92 裏切り
「随分いい格好じゃないか、……スヴィア」
何とか立ち上がりながらも、自分よりも酷く流血するペインレスを見つめてジェイドは嫌味を吐き捨てる。
対するペインレスは身も心も何も感じていないように、ただただ笑うだけ。
彼の姿を見ている内に、何故だか背中の刺青と脇腹の傷がチクチクと痛み出すような不快感を覚え始めた。原因は勿論、知っている。
「お前に言われたくねェよ、ジェイド」
「血の色の事を言ってる訳じゃない。その全身の傷も、眼帯も。全部だ」
彼の成りが女神からの“寵愛”を受けた者の結果だと、全身で知らしめている。
自分とスヴィアは同じ日に儀式を受けた。スヴィアが先に儀式の間へと連れて行かれた。
『じゃあ、行ってくる。ジェイドも頑張ってな!』
それが、ジェイドが最後に見た傷一つないスヴィアの笑顔だった。
次に目覚めた時にはサエス王国領土内の森の中にいたジェイドとは別に、スヴィアはあれからずっとグランヘレネ皇国にいたのだ。
十歳から二十四歳になるまで、痛みを感じない身体にされて戦い続けた男の身体は余りにも醜い。
それを誰も可笑しいとは思わないのだ。
それは人々に羨望の眼差しで見つめられる姿をしていた。
女神の姿でも重ねているとでも言うのか。悍ましいにも程がある。
ジェイドの言葉は棘がある。
けれど、その棘はペインレスには届かない。さも嬉しそうに顔を歪めて笑わせる、悦楽の糧にしかならない。
「ヘレネ様が俺を認めてくれたんだ! もうどこも痛くない、何をされても全く感じない! 火に炙られる儀式も、針で指先から貫いていく儀式も俺は全部耐えた!! ……けどお前はどうだ、ジェイド。国外に逃げ出した裏切り者の癖に、ヘレネ様の私物を持っていっちまった…………それが何より気に食わないッ!」
耳を塞ぎたくなるような儀式の内容に、ジェイドは哀れむような目を向ける。
耐えた。確かに彼は耐えた。
忘れもしない十四年前のあの日。
二人共十歳だった、夏の終わりの頃だった。
午前に儀式の間へと向かったスヴィアとは別に、ジェイドは午後に儀式を受ける手筈であった。
迎えに来た教皇直属の神官に挟まれるような形で大聖堂へと向かい、入り組んだ廊下を通っていつの間にか地下へと降りていた。
煌びやかな上の階とは違い、そこは無機質な白い壁と天井、廊下に囲まれた寂しい所だった。
先に礼拝堂で最後お祈りと禊を終え、真白な貫頭衣に着替えて歩いていたジェイドは、無数に並ぶ簡素な扉が連なる廊下を見て不安に駆られていた。
「大丈夫ですよ、きっと上手く行きます」
ジェイドの後ろから護衛をするように着いてきていた神官が、優しく声を掛けてくれた。
キョロキョロと周囲を見渡しながら歩いていたからその不安感と緊張が伝わってしまったのだろう、ジェイドは振り返り照れ臭そうに笑いながら礼を述べようとした。その時だった。
突然大きく、勢い良く開かれた目の前の扉。調度ジェイド達が通ってきた道の通過点にある扉だった。
数人の怒号。その内一人の甲高い少年の声は聞き覚えがあった。スヴィアだ。
「嫌だ、嫌だぁ!! 誰か、誰か助けて……殺されるッ!! もう痛いのヤだぁっ!」
「こら、大人しくしなさい!」
「鎮静剤を! 早く!!」
部屋から飛び出してきた紫色の髪の毛は、間違いなくスヴィアだった。
扉を開けたは良いものの、足に力が入らないのかそのまま廊下に倒れ込んだ少年。
午前中から儀式を受けていた筈のスヴィア。どうして彼は血塗れで、部屋から這いずり出てきたのかジェイドには分からなかった。
「あ、…………ジェイドッ!」
名を呼ばれてジェイドの幼い身体は震えた。スヴィアの、絶望と恐怖に彩られた銀の瞳の中心にはジェイドの姿が映っているのが見えた。
何をどうされたのか、両腕は特に血に塗れていた。良く見れば無数の切り傷が両腕に広がり、左の瞳からは何故か涙のように血が溢れてきていて焦点が定まってないように見える。
それでも無事な右の瞳でジェイドへと縋った。
「助けて、ジェイド!」
出血が多くてもう自力では立てないのか、それとも何か魔法か薬品かで身体の自由を奪われてしまったのか。
無垢な白床に血の跡を残しながら這って、親友へと手を伸ばすスヴィア。
肉が刻まれ蛇腹のようになってしまってろくに動かす事もままならない右腕を、それでも必死にジェイドへと伸ばして助けを乞う。
彼なら助けてくれると信じていたのだろう。あの時のように。
天井から降りられなくなっていた自分を救ってくれた時のように。
激痛で霞む瞳の中に、ジェイドの姿は輝いて映る。
然し、ジェイドはその手を取る事が出来なかった。
余りにも現実離れした友人の姿を見て、ジェイドは暫し思考が停止し動けなくなってしまっていた。
「……ジェイド?」
まさか、何もしてくれないのか。
スヴィアの声は更に絶望を色濃く孕んだものへと変貌する。
けれど震える友人の声が届いたジェイドの行動は悲しいかな、少年の切望したものとは全く真逆のものだった。
スヴィアの声を聞いたジェイドは、弾かれたように行動を起こす。
「……っ!」
「あっ、待ちなさい!」
神官の横も、横たわるスヴィアの横も通り抜けて元来た道を走り抜けていく。
ああなりたくない、そう思ってしまったのだ。彼のような酷い目に遭いたくない、と。
「……」
齢十の子供だ、そう考えてしまうのも当然とも言える。それでも床に転がされたままのスヴィアは心底失望していた。
いつも一緒に遊んだジェイド。困った時には助けてくれたし、逆もまた然りで助けてあげた事もある。
儀式が終わったら、一緒に教皇様のお傍で頑張って働こうと約束して別れたのに。
そんなの、全部嘘だった。
自分の後ろではジェイドを連れてきた神官二人が、逃げ出した被検体を捕まえる騒ぎが起きていた。
「離して、離して下さい……っ! 嫌だ、儀式なんか受けなくていい!」
「おい、少し早いけどもう薬を投与しよう」
「ああ」
結局捕まったか、ざまあみろ。
スヴィアは急に大人しくなり、嫌がる事もなく再び儀式の間へと運ばれていく。
その間ずっと笑顔を浮かべていた。自分を見捨てて一人だけ逃げようとした、ジェイドを想って笑っていた。
愉快だ。こんなに愉快な事など今まで経験した事がない。
けれど何故だろう。こんなに楽しい気持ちで儀式の続きを受けられそうなのに、どうして右眼からは涙が零れ落ちて来るのだろう。
スヴィアの儀式は長く苦しいものだった。この間に死んでしまっても構わないと、本人は諦めてしまっていた。
ありとあらゆる苦痛を与えられ、その度に悲鳴を上げた。下がらない高熱は無理矢理魔法と投薬で下げさせられ、休む間もなく儀式は続行された。
苦しみがどんなに長引いても、スヴィアは死ぬ事が叶わなかった。
周囲の神官や研究者達は口を揃えてヘレネ様の祝福だ、加護だと少年を励ました。スヴィアは“そう”だと思い込むしかなかった。
自分は特別なのだと。逃げ出そうとした裏切り者は、きっと失敗して死んだに決まっている。
自分はあいつとは違うのだと、スヴィアは身体を苛む痛苦に比例して心を憎しみに染めていった。
そんな憎しみの対象が、結局生死不明で儀式の間からいなくなってしまったと聞いた時の怒りは筆舌に尽くし難いものであった。