97 大地の老王
グランヘレネ皇国現教皇、ゼルザール・ソル・グランヘレネは決して褒められるような人物ではなかった。
歳老いたその身体に宿る精神は、その身に不釣り合いな程に子供じみている。
教皇になる以前から変わらず、全く成長の見られない心。それでいて野心家であるのだから質が悪かった。
人は何れ死ぬ。それは誰しもがある程度大人に成長出来たのならば理解し得る事であるのだが、教皇ゼルザールはその自然の理に殊更脅えた。
日々敬虔な信徒の一人として振る舞い、誰よりも女神ヘレネの御許に逝く事を熱心に説き彼女の傍に在る者を装いながら、その心は神の御子であるとは余りにも言い難かった。
ゼルザールは教皇に即位した途端、自由に使える教皇という立場と神の名を騙り一つのプロジェクトを立ち上げる事にした。
死から蘇る肉体を創り出す“resuscitation計画”、通称“R-計画”である。発足したのは何十年も前だが、未だに成果は得られていない。
蘇生、と一言で言ってもアンデッドを作り出す無計画なものではない。死んだところで問題なく蘇る、若々しいエネルギーに満ち溢れた身体を得る為に始めた計画だった。
身体の老化を止め病気や怪我に強く死を恐れない肉体を得て、グランヘレネ皇国の領土と女神ヘレネの御名を世界中に広げ巨大皇国を築く。
世界中の誰しもがヘレネの名を讃え、世界中の誰しもがグランヘレネ皇国の民である世を、その目でしかと見たい。
その為には百年も生きられぬシュルクの身体は余りにも脆弱なのである。
斯くして、教皇の為に始まった一大プロジェクト。
副産物として生まれた小プロジェクトが存在した。
痛覚を遮断し死から遠ざける“painless計画”。
薬事療法で死を逃れられないかと生み出された“medicine計画”。
そして、その過程で大量に出た死体やアンデッドを有効活用するべく進められた“conductor計画”。
直接的に死を排する為の“immortal計画”。
それぞれ、女神の尖兵となるべくだの国民の為の薬を開発する為だの、大陸中に蔓延るアンデッドに関与し治安維持の為にだの尤もらしい理由を付けておきながら、それらの計画が始動した理由は全て教皇の野心の為だけに帰結する。
ゼルザールは己の欲望の為に、護るべき自国民を女神への餌にする事を思いついた。
前皇の時分の時でさえ、水や風の魔力を持っていた者は国内でも煙たがられてはいたし国外追放に処された事はあったが、こんなにも大々的に人以下の扱いをするような事はなかった。
けれど女神からの神託とするのなら、どのような無理難題も通る。通ってしまうのだ。
元より水属性や風属性の魔力を持つシュルクの地位は著しく低く、既に格差が大きく広がっていた国だ。
新たに下された神託を、皆が皆簡単に受け入れてしまっていた。虐げる者も、淘汰される者でさえも。
そうして何十年も前に制定された政策はとうにこの国に根付いた。
人々は贄だ。
一人の男の命を繋ぐ為だけに重ねられた犠牲だ。何百、何千を犠牲にしても教皇は素知らぬ顔をし続けた。
自ら望んだ贄や、穢れた魔力を持つ齢十となった子供を女神に選ばれし者として儀式を受けさせる際、背中に国章を、神の言葉を刻んでいった。
それは勿論建前であり、実際に刻んだのは被検体が受けるプロジェクト名と被検体番号。
国章と実際のデザインが異なるのはその為だ。暗号化された数字が背中に、国章の縦棒部分に組み込まれている。
ジェイドという少年が与えられた名は【immortal-2535】。
彼はゼルザールという他人の死を排するべく、わざわざ病気のない身体を開かれた。
然し、他のプロジェクトと違い“immortal”については全くの成果が挙げられないでいた。
“painless”や“medicine”に至っては、今まで儀式後に数ヶ月及び数年は生き長らえていた者もいたのだ。何れも短命ではあったが。
然し、ある意味ゼルザールが一番成功例を出したい不死者を生み出す計画は、儀式終了と同時に命を落とす被検体ばかりであった。
他の計画の被検体達も皆十年生きられるような者は存在しなかった。不死の妙薬も作る事は叶わないまま、ゼルザールは年齢だけ重ねていった。
焦るには充分過ぎる程の時間を浪費し、ゼルザールは遂に皇家に伝わる魔具をプロジェクトに導入する事に決めた。
古の時代よりグランヘレネ皇国宝物庫の奥底にて埃を被っていた宝珠だ。
球体のそれは今見ればオリクトに似ていると思わなくもないが、これはオリクトが出回る以前より存在していた。
微量な魔力を帯びながらも属性は不安定で不明確。掌に乗せ魔力を篭めると、篭めた属性の色に反応するかのように無色透明な輝きの中に色を付けていくが、魔力篭める事を止めるとすぐにただの透明な水晶体に戻ってしまう。
然し、何もせずとも微量に魔力が存在する事は確かである。シュルクは食事や睡眠で魔力を補って生活している。
では、食事など一切取らせないままに体内に微量に魔力を発する物質を埋め込んだなら果たして生きるのか、それとも死んでしまうのか。
ゼルザールは“immortal”の儀式に選出したジェイドに施す施術内容を決定した。
心の臓と宝珠を融合させる事にしたのだ。
どうせ“immortal”に選抜された者で生きてきた者は今まで存在しなかったのだ。投げやりに一人死なせてしまった所で問題になる事すらない。死んだら死んだで埋め込んだ宝珠は回収すればいい。
行き詰まった教皇はまるで成功させる気のないような指示をする。勿論女神ヘレネの神託だと口添えて。
神官達はそれを疑う事もなく、禊を済ませたジェイドを儀式の間へと連れて行った。
途中逃げ出そうとするなどのハプニングがあったが、薬で眠らせ大人しくさせてからは儀式はスムーズであった。
スムーズ、と言っても神官達は引渡しまでの付き添いであり儀式の間から眠るジェイドの相手をしたのは、施術に慣れた研究者達であった。
指定された内容はスヴィアの受けた施術とはまたベクトルの違う残虐さがあった。胸の内に宝珠を入れ、その後生きているような事があるのなら鎖に繋ぎ食事を与えず、眠る事も赦さず常に監視しているようにとの教皇陛下からの勅命である。
ある程度の期間弱らせても死ぬような事がなければ更に個体を変えて実験を続ける為に、宝珠を抜き取ってしまう実験だ。
宝珠を繋ぎ止める箇所は心臓。
研究者達は光属性の魔力を持っている者で構成されているとはいえ、心臓に直接埋め込むなんて実験が成功する筈ない。
成功したとしても数ヵ月後には心臓共々宝珠を抜き取られ、殺されてしまう子供である。
更に、今回のプロジェクトは“immortal”、成功例すらないのだ。
失敗しても大して咎められる事もないだろうと、皆いつもの調子で気楽に儀式──施術準備を進めていた。
そんな実験に参加するメンバーの内、二人の夫婦がいた。
この夫婦がこの後のジェイドの人生を大きく変える事になるとは、この時は誰も思いもしなかった。
シャルロットは自分達を囲む兵士を押し退け、動けなくなったペインレスの傍らへと駆け寄った。
その手はもう力も入っておらず、宝珠は簡単に奪い返せてしまった。あの打撃に耐えながら落とさなかった事は、よもや見事と言えよう。
瓦礫の中に混じってしまえば捜索に困難を極め、ジェイドを助けられる確率は大きく減ってしまっていたかもしれない。
「これをどうすれば……!?」
『胸元へと翳して下さい。そうすれば……』
ヘリオドールに尋ねれば直ぐに答えは返ってくる。
少女一人の姿しか見えない状況であるにも関わらず、何処からともなく男性の声が響き渡る現状に周囲の兵士達のざわめきが大きくなった。
「く、くそっ! よくもペインレス様を!」
一人の兵士が臆しながらも勇気を奮い立たせ、無防備であるシャルロットの背中へと勢い良く剣を振り下ろすが、その剣は瞬時に周囲よりいつの間にか伸びた植物の蔦のようなものに絡め取られ、空中に静止させるしかなくなってしまった。
『邪魔しないで頂きたい』
姿の見えない相手というものは本当に不気味である。
グランヘレネ兵達は光属性や水属性の拡散魔法により、姿を隠した第三者がこの場にいるのだろうかと警戒するしかなかった。その見積もりが大きな間違いである事に気付けぬままに。
シャルロットは周囲の目も気にせずに、床に横たえたジェイドの胸元へ宝珠を翳す。
ペインレスの血も付着していそうだったのでスカートの裾である程度血は拭ったが、焦ってもいる為血の色を落としたならばすぐさま行動に移った。
翳されたと同時に宝珠は強く、一際強く煌めく。
シャルロットの胸元に輝く、ヘリオドールの意志を持つそれよりも更に強く、強く。
「う、……っ」
一番近くにいたシャルロットは勿論の事、傍らに倒れるペインレスや周囲に控えるグランヘレネ兵達でさえ我が身を包む真白い光に目蓋を押さえ付けられ目を開けられず、只管この時間の終わりを待つしかなかった。
然しそんな中、こんな不可思議で異常な現象を僅か一瞬でも取り零したくないと懸命に薄目で視界の先の情報を得ようとしていた熱心な人物がいた。
アウグスト・クラトールだ。
彼は見た。
胸に大きな風穴を開けられ何処からどう見ても死体であろう青年──ジェイドの身体、傷口からスルスルと触手のように光の帯がいくつも伸び、シャルロットの両手に乗せられた宝珠に巻き付きそれを身体の中へと取り込んでいくのを。
死体が起こす奇跡とも言えようか。シュルク離れした芸当は余りにも不気味で、余りにも現実離れしていて────余りにも美しい光景であった。
アウグストは渦巻き流れる大量の光の本流の中、しっかりと宝珠の輝きをその目に納めていた。