02 九尾と烏天狗の微妙にややこしい案件②
作戦決行の月曜日になった。
あのあと、閏の師匠は家に帰ってはこなかった。『I'll be back soon!』とはいったいなんだったのか。
ふたりは同居していて、夕飯も閏はふたりぶん用意していたのだが、それはすべて閏の腹の中に消えてしまった。正直、二日連続で食べ過ぎてまともに動けない。
それでも学校には行かなければいけないし、作戦決行だといっていた瑠奈月渚もあとでうるさくしてくるかもしれない。だから閏は、気分が悪いのを押してでも山を下らねばならなかった。
だいたい十分ほど時間をかけて山を駆け降りると、吐き気がしたので近くのコンビニに入った。そこでウーロン茶を買って、外に出るなりごくごくと飲んでから、無理やり喉元まで来ていた物体を流し戻した。
よし、行こう。
教室に入ると、すぐさま瑠奈月渚が飛びついてきた。目はキラキラに輝いていて、明らかに今日の放課後への期待に胸を膨らませている。
彼女がここまであやかし案件に興味を持つのは、単純に面白い写真が撮れるからである。瑠奈月渚はなにかあるたびに、カメラを引っ提げて閏を追いかける。だから彼女のカメラのなかには、八咫烏関連の写真がいくつも入っていて、そして閏があやかしの類と戦っている写真もばっちり写されている。
「閏ちゃん! よろしく頼むよ!」
「わ、わかってるでやがりますよ……」
リュックサック型のスクールバックをわざと揺らして、閏は答えた。からからと木がぶつかり合う音を聞かせたのだ。
「やる気満々じゃない!」
「そういうわけじゃないでやがりますよ……」
閏は嘆息して、自分の席に座った。
退屈な授業を受けているときは、時計の針が遅々として進まなかった。まるで時が止まっているのではないかと疑ってしまうほどである。
いちおう、閏は授業の内容には付いていけるので、すこしくらい聞き流しても問題ない。そういうわけで、半分ほど退屈凌ぎの意味合いで、閏は放課後のことについて思案していた。
さて、八咫烏案件は閏にとって、もっとも忌避したいものであった。
あいつが関わるものごとに、総じていいことなんてないのである。閏の経験則だった。
だからまったく乗り気でないし、できることなら、放課後は瑠奈月渚の目を盗んでこっそり帰ってしまいたい。しかしそういうわけにもいかないのは、瑠奈月渚が先日の席替えで右隣の席になったせいだった。
そう、いま瑠奈月渚は閏の隣にいるのである。
「閏ちゃん、ねぇねぇ、閏ちゃん」
「……なんでやがりますか」
「もし七那々奈々菜と戦うことになったらさ、ちゃんとカメラ目線ちょうだいね」
「……善処するでやがります」
いや、無理でしょ、とはいわなかった。
そこにたいした理屈はない。なんとなくである。
授業中、数学のプリントが配られる。乗法公式ってなんだっけ、あぁあれか。そんなつぶやきが横から聞こえる。瑠奈月渚はひとりごとが多い。このクラスでは常識である。もうみんな慣れた。
◇
時間が過ぎ去るのはけっこう早くて、すぐ放課後になった。
閏は腕をがっしり瑠奈月渚にホールドされて、逮捕されたひとがパトカーまで連れられて行く感じで、校門まできた。それから最寄り駅まで同じ感じで歩き、電車に乗って十分、目的の場所まできた。
牙銀魯山は、閏が住まう大金魯山と対をなし、空国町の西に寝そべっている。すこし大金魯山より標高は低いが、それでも七五〇メートルはある。瑠奈月渚が七那々奈々菜を見たのは、この山に入ってすこし行ったところらしかった。
さて、この山には不吉な伝説がいくつかある。
すべてあやかしの類に関するものであり、たとえば、烏天狗の伝説である。遥か昔、この山には烏天狗と呼ばれる人型の怪物が住み着いており、ひとたび迷い込めば、屠られ煮られ、焼かれるとかして、喰われてしまうというのである。
そのため、ここら辺の子どもたちはみな、幼い時に一度くらい、『泣き止まないとお山に捨てるよ』といわれたことがある。お山とは、もちろん牙銀魯山のことで、要は烏天狗に食べてもらおうかということである。
とはいえ、現代、本当に烏天狗を見たことがあるというひとはいない。
大金魯山と同じく、牙銀魯山もいまでは登山愛好家のなかではある程度、有名な場所である。この二峰の頂上には金剛魯臣と銀瑯魯臣という二柱の神がそれぞれ祀られた神社があり、大金魯山の金剛、牙銀魯山の銀瑯は、両方とも同じく登るべしといわれている。
そんなわけだから、牙銀魯山も週末には登山客が絶えない。そのなかで、なるべく人間の目に触れずにいたいあやかしの類は、ひっそりと息を潜めるほかない。
またそもそも、二峰の頂上に建立されたふたつの社は、昔のとある高名なふたりの僧(これがいまでいう、金剛と銀瑯である)が山に巣食っていたあやかしの類を倒し、そのふたりを祀って建てられたものである。このふたりの僧に退治されてから、多くのあやかしの類は別の地へ逃げた。
しかし山に残るものはいて、ほとんどが退魔の気に覆われているこのふたつの山にほんの少しある住み着ける場所で細々と暮らしている。そういったあやかしの類のなかに、とある烏天狗の一族がいた。
烏天狗の兼景、清正、政發である。
さて、ここで閏が疑問に思っていることは、この三つの烏天狗がいるというのに、なぜ八咫烏が堂々とこの山にいたのかということだった。八咫烏はたしかに馬鹿だが、別のあやかしの類のテリトリーに入るようなことはしない。それはあやかしの類の間の、常識だった。
特に烏天狗は神経質なやつが多く、そういうテリトリーにはしつこい。相手がたとえ強大な八咫烏であろうとも、彼らはあとのことを考えず、必死に抵抗するだろう。八咫烏も、さすがにそれは嫌なはずである。やつが負けることは確実にないが、向かってくるのが三つの烏天狗なら、多少の苦戦はあるはずだ。
それに、そもそもの話、八咫烏は空国町から離れたとある山に巣を持っているから、牙銀魯山に居場所を求める理由がない。
ならば今回、中心になるのは、やはり七那々奈々菜であろう。八咫烏がこの場を荒らす理由がないのであれば、共にいた七那々奈々菜になにかあると考えるのが自然だ。
では、彼女の目的とはなんなのか。
それがわかれば苦労しない。まずもって、七那々奈々菜の正体すらつかめてないいま、それを判断するのは不可能である。
けど――と、閏は思う。ひとつだけわかるのは、七那々奈々菜が、八咫烏と行動を共にできる程度には実力者ということだ。
「ここだよ!」と瑠奈月渚がいったのは、烏天狗の縄張りのど真ん中だった。さすがにここはまずくないか、と思ったものの、七那々奈々菜のことも調べなくてはならないし、閏は慎重に辺りを歩き始めた。
いまのところ、運良く烏天狗は出てきていない。怒られる前にさっさとなにか見つけて、さっさと帰ることとしよう。
が、たいしたものは見つからない。かくいう瑠奈月渚は、閏の後ろで山の景色を撮ったりしている。そういえば、この間、写真部の提出作品がなんたらいっていた気がする。
「瑠奈月渚のやろー」
「どしたの閏ちゃん。なにか見つかったー?」
「逆でやがります。なんにもねーです。妖気も感じねーでやがります」
「妖気も?」
「八咫烏の残滓はあるでやがりますけど……強い匂いじゃねーです。あとは烏天狗でやがりますけど、ほかの妖気は、ぜんぜん」
たいてい、あやかしの類がいた場所にはしばらくの間、そいつの妖気(匂いのようなもの)が漂っている。しかしここに漂っているのは八咫烏と烏天狗のものだけで、ほかの妖気は無に等しい。
「となると……どゆこと?」
「もとより人間だったでやがるか……」閏は嘆息した。「完璧に匂いを消せるくらい、すげーやつってことでやがりますね」
「その匂い消せるのって、すごいの?」
「あたりめーでやがります。八咫烏だってできないでやがります」
まぁ、八咫烏は消す気がないから、そういった技を修練してないだけなのだが。
しかし匂いを消すのは、なかなかできることではない。できるとしたら、上位種だけである。閏が写真を見ても、七那々奈々菜があやかしの類だと信じきれなかったのは、一度も彼女から匂いを感じたことがないからだった。
実際、生活していると、ひとから妖気を感じることがある。とはいえ、その多くはなにか害があるわけでもないから放置している。
だが、七那々奈々菜に関しては、まず妖気を感じたことがなかった。そんなにうまくひとに化けられる上位種が日常の中にいるとは、あまり思っていなかったのである。
ふと、師匠なら感じ取れたのかな、と閏は思った。今回の相手は、自分の手には負えないかもしれない。こういうとき、彼女の師匠はだいたい帰ってこない。
どこに行っているのか知らないが。
「うーん、今日は諦めたほうがよさそうでやがりますよ」
「えー」
瑠奈月渚は面白くなさそうに口を尖らせたが、抗議することはなかった。彼女もさすがに、この場所に居座り続けるのはまずいと感じているのであろう。
「……じゃ、帰るか」と瑠奈月渚がいった。「うん、じゃ、また明日だね」
「え、まだ続けるんでやがりますか」
「とーぜんでしょう! 七那々奈々菜の正体を突き止めるまで、がんばろ!」
「…………」
閏は嫌そうな顔をしてみせたが、瑠奈月渚には効果がなかった。ふと、一陣の風が吹く。閏は一瞬、不穏な気配を感じた。
それは匂いだった。獣の匂いである。そのなかに多少、鉄っぽい感じが混ざっている。閏は悟った。
まずいのが来る。
「瑠奈月渚のやろー、隠れるでやがります!」
「えっ、あっ、うん!」
制服のスカートの裏から、三本の棒手裏剣を取り出したとき、白銀の残像が見えた。
咄嗟の判断で身を後ろに反らせ、閏は白刃の一撃を避けた。前髪を多少切られた気がする。皮膚は切られていないことが、ひどく幸運だった。
閏はどうにか体勢を立て直すと、三歩引いた。そして、突然に斬りつけてきたやつの姿を見る。袴を着た人型のあやかしで、背中には黒い羽が生えている。全身が黒い羽毛に覆われていて、黒い嘴、鳥目。
烏天狗、政發であった。
政發は両手で剣の柄を握り、切っ先を閏に向け、睨みつけている。
「……ひ」なるべく平常心を保って、閏はいう。「久しぶりでやがりますね、政發」
「なにをしに来た、東東雲の弟子」
「なにって、えっと、悪いことをしにきたんじゃねーでやがりますよ」
「…………」
「と、とりあえず、刀を納めるでやがりますよ……」
「いや、すまないが、そう訳にもいかない」
政發がじりじりと近づいて来た。閏は思わず後ずさる。
「リアルファイトでやがりますか? いやいやいや、なんの得もないでやがりますよ? こんないたいけな女の子を虐めたいでやがりますかっ? え、あ、まさか、そういう趣味でやがりますかッ?」
「問答無用! 覚悟ッ」
なぜこうなるのか。そう思いながらも、飛びかかって来た政發をどうにか避けて、閏は逃げ出していた。