第一章 2話「招かれた世界」
「…ここはどこだ」
辺りは紫黒色で、そして静寂に包まれていた。
深海に1人沈んでゆくかのような感覚で、身体は脱力し、ゆっくりと落ちている。
「俺は、どこにいるんだ」
「俺は、終わったのか…」
目を開けたところで見えるものは紫黒色だ。そこには水面も水底も光も闇も見えない。
目を閉じ、自分は終わったのだと、全てを捨てようとしたその時ー。
ーーご…んな‥さ‥
「…なんだ?」
自分ではない、声が聞こえた。
少し悲しそうな感情が混ざった女の子の声。
ーーごめんなさい…。
「…誰だ?」
辺りを見たところで姿は見えず、静寂と紫黒色に包まれた夢の海から、今にも泣き出しそうな女の子の声がカイトの頭に響く。
ーーわたしは、いらなかったの。
「…いらない?」
その声は、自分を不要と語る。
なぜ、そんなことを言うのだろう。
ーーわたしは、いなくなればよかったの。
「そんなこと…。」
この寂しさはなんだろう、この悲しさはなんだろう。
この切なさは、この儚さは、なんだろう。
紫黒色をした夢の海と、姿の見えない声から感じるこの感情の渦は。
ーーわたしは、欠陥品だから。
「…そんなこと、ない」
カイトは姿のない声に、そっと語りかける。この声が姿の見えない声、夢の声に届くのかは分からないが、自分なんていらない。なんて言う人がいたらーー。
ーーわたしは…
「大丈夫だ」
と、伝えたい。
カイトは姿の見えない声に伝える。大丈夫だと。
そこに誰が居ても、誰も居なくても。
これが夢だとしても、夢じゃなくても。
「そんなこと、ないぜ」
ーーー。
本当は、そんな事を誰かに言えるほど、伝えられるほど自分は綺麗な生き方も成長もしていない。
「今、下を向いているのなら…」
ーーー。
的外れかもしれない。
自分の声など夢の声には届いてすらいないのかもしれない、そうだとしてもカイトは伝える。
「…少しの勇気で、前を見てほしい」
ーーー。
前を向けなくなった先にある景色は、ただの灰色だ。
そこに辿り着いた所で、あるのは灰色に染まって目を閉じた自分だけ。
だから聞いてくれと、現実か夢かも分からない紫黒色の海の中でカイトは夢の声にもう一度伝える。
「…本当は、こんなにも綺麗なんだ」
ーーー。
その言葉を最後に、カイトの意識は夢の海から急速に遠退いてゆき、完全に途切れた。
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「ぶッふぉあァ!!」
夢から覚め、激しい呼吸に意識が覚醒し、咳とともに飲み込んだ水を吐きだし、
「げほッはぁ…はあ‥…は?」
と、その表情のまま絶句してした。それには理由が二つある。
一つ目の理由は、自分が夢の海ではなく、本当に水中から這い上がってずぶ濡れになっていたこと。
そしてもう一つはーー。
「あぁ‥ぇ‥ぁ」
目の前に写る景色と、思考と、感情が頭の中でごちゃ混ぜになり、言葉というものを形成せず、喋ることを許さない。
彼の目の前には、それは今まで見てきた無機質でなんの変化もない、冷たい灰色の都会でもなく、下を向きスマホを凝視して他人行儀を貫いている人々もその目には写っていなかった。
「これっ‥て‥」
ようやく許された言葉。
徐々に頭の中が整理され、自分の目に写るものの意味を教えてくれるーー。
「ま、あ‥街だ‥!」
石材や木材で作られた建物の数々、その外壁はかぎりなく白に近いクリーム色、屋根はオレンジのような橙色を少し薄めたやわらかな色で統一された大変美しい街並みが彼を出迎えていた。
出窓や玄関には沢山の花々が添えられていて、城下町と呼ぶにふさわしい街並み、その街並みの間を美しい水路が通っており涼しさをも感じる。
そして街の遠くには真っ白の大きなお城がこの街を、1人の彼を見下ろしている。
それはまるで、夢のような景色。
「ここは‥‥」
少し離れた商店街通りのような所には、 腰に剣を添えた騎士が見回りの様な事をしていたり、派手な髪色に装飾で飾られたローブを、さも当然であるように纏う貴族のような女性が世間話をしているように見える。
ましてや人間ではなく、まさに獣人と呼べる猫耳しっぽの人?や、犬らしき動物が鎧を着て二足歩行で普通に歩いている。
大通りには馬車‥と呼んでいいのか分からないが鳥のような馬のような動物が車を引いている。まさに多種多彩。
その光景が夢でないように願いつつ、恐る恐る右の拳を握りしめ、自分をある程度の力で殴る事を決意する。
「痛ッ! ‥痛みは感じる。どこか外国にいるわけでも、ましてや夢でも死後の世界でもないとしたら‥」
自分を手加減して殴った反動で膝をつき、また水面に写る自分を見る。
そしてフラッシュバックする。
灰色の都会。
下を向く人々。
傾いた世界。
迫る目の前の列車。
ぐっ。と胸を締め付けるような痛みが襲うが、肌をすり抜ける心地よい風、水の流れる音、賑やかな人々の声まで聞こえ、その締め付けていた胸の縄を優しくほどいてくれる。
「ここは‥俺が夢にまで見た‥」
周りの美しい街並みがー。
雲一つない透き通るような空がー。
行き交う人々がー。
水路の水面に写る自分がー。
灰色だった世界がー。
徐々に、徐々に色付いていくようなー。
世界が急に広がるような感覚。
ここはーー。
「異世界‥!!!」
その言葉が聞けるのを待っていたかのように、この異世界の街を風が吹き抜ける。
そして目を見開き前を見る。
分かる、あの灰色の世界なんかじゃない。
高鳴る鼓動を、確かに感じる。
空は、彼の心をまるで覗き見して写したかのように青色に彩られていた。
大人になりきれなかった少年のような彼は今、灰色だった世界を抜け出した。
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「異世界‥憧れてはいたけど、いざ来るとなると何をすればいいんだか‥」
彼が最初にこの異世界の地に訪れた場所は、賑わいを見せる城下町風の場所。
その水路沿いに座り込みながら水面に写る自分とにらめっこしていた。
なんの準備もなしに突然訪れたファンタジーな異世界。MMORPGプレイヤーの彼でも正直不安がこみ上げる。ましてや言葉や彼の常識が通じなければ無力同然、ジェスチャーなら得意だがそれすら通じるか怪しい。
「まあでも、通り過ぎ様に聞こえてくるに言葉は大丈夫そうだな‥。 ほんっと安心した‥!」
よしっ。と屈伸運動で立ち上がり、改めて自分の状況を確認する。
「着てたコートとジャケットはなくなってる。持ってたカバンとかポケットに入れてた財布もスマホもない‥。まじか‥これ結構やばい状況‥だよな?」
黒のスラックスに革靴、腕をまくったグレーのカーディガン、銀色の腕時計。異世界の住民からすれば彼の格好は「変わった格好の奴」と認識されることになるだろう。だがそんな事を気にもせず彼はあたふたしながら、
「くっそースマホ‥ないのかぁ。一番辛いな‥不安で仕方ないぞおぉ」
本来であれば今頃スマホ片手に写真を撮りまくっていた頃だろう。だが今はその現代科学の結晶はなく、ただ目と脳に焼き付ける事しかできない。そんな彼は少しうな垂れた様子で、
「‥‥もう仕方ないか、ないものはないよな。腕時計だけでも機能してくれてるから感謝しよう‥」
銀色の腕時計、就職祝いに父から息子へ贈られた大切なもの。それは抜け出した現実の先、この世界でも同じように時を刻み続ける。
ーー重いんだよな、これ。
「切り替えろ俺!次にやる事は街の散策だ。思いがけないところで美少女との遭遇や、謎のチカラに覚醒したりするかもしれな‥‥ないな。」
薄ら笑いを混ぜ、現実的に考えつつも心の何処かで期待している自分が恥ずかしかった。
頭を振り、無理矢理自分を切り替え商店街通りの方へ歩いて行く。小さな水路にはカモメのような白鷺のような白い鳥がぷかぷかと気持ち良さそうに浮いていて、彼の気持ちを和ませてくれる。
街中の小さな水路とは違い、ちょっとした川のようなサイズの大水路まである。
対岸へ行けるようアーチ状の橋が掛けられていて大変美しく、それを潜るようにゴンドラのようなものが通ったりもしていた。
「ここだけみればヴェネツィアっぽい感じはするけど、建物の感じもちょっと違うし‥なんせあのファンタジックなでかい城があるなんて事は聞いた事ないからな」
遠くに見える真っ白で大きなお城。
まるで童話に出てくるお城で王様と、王子様と、お姫様がいるようなお城。
ーーあそこにはきっと王いて、玉座に偉そう に座ってるんだろうな。そこから見るこの街の景色は‥どんなに綺麗なんだろうな。
う〜ん。と街のはるか先にある真っ白のお城を細めた目に写す。かなり距離はあるはずなのに、ここからでも結構なサイズ感は感じる。実際の大きさは予測すら出来ない。
「とりあえずここは城下町って感じの所で‥こっちが商店街通りってとこだな、程よい活気があって‥いやーやっぱすっげえ雰囲気いいなぁ感動だよ」
水路沿いの道を外れ、商店街通りへ入る異世界旅行人1人。
ううっ。と改めて異世界の美しさに感動しつつ、少し涙目になりながらも歩いていたところでその足は止まる。
「ん‥‥?」
その道の奥。
賑わう商店街通り、行き交う人々、その中にひと際目立つ人がいたーー。