怪しく訪れる夜の闇、黒髪に恋の風が絡まる
「君の瞳は他の子と違うね」
その男性は私にそう話しかけた。
絵筆を握りしめた、仕草一つ一つが妖艶な人だった。
瞳が違う、という言葉は、瞳が綺麗だね、という褒め言葉と同じなのか、それとも違うのか。
私にはよく分からなかった。
その人は懐から取り出した半紙に筆でスラスラと何かを書き入れていた。
すると、端正な唇を開いて、
「もし、困ることがあったのなら。ここを訪れるといい……」
と、私の刺繍襟の内側にその紙を差し入れた。
「その内、意味が分かるよ。それじゃ」
その人は障子を開き、部屋から出て行った。
障子の隙間から見えた外は、夕暮れによって怪しく翳っていた。
(男性にも美しい方っているんだわ……)
私はさっきの男性のことを思い返していた。
彼のあの見目麗しい面からは、少しだけ白粉の香りがした。
化粧を施していたのだろう。容姿といい、仕草といい、女性的な印象を受ける彼だが、絵筆を握りしめる彼の手はごつごつと角張っていた。
そんな男性に、瞳が違う、と言われた。
褒めているのかどうかは、分からない。だけど、お屋敷にはたくさん綺麗な娘たちがたくさんいるのに、その中で私の瞳はその娘たちと違うと言ってくれた。
特別だと言われることが、私は嬉しい。
外がすっかり暗くなった頃、障子を開ける音が聞こえた。
「桜子、今日も良い子にしてた?」
お嬢さんが部屋に入って、私を抱き上げる。
「実は桜子の横に並べようと思って、新しいお人形作ってもらっていたのよ。それで、今日はすごく美しい絵師さんにねぇ、瞳を書き入れてもらったの」
お嬢さんは私に語り掛ける。
(絵師さんって、さっきの方のことかしら)
「私、あんな方と恋をしてみたいの。だってねえ、お父様がお連れになる方はどれも地味で面白くない方ばかりなんだもの」
お嬢さんはつまらなそうに言った。
(わかる)
私は心の中でお嬢さんに同意した。
「新しいお人形見せてあげるね」
そう言ってお嬢さんは部屋を後にした。
私はお嬢さんに悪いような気がした。
お嬢さんがお気に入りのあの絵師さんに、瞳が綺麗だね……だっけ? 言われてしまった。
私が自分の瞳にうぬぼれていると、お嬢さんが部屋に戻ってきた。
「桜子、仲良くしてあげてね。名前は翠人っていうの」
と、私の横に一体のお人形を置いた。
目鼻立ちが美しく、少しあの絵師さんに似ている気がした。
まるで、とても高価なひな人形の男雛のようだった。
私は気分がよくなって、心の中でお嬢さんに感謝を述べた。
(ありがとう。お嬢さん)
お嬢さんは私の頭を撫でると、障子をゆっくりと閉めて部屋を出て行った。
真っ暗になった部屋で、私は嬉しさにひたった。
今日は美しい方にも会えたし、お嬢さんもご機嫌だし、新しいお友達もできたし。
そんな風に心の中で指折り数えていると、頭がむずむずするのを感じた。
すると、お嬢さんが撫でてくれた頭の部分から、するすると黒い髪が伸びてくる。
あっけに取られているうちに、私の自慢の黒髪は肩を越え、鎖骨を越え、胸を越え、とうとう臍の位置まで垂れさがってしまった。
(ひえ! 大変なことになった……!)
私はあわあわと無言で慌てだし、畳の上でカタカタと震えた。
おかっぱ頭が、立派なロングヘアに変わってしまった。
このままじゃ、きっとお嬢さんは怖がって、私のことをお寺に行かせてしまうだろう。
不安で私は泣きそうだった。
でも、泣けるはずはない……と思っていると、私の頬を伝う一筋の温かい感触があった。
(な、涙――!)
私は涙を流していたのだった。人形だと言うのに、人間のように泣いていた。
いっぺんにいろんなことが起きて混乱している私の腕を、誰かが叩いた。
「な、なにっ?」
私は人形としてこの世に生まれて以来、初めて声というものを出した。
しかし、それ以上に驚いたのは、私の手を叩いたのは、今日となりに新しく飾られたお人形だったこと。
「静かに、人が来てしまう」
あの絵師さんに似た人形の彼――翠人は、しぃーっと口に指を添えて息を漏らした。
「あなた、喋れるの? 私も、喋れるの?」
私は疑問を口にした。
「僕たちには魂が宿ったんだよ」
「魂?」
「桜子はお嬢さんに毎日可愛がられたから、僕は玲さんに瞳を書き入れられたから」
「玲さんって、誰のこと?」
私は首を傾げたのだけれど、それは凄く不思議な感じだった。
「絵師のことだよ」
「あの方、玲さんって言うの」
私はそれをすぐにお嬢さんに言いに行こうと思い、ぴょんと跳ねた。
すると、
「駄目だ! 見つかったら大変なことになる!」
と翠人の腕に抱きしめられるように捕まえられてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「ま、まぁいいけど……ここからは僕と離れないで、僕と一緒に来て。分かった?」
「どこに行くの……?」
「君はもう知ってるはず、それ……」
彼は私の襟の内側を指差した。
そこから、あの絵師さんに渡された半紙が覗いていた。
私はその紙を取り出して開いた。
「読めない……」
その紙には墨字で、いくつかの四角形と矢印が記されていた。
「僕が連れて行ってあげる」
翠人は私の手を引いて、お屋敷の外へと暗いところばかりを歩いて行った。
彼とつないだ手の先がやけに温かく、胸がどきどきした。
「こっちだよ」
彼は私の胸の内など露知らず、どんどん見知らぬ道を進んでいく。
往来は暗く、人気もなかったが、たまに遠くから聞こえる人の騒ぎ声が怖かった。
「怖い」
「もうすぐだから」
彼は私を宥めるようにして、道を曲がり赤茶の壁の長屋に入った。
「ん? これは、一体……」
その長屋の玄関にちょこんと、私と翠人が立っていると、部屋の奥から一人の男性が現れた。
どうやら私と翠人の後ろに、人形劇のように動かしている誰かがいるのだと思ったらしく、何度も何度も私たちの背後を確認しては不思議そうな顔をした。
「どうなってるんだ?」
「あの――」
「うわぁっ!」
私が声を出すと、その男性は両手を挙げて驚いた。
「し、喋ってる……」
その時、長屋の二階から階段を駆け下りる物音が聞こえた。
「玲だ」
翠人がハッとして声を出した。
翠人が言った通り、私たちの前に玲――さっき見た絵師が現れ、妖艶に笑みを浮かべていた。
「よく来たね。予想通りだよ、桜子」
玲が言い、私たちを部屋にあげてくれた。
「それで、お嬢さんはお前に何て名前を付けたんだ?」
玲が翠人を抱え上げて訊いた。
「翠人」
「そうか、かっこいいじゃないか」
その時、玄関で私たちを見つけて困惑していた男性が口をはさんだ。
「待ってくれ、何で人形が喋る上に、それを完全に受け入れてるんだ?」
「伊月、人形が喋るなんて当たり前だろう」
玲が諭すように言った。
伊月というらしい男が、まだ少し状況が呑みこめていない様子で、
「嘘だろ……」
と呟いた。
「驚かせてごめんなさい」
私はぺこりと頭を下げた。
私の長い髪が、弧を描いて宙へと投げ出された。
「ああああ!」
伊月は目を開いて叫んだ。
「人形には魂も宿る、髪の毛も伸びる。それで時折、俺達の家を訪れる」
玲が伊月を横目にそう言った。
「そういえば、何でこの家に来たんだ?」
伊月が頭の上に疑問符を浮かべた。
「桜子の瞳を見た時、この子はもうすぐ目覚めると確信したからね。あの屋敷をうろうろ動かれると大変なことになるだろうと思って、翠人に魂を入れて、ここに連れてきてもらうことにしたんだよ」
玲が言った。
実際のところ、私は屋敷を歩いてお嬢さんを探しに行こうとしたのだから、説明はかなり的を得ている。
「でも、髪がこんなに長いのは……」
伊月が私の髪に触れて言った。
「かなり伸びているね」
「お嬢さんに撫でてもらったら、こんなに伸びちゃって……私このままじゃ、お寺に行かされる……」
私は話しながらボロボロと涙を流してしまった。
「桜子、泣くな!」
翠人が私を抱きしめてくれる。翠人の腕の中で、私の毛先の不揃いになった黒髪が揺れる。
「……だ、大丈夫だよ、俺が君の髪を切ってあげる」
伊月が眉を下げて私に言った。
「え?」
「髪結いなんだ。人形の髪を頼まれたことは無いけど……」
「……お願いします」
私はためらいがちに再び頭を下げた。
「うん、任されたよ。さ、こっちへおいで」
伊月は部屋の中央に黒塗りの箱を置いて、その前に私を呼び寄せた。
言われた通りに、そこに行くと私は正座した。
「そう、まっすぐ前を向いて。上手だね」
私の背中で、優しく黒髪が梳かれる、くすぐったい感覚が体全体を支配する。
伊月の手に握られた鋏によって、私の髪は短くなっていく。
あぁ、良かった。これでまた、お嬢さんと遊んでもらえる。
安堵の心と、ぞくぞくする背中の感覚とが混じり合い、私はカタカタと震えてしまう。
「どう?」
伊月が後ろから私の顔を覗き込んで訊いた。
「うん、ありがとう。短くなって、良かった……」
私は綺麗に切り揃えてもらった毛先に触れた。
「また髪が伸びてしまったら、おいで」
伊月はやさしい瞳で言った。
私は頷き、玄関へと向かった。部屋の中のゼンマイ時計は零時を指している。
屋敷の皆は眠っているだろうから、今のうちに戻れば何事もなかったかのように、またいつもの日常に戻っていけるだろう。
「送ってあげようか」
伊月が言うと、翠人が手でばってんを作って、
「いい、桜子には俺がいれば十分」
と、むっとした様子で言った。
「ありがとう、さよなら」
私は笑んで、翠人に手を引かれて、来た道と同じ道のりを帰った。
振り返ると、伊月と玲が手を振っていた。
伊月――他の人と違う瞳をしている。
優しくて穏やかな目をしている。
私と翠人は屋敷に帰り、朝日が差し込む部屋に座っていた。
すると、いつもの時間に障子が開き、お嬢さんが入ってくる。
「おはよう、桜子、翠人。よく眠れた?」
そう問いかけるお嬢さんに、私たちは無言でこう言う。
「本当に良い夜だった」と。
私達は少しだけカタカタと震えた。
――FIN――