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エレメントバトリッシュ  作者: 越後雪乃
~第二幕・憎き再会と不思議な赤い糸~
12/34

羽ばたく翼!踊り子よさらば!

【1】


決死の勝利を得たケビンは自身の肉体の異常に蝕まれていた。

―体が異様に熱い。

―汗も止まらないので全身がベタベタする。

頭もグルグル眩暈みたいに回ってフラフラして何も考えられない。

あれから何分、何時間経過したのかも分からない。

とにかく横になりたかった。

喉の奥が焼け石が詰まったみたいにヒリヒリして声も出なくなった。


―…ビン。

誰かが自分を呼んでいる。

瞼を開けようとすればチカチカして眩しい。

霞がかった視界の隅に黒い物が見える。

「…ン!」

段々声が大きくなってきた。

母親の子守唄みたいなソプラノ調の声。

声が鼓膜から腕の神経に伝わって右手が宙に上がる。

「…マナ?」

熱を帯びた指がマシュマロの頬に触れた。

「ケビン!良かった、気が付いたね!」


汗ばんだ背中はレザーか何かの皮の生地に触れている。

それがソファーだと分かるのに多少掛かった。

「ここは…どっかのホテルか?」

「うん、ケビンとマナとジャックと三人で泊まってたホテルだよ。」

自分等がいるのはホテルのロビーだ。

他の客や従業員は誰一人として居ない。

大きな窓からはオレンジ色の光が室内に差し込んでいる。

時計は見えないがもう夕方らしい。

「ケビン…ずっとハァハァ言ってたんだよ。汗グッショリだし顔真っ赤だし…名前呼んでも返事してくれないし…。」


ジトジトして熱い手をマナは自分の頬にペタリと付ける。

俯いてて顔は見えないが相当心配を掛けたようだ。

ゆっくりとソファーから身を起こすと靴音が響いた。

「旦那、目覚めたか?」

見慣れた赤いコートがヒラヒラ揺れてこちらに来た。

「ほら飲みな。」

顔の前に差し出したのは冷たい缶コーヒー。

受け取るとシュウウウと蒸発する音がした。

「旦那の服汗まみれだから脱がしておいたぜ。姐さんがランドリー探して洗濯してくるって今出てるんだ。」

「そうか、じゃあこのシャツお前のか。」


ケビンのワイシャツはいつものオレンジではなくてシンプルな白。

でも自分とジャッキーは身長も体格も同じ位なので違和感は感じられない。

「悪い…迷惑掛けたな。」

「そんなの気にするなよ。旦那…俺達に弱い部分見せないから多少腹は立ったけどさ。」

プシュッと軽快にプルトップを開けてケビンはコーヒーを流し込む。

半分飲んで一息付くとやっと意識が戻ってきた。

「もう街全体がゴーストタウンになってるよ。俺ら以外全員避難してるみたいだ。」

「だろうな…。多分ジョーカーももう居ないだろう。」

ついさっきまで賑やかなホテルも静まり返って声も音もしない。

貸し切りみたいで良いがやはり何処か寂しかった。

「…どうした?」


ケビンは相棒が自分の胸元を見つめているのが気になった。

なんだか悲しくて…同時に怒ってる風にも見える。

「着替えさせる時に旦那の体見たよ。怪我しても病院行って無いって伝わってきた。」

「…。」

「アンタそんなんで今まで生きてきたのか?下手したら死んでるぞ。」

上から目線の説教にケビンは溜め息を付く。

「…俺さ、少し前まで傷を負うのは弱いって決め付けてたんだ。だから傷を負わない=強くなってるって勝手に解釈してさ…弱い自分を責めて生きてきたんだ。深手の時は焼いて塞いで終わりにしてた。」

「…何処の世界に傷口焼いて塞ぐ馬鹿が居るんだよ。」

呆れながらジャッキーは自分の分のコーヒーを飲む。

「その様子だと相当過去のトラウマが根付いてるみたいだな。やっぱり…マリアさんを守れなかったのが絡んでるんだろ?」


脳裏に炎で焼かれる街の光景が浮かぶ。

その足元で自分に伸ばされる手が、瞳が、炎に飲まれていく。

そして…曇り空の下…雨に打たれて人形と化した自分も見えた。

「旦那…そこまでして人に頼りたく無いのか?責めるだけ自分責めても…まだ足りないのかよ?」

「…お前。」

「俺様も分かるさ。一度目の前で誰かを失ったら…そのトラウマに死ぬまで苦しめられるのは。でもその苦しみは永遠に続く訳じゃ無い。何かキッカケがあれば必ず拭える…そうは考えられねぇか?」

そんなのはマナと会う前から何度も思っていた事だ。

でも思っても…正直恐かった。

どうせ自分には出来ない、守れやしない。

そのネガティブさが前に進む勇気を押し殺していたのだ。


自分の本当の悲しみを知らない癖に…口答えしないでほしい。

ケビンは思わず反論してしまった。

「…どうせお前には理解出来ねぇよ。俺の気持ちなんて。」

その言葉を聞いた途端、ジャッキーは目の前が真っ白になった。

気が付くとバタンッと音がしてケビンが殴られてソファーから落ちていた。

手にしていた缶コーヒーも床に落ちて大理石の床に茶色い染みを作る。

「テメー…!人が折角慰めようとしてたら良い気になりやがって!」

シャツの襟元を乱暴に掴んでもう一発殴ろうとした時、

「ジャック止めて!」

マナが倒れたケビンにしがみついて自分を見上げてきた。

「どいてくれ姫。今回ばかりは見過ごせられないんだ!」

「だからってなんで殴るの!?ケビンだって本当は辛いんだよ!」


ケビンの抱いている気持ちをマナはスーッと心に染み込ませていた。

自分だってケビンに会う前は悲しい日々しか送っていないかった。

誰かに話しても共感して貰えないからと半ば諦めて…作り笑いで誤魔化してきた過去を。

「ケビン言ってたんだよ。マナと会う前は一人の方が気楽だったって…仲間なんか居ても守れないし邪魔になるからって。でもマナに会えて自分は変わったって言ってたの。やっと…やっと誰かを守ろうって気持ちが戻ってきたって。」

ケビンは過去について深くは話してくれない。

だが家族に手放された自分には家族を失った男の悲しみがどれ程深い物なのかは目に見えていた。

同じ過ちを起こさない為にも。

周りの人間を家族と同じ目に会わせない為にも。

そうやってこの男はたった一人で生きてきたのだ。

誰の手を借りずに…誰にも泣いて頭を下げずに。

「ケビンも怖がってるんだよ。強くなってもまた誰かを失う事があるかもしれないって。でも皆不安になるから言わないだけなんだよ。そんなのジャックだって分かってるんでしょ?」


【2】


シャツを掴むジャッキーの手が自然と布から離れる。

ケビンは背中から床に倒れて大の字のポーズになる。

その姿勢のままで落ちたスチール缶を手繰り寄せた。

「…悪かった。もっとオブラートに包んで言えばお前もキレずに済んだのにな。」

「いや良いさ。俺様もついカチンてきて…姫に止められて目が覚めたよ。」

よっこらせとジャッキーは相棒を床から立ち上がらせる。

「姫も悪いな。こんなチンケな喧嘩しても意味無いってすっかり忘れてたわ。」


マナはソファーに座り直したケビンの前にしゃがむと膝に頭を乗せていた。

そっとナデナデすると目だけ自分の方に向けてきた。

「ジャック…ケビンの事嫌いになった?」

「…こんなんで縁切るとか言うなんざ人間失格になるだけだ。殴られようが首絞められようが…俺はコイツからは逃げられないしな。」

それを聞くとマナは視線を沈ませた。

何も言わないがきっと安心したに違いない。

「…良かった。」

「ん?」

「もしジャックがケビンの事嫌いって言ってたら…マナもジャックの事大嫌いって言ってたよ。」


モゾモゾと動きながらマナは顔を横に向ける。

何故か頬が薄っすら赤くなっていた。

「ワ~オ、そりゃ度し難いな。姫に大嫌いとか言われたら俺様生きていけないよ。」

急にナンパするような口調になってジャッキーはマナの両脇に手を入れて持ち上げた。

「じゃあさ姫、もし俺様が旦那の事好きだって言ったら姫も俺様を大好きって言うのか?」

顔越しから覗くとマナはウ~ンと首を傾げる。

「でも悪くないかも。だってジャックはマナの王子様だもん。好きになっちゃうよ。」

「そっかそうか~!やっぱり姫は俺様の事好きなんだな!で?姫は俺様に惚れてる?」

「惚れっ…ってええっ?」

「だ~か~ら~、俺様と結婚したいって本気で思ってるのか聞いてるわ~け!」


チュッと艶めかしいリップ音にケビンがクッションを突き破りそうな勢いで立った。

「ちょっと待てぇ!テメー何トンデモない事言ってんだ!」

「おいおい嫉妬か?言っとくけど姫が教えてくれたんだぜ。俺様と居ると胸がドキドキするってな。」

な?と言う男の言葉にマナはケビンと彼とを交互に見るばかりだ。

「え?ええっ?あれ?」

「悪いが俺様惚れた女はとことん愛するタイプだからな。二股だろうが六股だろうが恋した女は絶対に幸せにしてやりたいんだ。」

聞きながらマナは自分の言葉がなんだか間違った方向に進んでいると今更ながら後悔していた。

一方でケビンは怒り半分で相棒の肩を掴む。

「先に言うけどさジャッキー…お前今何歳だ?」

「ん~と、二十七だけど?」

「止めとけ。マナはお前より二十一も下だ。しかも法的に結婚出来るまであと十年は待たないと駄目だ。それで運良く結婚しても子供が産まれた頃にはお前四十過ぎのオッサンになってるぞ。」


自分の知識では確か男は十八、女は十六を過ぎると結婚が可能になる。

ケビンもマリアと籍を入れたのは年齢的には割と早い方だ。

だがこの二人は余りにも場違い過ぎる。

絶対に問題が起きそうだ。

「考え直せジャッキー。百歩譲って兄貴分と妹分の関係なら許してやる。でもそれ以外なら俺だって黙ってられねぇよ。」

「いやいや待てって!なんだよその保護者目線は!?いつ姫がアンタの子供になったんだよ!」

最後の言葉にマナの耳が反応する。

「でもママがお母さんの代わりならケビンはお父さんの代わりだよ。だって寝る時はいつもマナの隣にいるし、初めて会った日も一緒にお風呂…」

「あーっ!もうお前も余計な事言うなぁ!」


密かに秘密にしていた思い出を明かされてケビンはマナの頬を両側からブニュッと押し潰した。

だが既に遅く、ハハーンと嫌らしい笑い声が聞こえた。

「へぇ~、三十路手前の二十九のオッサンがまだ六つのお姫様と一緒にお風呂…ッ。」

「この野郎!今“ロリコンじゃねぇかキモッ”っとかって囁いたろ!」

「言ってねぇよ!てかどんだけ耳良いんだよアンタ!」

自分等しかいない無人のホテルでギャーギャーと子供みたいに喧嘩する大の大人二人。

するとヒュルヒュルと高速で飛んできた謎の物体がケビンの首の後ろに命中した。

「イッテ!何だよエルザ!危ないだろ!」

「ウッサイわよアンタら!喧嘩するなら外でやりなさいよ!」


首に当たった鉄扇を拾ってケビンはホテルの入り口に向かって叫ぶ。

自動ドアが半分開いて唯一留守にしていた銀髪の踊り子が紙袋片手に戻ってきた。

マナはやっと救いの神が現れたとエルザに抱き付く。

「アンタ達の馬鹿声が外まで丸聞こえになってるわよ。もうちょっと静かに待ってられないの?」

「だって旦那が…!」

「だからこのアホが…!」

「言い訳無用!ホラお座り!」

「「…ハ、ハイ。」」

ケビンとジャッキーはその一言で喧嘩を止め、エルザの眼前で揃って正座した。

端から見たらヤンチャな犬と飼い主かとツッコミそうなシュールな光景が広がる。

マナはエルザの足の当たりを握ってわぁぁと単調に驚く。

「…ホラ、頼まれモン。」


グイグイ突き出してきた紙袋をケビンは素直に受け取る。

中には見慣れたオレンジ色のワイシャツが綺麗に畳まれて入ってた。

「で、これからどうするの?あれだけの爆発は遠くからでも見えたから…街の人達直ぐに戻ってくるわよ?」

エルザの心配の念。

それは街の損壊にどう落とし前を付けるかだ。

自分達がやった訳では無いが…これ程の被害が甚大なら責任は多少ならずとも背負う義務があった。

「どうもこうも…急いで逃げるしかないだろ。」

「だからそれが問題なのよ。警察に見られてみ?私らお尋ね者になるわよ。」

だがケビンは表情を変えずに静かに笑うだけだ。

「警察なんか居ても使い物にならねぇよ。連中世界の平和だとか何とか言ってミステシアには一歩たりとも手出さねぇ臆病者の集まりだ。なら俺らがその無用さってのを教えてやれば良い話だろ。」


【3】


自信がありそうでどこか不安な言葉に三人は誰一人として返さない。

ケビンの懐の深さか、はたまた彼と共に運命を受け入れると覚悟しているからなのか。

それを彼は敢えて聞かなかった。

「…ただ今日はもう日が暮れる。出発は明日だ。でも本当に勇気が無いなら…ここに残って自首しても良いさ。」

カツカツと靴を鳴らして男はロビーから立ち去る。


非常階段を上って辿り着いた先は宿泊していた客室。

部屋の中は避難命令が出た時のままになっている。

紙袋を放り投げると窓際のベットに腰掛けた。

夕日は半分沈んで電気の消えた街は薄暗くなっている。

―自分は夕日があまり好きではない。

オレンジも赤も自分の瞳には同じ炎の色にしか見えないからだ。

見ているのが辛くなってケビンはベッドに突っ伏した。

固いマットレスでは顔が埋められないので余計に窮屈に思える。


季節は冬ではないが背中が寒い。

それも地肌からの寒さじゃない。

もっと深い…胸の奥が冷蔵庫に閉じ込められたみたいに冷えきっている。

こんなに寒いのはつい昨日まで感じられなかった。

―なんだろうか?

最初は一人でいる時の空しさかと思った。

でも一人なのは馴れている。

それなのにどうして冷えるのか?

どうにも分からなかった。


眠ろうにも眠れずにいたら部屋の扉が静かに開いた気がした。

足音が床に敷かれた絨毯で消されているので何も聞こえない。

ふと髪の毛が風か何かで揺れた。

「…マナ。」

自然と伸ばされた手が柔らかい物に当たった。

マナはベッドサイドに立ったままその手を握る。

「…どうして来たのがマナだって分かったの?」

「…シャンプーに混じって蜂蜜みたいな甘い匂いがしたんだ。そんな匂いプンプンさせてるのお前しかいないだろ。」


ケビンは顔を見せてくれない。

このまま隣にいても怒られだけだろう。

でも退散しようにも当人が手を離してくれない。

「…行くな、ここに居てくれ。」

握られた手がチワワの赤ちゃんみたいにプルプル振動している。

「大丈夫ケビン?まだ具合悪い?」

「違う…単に夕日を見たくないんだ。」

マナは静かに窓を見つめる。

頭の上数センチを残して沈んだ夕焼けはもう見ても眩しくない。

「なんで?夕日が嫌いなの?」

「…別にどうだっていいだろ。」


ケビンは変わらずに素っ気ない答えしか言わない。

マナはケビンの手を振り解くと少しでも話しやすくしようとカーテンを閉めた。

室内灯は消えているので部屋が真っ暗になる。

「これでお話出来るよ。」

電気は付けずに静かに枕元にしゃがむ。

モゾモゾと目の前で黒い塊が動いた。

「…ゴメンな、夕日を見るとどうしてもあの日の記憶が蘇るんだ。だから見たくないんだ。」

ケビンは顔の右半分をマットレスに押し付け、左目だけ向けている。

暗いのに何故か目の色は紅色に変色して蛍の光のように輝いている。

「そっか、マナも夕日はちょっと嫌だね。だって歩いてる時とかに真上にあると凄く眩しいもん。」

マナの声は笑ってる風に聞こえた。

目の前の男が湿っぽいのを嘲笑う声では無い。

もっと違う…本心から慰めてあげような声だ。


白い小さな手がそっとザラザラして紺を帯びた黒髪に触れてくる。

「じゃあさ、ケビンは星とかお月様は好き?」

「星…?」

「マナは好きだよ。星やお月様って綺麗だし見てても眩しくないじゃん。それに夜歩く時もお月様が出てるとどんなに暗い道も明るくなるんだよ。」

紅の瞳が見開かれた。

視線に移るのは本当にごく自然に笑う幼い笑顔。

その平凡な笑顔が痛い程に瞳を刺激していた。

「でも星やお月様は夕日が沈まないと見れないよね。だったら早く沈め~ってお祈りすれば良いんだよ。そうすれば無理して夕日を見なくても済むよ。」

よしよしと変わらずに髪を撫でる柔らかな手。

ふとさっきまで冷え切ってきた背中がジワジワと熱を帯びてくる。


―まだ家族が生きていた時。

良く三人で星を見ていた。

一人だった頃も夜になると星空を眺めて眠っていた。

家族との温もりを思い出せると信じて…眺めていた。

でもやっぱり…憎らしかった。

一人だけ生き残って星を眺める自分の存在を。

《…マナ、お前…!》

ケビンの視線の中には月のように輝くマナの笑顔が写っている。

自分にとって…彼女の存在が暗闇を照らす月になっていた。

耐えきれなくなってケビンはマットレスから飛び起きた。

「わっ?ど、どうしたの?」

驚く間もなく目の前の男が自分に抱き付いて来た。

いつもなら抱き付くのは自分の方からなのに。

「どうしたのケビン?もしかしてお月様も嫌いなの?」

「…がう。違うんだ…。」


【4】


ケビンは自分でもどうしていいか分からない。

身長も年齢も遙かに年下の子供に泣いて縋るなんて初めてだ。

でもこうしていないと…恐くてたまらなかった。

「本当は五年前まで…俺は夕日も月も星も好きだったんだ。でも今は全部嫌いなんだ。なんで自分だけ生き残ってるのかが恐くて…見ていると辛いんだ。」

「ケビン…。」

「なんでお前は死ななかったって、なんで生きてるんだって、耳を塞いでも声が聞こえてくるんだ。それを聞くのが嫌になって…俺は目の前から光そのものを消したんだ。だから真っ暗い所で…一人きりで居るのがいつしか楽しいって思い始めたんだ。」


未来も思い出も全てを手放し、過去に捕らわれながら復讐の道を歩んできた男。

誰かに頼る事も…守る事も…守られる事も…何もかも自分の中から取り除いて黒い道を進んできた男。

いつしかドロリとした鬱憤だけが心の中に積もって…たった一人で苦しみながら生きてきた男。

溜め込んでいた物を吐き出すように隠してきた思いを次々と口にしていく。

憎き夕日は完全に沈んで自分ら以外が見えない程に部屋は暗闇に包まれていた。

でもその大好きな暗闇にも…恐怖を感じるようになっていた。

光も暗闇も嫌い…もう人間ですら見失うんじゃないかと疑っても可笑しくなかった。

気付かぬ間に全身から力が抜けて…マナの元から落ちていく。

これでいいいんだ。

自分を守ろうとする人間なんて…もう…いないと。


―ドサッ。

脱力した体が違う物にぶつかった。

絨毯か?いや、違う。

鼻先に当たったのは綿の布地だ。

鼻孔を擽るのは…海から流れる潮風の匂い。

ザザーッと押しては返す波の音も聞こえてくる。

この匂いの人物は…。

「…馬鹿野郎。あんだけ罵っても痛いのはアンタの方だろ?」

冷たく、どこか温かみのある怒鳴り声がした。

「悪いけど全部聞かせて貰ったぜ。アンタの弱音全部だ。それ聞かせて俺様が手引くと思ってたのか?」

フーッと荒く息を吐いて落ち着いたと思った次の瞬間、

「ふざけんじゃねぇぞクソッタレ!暗い所で一人きりで居るのが楽しい!?んなニートみたいな事言って誤魔化そうなんざ千年早ぇんだよ!」


背骨を砕く勢いでケビンの体を締め付けてくる腕。

ハァハァとした息遣いが抑えきれない怒りと悲しみを伝えていた。

「旦那はまだ…俺達を失ってないだろ?だったらそんな寂しい事言わないでくれよ。俺旦那に会えなかったらこんな明るい世界になんか戻れなかったんだ。それすらも忘れたのかよ…?」

「…ジャック。」

マナは手出し出来ずに立ち竦むだけだ。

ジャッキーが盗み聞きしてるなんて感じていなかった。

それ以上に自分の意識をケビンに向けていた証拠だ。

「俺様だけじゃねぇ。姫や姐さんも旦那に救われたんだ。アンタ約束したんだろ?姫の親探して…姐さんの身柄も自由にさせたいって。それも捨てる気かよ!?もしそんな真似するなら…二人の目の前でアンタを殺してやる。」


ゾワリと背中から全身に鳥肌が巡る。

ジャッキーがこんなにも残酷な言葉を口にするなど今まで無かった。

それだけ相棒の抱えている憎しみを知り、絶望する相棒に情けを感じているからだ。

「俺様さ、やっと旦那に相棒らしい事が出来るって今気付いたんだ。アンタの過去も苦しみも一緒に背負うって。この先何があっても…旦那の影になって導いてやろうって。だからさ旦那…一人で真っ暗な所なんか行くな。もし行くんなら嫌でも俺を連れて行け。」

暗い部屋に響いてくるのは苦い嗚咽。

他の宿泊客がいたら今頃騒動になっているだろう。

「ジャッキー…ゴメン…俺…。」

「…何度も言わせるな。また同じ事言ったら今度は本気で心臓潰すからな。」


ギシギシと自分も横になる勢いでジャッキーはケビンをベッドに寝かせた。

そのまま洗面所の前の壁に設置された電気系統のスイッチを弄る。

パッと部屋中が明るくなった。

白いマットレスの上には子供のように啜り泣く男がいる。

「…ったく、カーテン閉めてアレコレ言ってたのか。どうりで暗い訳だな。」

「だって…ケビンが夕日なんか見たくないって言ったから…。」

マナは悪びれながらカーテンを開ける。

外の向こうは日が沈んで空には無数の星が浮かんでいる。

電気の消えた瓦礫の街は夜空の月明かりと星の光で照らされていた。

「…エルザは?」

「自分のホテル戻って行った。荷物纏めるとか言ってな。かなりご立腹だったからちゃんと謝っとけよ。」


きっと彼女も自分を責めてはいないだろうとジャッキーは続けて呟く。

ケビンもやっと申し訳無い気持ちが溢れてきた。

化粧台の上に無象座に置かれた紙袋を見たらエルザの顔が無意識にイメージされた。

「明日もう行くんだろ?どう説得する気だ?」

そんなのもう決まっている。

エルザも自分に必要な人間だ。

今更切り捨てる訳にはいかなかった。

「無理にでもかっ攫うさ。殴られるのは覚悟してるからな。」

「おうおう、恐いねぇ~。」


どんなにおっかない説教が待ってるのは分からないがタダでは済まされないというのは分かる。

横目で見つめる星をエルザの緑色の瞳の光に例えながら。

でも彼女も自分の事を心配してキツく当たったんだと言い聞かせながら。

あの星の瞳をもう曇らせない。

それを胸に誓ってケビンは再度マットレスに顔を伏せた。


【5】


激闘から一夜が明けた。

無数のトラックがサンサシティのゲート前に到着し、市民は変わり果てた街に驚愕していた。

煌びやかな大都市はたった一日で瓦礫の山と化していた。

「なんて有様だ…。」

「そんな…ここにはもう住めないの…?」

「これからどうすればいいんだ…?」

元の姿に戻るには手間も金も時間も掛かると誰かが呟いていた。

避難誘導に当たった警察も同情の言葉を掛けられずに立ち竦むばかりだ。


「みっなさ~ん!諦めちゃ駄目ですよ~!」

すると悲しい空気を切り裂くようなゲスな声が後方から聞こえてきた。

「今こそ私のプランを実現する時が来たんですよ~!ホラホラ~!」

堂々と現れたのはエルザの舞踊公演を企画したイベント会社の主催者とその取り巻きだ。

しかし誰も興味や好機の視線は送ってこない。

何しろジョーカーの襲撃の際に彼らは避難誘導をせずに我先に逃げ出していたのだ。

本人達は自覚してないが客達にしてみれば自分らを死の淵に追いやった張本人の言う事など聞きたくも無かった。


そんなのを知らずに主催者は手にした大きなポスターを広げる。

そこには遊園地とカジノを合体させたようなド派手な街のイラストが描かれていた。

「ここはサンサシティから新しく生まれ変わるのですよ~!その名もシャイニーパークランド!これなら名誉回復もお茶の子さいさい、一件落着って訳なんですよ~!」

ガッハハハと笑う声に一人がふざけるなと怒鳴った。

「何がシャイニーパークランドだ!人名救助もせずに逃げ出した奴が作った街なんかに誰が住むもんか!」

この一声にそうだそうだと周りも抗議してくる。

「自分達がした事が分かってるのか!」

「俺達死にかけたんだぞ!」

「チケット代返せ詐欺師野郎!」


沈んでいた市民は一気にデモを起こしていた。

警察も見て見ぬ振りは出来ぬと両者の間に入る。

「皆さん!気持ちは分かりますがどうか落ち着いて…!」

「うるせぇ!被害者面して止めるんじゃねぇ!」

法的には上の立場に居る警察すら退ける程の怒りを誰しもが抱えていた。

数人が応援を呼ぼうと無線機に手を伸ばしていたら一人が後方に人影を見つけた。

「おい、誰か来るぞ!」

デモを起こす住人の一人も反応して振り向き、そして驚いた。

目に飛び込んできたのは空に溶け込んでも輝いて見える銀髪だ。

「エルザだっ!エルザがあ、歩いてくるぞ!」


鉢巻きを巻いた親衛隊が団子みたいに固まって走る。

エルザも歩幅を早めて住人達の元へ駆け寄った。

「エルザ~!生きてたんだなぁ~!」

「俺達心配したんだぞ~!」

「分かった分かった、皆落ち着きなって。」

泣きながら、喜びながら自分に手を伸ばす男共にエルザは笑って答える。

そこから直ぐに表情を変えた。

「でもごめんなさい。暴漢は追い出したんだけど…結局壊滅の一歩手前まで被害が広がってしまって…。」

この事実だけは本当に謝りたかった。

もっと早く被害を食い止められたらこんな景色にはならなかったのにと。


ポツポツと語っていたら一人が肩を叩いてきた。

「もう良いよエルザ。キミが無事ならそれで充分だ。」

「そうそう!エルちゃんは悪くないわよ!街なら何度だって作り直せるしさ!だから元気出して!」

「エルザがいなかったら俺達助からなかったんだしさ!そんなに落ち込むなよ!」

市民は笑顔で励ましてくる。

自分達の方が余計に辛いのにそれを言わずに。

「…チっ、アバズレ生きてやがったとはな。」

輪の一番奥から聞こえた声にその場の空気が下がる。

「刑事さん、早くアイツ捕まえてくださいよ。ホ~ラ、報酬もこの位出しますからぁ~。」


主催者の男はパンパンに膨らんだ封筒を隣に立つ警官に渡している。

それを見ていた若い男があっ、と叫んだ。

「おい待て!何やってんだお前!」

「何って分かるでしょう~。逮捕の依頼料を渡してるんですよぉ~。」

「ふざけるんじゃねぇ!人から巻き上げた金を賄賂に使うなんて考えられるかぁ!」

またデモが勃発して警官は渋々エルザの前に立つ。

「失礼ですが…ただ今逮捕状を請求致しますのでお時間の方を…。」

「テメー!何コイツの言う事信じてるんだよ!エルザは俺達を助けた恩人だぞ!罪の無い人を捕まえるなんて警察のやる真似じゃないだろ!」

「そうだそうだ!彼女はこの街を守っただけなんだぞ!勝手な事するな!」


住人達はエルザの前に一斉に並んで彼女の姿を隠そうと必死だ。

応援の警官も駆け付けて一触即発が始まろうとした時だった。

「ま、待ってください!」

主催者側の若い社員三人が警官の前で土下座してきた。

「お願いします!そんなにフィーニーさんを捕まえたいならまず私達を捕まえてください!」

新しい乱入者の出現に巻き上がった砂埃が晴れていく。

「俺達…社長がフィーニーに暴行してるとこ見たんです。でも警察に言ってるのがバレたら殺されると思って…ずっと言えなかったんです。」

「でももう我慢出来ません!私達が見た事は全部話します!ですから彼女を許してください!」

暴行というワードに親衛隊の人間がザワつく。

「そういえば舞踊会の時…エルザ様倒れたよな?舞台の上で。」

「それに思い出してみたらなんか足押さえて立てなかったし…。」

「なぁ、もしかして暴行されて足痛めたのに無理して踊ってた訳か?」


【6】


小さな囁きは一斉に広まって多くの目線が一人の男に向けられた。

だが当人はニヤニヤするだけで自分が悪いとは自覚していない。

「お前…エルザに怪我させて踊らせてたのか!?」

「酷い…!あんまりだわ!」

「この外道め!今すぐエルザに謝れ!土下座しろ!」

最早彼らの怒りは再骨頂に達していた。

自分達の憧れであるアイドルを傷付けられた事に。

警察など蚊帳の外にして人の輪から土下座コールが飛んでくる。

「ええ~い黙れ~!」


ゲス社長はお菓子を買って貰えない駄々っ子のように地面を足で踏み鳴らす。

土下座コールがピタリと止んだのを見計らうとビシッと人差し指を突き出してきた。

「私がやったと言うなら証拠を見せてみろ!さもなくばこの場にいる全員を詐欺と恐喝の容疑で警察に拘束させるぞ!」

自分のバックにはヤクザがいるんだぞ並みの迫力で社長は笑いながら勝ったと宣言した。

警察程市民を怖がらせる団体は無い、自分の言い分は正しいんだと。

「…分かったわ。」

静まり返った民衆の奥から声がした。

ザッザッと人混みを掻き分けて当人の踊り子が姿を見せる。

エルザは主催者を睨むと着ているシャツのボタンを外し始めた。

「ま、待ちなさい!何もこんな所で…!」


女性に疎い若い警官が赤面しながら止めても等に遅し。

エルザはノースリーブシャツを軽やかに脱いでピンクのブラ一枚だけを身に付けた上半身を露わにする。

そしてクルリと背中を向けると警官の顔が青ざめた。

桜色のブラジャーのホックの周辺には化膿した痣が何カ所も付けられていた。

「こ、これは…!?」

「…これが暴行されたって見抜けないんじゃ…アンタ達警察失格だよ…。」

驚くままに固まっていたらエルザは反対の方角を向いた。

当然ながら背中の痣は一般市民にも見せつけられる。

直後に悲鳴と嗚咽が広がった。

「うわぁ…こりゃあヒデェ…!」

「なんて事しやがるんだアイツ…!」

「やっぱりあの野郎がやったんだな!皆!アイツを捕まえろ!」


一人の号令にもう限界の糸が切れた市民がワァワァ騒ぎながら突進してきた。

社長を守ろうと取り巻きの社員も一斉に迎え撃つ。

そこへ警官も加わって三つ巴の戦争が始まってしまった。

親衛隊の人間数名はエルザの手を引いて街の奥へと走り出す。

声が小さく響く所まで来るとようやく一息付いた。

「ハァハァ…ここなら多少は安全だ。この道を行けば北側の入り口から出られる筈だ。多分追っては来ないからさ、エルザはこのまま逃げてくれ。」

「え?でもアンタ達どうするの?」

エルザは脱いだシャツを着直して目をまん丸に見開く。

「俺達には足止めって仕事が残ってるんだ。キミを逃がす為の…大事な仕事だ。」

「どの道俺達は逃げられないんだ。だから行ってくれ。」

「生きてくれよエルザ。キミはこの世界中の人間全員の誇りなんだ。」


男達は半被と鉢巻きを取り去って背中を向けてくる。

エルザは背中に寒気を感じた。

自分一人の為に大勢の人間が犠牲になろうとしているとやっと分かったのだ。

「駄目よ!こんな真似したらタダじゃ済まされないわよ!」

「そんなの承知してるさ!でも俺達はキミのファンなんだ。キミの名誉を守るという使命を背負って追っ掛けて来たんだ。ここでキミが死んだら…俺達の覚悟が無駄になるだけだ!」

彼らは決めていた。

ここから先はファンとしてでは無く、男として彼女を守ると。

エルザもそれは分かっていた。

分かっているからこそ…受け入れたくなかった。

その勇気を持てずに地面にしゃがりこんで体を震わせた。

「嫌よ…アタシみたいな嘘吐きの卑怯者を守っても…何も得られないのに…なんで…なんで?」


頭の中も目の前も真っ白になって視界から色が消えていった。

足の底から言い知れぬ恐怖が昇ってきて震えが酷くなる。

「…受け取ったぜ、お前らの覚悟。」

また新しい声がした。

初めて聞く声じゃ無い。

心の底から自分を包もうとする…温かい声が。

「に、兄ちゃん…!」

振り向いた一人はその人物に驚いた。

それは舞踊会の会場でエルザと一緒に自分達を助けた男だった。

「エルザは責任持って俺が守る。だからお前らも…命だけは無駄にするな。」

ぼやける真っ白い世界に映し出された影。

その背中にエルザの緑色の瞳が潤んだ。

「ケ、ケビン…。」


バサリと華奢な体に紺色の上着が掛けられる。

ブレザーの下からは綺麗に洗濯されたオレンジのワイシャツが姿を見せた。

風で飛ばされないように上着を握っていたら体がヒョイと持ち上げられた。

「ケビン待って…!」

「もう待てねぇよ。いつまでもここに止まってたら…コイツらの覚悟が無かった事にされるからな。」

踊り子をお姫様抱っこしてケビンは北側の入り口へと歩き始めた。

残された男達はその背中に伝えてくる。

「頼むぜ兄ちゃん。俺らの分までエルザの事…宜しくな。」

「日取り決まったら手紙書けよ。必ず行くからな。」

ケビンは何も答えない。

それでも遺言とばかりに飛び交う声は全て聞き届けていた。


会話も交わさずに歩いていたらアーチ状の白い石の壁が見えてきた。

穴がポッカリ開いて外に通じている。

出口までもう少しの地点でケビンは踊り子を地面に降ろした。

エルザは遠くから聞こえる悲鳴と銃声を聞きたくないばかりに男の胸元に顔を押し付けた。

ケビンもそれを受け入れるように全身を抱き締める。

彼女がどれだけ多くの人から愛されていたか…求められていたか…。

その全てをやっと理解出来た。

「エルザ…このままで良いから聞いてくれ。」

銀色の髪の毛に大きな手が乗る。

「お前は大事な物を託されたんだ。自分を逃がしてくれた全ての人の思いを…覚悟を背負って欲しいと。」

「…。」

「お前は嘘吐きでも卑怯者でも無い。お前は沢山の人に希望を与えていたんだ。その希望の芽を守るのがお前の役割なんだ。」


聞こえない程に胸元から喚く声がする。

目の前の愛しき女性が泣いているのは分かった。

背負いきれない使命に押し潰される事に…自分が愛すべき存在であったと自覚した事に。

「大丈夫だエルザ。俺もお前と同じ役目を背負ってやる。だから前向いて歩いてくれ。自分を愛してくれた人達の為にも…生きるんだ…。」

震える背中を黒いグローブを嵌めた手が優しく包む。

この細い体にのし掛かるプレッシャーから守るように…。

自分達を行かせた人々の思いを噛み締めるように…。


【7】


水分の無い乾いた風が吹き荒れる瓦礫の街の片隅。

飛び交う暴動に振り返らずにケビンは出口を一点に見つめていた。

「…行くぞ、歩けるか?」

「ウン、こんな所で泣いてたら…駄目だもんね…。」

エルザは剥き出しの腕で強引に涙を拭きながら自分の右手をケビンの左手に触れさせる。

細い指が絡まってギュッと結ばれた。

荒々しい風を背中に受けながら二人はアーチを潜った。

照り付ける太陽の下には草木の生えていない荒野が広がっている。

「ママ~!」


涙が溜まった瞳に小さな人影が映った。

走りながら自分に手を振ってくる小さな影。

見とれていたらポスンと腰の辺りに顔が当たった。

「マナ…待ってたのね…。」

頭に掛かった細かい砂を払うとエルザは姿勢を低くして少女と目線を会わせた。

「ママ全然来ないからマナ心配したんだよぉ…!」

グスングスン泣きながらマナはエルザに抱き付いて来た。

彼女の着ているパーカーの肩の部分にも砂が付いたままだ。

「感謝しろよ。いつでも出れるようにバイク回しておいたんだからな。」


見上げると目と鼻の先には紺色の単車と黒と銀の混ざったサイドカーが寄り添うように停車している。

更に単車の運転席にもたれるようにもう一人の男が水筒をラッパ飲みしていた。

「旦那急ごうぜ。ここも危ねぇぞ。」

突き立てた親指の先の遙か遠くに黒い物体が見える。

良く分からないが警察の人間であるのに間違いない。

「そうだな、長居は無用だ。出発するぞ。」

ジャッキーが水筒を懐に投げ入れるように仕舞ってエンジンを掛ける。

ケビンも自分のバイクに座ってアクセルを吹かした。

「姐さん乗りな。ベルトないからしっかり掴まってろよ。」

エルザはもう一度街を振り返ると無言で頷き、マナを抱えて立ち上がった。

「ママ…もう良いの?」

「うん。お別れはもう充分してきたから…何も心残りは無いわ。」


サイドカーの側車にマナを乗せ、自分はジャッキーのバイクの後ろに跨がる。

未だに瞳の端に残る雫を払いながら紅いコートの向こうに両手を回した。

でもこの姿勢だと当然ながらムニュッと大きな胸が直に当たる。

《てかオイオイ…!姐さんの…あ、アレが…!》

「どうしたジャッキー?顔真っ赤だぞ?」

相棒がハンドルを握ったまま固まってしまったのでケビンが尋ねる。

「ふぇっ!?お、俺様何かした…!?」

「ハハ~ン、慣れない女のオッパイ当たって嬉しいんだな。」

「バ、馬鹿野郎!出会って数日の女にキスする奴が言うな!この女たらしのロリコンめ!」


マナはブチッと血管の切れる音を聞いてしまった。

止める暇も無くケビンはバイクから降りて相棒を地面に引き摺り下ろしていた。

「オラァ!だからロリコンって呼ぶなって言ってんだろうが!大体テメーだってマナの髪の毛の匂い嗅いでたじゃねぇかこの変態野郎!」

「バッ…姫!チクったな!」

マナは側車に顎を乗せてブーッと頬を膨らませる。

「だっていきなりあんな事されて凄く恥ずかしかったもん…。」

「だからってなんでチクるんだよぉ~!」

救いの手より恥ずかしい黒歴史を言われてジャッキーは心の中で白旗を上げていた。

「今日という今日は許さねぇぞ変態!」

「上等じゃねぇか!ホラ殴ってこいよロリコン親父!」

「誰が親父だぁ~!?俺はまだ二十九だぞ!」


最早二人の言い争いは子供の喧嘩よりレベルが低い物に化していた。

マナが止めるかどうかオロオロしていたらエルザが二人の間に入った。

「ちょっと良いかしら二人共?」

「「あぁッ!?邪魔すんじゃ…」」

振り向いたのが仇になってしまった。

エルザの顔はにこやかだが背後からはゴゴゴという擬音を上げながら翼を広げる天馬が顔を見せていた。

それに額にも血管の筋が浮かんでいる。

それを見た男二人の顔からは冷や汗がダラダラ流れている。

「…子供の前でそんな事して恥ずかしくないの?えっ?」

エルザの顔色は変わらない。

決して怒らずに笑顔で責めてくるのが逆に恐くて…正直地獄だ。

「「あ、あの拳骨だけは勘弁…」」

「ウラァァ!」


ゴ~ンと除夜の鐘付きばりに二人の額が真正面から衝突した。

勿論故意にぶつけた訳では無い。

エルザに後頭部を押さえられて無理矢理当たったのだ。

互いの額は赤く腫れてプスプスと煙が上る。

マナはおぉぉと言いながら拍手している。

「ママすご~い!」

「別に凄くないわよ。マナも将来旦那さん持ったらこうやってお仕置きしな。そしたら浮気とか絶対にしなくなるから。」

それに便乗するようにケビンはヨロヨロと立った。

「お前こそ子供に下らねぇ事教え…」

「もう一回やろうか?」

「…スンマセン。」


イテテと額を押さえながらバイクへと戻り、エルザはジャッキーを無理矢理直立させる。

「グズグズしてないで早く出しな!」

「は、ハイィィィ!」

ブルンブルンとエンジンを乱暴にスタートさせると紺の単車のホイールが回転し、車体がゆっくりと前進する。

ケビンのバイクもそれを追うようにゆっくりと走り始めた。

エルザは横目で街から上がる煙を見つめながら唇を噛み締めた。

《ありがとう皆…!私は…私の使命を必ず果たしてくるから…!》

二台のバイクは瓦礫の街から脱出し、何処までも広がる荒野の先へと消えていった。


【8】


この世界は本当に何処も荒れている。

ミステシアに壊滅させられた街や村は地図から消され、植物に侵食された廃墟になっている。

それが広まってどんどん荒野が増えていき、人々の生活も多少不安になっていた。

頼みの星である警察組織も殆ど活躍しないので安心した生活を得られない市民も増加していた。

それは観光にも響き、旅館やホテル、キャンプ場でも閑古鳥が鳴くばかりになっていた。


梟が怪しく鳴いて眼光を光らせる夜。

砂漠地帯が日中は熱いが夜は冷えるのを連想させるように日の沈んだ荒野も危険地帯となる。

明かりは殆ど無く、家々も少ないので無闇に動かずに野宿して一夜を過ごすしかない。

そんな時に救いの手となるのがキャンプ場や山の上のコテージやペンションの類いだ。

サンサシティから北へ十キロ行った先には幸運な事にキャンプ場があった。

コテージかテント一式の貸し出しかのどちらかを選べて料金も高額ではない。

ただ先の侵略で利用客が激減してオーナーは頭を抱えていた。


人が殆どいないコテージエリアの奥に一軒だけ明かりの灯った家がある。

一階建てだが中はかなり広く、ダブルベッド二つにトイレと別れた浴室、大きなソファーとダイニングテーブルに壁掛けのテレビが設置されたリビングスペース、料理のしやすい手頃な広さのキッチンスペースと区分けも見事だ。

ぶっちゃけ本音を言えば四人で使うにはあり余るのであと四~五人加えても問題無さそうだ。

「お兄さん方、味見してくれる?」

寸胴鍋とにらめっこする踊り子が小皿を左手に乗せて突き出してきた。

ケビンはどれどれと受け取って舌で一口舐めると瞬時に辛味が駆け巡った。

「うわぁ、かなり本格だな。」

「それは良いの?それとも悪いの?」

「良いに決まってるさ。」


ガスコンロの火を止めてエルザはお玉を鍋に突っ込んだまま冷蔵庫を開ける。

利用客が減ったのでレンタル用の食材を貯まっていたオーナーの計らいもあり、質の良い物をかなり仕入れられていた。

「ジャッキーご飯盛って。ちゃんと分量調整してよ。」

冷蔵庫の横の棚に置かれた炊飯器を開けて平形の皿に白飯を盛る。

「姐さん汁は?」

「温めて。あんまり沸騰させなくていいから。」

サラダのボウルをテーブルの中央に起き、マナは取り皿やスプーンや箸やらを並べていく。

スパイスと和風の出汁の混じった匂いがコテージ一杯に立ち込める。

「おぉ、旨そうだな。」

「流石だな、やっぱり料理の出来る女がいると得するな。」


テーブルに並べられたのはカレーライスと豚汁、生野菜のサラダ。

あとはまだ冷蔵庫に入れてるがデザートにフルーツポンチまで作っていた。

しかも全部エルザの手作りだ。

試しに豚汁を一口飲むと出汁の風味が伝わってくる。

「味も中々だな。それにこんだけ作れるなんて…何処で習ったんだ?」

「仕事来なくてお金無い時さ、レストランとかで住み込みでバイトして食べてたの。まさかこんな所で役に立つとはね。」


自分でも驚きだとエルザは自慢げに話す。

ケビンは料理を堪能しながら懐かしい思い出に浸っていた。

マリアも確か料理上手で自分や息子に振る舞っていたなと。

カレーライスとかも良く作ってくれていたなと。

「なぁエルザ。」

「何?」

「今度はビーフシチュー作ってくれないか?マリアが生きている時に良く作ってくれてたんだ。」

カチャンと金属製のスプーンが皿にぶつかる。

「味は保障出来ないわよ?」

「構わねぇさ。お前が作るなら何だって良い。」

ヘイヘイと返す横顔は断じて怒っている風には見られない。

マナはそんなやり取りを見ながらジャッキーに囁く。

「やっぱりケビン好きなんだね、ママの事。」

「そうだな。俺様が姫の事を思う位にな。」


ムッ、と気付いたエルザはマナの頬をギュウゥゥと引っ張る。

「ホラ、サラダも食べないとデザート抜きにするよ。」

「ヒ~ン、らべるからひっはらないでぇ~。」

宜しいとゴムパッチン並みに手を離すとマナは赤くなった頬を撫でながら無造作に野菜を口にする。

「取り合えずどうする?なんとか警察も巻けたから大丈夫だとは思うけど…。」

「でもアイツら何処から沸いても可笑しくない連中だ。また場所移さないとだな。どうだ旦那?」

振られたケビンは自分の食器をどけてガイドブックに何やら書き込んでいた。

「まぁ隠れ蓑になりそうなポイントはあるんだ。一ヶ所ずつ回って身を潜めてればやり過ごせるだろ。」


覗くとサンサシティから真っ直ぐボールペンで線が引かれ、荒野を超えた街に印が付けられている。

「けど厄介な点が一つある。ずっと砂地が続くからタイヤ痕で足付かれやすいんだ。下手したらどっかで乗り捨てないとだな。」

「だったら下手に問題起こさないのが妥当ね。」

「まぁ、そう上手くいかないのが俺達なんだけどさ。」

このまま何も無くてもミステシアの追っ手が来るのは居たたまれない。

何しろ幹部の一人に喧嘩を吹っ掛けたのだ。

向こうも大人しくしていられないだろう。

「でもしょうがねぇ。そん時になったら派手に暴れてやろうぜ。」

「…やっぱそうなる?」

「腹括れよエルザ。これが仲間入りした宿命だからな。」


【9】


打ち合わせを終え、食事も済ませると時刻は夜の八時を過ぎていた。

まだ寝るには早いが出発を考えると就寝しても良い時間帯だ。

エルザはこの時間に目を付けると洗い物もそこそこにダブルベッドに横になっていた。

それも上半身裸で。

細い背中には痛々しい痣がまだ残っている。

「本当にやるのか?」

「うん。どうしても試したくてね。」


ケビンはエルザの真横に正座して左手のグローブを外す。

そこから意識を集中させると掌全体が赤いオーラに包まれた。

因みにマナとジャッキーは現在入浴中でこの場には二人しかいない。

「じゃあ…触るぞ。」

高熱を帯びた手が痣の上に乗せられる。

途端に焼け石を乗せられたようなヒリヒリと熱が伝わって背中がビクンとしなる。

「熱い?」

「平気よ。お灸だと思えば我慢出来るから。」


エルザが試したいと言ってきた内容、それは背中の痣を熱消毒で消してくれないかと言うモノだ。

ケビンがマナと会う前は傷口を焼いて塞いでたという事を聞かされ、それなら他人にも出来るのではないかと提案してきたのだ。

当然ながら本人は危ないからと言って渋るも彼女の石頭に念押しされ、結局治療する羽目になっていた。

だが実際にやると火傷のリスクが高いのでかなり繊細に消毒しなければいけなかった。

エルザも痛みを紛らわせようとシーツを握り締めて耐えている。

「なんか触ってみると肌スベスベだなお前。」

「…誘ってるの?」

「一体どうやったらそんな答えが出てくるんだ。」


マッサージするように背中全体を撫でると何ヵ所か固い部分に手が触れる。

この体型を維持するのに鍛練を積んできた、そんな問い掛けが聞こえそうだ。

幸い痣はまだ新しいので消えるのに時間は掛からなかった。

「でもね…。」

不意にエルザが口を開く。

「本当は消したくないの。勲章だと思って残しておいても良いかなぁって。」

この声にケビンはグローブを外していない右手で銀髪に触れる。

「…勲章にするのは男だけで充分だ。女が残していい傷は…マーキングだけで良いさ。」


それを残すように首筋がほんの一瞬だけ熱くなった。

ちょうど首と肩の間に赤い痕が残される。

「お前はもう追われる事は無い。俺のモノだって印を付けておいたからな。」

キスするのにもこんなに熱いのはこの男特有の体質だ。

それさえ我慢すればこんなにも優しい男はいない。

エルザはそう思った。

「やっぱり優しい人ね…貴方って。」

「おいおい、男ってのは欲望の獣みたいなモンだ。だから油断してると首根っこ噛み砕かれるぜ。」


痣が薄くなったのを見てケビンは濡れタオルで背中を冷やす。

ジュウウウと水分が蒸発する音が焼きごてを押し付けたように響く。

「凄い…本当に綺麗になったわね。」

「でも過信はするなよ。あくまでこれは応急措置だ。下手したら火傷で命取られる場合も出てくるからな。」

「分かってるわよ。ありがとう。」

タオルで背中を拭って貰い、俯せからベッドの上に座る。

まだ少し背中がヒリヒリするけど同時にムズムズと疼いていた。

「今日は早めに休めよ。皆疲れてるし、それに睡眠不足は女の敵だろ?」

「いちいち一言多いわね。アンタこそ変な夢見ないでよ。」


すると良いタイミングでガチャリと浴室への扉が開いてマナが寝室スペースに戻ってきた。

「ママ、入って良いよ。」

「えぇ、そうするわ。」

サイドに置いておいた着替えを手探りで探していたらマナが自分の背後に回っていた。

「あ、ママの背中綺麗になってる!」

「マジかよ!?熱消毒ってこんなにも効果あるのか!」

二人は痛々しい痣が消えているのに驚いている。

エルザは笑いながら裸のまま立ち上がる。

「ジャッキーも試してみたら?案外効くよ。」

「…旦那に焼き殺されなきゃな。」

おぞましい光景をイメージして怯える男を他所に踊り子はいそいそと浴室へと向かった。


【10】


風で塵や雲が飛ばされ、美しい満月が地上を照らす。

カーテンの無い窓から月光が差してその部分だけ薄く白い輝きを見せている。

男女に別れて眠っているベッドの上でケビンはどうにも寝付けずにいた。

直ぐ真横では相棒が鼾を掻いて熟睡している。

煩いけど何故か不快な気持ちにはならなかった。

仕方無く反対を向くとチェストを隔てた向こう側のベッドからスースーと可愛い寝息が聞こえた。


音を立てないように布団を捲って忍び寄ると小さな後ろ頭がある。

入浴と寝る時はいつもロングになる短い髪の毛。

エルザ程の長さではないがやっぱり下ろしていると大人っぽく見える。

少し前まで自分に向けられていた寝顔は今、発達した大きな胸に踞るように密着されていた。

その小さな頭を白くて細長い女性の腕がクルリと包んでいる。

顔は伺えなくても安らかに寝ているのは分かって内心ホッとする。

「…寝込み襲うとか考えないでよ。」

「なんだよ、起きてたのか?」


マナを起こさないように二人は小声でやり取りする。

邪魔にならないようにアップに纏める髪留めが月光に当たってキラキラしている。

「そっちこそ眠れないの?」

「どうにも胸元がスースーするんだ。大体アイツと隣同士だと落ち着かなくてさ。」

まだ天使の寝息の方がマシだと答えれば踊り子も柔らかく笑う。

「でも寝る時も凄いわね。寝巻き破れるって位ギュウギュウ握ってるもの。」

「…それだけ親の愛に飢えている証拠だ。悪く思わないでくれよ。」


ハッキシ言うがマナの握力は尋常ではない。

常日頃自分が抱っこしているのもあるが心の中で“行かないで”と訴えるように離そうとしない。

それは愛しい反面、見ていて辛かった。

子供を授かって愛していた自分でも取り除けない悲しみをマナは一人で背負っていると。

「でも不思議だな。マナがこんだけお前に懐くなんて考えられなくてさ。相当母親ってモノに執着してるんだな。」

「そう…みたいね。」


静かに黒い毛髪を流していたらモゾモゾと頭の天辺が揺れた。

「…ぇん。ふわぁぁ…。」

悪霊に取り憑かれたみたいにマナが啜り泣き出した。

白い指が揃って後ろ頭を優しく押さえる。

「大丈夫よ、ママ一緒にいるからね。」

頭を押さえるのとは反対の手が薄いシャツの背中を叩いた。

その仕草も本当に母親と思う程に何処までも優しい。

「ケビンも休んで。私が見てるからさ。」

「あぁ。お前もあんまり無理するなよ。」


自分のベッドに戻ってもケビンはマナの後ろ頭に目線を届けていた。

震えているがエルザにあやされて泣き声は治まりつつある。

あまり心配しても今度は自分が不安になるので掛け布団に潜るように顔を隠した。

音が消えた室内を満月の光が一筋射し、その月を厚い雲が隠していった。

同時に嵐の前触れのような荒い風の音が荒野に吹き溢れ…静かに消えていった…。

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