魚と彼女と耳の聞こえない僕
僕は耳が聞こえない。いや、正しくは「聞こえなくなった」と言うべきだろう。
産まれた時には聞こえて、途中で聞こえなくなったのだから、「聞こえなくなった」が正しい日本語となる。
言葉が違うという事は、意味が違う。
日本語には、沢山の言葉が存在するのだがら、状況に応じて使い分け、現状を実況するのが、適切であり、大切であり、聴き手にとっては、親切だ。
長くなってしまったが、僕は耳が"聞こえなくなった"。
でもこうも思う。無くなってしまったのが耳で良かったと。
もし、耳が聞こえなくなるのではなく、目が見えなくなるのであったら、多くの人は、いや、ほぼ全ての人は、目ではなく、耳を選択するのではないだろうか。
もちろん僕には、そんな事を選択をする機会も、権利もなく、神様は機械的に、当然の権利とも言わんばかりに、「人間の中には耳が聞こえない人もいるべき」という謎ルールを勝手に作り、僕の耳を聞こえなくした。
そしてこの、耳の聞こえない僕に対して、元気に話しかけているであろう彼女が、何を言っているのかも当然分からない。
「––––––––––––––––––––––––––––––––」
何ヲ言ッテイルノカ分カラナイ。
「––––––––––––––––––––––––––––––––」
何ヲ言ッテイルノカ分カラナイ。
「––––––––––––––––––––––––––––––––」
何故話シカケテ来ルノダロウカ?
全く気が効かない。彼女は僕が耳が聞こえない事を知っているし、意思の疎通を図りたいのなら、ホワイトボードにペンを走らせるなり、緑色をしたチャットアプリを使うなりするべきではないだろうか。
しかし、彼女は「そんな事は御構い無し」とでも言いたげに、イルカが描かれたパンフレットを広げる。
状況ヲ理解シタ。
「水族館に行きたいのか?」
彼女は「YES!」と言わんばかりに頷く。いや、実際には言っているのだろう。僕が聞こえないだけで。
彼女。男と女。僕と彼女は、お付き合いをしているのだから、彼女という女性に対して、「彼女」という固有名詞を使うのは、正しい日本語の使い方だろう。
「––––––––––––––––––––––––––––––––」
「なぁ、何で、そんなに…………その、いや、いいよ」
彼女が不思議そうな顔で小首を傾げるので、僕は文字通り言葉を飲み込み、意思の疎通を諦める。
彼女は僕の顔を覗き込む。僕の目をジッと、眼球の奥にある脳味噌まで覗き込むように見つめ、口を動かした。
「今日は晴れているし、今から行ってみない?」
と、おそらく言ったのだろう。声は聞こえない。音も聞こえない。でも、そう言ったのが、そう口にしたのが、はっきりと分かった。
熟年夫婦の「それ取って」が近しいかもしれない。「それ」つまりは、リモコン、醤油、あるいは死海文書、もしくはノイシュバンシュタイン城、その状況に応じた「それ」が指す言葉をお互いに理解して、共通認識として共有する。
僕は無言で頷いた。
*
魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、鯛、魚、魚、魚、魚、鮪、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、鰹、魚、魚、魚、鯱、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、鱓、魚、魚、魚、魚、魚、鯨、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、鯵、魚、魚、鮃、魚、魚、魚、魚、鰻、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、鰈、魚、魚、魚、鯆、魚、鮭、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、鮫、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、魚、鱚、魚、
魚が沢山いる。1匹ではなく、数えられないくらい泳いでいるのだから、「沢山いる」が、現状を表す最適な日本語となるだろう。
水族館は、英語では「アクアリウム」と言う。
日本でアクアリウムと言えば、水槽の中で、観賞魚、水草、サンゴ礁などを育成する趣味の事を指す。
言うならば、ここは水族館であり、大きなアクアリウムであり、もし僕が、水族館の館長で、アクアリウムが趣味だとするならば、さぞかし楽しい気分になる事だろう。
要するに僕は、魚が、水族館が、アクアリウムが好きなのだ。
「ねぇ、ねぇ、あのお魚は何て言うの?」
と、言っているのだろう。彼女は水槽を指差して、ある1匹の魚を追いかけている。
仮に彼女が英語を母国語としていても、つまりは日本語が喋れなくても、そのジェスチャーを見れば、別に彼氏でなくとも、何となくの察しはつく。
「あれは、鱚って言うんだ、塩焼きにして食べると、美味しいぞ」
「まるであなた見たいね、魚を見て、喜んでる」
と、言ったのであろう。確証はない。確認する術が無いから。耳が、声が、聞こえないから。
そもそも人が何を考えているのかなんて、誰にも分からない。だが、彼女の言っている事だけは分かる。
ある一部分が欠けた時に、他の部分が、他の機能が、それを補うという事象がある。
例えば、耳をすますとしよう。おそらく目を閉じることだろう。目を閉じる、つまりは視界を遮ることで、他の機能、この場合は耳が、鋭敏に機能する。
反対に耳を塞げば、ほんの僅かだが視力が向上する。
そして僕の場合、この場合は、耳が聞こえなくなった僕の場合、彼女が何を思っているか、何を伝えたいのかがハッキリと分かる。
雰囲気、身振り、手振り、表情、口の動き、それらから彼女が何を考え、何を思っているのかが分かる。
「前に来た時より、広くなってるねっ」
と、言っているのだろう。彼女は両手を広げ、踵を軸にターンをして見せる。
もしかしたら、僕が彼女の考えが分かるのではなく、彼女が自身の考えを伝えるのが上手いだけかもしれない。
この場合は、耳の聞こえない人に対して。
仮に目の見えない人に「青色とはどんな色」かを説明しなければいけないとしよう。
爽やかな色。清々しい色。
味に例えるのも良いかもしれない。サイダーはまさしく青色の飲み物だ。実際は無色透明だが、僕に言わせれば、アレは青色を連想させる。
仮に文字しか読めない人が居たとしよう。絵ではなく、映像でもなく、音声でもない。
小説家というものは文字しか読めない者に、文字で全てを表現しなければならない。なぜなら、読者と作者を繋ぐモノは、文字しかないのだから。
要するに、出来る事が限られる事によって、人は新しい事が出来るようになる。
「今日はすっごい楽しかったっ」
と、彼女は言ったのだろう。口角を上げ、白い歯を見せ、目を細める。太陽のように輝く笑顔を見れば、もしこのシーンがドラマのワンシーンだったとして、仮にボリュームを下げて0にしていたとしても、彼女が口にした言葉を理解する事が出来るであろう。
何なら、彼女がわざわざ「今日はすっごい楽しかったっ」と言わなくても、楽しそうに笑うだけで、その感情を理解する事は容易だ。
だから、僕も同じ事を言おう。
「僕も楽しかった」
会話が成立したかどうかは分からない。もしかしたら、彼女は全く違う事を言ったのかもしれない。
でも彼女は、笑いながら涙を流し、僕に抱きついてきた。
この場所で、耳が聞こえなくなってからしばらくした頃、彼女にこう言ったのを思い出した。
「これからも、今まで通り、普通に接してくれると嬉しい」
気の利かない彼女は、誰よりも僕の事を思い、誰よりも忠実に、その約束を守り続けていてくれたのであろう––––
(了)
作者には、無理!!