01 九尾と烏天狗の微妙にややこしい案件
成宮閏は制服姿で一心不乱に走っていた。すべては自分の命のためである。後ろから迫ってくる黒い翼を持った人間から、逃れるためである。その人間は右手に日本刀を携えており、いまにも切りかかってきそうであった。
そこは立派な竹藪のなかだった。後ろから迫る人間は閏を追う足を緩めることなく、むしろだんだんとスピードを上げているようだった。かくいう閏は息切れぎれである。もうできることならば、こんな足場の悪い場所を走りたくない。あぁもういや、わたしどうしてこんなことに――。
「――あいたっ!」
なにかに躓いて、閏は転んだ。顔から盛大にどってーんと転んだ。
追手、勝機を見たり。やつが勢いよく中空に羽ばたく音がした。駄目だ、やるしかない――このままやられるのも癪だと、閏は地面に手を突き、勢いよく起き上がった。
「烏天狗ぅ……後悔しても知らねぇでやがりますよ!」
凄まじい速度で落下してくるやつの攻撃を、閏は右に転がって避けた。そしてスカートの内側から数本の細い木の棒を取り出し、構える。キッと睨みつけると、黒い羽毛が生えた人間――烏天狗は、すこしたじろぐ様子を見せた。
しかしすぐに気を取り直して、相手も刀を構える。両者の距離、およそ五歩半。閏は低く腰を落とし、烏天狗は背筋をぴんと伸ばした。
タン、と大地を蹴る音を聞いた瞬間、閏は目の前に木の棒をばら撒いていた。
その数、五本。それらは綺麗な正五角形を形作るよう空中で静止し、閏はその図形の中心になるところに両手をかざした。
青い閃光が走った。烏天狗の一撃である。
しかしその攻撃は、閏のつくった『結界』によって防がれた。木の棒を繋いでできた五角形は、閏を守る防壁を作り出したのである。
烏天狗の一撃を防ぎ終えると、木の棒はばらばらと地面に落ちていった。それを拾うことなく、閏は右にステップして、左手でスカートから追加の木の棒を八本取り出した。
そして少女は祈った。それはこの山に住まう神への祈りであり、また懇願でもあった。心の奥底で強くその神の名を呼び、意識を左手に集中させ、そして最後に目を見開いた。
閏の左手に緑色の炎が宿る。その炎は木の棒を焼き尽くさんとするかのように激しく燃え盛ったが、しかし逆に包み込むような優しさも内包した、まことに神秘的なものであった。
閏は、攻撃を弾かれがら空きになった烏天狗の腹に、木の棒を突き立てた。それはまるで弾丸だった。“撃”たれた烏天狗にはもちろんのこと、閏の左肩にも大きな衝撃が加わる。両者は互いに吹き飛んだ。だからやりたくなかったんだ、閏は左肩を庇いながら、竹藪のなかを転がった。
一本の竹に身体が打ち付けられて、少女の動きは止まった。烏天狗のほうを見ると、やつはぐったりと仰向けに寝たままで、ぴくりともしない。いまが好機といわんばかりに、閏はすぐさま立ち上がり、竹藪を走った。
◇
ことの発端は、二日前の土曜日である。クラスメイトの瑠奈月渚と喫茶店でお茶をしたときの会話だった。そのとき閏は薄いブルーのニットベストを白シャツの上に着ていて、ジーパンとコンバースのスニーカーを履いていた。
一方、瑠奈月渚はいかにも女の子らしい服装だった。白のニットに茶色いジャケットを羽織り、ミニスカートを履いている。靴下はいまどき見かけなくなったルーズソックスで、瑠奈月渚いわく、これからの時代を席巻するのはこういうやつなのだという。たぶんそれはない。
瑠奈月渚はアイスの抹茶ラテを飲みながら、秘密ごとを打ち明けるみたいに顔を寄せて、いった。
「ねね、わたし、見ちゃったんだけどさ」
閏はそのとき、嫌な予感を感じていた。なんだか面倒なことに巻き込まれそうな、そんな気がしたのだ。
で、その予感は的中した。
「まぁこれを見てみてよ」
差し出されたのは、竹藪が写された一枚の写真だった。その写真にはひとりの少女と、一匹の巨大な烏も写っていた。閏はそのひとりと一匹、両方に見覚えがあった。
まず少女のほうは、閏が中学校で所属している囲碁将棋部の部長、七那々奈々菜だった。ひらがなの「な」が七つも続くというなんともふざけた名前だが、性格は至って普通だ。いや、普通よりもすこしばかり聖人に寄ったところがある。
部内では屈指の実力を誇り、一度プロと名勝負を繰り広げたこともあるという。その次に強いのは一応のところ閏ではあるのだが、差は大きい。七那々はまるで未来でも見ているかのように数手先を読むので、勝てやしないのだ。
そしてもうひとつ、巨大な烏。こちらは図体も尋常じゃなく大きいのだが、なんとも不気味なことに足が三本ある。こいつは八咫烏である。神話じゃけっこうな役目を仰せつかっていた気のするやつだが、現代の八咫烏は面倒くさい。酒に酔って絡んでくる中年オヤジより面倒くさい。
というのも、八咫烏は暇を持て余したせいで、いまも街の裏に蔓延るあやかしの類をたぶらかし、暴れさせて、暇つぶしにそれを眺めているのだ。なぜそれをただの中学生である閏が知っているのか、それはのちのちにわかることである。
「また八咫烏のやろーでやがりますか」閏は額に手をやった。「この頃元気でやがりますね……。それにしても、どうして七那々先輩と?」
「そんなの決まってんじゃん! どーせこの人、ばけものなんだよ」
なにわかりきったこと訊いてんの。瑠奈月渚は言葉の尻にそう付け足した。
しかし閏は「いやいやいや」と顔の前で手を振った。
「あり得ないでやがりますよ、だって七那々先輩ですよ?」
「じゃ、この写真はなんなのさ。わたしがわざわざ加工写真をつくるなんていう無駄な労力をあんたを揶揄うためだけに費やすと思ってるわけ?」
「そ、それはたしかに……」
「とにかくね、わたしはこれを激写してしまったんだよ。そしたらもう、閏ちゃんが動くしかないじゃない」
「でも、わたしは妖怪退治なんて請け負わないでやがりますよ!」
「ならどうするの! この八咫烏と七那々のせいで、事件が起こるかもなんだよ!」
「うぅ……」
困った顔をする閏に、もとより近かった顔をさらにぐっと近づけて、瑠奈月渚はいった。
「さぁ閏ちゃん、作戦決行は月曜日だよ!」
閏たちが住む空国町の東には、大金魯山という山がある。標高八百メートルのその山は、空国町を見下ろすようにして北南に長く寝そべっている。
閏は大金魯山の登山道を歩いていた。週末には登山愛好家がこぞってこの山に登りに来るから、土曜日のその日も何人かの登山家と閏はすれ違った。
しかし閏は瑠奈月渚と遊んだ帰りだったから、服装は山登りにまったく適さない。しかし行きもこの服装で山を下りたのだし、というか毎日この山は上り下りしているから、服装など問題外だった。
たまに気のいい登山家が閏の服装を見て、「そんな装備で大丈夫かい」といってきた。閏はそのセリフに某ゲームを思い浮かべながら、「大丈夫です、問題ありません」と返した。フラグではない。
で、閏は登山道を途中で外れて、整備もなにもされていない場所に入った。ひどい急斜面で、木々の枝に捕まりながら歩かなければすぐに転がって落ちてしまいそうだ。
閏はそんな道を危なげなく、ひょいひょいと歩いて行った。こんな道を四年も歩けば、さすがに慣れてくるのである。最初こそ下りで一時間、上りで二時間かかったこの道だが、いまとなっては往復三十分に収められる。
急勾配を歩くこと五分。すこし開けた場所に、ぼろぼろの家屋が見えた。建てられてから何十年も経過していそうなもので、藁葺屋根には落ち葉が乗っかり、壁は薄汚れている。
閏はその家屋の玄関の前に立ち、戸に手をかけた。それから壊れないよう細心の注意を払って、ゆっくりと戸を引いていく。戸はがたがたと不安な音を立てたが、なんとか壊れることはなかった。
家屋のなかは外見と比較すれば綺麗なほうだった。たしかに床板が浮いていたり沈んでいたりするし、襖や障子には破れたところも散見できるのだけれど、蜘蛛の巣は張っていないし土で汚れているわけでもない。これもすべて、閏が丁寧に家を使った結果である。大工ではないから家の損壊を治すことは不可能だが、住む分には問題ない。ただし、歴史人的生活を物ともしないというのなら、である。
閏はスニーカーを脱いで家屋に上がるなり、「師匠ー」と奥に向かって叫んだ。
「閏は帰ったでやがりますよー」
返事はない。
閏は奥のほうにある居間に向かった。障子を開けるとすぐに卓袱台が見えて、その上には一枚のメモ用紙が置いてあった。そこには筆字で『I'll be back soon!』と書かれていた。いったいいつ帰ってくるというのか、そもそもどこに行っているのか。肝腎なところが書かれていない書き置きに、閏は溜息を吐いた。
さて、それならどうするか。閏はひとまず、月曜日の準備をすることにした。
最悪な場合を想定すると、八咫烏とやりあうことになるかもしれない。師匠はどうせ来てくれないだろうから、それだけはなるべく避けたいが、しかし可能性は少なくない。武器はなるべく多めに用意しておくべきである。
成宮閏は退魔師の見習いであった。
退魔師とは、この世界の裏で蔓延るあやかしの類を退治する者の総称である。通常、あやかしの類の存在は人々に信じられてはいないのだが、しかし本当に存在するものなのだ。その例を挙げれば、河童とか天狗とか、もちろん八咫烏もそうである。
あやかしの類は、普段ならおとなしい。人間に危害を加えるなんてことはまずないし、表に出てくることもほとんどない。みな、人間社会の陰でひっそりと暮らしているのだ。
けれども稀に、あやかしの類が怒り狂うことがある。それは住処だった川に汚水が流されたときだったり、森の木々が切り倒されたときだったりと、様々である。そして怒りの引き金を引くのは、だいたいいつも人間だ。
そんな人間たちの尻拭いをする仕事が退魔師だ、といってもいいかもしれない。退魔師たちは怒りに任せて暴れだすあやかしの類を、ときには話術で、ときには力づくで抑えるという役割を持つのである。
どうして閏がそのような退魔師の見習いをしているのかは、追々話すとして、閏は自室に戻っていた。彼女の部屋には真ん中に卓袱台がひとつあり、壁際には箪笥が置かれている。あとは布団が入った押し入れがあって、しかしインテリアはそれだけだった。
閏は実際に歴史人的生活を営んでいるから、まぁ調度品は少なかろうとも支障はない。しかし世間一般ではふつうの女子中学生ということで通しているから、出来ることならもうすこし現代的な家に住みたいと思う。ちなみに、閏がこんな家で生活をしていると知っているのは、瑠奈月渚以外にいない。
瑠奈月渚とは小学生からの付き合いである。けっこうな億劫屋だが、閏は彼女に対して好感を抱いている。なにせ、三年前に素性がばれたとき、瑠奈月渚は決して閏に態度を変えて接するなんてことがなかったのだから。
むしろ、「かっこいい! なにそれ! どうやってんの! 教えて!」と結界やらなにやらに質問を投げかけられたくらいだ。
要は、いい友なのである。
ただし厄介ごとを持ち込んでくるのは頂けない。
写真部の部員である瑠奈月渚は、いつもスクープを撮ろうと必死だ。それなら新聞部にでも入れば、といったことがあるのだが、瑠奈月渚は「はぁ?」と眉をひそめてから、
「あのね、わたしは新聞なんて興味ないの。決定的な写真を撮りたいだけなのよ。新聞なんて詰まらない、だって文字の羅列でしょ? でも写真は、文字なんて関係なしにパッと衝撃を与えられるじゃない。そっちのほうが楽しいに決まってるでしょ」といった。
はたして、そういうものなのだろうか。
ともかく、瑠奈月渚はそういった信条のもと、喫茶店で閏に見せたような写真を何度か激写している。以前には、八咫烏が数匹の河童と密談しているシーン、八咫烏が墓地のある山の中腹あたりで羽休めをしているシーン、八咫烏が鹿を捕食するシーンなどを撮ってきたことがある。
思えば、瑠奈月渚は八咫烏の追っかけみたいにそいつだけを撮っている。まぁ、事件あるところに八咫烏あり、といえるほどにやつは厄介ごとの種を撒くから、スクープを撮るにはそれが一番なのかもしれないが。
それにしても、写真に撮られる八咫烏のほうもなかなかである。これまでどうして一度たりとも瑠奈月渚の存在に気づかず、八咫烏はばっちり撮られていたのだろう。ふつうのあやかしの類なら、簡単に人の気配くらい察知できるはずだ。
ま、あいつは馬鹿だからね。
閏はとりあえず、そういうことにしておいた。
さて、月曜日の準備だ。
閏は箪笥の棚を開けた。三段あるうちの、一番下の段である。そこにはびっしりと鉛筆のような細い木の棒が収納されていた。
これは棒手裏剣である。
棒手裏剣とはその名の通り、時代劇とかで忍者の使う手裏剣が棒になったバージョンだ。様々な形状があるのだが、閏の棒手裏剣は手製なので木で出来ており、先端が鋭利に尖っている。実際に中学校の美術で木の枝の先を尖らせてペンを作ったことがあるのだが、この棒手裏剣も同じ感じである。
まず、簡単に折れないような木の棒を用意する。カッターナイフでその木の棒を削っていき、形を整え、先端を鋭くしていく。この先端の鋭さをすこし抑えて、墨を用意すれば、ペンになる。
美術では鋭さを抑えるのを忘れていて、完全に殺傷用の棒手裏剣を作ってしまった。しかも鋭すぎて紙を破ってしまうから、まったくペンとしての機能は果たさず、栄えある箪笥の肥やしとなった。
で、しっかり鋭くなった棒手裏剣には、仕上げとして糸を巻く。持ちやすくするためだ。これによって手製の棒手裏剣は完成する。実に粗末なものではあるが、使えるのだから見栄えは関係ないのだ。
それを計五十本ほど用意して、閏はスクールバッグのなかに入れた。教科書の入るスペースが狭くなったが、どうにか押し込んで、チャックを閉める。
ひとまずの準備は、これでいい。
万全を期すならもうすこし装備がいるのだけれど、それこそ『大丈夫だ、問題ない』である。八咫烏とやりあうことになったら、どんな装備をもってしても今の閏では勝ち目がないし、そもさん、相手は七那々という女子中学生ひとりなのだから、完全装備で臨む必要はないのではないか。
しかし人は、まさしくこれを『油断』と呼び、また『フラグ建築乙』と声を掛けるのである。