91 風の薫る記憶
いつの日だったか、理由は定かではないが癇癪を起こしたスヴィアが風魔法で施設の屋内運動場天井付近まで飛んでいってしまった時の事だった。
施設にいる子供達は自らの持つ魔力の罪深さと、それが原因で親に棄てられたという自責の念から時折癇癪を起こす者が非常に多く、その日もスヴィアがどういった理由で駄々を捏ね始めたかなんてジェイドは覚えてはいなかった。
「こら、スヴィア! 降りてきなさい!」
「降りたい……降りたいけどぉ……」
まだ六つか七つかそこらの年齢の少年が起こした魔法は安定には程遠かった。
天井の梁にしがみついたスヴィアは、登れはしたけれど恐怖からか降りれなくなってしまったようなのだ。
銀の両目は涙を湛えて一層キラキラと輝く。震えて縮こまり、落ちないようにと必死に木造の梁に抱き着く姿はまさに仔猫である。
スヴィア達の先生である若手の神官、エピドートが一生懸命下から声をかけるが、一向に魔力を使う素振りが見られなかった。
かと言って、エピドートは風の魔力を持っていなかった為に飛ぶ事は出来ない。
他の子供達、例えばジェイドなら風の魔力を持ってはいるが、あんな高いところまで飛行させてもしバランスを崩しでもしたら二人共転落してしまう。安易に頼む事は出来ない。
今エピドートが取れる安全な策は、土魔法で大量に木の葉を生み出してそこに飛び降りてもらう事だ。けれど、あんなにも怖がってしまっているスヴィアはきっと飛んではくれないだろう。
どうしたものかと頭を悩ませているエピドートの法衣の裾を、引っ張る小さな手があった。ジェイドだ。
「先生、あの……」
「何だいジェイド、今お友達のピンチだから後にしてくれないかな」
「ピンチをなんとかできる方法を、思いついたんですけど……」
エピドートはジェイドを見下ろした。
涙目で上にいるスヴィアとは対照的に、歳不相応に落ち着き隅の方で読書をしているような少年だ。
真っ黒い髪を乱雑に伸ばし後ろで適当に結んでいて根暗のようにも見えるが、瞳は誰しもの目を引くような夜明けの森の色をしている。二色の色を抱く瞳はかなり珍しく、けれど彼はそれを鼻に掛ける事も隠すような事もなく、ありのままに振る舞っていた。
癇癪を起こす事もなく、この施設では精神的に不安定な子供が多いからこそエピドートから見れば逆に心配になるような子供だ。
そんな彼にも心を許せる相手がいるらしい。それがスヴィアだ。
ジェイドはスヴィアと、あともう一人の少女ベルと三人一緒にいる時は良く笑顔を見せる事を、エピドートは知っていた。
友人を助ける為に頭を使ったという事なのだろう。若き神官は彼の話に耳を傾ける事にした。
それから数分後。
泣き疲れてウトウトし始めるスヴィアだったが、場所が場所だけに眠る事すら許されない。眠ってしまったが最後、梁から転げ落ちてしまうだろう。
眠気にグズグズと泣きべそをかいていた子供の身体は、不意に宙へと放り投げられた。
「う、うわああ!!」
後ろからの不意打ちのような強風に吹き飛ばされたのだ。落ちる、と少年はぐっと目を閉じたが、その身に与えられるべき衝撃は未だに起こらない。
謎の浮遊感に身体を流されるような感覚に、恐れながらもスヴィアは薄目を開けた。
下には数名の子供達。その中にはジェイドもいる。万が一の時に備えてエピドートが床に木の葉を敷き詰めて待ってはいるが、杞憂に終わりそうだ。
スヴィアを受け止めるかのように両腕を伸ばしている子供達は、皆風属性の魔力を体内に持っている者達だった。
彼らは大なり小なり、風の魔法が扱える。一人では安定しなくても二人なら、三人なら。大きな力になる。
スヴィアの身体は風のベッドに包まれ、少しずつ高度を下げていた。
そうして、エピドートの用意した枯れ葉の絨毯に両足を付けた瞬間には腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまう。
そんな少年を囲む子供達。
無事を祝い、笑いあい、貰い泣きをして、優しくも温かい子供時代のワンシーンだ。
ほんの僅かな記憶の奔流の中なら戻ってきたジェイドはシャルロットを巻き込み、二人の身体の周囲に風の魔法を展開する。
あの時は周囲に他の子供達がいた。今はいないけれど、いつからか子供数百人が束になっても敵わない力をジェイドは手に入れた。
今度はスヴィアを──ペインレスを助ける為ではなく、止める為に魔法を使う。
攻撃と防御を同時に行うべく生み出した魔法は分厚い風の層でありながらも、内側に入り込めば風刃により肉を切り裂かれる。
自身の風の魔法に乗って素早く移動を繰り返すペインレスは、遂にダガーを片手に抜いてジェイド目掛けて真っ直ぐに飛び込んできた。
直ぐに双方の起こす風同士がぶつかり合い、目の前に迫るペインレスが一度風の繭の中に囚われて足止めされているのが分かった。
動きさえ止めてしまえば後はズタズタに切り裂き痛めつけ、その辺に捨て置けば良い。そう思っていたジェイドの肩から、何故血が流れるのかジェイド自身が理解出来なかった。
「ぐっ……!」
「あーあ、外した……お前さあ、これはズリぃよ。でもさっすがジェイド! すげー強くなったんじゃん!!」
痛みにより霧散したジェイドの魔法のあった場所の中心で、ペインレスは全身血塗れになりながらも嬉しそうに笑う。
無邪気な笑顔は子供の時から何も変わらない。変わってしまったのはお前だけだと、思い知らされているような気分にジェイドは陥っていた。
双方白を基調とした法衣を着ている。
ジェイドの肩から流れる鮮血は白を鮮やかに染めているが、ペインレスは全身を風に嬲られた為に白地というよりは元々赤地の衣装だったような錯覚すら覚える。それ程に汚れてしまった。
彼自身、血塗れであるのだから回避された訳でもない。
凄まじい風の中、狙いなんか付けられそうにもない状況下でダガーのみを投擲された訳でもない。その証拠に、ダガーはペインレスの手の中で血に濡れて妖しく煌めいていた。
肩を裂かれただけで激痛と、熱を持つ肉の感覚に眉を寄せ膝をつくジェイドに対して、まるで何事もなかったかのように人懐っこい笑顔を浮かべるペインレス。
この場では、余りにも対照的だ。
安否を問うシャルロットの声が遠い。
これが儀式に成功した者の力。
これが、ジェイド達があんなにも焦がれていた者達の末路。
「“painless”……」
ジェイドは改めて、小さくその名を口にする。友だった男の新たな名を。
無痛の者。その名を冠するシュルクを造る“儀式”の成功例。
こんな物に自分達はなりたかったのか。こんな風に、扱われたかったのか。
儀式の成功例は余りにも少ない。
失敗した者は軒並み“女神の元へと旅立ち、ヘレネのお傍に仕える”事となる。
成功すればグランヘレネ皇国中の羨望の眼差しを受け、失敗すれば敬愛する女神の元へと行ける────そんな風に国民全員に意識を刷り込んでいった、ていのいい人体実験。
誰もこの可笑しさに気付かないのだ。この国にはもう、愚か者しかいない。滅んだって構わないだろう。
シュルクをシュルクとして扱わない儀式など神の名の下に繰り返すには、冒涜的過ぎて笑えない。
それでもジェイドは口元を歪ませて笑った。