98 許さない
何故あの時庇ったのか、ジェイド自身が分からないのだ。
十年生きてきた中で、自分は女神の為に産まれ女神の為に死ぬのが当たり前なのだと思っていた。
そうする事が当然だと思い込むように教育され、それを自分を含む周りの誰もが疑う事すらなかった。
スヴィアに縋られたあの瞬間、培われて来た“当然”を否定し逃げ出したいと思ったのだ。生きたいと願ってしまったから、あの時スヴィアの手を取らなかった。
生まれた時から共に過ごしていた友人を切り捨ててでも護りたかった己の命を、出逢って一年にも満たない少女の為に棄ててしまったなら。スヴィアにもあのような顔をさせてしまって当然だろう。
意識が途切れる直前、ジェイドが最期に見たのはスヴィアの泣きそうな表情だった。
自分の身体に大穴を開けられたというのに、そんな状況ではない事は重々承知の上で、子供の頃と変わらない懐かしい彼の表情に笑ってしまいそうになったのは内緒だ。
笑ってしまいそう、というかそのまま笑ってしまえとすら思ってはいたのだが、自分はきっと上手く笑顔をその表情に形作る事が出来なかったのだろう。
何となく、そんな気がした。
シャルロットにも悪い事をした。
咄嗟に庇ってしまったけれど、自分がいなくなった後に遺された彼女がグランヘレネ兵に囲まれて、スヴィアにも追い詰められてその場をどうにか出来るだなんて思えない。
尋問を受けて手酷い仕打ちをされるかも知れないのに、彼女を庇うだなんてそれこそ自分のエゴではないか。
それでも、どうしても。
恐らく自分は、彼女が死んだ後の世界では生きてはいけないと感じたのだ。
生き汚く生に縋った惨めな自分より、キラキラと眩しい彼女が生きるに相応しいと思えたのだろう。
最悪、彼女の身内のリーンフェルトがアル・マナクに掛け合ってどうにかしてはくれないだろうか。
自分より強くなったのだから、妹の一人くらい救ってくれたって良いだろう。
まるで転落するかのような意識の中、ジェイドは夢現で思考していた。
やがて、今“こう”している自分の意識も消えてしまうのだろう。ほぼ痛みらしい痛みも感じず死ねるのだから、死を畏れる自分としては及第点な最期だ。
シャルロットに伝えたい事が沢山あったような気がするし、心残りではあるけれど今更どうこう言ったって仕方ない。
徐々に溶けていくかのような意識を、更にもう一段階深い暗闇の中へと沈めようと思考する事を遂に放棄した。
その時である。上から強い力に、誰かに引き上げられるような感覚に陥ったのは。
ジェイドの身体が自ら赤黒い胸の傷口を大きく開いて宝珠を飲み込む間、決して狭くはない室内を満たしていた白い閃光。
それが収まり、各々が再び視界を取り戻す頃。
彼はその両の脚で瓦礫の重なる床を踏み締めて立っていた。
「……っ!」
服は真っ赤、髪はぐちゃぐちゃに乱れていても、その横顔から覗き見る事が出来る瞳には力強く光が灯っていた。
「先生!」
よもや祈る事しか出来なかったシャルロットの口から、詰まっていた言葉が漸く吐き出される。
その声にゆっくりと振り返る彼の顔は、血に汚れながらも穏やかで。まるで寝起きのような表情だ。
「…………おはよう、シャルロット」
寝起きのよう、と言うよりは完全に本人は寝起きの感覚であった。
最早瞳に涙を浮かべる弟子とは対照的に、ジェイドは微睡みの中に笑顔を浮かべた。
彼の言葉がヘリオドールの意識のものでない事は、聞いているシャルロットが誰よりも良く理解していた。
堪らず飛び付いてその腰に、背中に抱き着こうとする少女を窘める声がするのは、彼女が蹲る姿勢から立ち上がろうとするのと同時だった。
『感動の再会は後にして頂きたい。……現状、事態は改善されたとは言い難いですから』
ジェイドが目覚めたというのに未だに何処からか声がする。ヘリオドールの声だ。
何処からも何も声がする場所なんて一つしかない、決まっている。シャルロットの胸元からだ。
淡く発光する星屑の涙のような夜闇と森を内包した硝子玉は、二人に周囲を見るようにと促す。
ここで漸くシャルロットは冷静に、この部屋の内装や状況を把握するに至れた。
深い色の煉瓦に囲まれた地下室は、簡素な机や椅子が後から持ち込まれたように見える。
それらが霞んで見える程の巨大な石がそこには鎮座していたからだ。綿密な意匠が施された台座の上に安置された、金色に輝く魔石ヘリオドール。
土の女神ヘレネの総てと、このグランヘレネ皇国全土に加護を齎す魔力が集約された、神々の英智の結晶とも言うべき魔石。
今から破壊する為に追い求めていたそれが、遂に目の前に現れたのだ。
どうしてこんな素晴らしい輝きを持つ魔石が視界に入って来なかったのだろうかとシャルロットは疑問に思うが、疑問に思う必要すらない事だ。
答えは簡単、ジェイドを生かす事に必死であったから。
この場で最大の敵ペインレスは全く動けそうにないとは言え、周囲は未だグランヘレネ兵に囲まれている状況。
然も、帰り道となるであろう螺旋階段は潰れてしまっている。寧ろあんな壊れ方をしている入口から、この部屋だっていつ埋まってしまうか分からない。
時間がないのはいつもの事。
そしてこの低迷した時間を動かすのもまた、ヘリオドールであった。魔石ではない方の、だ。
『さてジェイド! 目覚めたばかりで申し訳ありませんが早速そちらを破壊してしまいましょう! 貴方に出来ましょうか? その勇気はありますか? 出来ないようでしたら僕が──』
「いや、いい」
ヘリオドールも漸く念願叶う瞬間が訪れそうで興奮しているのだろう。
石の姿──と言っていいのか分からないが──であるというのに早口で捲し立てる彼を遮るのは、主人格であるジェイドだった。
「俺がやる」
彼は自らの手でケリを付けなければならないと考えていた。この理不尽な国に。
自分と、自分を取り巻く総ての者を狂わせたこの魔性の石に。
身体は何処も痛くない。裂けた服の間から覗く肌は、空洞があった事など忘れてしまいそうな程に綺麗に修復されていて滑らかであった。
魔力も満ち溢れているくらいだ。ヘリオドールが土壇場になるまで気配を殺していた理由を、ジェイドは本能的に察した。
今この瞬間の為に、魔力を温存していたかったのだろう。そしてその貯められていた魔力を解放する時は遂に訪れた。
ヘリオドールはジェイドの決意を聞くと、再び閉口する。彼の行く末を見守る事にしたようだ。
然し、ヘリオドールが発した「破壊」という単語を聞いて周囲の者達が黙っている訳はない。
まさか神の叡智である魔石を壊す事がジェイド達の目的であるなどと、この場にいる誰もが思い至りはしないものの、更なる破壊活動を神聖なるこの部屋の中で許す訳にはいかないのだ。
女神の魔力に満ちるこの場で、退いている場合でもない。敬虔なる信徒としてそれは恥ずべき行為である。
腹を括らなければならない。そもそも、退く為の退路は絶たれている。
そういった感情がグランヘレネ兵達を突き動かした。
一斉に槍の穂先をジェイドとシャルロットに突き付けるその姿は健気にすら見えよう。
数は上階の謁見の間で対峙した人数の半分にすら満たない。たったそれだけの人数で彼らに敵対しようなどと、愚行にも程がある。
一歩、また一歩と魔石の台座へ近付いていくジェイドを追うように、本人達は追い詰めている感覚で得物を構え続ける。
その感覚は至って間違いである事を、彼らはもっと早くに認知するべきであった。
螺旋階段を頭突きで破壊したにも関わらずろくに怪我すら負わなかった少女と、死体から蘇ってみせた男だ。
最早太刀打ち出来る者などこの場にはいない。
「と、止まれッ! 動くな、それ以上ヘレネ様にお近付きになるのは許さんぞ!」
シャルロットもジェイドの後ろに着いて、突き付けられる刃物を嫌がるように彼の背中にくっ付いてはいるが、そろそろその愛らしい頬に傷を与えられそうな程に槍先が接近していた。
「……何が許さないだ。許すつもりなど毛頭ないだろう、君達は」
ジェイドが低く呟くと同時。
バチ、と何かが弾けるような音がした。それだけで、シャルロットを斬り付けようとしていた男は胸元に手をやりほんの僅かに苦しげに眉を寄せたかと思えば、膝から崩れ落ちるようにその場に倒れた。
周囲の兵は慌ててしゃがみ込みその男を介抱するが、彼は既に息絶えていた。
ざわめきが起こる中、ジェイドは真っ直ぐに土のヘリオドールの輝きをその目に納めたまま淡々と言葉を続ける。
「水や風の魔力を持つ者を許してくれた事があったか。儀式を嫌がる子供達を許してくれた事があったか。…………ヘレネ様の為に死ねなかった者を、自由になる事を許してくれた事があったか」
ジェイドは一度、その場でヘリオドールを背にして振り返った。
顔を見られたくなくて、この後に起きる事を見せたくなくて。シャルロットの後頭部を片手で包むと、自分の胸元へその顔を押し付ける。
血生臭くて申し訳ないと思いつつも、彼女の視界を穢す事を考えたならこんなの大した事はない。
「許してくれなくて結構だ。俺こそ君達を許さない────絶対に」
サエス王国で暮らすようになって、真っ先に自分達の国の異常さに気付いた。
けれど、染み付いた習慣が消えるには膨大な時間を要した。ヘレネに見棄てられサエスに送られたのだと思っていたが、見棄てられなくたってペインレスのようになっていたのなら。
自分達は、一体何の為に産まれて来たというのだ。
その価値は、自分で決める。
例え高い価値ではなくたってそれを決めるのはグランヘレネの兵士達でも、女神ヘレネですらないのだから。