソゴソとベッドから身を起こしてマナを自分の腕の中に包む。

音の無い真っ暗な空間で怯えるマナは母親の体温に持たれて心地良い雰囲気になる。

それなのに自然と口が開いて嗚咽が零れてしまうのだ。

「ママ…ママ…。」


くぐもった声に混じって必死に母親を呼ぶマナの姿にエルザは胸が苦しくなる。

こんなに密着しているのに何も出来ない自分が憎かった。

自分がいてもやはりマナの悲しみは癒せないのか?

自分にはやはり母親の素質など無いのか?

頭の中にグルグルと不安な渦が巻いてきて…自分も少なからず怖くなってきた。

《マナ…ごめんね…やっぱりママは…。》

母親失格だと謝ろうとした時だった。

「ママ行かないで…パパぁ…何処なの?」


エルザの脇をすり抜けるように小さな手が伸びた。

虚空で指先が蠢いて…何かを探してるように見えた。

そして偶然なのか…その手はケビンのいる方に向けてダランと項垂れた。

それを見たケビンは自然と…本当に自然と体が動いていた。

「…んっ。」

マナと一緒に誰かに抱き締められてエルザは暫く固まり、直ぐに瞬きした。

「だ、誰…」

「落ち着け俺だ、デカイ声出すな。」


人差し指を唇に当ててシーッとサインを送る男をエルザは見上げた。

知らない合間に自分が恋い焦がれる男が真正面にいた。

「ケビン…どうして?」

「…誰かさんの鼾がうるさくて眠れなくてな。」

そう呟くと一度離れて2人を見守るように腰を下ろす。

マナは未だにエルザの服を掴んで魘されている。

「…そのまま抱いててくれ。」

頷くのを待たずにケビンの手が静かに小さな頭を包み込んだ。

「…ママぁ…。」


ケビンは耳を傾けて寝言を聞く。

マナはとにかく親の名前を呼びまくっていた。

誰もいない暗い場所で…ひとりぼっちで泣きながら。

「マナ…ゴメンな。夢の中でパパとママの事探してたんだろ?」

「…ッ!?」

「大丈夫だ、俺もママもここにいるからな。だから眠ってくれ。」


それは奇跡のようだった。

エルザに抱かれ、自分に頭を撫でられるマナの閉じられた瞳から…透明な雫が線となって頬を伝ったのだ。

ケビンの言葉が彼女に届いた証拠だ。

「…ママぁ…パパぁ…。」

泣きながら…呻きながら…必死に自分達の名前をマナは呟く。

「行かないでぇ…マナと…一緒に…いて…。」

「分かってるよ、何処にも行かないからな。もうお休み…。」

ケビンは涙で濡れる頬にそっと唇を落とす。

それを最後にマナの顏が一気に落ちてズシリと重みが伝わってくる。

エルザは目をパチクリさせながらマナとケビンを交互に見つめる。

「ア、アンタ一体何やったの…?」

「何って寝かしつけただけだ。問題でも?」

「い、いえ…えぇっと…その…。」


色々ツッコミたいが心の整理が出来なくて上手く言葉が出てこない。

でもまず一つ言えるのが…ケビンが自分をパパと呼んでいた点だ。

今までそんな事は一度として無かったのに…急にどうしたんだろうか?

スヤスヤと眠るマナを抱きながらケビンを見続けた。

「悪いな、邪魔だったか?」

「ううん…助かったわ。ありがとう。」

やっと一息付けたと感じてふと思い返した。

「そういえばケビン…昼間爆睡してたもんね。そりゃ寝れる訳無いわね。」

「そうだな、まぁお前がキスしてくれたのは嬉しかったけどな。」

「あっ、ちょっ…!き、気付いてたの!?」

「お前女の癖に唇のケアとかしてないだろ。それで直ぐに分かったさ。」


【11】


寝ているのになんで分かったのかと改めて恐ろしいと感じる。

「と、とにかく私も寝るね!ホラ!寝ないとお肌に悪いから…!」

気不味い空気を誤魔化そうとエルザはベッドに戻る仕草を見せる。

他の二人を起こさないように抑えた声で騒ぎながら横になろうとする踊り子の肩をケビンは掴んだ。

「な、何!?」

「俺も一緒に寝るよ。その方がマナもぐずらないと思ってさ。」

カア~ッと全身の熱が顔面に集中して白い頬が赤く染まる。

「ちょっ…!アンタどこまで…!」

「良いから詰めろ、じゃないと入れないだろ。」


気力負けしたエルザは素直にベッドの壁側に移動し、マナを自分の右側に寝かせる。

そこから寝ぼけて落ちないようにケビンがマナの左側に添い寝の姿勢で入った。

三人は今、所謂川の字で寝る姿勢になっているのだ。

けれどエルザはケビンの顔を見れずに何もない石の壁を凝視する。

《もう…なんでこんな展開になるの…。》

顏の熱は未だに冷めず、どうしていいか分からない。

加えて背後にいる男の気配を見なくても感じてしまうので心臓が止まりそうだ。

「エルザ…。」

落ち着いていて…悲しげな声が聞こえた。

「…昼間は迷惑掛けたな。」

「……。」

「コイツ頼りないって正直思っただろ。でもいいんだ。たまにああやって昼間に眠くなる時もあるんだ。」

「…えっ?」


ケビンの目は自分ではなく天井に向けられている。

聞きたくなければ耳を塞いでも良いと訴えるような悲しげな瞳をして…だ。

「その時も決まって悪い夢見るんだよ俺。それで起きると暫く動けなくなるんだ。」

「…。」

「昼はこれで夜寝るときは必ずマリアの夢だろ、だから俺…寝ている感覚が無いんだ。」

それが事実なら体への負担も大きい。

でもケビンは寝不足だという素振りは一度も見せていない。

いや、自分らを不安にさせないように無理しているんだと感じた。

「…別に気にしてないわ。男の泣き顔は見慣れてるしね。」

何故だろう…得体の知れない恐怖が込み上げて早く眠りたかった。

でも彼が気になって…眠るのに集中出来ない。

「お前…そんなに男が嫌いなのかよ?」

「嫌いじゃないわ。ただ…男からは良い思いをされた事が無いだけよ。」


薄い寝間着の背中が擦れてピリっと熱くなる。

忌々しい傷は熱消毒で消えてもその仕打ちの苦しみまでは取り除けずに心の中に残っている。

少し前まで男はケダモノに過ぎないとどこかで思う自分がいた。

それを思い出して掛布団を少し引き上げようとして…手を止めた。

「でも…ケビンの事は不思議と嫌いになれないの。なんでだろうね…。」

「…お前。」

「私…冗談じゃないけど…貴方といると心が安らぐの。不思議とね…。」

急に顔の熱が引いてエメラルドの瞳が壁側から反対へ向かれた。

「…ねぇ…手繋いでも良い?」

「…うん。」

自然と伸ばされた自分の右手と少女を挟んだ男の左手の指が絡み合う。

男の手は熱く、薬指のリングが暗闇で光った。

火傷する程に熱くてとても暖かな手の温もりに心まで癒されていく。


静かな無言の時間は知らず知らずの内に過ぎていく。

シングルベッドの上で繋がれた二人の手は安らかに眠る少女を守るように…布団の上に乗せられていた。

筋肉の無い白い指がリングに触れてヒンヤリと冷たくなる。

「可愛い寝顔。なんか…さっきのイライラが嘘みたいね。」

「多分マナの奴…夢の中で必死に探し物してたんだろうな。だから毎晩魘されてたんだ。」

ケビンは寝顔を見つめながら口を開いた。

それはマナと初めて出会った日の夜の事だ。

あの夜もマナは誰もいない暗い空間に取り残された夢を見て…泣いていた。

なので朝まで自分が隣で付き添ってあげていたと。

それを聞いてエルザも口元を緩ませる。

「素敵ね。もしかしたら…口では言わないけど内心は父親代わりだって思ってるかもね。」

「そうだろうな…。」


安心したせいか、睡魔が黙々と蘇る。

そろそろ休まないと完璧に寝不足になりそうだ。

「もう寝かせてくれ…お前も疲れただろ。」

「そうね…。」

あくび混じりに答えながらお互いに掛布団を引っ張る。

「お休みケビン…。」

「あぁ…お休み…。」

今度こそ二人は眠りに就いた。

優しい四つの瞳は自分達の真ん中にいるマナの方に向けたまま。

傍から見ればその姿は本当の家族そのままだ。

窓が風でカタカタ鳴るのも聞こえない位に今度は本当に熟睡する事が出来たようだ。


大きな木の枝に止まった梟の丸い瞳は満月を凝視する。

風は静かで満月を覆う分厚い雲を吹き飛ばしてくれている。

でも梟の瞳は満月の直ぐ手前…大きな漆黒の翼とマントを見つめていた。

三日月を思わせる鋭い瞳と月光が反射する仮面が暗闇に溶け込んでとある民家を眺めている。

仮面の主は怪しげに笑いながら観察していた。

そして立ったまま足を鳴らすと主を抱える蝙蝠は音を立たずにその場から飛び去って行った…。

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