07 七那々奈々菜
凄まじい速度だった。七那々奈々菜は一瞬にしてその距離を詰め、東東雲の頸を狙って右手を伸ばす。その指先の爪は鋭利で、人間の頸などたやすく掻っ切れる。
が、空振りに終わる。涼しい顔で避けた東東雲は、またいくらか距離をとりながら風の矢を放った。その数、三発。七那々奈々菜は尾で防ぐが、やはり威力は強大、吹き飛ばされてしまう。
さらに東東雲、追撃の手を緩めない。いくつもの風の矢が七那々奈々菜に撃ち込まれ、防御に用いた尾が痛みに襲われる。風は質量をもって、七那々奈々菜の体力を着実に奪っていく。
さて、では、どうすれば敵う――と、そのあやかしは激痛の中で思案する。そのあいだにも、風の矢の追撃がきた。急いで体勢を立て直し、尾で受けるのをやめて、回避を選択する。
右に転び、矢を避ける。「その調子」、と東東雲が嘲笑った。怒りを覚える暇もなく、次の矢が放たれる。それを避ける。これを何度も続けた。
「よく逃げ回るね」東東雲はまたも矢を放つ。「でも、当てるのなんてわけないよ」
向かってくる一矢、やはり七那々奈々菜は横に避ける。しかし、その矢は簡単に彼女を逃がしてはくれなかった。風の矢はその軌道を反らし、回避先へ向かって飛ぶ。
尾で受けて、思わず舌打ちする。追尾性のある矢とは、また厄介な代物である。これを受け続けることになると、体力はすぐに底を尽きるだろう。攻勢に出るしかないと、結局は思い至る。
だが、やみくもに攻撃してはならない。あくまでも理性的に、着実に命をとれる行動を選択しなければならない。でなければ、こちらが負ける。
とはいえ、悠長に隙を狙う時間もなかった。打って出るなら早い方がいい。これ以上防御に徹すれば、勝負に出るための体力は残せないかもしれない。
そもそも七那々奈々菜、連戦なのである。先ほど閏と対峙したときは、打ち負かしはしたものの、彼女の切り札である『正矢』をもろに喰らっているし、七那々自身も、対象を何度も殺す『無間地獄』という高位術を組んでしまっている。
このあやかし、東東雲と対面したときには、すでに体力のほとんどを使い果たしているのである。して、終わりの見えない防衛など続けられるはずもない。攻勢に出るほかないのである。
ならば。
次の矢が、合図だ――七那々奈々菜はそう決めた。東東雲が弦を引く。
そして、放った。
刹那、九尾は放たれた風の矢に突進する。九本の尾すべてを盾に、風の矢を突っ切ったのである。まさしく、無謀だった。だからこそ通用した。
想定していなかった一手、思わず東東雲は不用意に後ろへ跳ぶ。それを七那々奈々菜は見逃さなかった。脚にできうる限り最大の力を籠め、一気に土を蹴る。瞬間的に超加速したその勢いに任せて、身を回転させ太く逞しい尾のすべてをぶつけた。微かな東東雲の呻き声が聞こえる。
そして東東雲の身体は宙に浮いた。この状況に持ち込めたとき、七那々奈々菜の有利は確定するのである。竹藪の中から、数本の触手じみたものが一斉に東東雲を襲う。事前に用意しておいた、九尾の『竹人形』である。そしてその竹はいま、もはやカモフラージュを取っ払い、白く、しなる鞭のような外形をとっていた。
空中であり、さらには得物が大弓である東東雲に、それらの鞭に対抗する手段はなかった。しなる一本が背中を打ち、また高く身体を上げ飛ばす。完全に無防備な状態、為すすべなく上空で打ちのめされ、形勢は逆転する。
地上の七那々奈々菜、人形を操りながらも、これでは東東雲を倒せないことなど理解していた。どうなろうとも現世随一の退魔師、鞭に打たれつつも、反撃の好機を伺っているはずである。ならば自らの手で必殺の一撃を加えなければ、勝利などない。
両掌に思念を集中させる。それは今までの怨嗟であり、怒りであり、千年の時を経た何者かへの復讐の念であった。そしてその感情のすべてが、この牙銀魯山という場所に由来する。起源はあやかしに力を与え、由来はその感情を確固たるものとする。
鈍く暗い炎が、七那々奈々菜の両掌に宿った。禍々しく恐ろしい、名状し難き炎であった。
「東東雲清律ッ!」七那々奈々菜は吼える。「わたしの全部――喰らって死に晒せ」
鞭の一本、東東雲の足首を掴む。それは急な勢いで地面へと彼女を叩きつける。結果、地面でバウンドした東東雲、その脇腹を九尾は膝で蹴り、さらには尾で高速の連撃を加える。連撃の最後、七那々奈々菜が三本の尾で同時に叩き飛ばすと、東東雲は地面を転がっていく。
そこでようやく、彼女は手を突きながらも二本の足で地面を捉え、立ち上がることができた。長く美しかった黒髪が乱れ、汚れている。乱雑な前髪、視界がかなり阻まれ、髪と髪の隙間、七那々奈々菜を捕捉して息を呑む。
急接近する九尾の、その両掌の禍々しさは、尋常な言葉では到底語り尽くせなかった。流石にまずいか、と東東雲でさえも思う。見くびっていた、とも思う。ただ純粋な感想として、「やるじゃない」と零してしまう。
そして、気でも狂ったのか。
東東雲、仁王立ち、両腕を真横に広げて胸を突き出す。
まるで「さあ、穿て」といわんばかりに。
狙いはわからなかった。しかし狙いなどないのだと、七那々奈々菜は東東雲の顔を見て悟った。そこには一切の策略はない。ひたすらに敬意があった。
奇妙な感情が、七那々奈々菜に芽生えていた。全力を以て、その胸を穿たねばならない。怨嗟や怒りを超えた部分で、心の底からそう感じた。そして同時に、この一撃では東東雲を倒せないと確信した。
だからこそ、全力でなければいけない。必死でなければならないのだ。
「さあ来い、九尾。きみの全部を受け止めてやる」
聞いて、七那々奈々菜は、絶叫した。空気を震わせ、大地を揺るがし、世界を瞬間的に我が物とした。
両掌を、突き出す。
「狐月――『邪銀牙瑯』ッ」
その渾身の一撃は、東東雲の胸を撃った。
凄まじい衝撃波が東東雲を襲い、絶望的な量の邪気が東東雲を喰らう。周辺の枯葉は塵と化し、地面はひび割れる。さらに暫く音が消え、時間は流れることをやめていた。その間、数本の竹があまりの衝撃に曲がり、または倒れるなどしていた。七那々奈々菜の周囲数メートルは生物と無生物の堺なしに無に帰している。死が、あまりにも濃密に空間を満たしていた。これが、高位のあやかし、九尾たる七那々奈々菜の全力であった。
それでも。
東東雲は、立っていた。七那々奈々菜のすべてを受け止めた。
その身をもって、倒れることなく。
……一陣の風が吹く。
「きみも苦しかったな」そう、東東雲はいった。「誰にも頼れないで、たったひとり、人間の中に紛れ込んで。どうしようもない孤独と、身に覚えのない憎しみや怒りに葛藤を覚えることもあったろう。せめてきみに、前世の記憶があればな。きみは苦しまずに済んだかもしれない。それでも、そのせめぎ合う孤独と憎悪にうなされながらでも、立派に生きてきたんだよ、きみは」
慈愛の籠もった声だった。ゆっくりと、東東雲は、震える小さな少女の肩に手を置く。千年前の――この少女とは実際には無関係なはずの――出来事に七那々奈々菜が抱いていた、やり場のない憎しみ。それを現実の質量として喰らった東東雲には、少女の痛みがわかっていた。わかりすぎてしまうほどに。
千年前の、恐怖。
それは前世、平安の退魔師、銀瑯魯臣に封印された死の恐怖であろうし、それが胸の内に巣食っているというのは、どれほど恐ろしいことだろう。やり場のない憎しみと怒りに苛まれるというのは? 恐怖も憎悪も憤怒も、そのはけ口を見いだせない孤独というのは? 痛いじゃないか。苦しいじゃないか。怖いじゃないか。哀しいじゃないか。
少女は膝から崩れ落ち、静かに涙を零した。それを東東雲は抱き締める。「きみは誇っていい」という。
「きみは自分を誇っていい。よくがんばったよ、いままで。たったひとりでよくがんばった。もう苦しまなくていい。もう苦しまなくていいんだ、しっかり泣いていい。わたしが全部、受け止めるから」
あやかしは――九尾は――少女は――七那々奈々菜は、東東雲の腕の中で泣いた。初めて流した、孤独ではない涙だった。夕空が、赤かった。
◇
成宮閏が目を覚ますと、見慣れたぼろぼろの天井がまず見えた。とはいえ、暗い。いまは夜であるらしい。
上体を起こすと、身体のあちらこちらが痛んだ。よくわからないままにあたりを見回すと、どうやらここは、閏が居候する東東雲邸、つまりは山奥のぼろ屋、そこで貰った自室のようだとわかる。
なにがあったんだっけ。そう思い出そうとすれば、すぐに記憶は呼び戻される。そうだ。牙銀魯山で烏天狗と戦って、そのあと九尾になった七那々先輩と戦って、負けたところに師匠が現れて――
と、いうことは、師匠があのあと九尾に勝利し、自分を家まで運んできてくれたのだろう。ならば早めに礼をいわなければ。
部屋を出て、居間のほうへ向かおうとする。そこで、ふいに台所から、おいしそうなにおいがした。
おかしい。明らかにおかしい。
なぜかといえば簡単で、閏の師匠こと東東雲清律、料理が壊滅的に下手なのである。よって、彼女が料理をすることなんておかしいし、百歩譲ってしたとしても、少なくとも閏が「おいしそうでやがります!」と感じるようなにおいが台所からするはずないのである。
誰か、師匠でない誰かが、いる。
そう察して、閏はおそるおそる、台所を覗きに行った。そこで見覚えのある後姿を閏は見た。東東雲ではない。どころか、中学校の制服を着ている。瑠奈月渚ではない。やつより背が高い。となると、
「……な、七那々先輩?」
若干ビビりつつ、声をかける。
振り返ったその顔は、まさしく七那々奈々菜であった。
「あ、起きた? お夕飯はもうちょっとしたらできるから、居間で待っててね」
閏、口をぱっくり開けて、驚いて仕方ない。
その後、暫くして、はっと我に返る。するとすぐさま居間へ走り、ぼろぼろな障子をぴしゃりと開け、
「師匠!」と怒鳴る。
「うわっ、どうしたんだよ」東東雲、ひっくり返る。「びっくりしたじゃないか」
「それはわっちの台詞でやがりますよ! どうして七那々先輩がいるんでやがりますか!? しかもすげーナチュラルに夕飯つくってやがりますけど、やつはどういう気持ちでいま台所に立ってるんでやがりますか!?」
「おいしいって喜ばれたい一心じゃないのか」
「マジでいってやがりますか、それ!?」
「閏ちゃん」
後ろから声が聞こえる。思わず、閏は飛び上がる。
「通っていい?」
背後、オムライスを盛りつけた皿を持った七那々がいた。二皿を両手で持ち、もう一皿、一本だけ出している尾に乗っけて運んでいる。
「ねぇねぇ、閏ちゃんって、オムライスは好き?」
「え、あ、そこそこでやがります……」
ちゃぶ台に料理が並ぶ。あ、お茶とか取ってこなきゃか、と七那々は居間を去る。
「……どういうことでやがりますか?」
「どうもなにもねぇよ。とりあえず、座れ」
いわれた通り、閏がいつも使う座布団の上に正座する。そこで、ひとつ新たに新調された座布団が増えていることに、いまさらながら気づく。
七那々が戻ってきて、コップを三人分並べ、お茶を注いでいく。その光景に、違和感しかない。新調の座布団の上に、七那々が座ると、東東雲が合掌の音頭をとる。
「いただきます」と、三人揃っていうことになる。
「……まさかとは思うんでやがりますが」閏、オムライスを口にせず、まず訊く。「えっと、七那々先輩は、ここに住むわけじゃないでやがりますよね。まさかそんな、今日はたまたまうちでご飯をつくっただけで、食べたら家に帰るんでやがりますよね」
「ううん、ここに住むよ。東東雲さんがいいっていったから」
「えぇ……」
「行く場所がないんだとよ」東東雲、オムライスを口にする。うまそうにする。「いままでずっと、住む場所に困って野宿してたらしい。特に最近は野晒しオブ野晒しだったんだと。ならここに住んでろってことだ。野宿よりずっとマシだろ。屋根も壁も畳もあるし」
まぁボロボロだけど、と東東雲は言葉の尻に付け足す。「十分すぎます」と七那々はいう。閏、まったく付いていけていない。
というか、ふたりの勝負、結局どうなったのだろう。まさか東東雲がやられるわけはないし、そりゃ勝ったのだろうと思うのだが、いったいどういう勝負を経たら、七那々がここに住み着くなんて結果になるのか。
わからない。わからないままに、とりあえず、オムライスを口に運んだ。信じられないほど美味だった。