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暁闇のヘリオドール  作者: 沙華
99/192

99 神様が死んだ日



「……」


 安寧の閃光。緩やかな疾風。

 矛盾するその一刺しは、瞬く間にグランヘレネ兵を地に伏せさせていく。

 人を殺すのは好きじゃない。

 けれど、手加減しているのに手元が狂って死んでしまうのならばそれもまた致し方ない運命のようなもの。

 人を傷付ける事はどうしてこんなにも、息をする事よりも簡単なのだろう。

 雷撃の魔法は兵士達の肌を甲冑の上からでもお構いなく舐め、彼らの意識を奪っていく。

 運の良い者は数時間後には目覚めるだろうが、悪い者はもう二度と目覚めぬ魔法だ。けれど、きっともう目を覚まさない方が幸せだ。

 この部屋はやがて、瓦礫の中に潰れるのだから。


 目覚めたばかりのジェイドは静かに憤っていた。

 抗う余地もなく、流されるしかなかった己の運命に。子供の頃の自分の不甲斐なさに。

 選択の余地を与えぬ皇国に、選択する事すら放棄して土壇場になるまで盲目でいた自分自身に。


 邪魔者は粗方排除した。

 自分達に刃を向ける者は皆倒れ伏した。

 途中から自分達に勝ち目がない事を悟り、槍を床に投げ棄てて数歩下がった賢い者達だけが未だ立っていられた。

 そう言えば一人、学者風の男が部屋の中にいたと思うが彼はどうなったのだろう。

 危険と判断して何処かへと身を隠したと言うのならば、彼はその風貌に見合うだけの思考能力があるという事だったのだろう。


「行こう、シャルロット」

「は、はい……」


 倒れるグランヘレネ兵達を少女の視界に触れさせないように、半ば無理矢理土のヘリオドールへと向き直させる。

 手を繋いで数歩、金色に輝く魔石へと歩み寄って見上げる。


 もう心は決まった。

 これが、この石が総てを狂わせたのだ。

 ジェイドやスヴィアの人生だけではない。

 この国の存在総てを。思考や思想、人々の在り方総てを。

 壊してしまうのがきっと正しい。

 国を創り直すだとか、大それた事を考えている訳ではない。

 これ以上自分達のような子供を増やしたくないだけだ。たったそれだけがジェイドを奮い立たせる正義である。

 そもそもこれが広義的な意味合いを含む正義だと信じている訳ではない。

 こういう時くらい自分を信じてみよう。それがきっと、自分にとっての正義になるから。

 ただ、それだけが彼の正義の証明だった。


 右手で触れたと同時に何故か、これからどうすれば良いのか手に取るように理解出来た。

 オリクトと大して変わらない硝子のような質感の表面に這わせた掌から、魔石を構成する葉脈のような膨大な魔力の流れを感じ取った。

 複雑に編み込まれているそこに、ジェイドの魔力という異物を混ぜ込む。

 魔力を魔法として放出せず、そのまま魔力として直接注ぎ込むかのようなイメージだ。

 こうしてみると無機質であるというのに、まるで生き物のようにも感じる。

 見守るシャルロットの目には大した変化は見られないのだろうが、直に土のヘリオドールを相手しているジェイドにはもうこの魔石がただの無機物には見えなくなってしまった。

 ジェイドの魔力を押し返そうとするのだ。内側から、魔力で圧力を掛けて抵抗してくる。

 魔力が、魔石が脈打つのが分かる。

 土のヘリオドールは一層強く輝き、美しい光の帯を只管に零していく。


「……ッ、く」


 流石女神の魔石というべきか。

 今からジェイドが行おうとしている事は神殺しに等しい。一筋縄ではいかないと思っていたが、ここまでとは。

 右腕が破裂してしまいそうである。

 こんな激痛を、水のヘリオドールを破壊する際自分の中のもう一人は受けていたというのか。

 全く、人の身体で好き勝手してくれる。

 ジェイドは逆境の中、頬を伝う汗を拭う事もせずただ笑っていた。


「面白い……ッ、…………俺は、貴女を……越えてみせる……!」


 決意は自然と口から漏れる。

 十四年前のあの日と決別してみせる。

 一人の男の為に万人のシュルクが犠牲になったこの国は、一人のシュルクの決意の為に万人を犠牲にする事で今宵生まれ変わる。


 ジェイドの右腕に小さな手が触れた。


「……シャル、ロット」

「大丈夫です。先生は、……私の先生ですから! 何だって出来ますっ」


 僅かに振り返る視線の先で、少女が笑って小さく頷くのが見えた。

 勿論、魔力の放出が出来ないシャルロットがこの状況で役に立つとは思っていない。

 物理的に救われる事がなくても、心が救われる。

 

 多少なりとも救われる心が、魔力を更に濃いものにする。

 迷いも捨て去り、正しい事など何一つも精査出来ない継ぎ接ぎの信念と独り善がりな正義で生み出される純度の高い真直ぐな魔力が、身体の内側から湧いてくる。

 それはやがて、ヘレネの魔力をも押し返し魔石の本体へと強烈な負荷を掛けた。

 血管のように張り巡らされている土のヘリオドールの魔力流が、常人にも視認できる程に膨れ上がる。


 ピシ、と硝子にヒビが入るような音が室内に響いてからは早いものだった。

 最早周囲の者がどうにか出来るような状況でもない。

 ヒビが入ってしまった土のヘリオドールは、そこから許容範囲を超えたジェイドの魔力と土の魔力の混じった不純物を溢れさせるように、崩壊していく。

 巨大な一つの水晶の形を保っていたそれは、台座からも零れ落ちてジェイドとシャルロットの足元へ硝子片の山を積み上げていく。

 魔石が放っていた神々しい金色の煌めきは、空気中に溶けて霧散していく。

 豪奢な台座の上には女神の慈愛など欠片程も残らなかった。

 硝子の欠片、ゴミだけがここにあった。


 周囲で見守る者達はただ呆然と見ているしか出来ない、無力な者達である。

 自分達の信仰する女神が、国が死んでいく。

 歴史が変わる瞬間をその目で然と見て、受け入れられなかった狂信者達は────その場で発狂した。


「あ、ああああああああああああ!!」

「ヘレネ様……ヘレネ様が……ッ」


 やはり、先に雷の魔力で撃ち抜かれてしまった方が幸福だったのかもしれない。

 慟哭、悲鳴、嗚咽。

 ある者は壁に頭を打ち付け始め、またある者は女神の死んだ世に失望して彼女の後を追う為にその手に持つ刃で自害した。

 希望を失った者達同士で殺し合いを始め、その血の海の真ん中で、狂った者達が肩を組んで聖歌を歌い出す。


 そんな事をしている場合ではないと言うのに。ヘレネの魔石を喪ったグランヘレネ皇国には災厄が迫っていた。

 サエス王国と同じだ。あの時は凄まじい水害が城の中心から国中を襲った。

 つまり、今回は。


 つまり、などと改めて認識する必要すらなかった。地鳴りだ。

 何処からかと探る事すら億劫になる程に分かり易い場所から、大地の唸り声がする。

 この大聖堂直下から揺れを感じた。然しこれは序盤の序盤、今からこの国が崩壊するという合図なのだろう。これからの事を考えるとこんなもの、揺れた内にすら入らない。

 この程度の事で一々驚いている場合でもない、とジェイドはシャルロットの手を引いた。この場を脱出する為に。


「全く……最悪だ。何で……こんな地下に安置するんだか…………」


 然し、土のヘリオドールを破壊する為に殆どの魔力を放出し、足元すら覚束無い。そんな事気にしていられる状況でもないのだが。

 シャルロットが心配そうに支えてくれるのが申し訳ない程だ。

 死にそうな身体に鞭を打ち残る魔力を掻き集めて、兎に角上空を目指さねば本当に瓦礫に埋もれて死んでしまう。


 それに、今回はシャルロットだけを連れて逃げる訳ではない。もう一人助けたい者がいる。


「…………スヴィア」

「……」


 ジェイドはふらつく脚を、仰向けに倒れてそっぽを向くペインレスの真横で止めた。


「一緒に、……帰ろう」

「…………嘘でしょお前。馬鹿じゃねーの……ヘリオドール壊しといて生きて地上に帰って、タダで済むと思ってんのかよ。死ね、教皇のジジイに殺されちまえ」

「済むさ。もう、グランヘレネ皇国は存在しないんだから……」


 シャルロットに支えられながら、ジェイドはゆっくりとペインレス──スヴィアの横に膝を付く。

 そんな事をしている時間などないのに。

 荒れ狂うグランヘレネ兵達と、鳴り止まない地響きがやたらと鼓膜を苛むこの部屋で、ジェイドとスヴィアは互いの言葉だけを絶対に取り零そうとはしなかった。


「…………助けるのが遅くなって、ごめん」


 ゆっくりと頭を下げる。

 顔をこちらに向けないスヴィアには見えなくても、ジェイドは謝罪した。


「今更謝られても……困るし」

「許してくれとは言わない。……多分、これは俺のエゴだから。俺の身勝手な自己満足の為に……助けられてくれないかな」


 意外にも、聞こえたのは罵声でも否定でもなかった。呆れたような溜息だ。

 漸く振り返ったスヴィアの傷だらけの顔は、困惑に染まっていた。


「お前口説くの下手くね?」

「は?」


 真摯な態度で行ったつもりの謝罪が、思ってもみなかった返答であしらわれた事にジェイドは驚いて顔を上げる。

 スヴィアは困惑顔のまま、身体を上手く動かせないというのに首を無理矢理にでもゆるゆるとゆっくり振った。


「ないわー」

「な、ないってなんだよ! なくないだろ!?」

「いやー、ないわー。自分を一回殺した相手を助けようとしてるのも、勝者の余裕なのか何なのかちょっと分からなくてないわー。って言うかヒくわー……“immortal”怖すぎるわー」

「えええ……?」

「ま、イイや。じゃあ助けてくれー」


 挙げられるのは、スヴィア自身でも何故動いているのか理解出来ない震える片腕だった。

 ジェイドはその手を何事かと理解出来ず見つめているだけだったが、スヴィアの意志を理解した途端その手を握る。


「……も、勿論!」

「今度こそ置いてってくれんなよー? ケケケ」


 子供の頃もこんな感じだったな、なんて。少しオドオドしたジェイドと、それを引っ張る明るいスヴィア。

 帰ってきた懐かしい緩やかな空気に、涙するのはまだ早い。


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