03 九尾と烏天狗の微妙にややこしい案件③
瑠奈月渚は竹藪の中、息を必死に殺して蹲っていた。ここがどこだかわからない。獣の匂いがする穴で――おそらくは猪の寝床で――両手で口を押え、さて、どうしたものか。とにかく、まずい状況だ。
瑠奈月渚から数メートル離れた傾斜、数本の見事に斬られた竹が転がっている。その近くを、下駄を履いた人型のあやかしが歩いていた。背中に烏らしい黒い羽根、顔には目立つ黄色い嘴がある。どうして見間違えようか、烏天狗である。
閏と別方向に逃げて、完璧に失敗した。突如として彼女に襲い掛かってきた烏天狗、たしか閏は政發と呼んだか。やつは閏に一直線というようすで追いかけて行った。だから瑠奈月渚は逆方向に逃げたが、これである。政發とは違う、また別の烏天狗が瑠奈月渚を追ってきた。
やっこはやはり帯刀し、見つかれば、即ち斬。かくいう瑠奈月渚は、携行品といえば首にぶら下げたカメラくらいのもので、これでどうにかなるわけない。なんだかんだいって、瑠奈月渚もあやかしの危険さくらい身をもって知っている。
――『あのとき』は、閏ちゃんが助けてくれた。
しかし、今回はどうだろうか。閏は別の烏天狗と絶賛交戦中であろう。瑠奈月渚を助けにくる確率なぞ、あったものではない。ならば瑠奈月渚がとれる行為はひとつのみ。ひたすらに、隠れて、逃げる。
がさり、がさりと、落ち葉の積もった斜面を歩く音が聞こえる。近くなったり、遠くなったりして、まだこの居場所は気づかれていないとみえた。このまま諦めてくれたらいいが、さて、どうだろうか。
縄張りに侵入したせいで襲われたのなら、逆にいえば、縄張りを荒らす意図はないと悟らせればよいはずである。暫くしたら、敵性なしとでも判断してもらえて、見逃してくれるのではなかろうか。もしそうしてくれたら、真っ直ぐに山を下りてしまうのに。
けれども烏天狗、諦める様子が微塵もない。いまだ瑠奈月渚を捜し、あっちにいったり、こっちにいったりしている。その足音を聞きながら、ふと思った。
鼻は利かないのだろうか。
瑠奈月渚が見てきたあやかしは(といっても数えるていどしかいないが)、だいたいみんな鼻が利いた。それだけではない。聴覚、視覚、触覚と、つまりは五感がやけに鋭い。
だというのに、烏天狗はそうでないのだろうか。瑠奈月渚はべつに匂いの強い化粧品とかなにやらを使っているわけではないし、するとしたら、母のを黙って使っているちょっとよさげなシャンプーの匂いくらいである。でも、人外であり人を超越するあやかしが感じ取れないほど匂いがないわけでもないだろうし、むしろ充分強いくらいだろう。
いま、猪の寝床に身を伏せていて、獣臭くなっているのもあるかもしれない。カモフラージュというか、まあ、そういうやつだ。けど、この程度で誤魔化せるようなものなのか。
なんて考えていたら、いつの間にか、意外と近いところで足音が聞こえた。急に、空気がぴんと張り詰める。心臓が爆音を上げながら脈打ち始める。頭上、影が差した。まさか曇ったわけではあるまい。沈みかけの太陽の淡い橙が、竹の葉の隙間から土に降り注ぐのがはっきり見てとれる。
見上げてみる。烏天狗が覗いていた。
「……あ、どうもー」
暫し、沈黙。
そして立ち上がって逃げた。
ひゅん、と風を斬る音が聞こえる。やばすぎる、振ってきた。刀を振ってきた。殺す気だ、あれはマジな音だった!
しかしながら、偶然、烏天狗の初撃が空振って、いまが好機とばかりに瑠奈月渚は山の傾斜を全速力で駆けた。背後、追ってくる気配を感じるが、振り返ってはいけない。その瞬間に刀の斬撃が飛んできて、首を掻っ切られるビジョンが見える。
追手、恐ろしいほどに足が速いが、かといって瑠奈月渚も負けない。こちとら命が懸かっているのである。火事場の馬鹿力、ここで出さなきゃいつ出すというのか。
さあ、全速前進だ。ここから地獄の耐久レース。ゴールはあるが果てしなく遠い。それまで体力が持つだろうか。足場は非常に悪く、さて、駆け下りるには非常に危ない。いつ転んだっておかしくないし、事実、根やら石やら躓きそうなものは掃いて捨てるほどある。どれほど走った。もうわからない。だが、だが、追手の気配は消えない。むしろやつはスピードを上げてきている。追い込みがきた。差しである。差し烏である。逃げ切れるか、女子中学生。明日を掴み取れ、女子中学生。ゴールはすぐ目の前――とはいかないが、少なくとも近づいている。もっと足を速く、一気に駆け抜けろ、女子中学生、瑠奈月渚。
――が、健闘虚しく、ついに転んだ。枯れ葉に足を取られてしまった。山の斜面を制服姿で転げまわるが、身体につく傷なんてお構いなしに、瑠奈月渚はカメラをひしと抱きしめていた。ちょっと平坦な場所に出て、どうにか止まる。
顔、脚、傷だらけで、制服は土だらけだし、破れた箇所もある。でも、真っ先に、カメラを確認する。きずやへこみは……ない。瑠奈月渚はやけにうれしそうな顔をしたが、烏天狗が目の前に来て、表情を真剣なものにした。
烏天狗は刀を抜き、構えたまま、瑠奈月渚にじりじり歩み寄ってくる。もうすこしで、間合いだ。間合いに入れば、斬られる――その直前に、
「ちょっと待った」と、瑠奈月渚はいった。「ストップ、そこで止まってくれないかな。わたしなんにもしないから、そっちもなにもしない。それでちょっと、話し合おうよ。冷静になってさ、ほら、ステイ、ステイ」
気難しそうな顔をする、烏天狗。しかし実際、動きを止めた。瑠奈月渚は一旦胸を撫でおろす。それで、土の汚れをはたき落としながら、ゆっくり立ち上がる。身体中が痛いが、動けないこともない。そして場所を確認する。山の中なのに、かなり平坦なところだ。大きめの石もいくつかある。烏天狗に視線を戻す。
さて、落ち着いてよく見てみると、烏天狗は変ないきものである。人型なのだが、羽毛が生えていて、黄色い嘴がやけに目立つ。たしか、閏を襲った烏天狗の嘴は黒かったはずなのだが、はてさて、個体によって差があるのだろうか。
また奇異なのは背中の羽で、ずいぶん大きい。すべて広げて、二メートルほどはありそうである。
「あー、なんというか、ですね?」瑠奈月渚、ひとまずの観察を終える。「平和的解決も、あると思うんですよ。はい。その、こっちが勝手に縄張りにはいっちゃったのは、うん、悪かったなーと思うんです。謝ります。ごめんなさい。でも、でも、でもですよ。こっちはべつに、悪いこともなにもしてないですし、ね? 今回くらい、見逃してくれても……」
烏天狗は腕を組み、ちょっと悩む素振りをする。どうだろう、見逃してくれるだろうか。瑠奈月渚の考えでは十中八九、逃げる相手を斬る意味もなし、逃がしてくれるはずなのだが。
「……うむ、断る」
とても潔い決断だった。
刀を構える烏天狗である。あ、死んだ。絶体絶命ってやつだ。瑠奈月渚は悟った。ここで死ぬのだ。
「あー……うん、そっか」
未練がないといえば、嘘になる。どころか未練たらたらである。もっと生きてたい。死にたくない。
――っていうか、死ぬ気もない。
「じゃあ、交渉決裂ってことで!」
まさに間近、すぐそこに烏天狗がきた瞬間、瑠奈月渚は真っ直ぐにカメラを烏天狗に向けた。そしてすぐさまシャッターを切る。フラッシュが焚かれて、烏天狗の狙いがずれた。それを瑠奈月渚は必死に避ける。
そう、一撃避けたらこちらのものである。瑠奈月渚はあらかじめ目をつけておいた大きめの石を掴んで、空を斬って隙だらけの烏天狗の後頭部に、がんとぶつける。相手は呻き、よろけた。チャンスを逃してはいけない。またも勇敢に石を振る。今度は横っ面にクリーンヒットした。
烏天狗は目を回し、ふらふら後退ると、やがて倒れた。
「……お、どう? 起きれる? 起きないでね?」
恐る恐る、倒れた烏天狗に近寄る、瑠奈月渚。そして本当に気絶しているのを確認すると、
「おっしゃ、舐めんなよクソ烏! 焼き鳥にされなかっただけましと思え!」
まあ、強気である。
と、一気に安心感があって、へたりと座り込んでしまった。ふむ、しかし、危機は去った。というか、危機は気絶して、目の前で横たわっている。わたしも意外と退魔師の資質あるんじゃない? とか瑠奈月渚は思った。
思っていると、遠くから轟音が聞こえた。聞き覚えのある音だ。閏の例の『魔弾』か。とすれば、向こうもあの烏天狗との闘いを制したのだろう。
じゃあ、てきとうに合流して、今日のところは帰ってしまおう。制服とかは、てきとうにいい訳を考えないと。
そう、気を抜いていた。すぐ背後まで迫る殺気に、気付くことができなかった。
振り返ったときにはもう遅い。避けようのない斬撃が降り掛かってきている。そして、ふと思い出した。
この山には、烏天狗が『三匹』いる。
「やば――」
ギュッ――と目を閉じると、信じられないくらいの風が吹いた。
瑠奈月渚がゆっくり目を開けると、彼女から三メートル、吹き飛ばされた三匹目の烏天狗が倒れていた。まるでなにがあったのか、わからなかった。しかし辺りを見回すと、ここよりすこし山を登った所に、人影が見えた。
大弓を手にした、人影だ。
「あ……東東雲さん……」
瑠奈月渚がその名前を口にしたとき、もう人影はどこにも見て取れなかった。