88 潜入
そうして二日程過ごしていれば、ジェイドの腕の傷はほぼ完治するに至れた。
ゆっくりと過ごし睡眠時間も充分に確保出来た為に、体内の魔力量も申し分ない。
もうここにいる理由もなくなってしまった。
そろそろ作戦に移る時。ジェイドもシャルロットもそれを認識してはどちらから言うでもなく頷き合った。
因みに血で汚れた二人の服は、一応ジェイドが真夜中にこっそりと部屋で洗ってはみたが、落ちる汚れは落ちたが落ちない汚れはどうしようもなかった。
然しここで衣類を廃棄する訳にもいかないので、乾かした後にリュックサックの中へと再び押し込めた。
血の香り自体はリュックサックの奥に、大量の香草を詰めて誤魔化している。ジェイドが生み出したものだ。
深夜になる頃に宿を抜け、シャルロットを抱えて上空へと浮かび上がる。神官ともなろう者が風の魔法で空を飛んでいるなんて、地上で眠る人々が見たなら失神する者すら出るだろう。
もう腕は全く痛くない。その証拠に、シャルロットをしっかりとその腕に抱ける。
腕の中の少女が身を固くしているのが分かって、ジェイドは声を掛けた。
「緊張しているのか?」
「……しない訳、ないじゃないですか」
自分達が今からやろうとしている事を考えるならば、それもそうだとしか言えない。
今から土のヘリオドールを壊しに行くのだ。今度は、ヘリオドールの意志ではなく自分達の意志で。
サエス王国のヘリオドールを壊した直後の水害を考えると、土のヘリオドールを破壊した後にも必ず何かが起こる。
沢山の人が犠牲になる。そうすればグランヘレネ皇国も戦争どころではなくなるだろう。
サエス王国へ送り込んだ兵達への物資補給は止まり、戦争など続行出来なくなる。
無益な殺生を止めさせる為に、無益な殺生をするのか。
怪我をしたのが余計だった、とジェイドは顔を歪ませる。脳裏に宿屋の主人や、自分に相談事を持ち掛けてきたジュームの街の住人達の顔、それにメディの姿がチラつくのだ。
余計な情は仕事をやりにくくする。
出来れば関わり合いになりたくない者達だったと、心の底から思うのだ。
然し、しなくてはならないのだ。
彼らには選択肢はない。
ジェイドがやらなくてもヘリオドールがやるし、どちらがどのように手を下したとして総てはマリーナ女王からの命令だと、他人のせいにしてしまえる。
そのチャンスは今しかない。
だから、行くのだ。
空気の塊を踏み付けるかのような動作で、ジェイドは今度こそ皇都レネ・デュ・ミディを目指すのだった。
皇都からそんなにも距離のない街からの飛行は、大した時間も掛からず苦でもなかった。
眼下には周りの建物に負けず劣らずな純白の建物が見えた。真白い外壁には女神の歴史と偉大さを示すかのようなレリーフが彫られる、一際大きな建物。
あれこそが教皇の住まいし大聖堂。あそこに土のヘリオドールも安置されている。
さて、ここまで来たは良いがどのように侵入しよう。ここ数日、大聖堂の中の見取り図などが手に入らないかと探ってはいたが、流石になかった。当たり前だろう。
急がなければ、時間を置けば置く程自分達の首を絞める仕事ではある為急いでここまで来たが、ここから先は完全にノープラン。どこに土のヘリオドールがあるかすら分からないのだ。
「サエスのヘリオドールを壊した時って、どうやってたんだ? やったのはアイツなんだろう?」
アイツ、とはヘリオドールの事だ。
それにしても彼は何だって魔石の名前を名乗ろうなどと思ったのか。ややこしくて堪らない。
「ええと、……何か、多分魔法を使ってました。指でお絵描きをするみたいに、ナイフで切るような感じで窓硝子に穴を開けて中に入って行って……その後は、見てないです。すいません……」
シャルロットは一生懸命説明するが、見ていたのは侵入方法だけ。その先の事は外で待っていた為、全く分からない。
そもそもシャルロットも、まさか魔石を破壊しに侵入しただなんて思わなかったのだ。
折角ヘリオドールの念願である仕事の日なのだから、こういう時くらい交代してくれたって良いのに何故だか今日は出てくる気配がない。寝ているのだろうか。
今回ばかりはシャルロットを大聖堂の隅に置き去りにして、一人で侵入する訳にもいかない。
シスター服を着せているとはいえ、知らない顔が大聖堂の周辺をウロウロしていたら怪しまれてしまうだろう。
一緒にいる方が何だかんだいって安全だと踏んだジェイドは、ゆっくりと建物に近付き、巨大なステンドグラスの傍に寄ってみる。中を覗き込めば人影は見えない。否、人影らしきものは見えるが動きもしなければ、ステンドグラスの七色に照らされる肌は異様に浮いて見える。
立つ場所の事も考えて、それが女神の像だという事はすぐに分かった。
女神像にステンドグラスがあるという事は、ここは礼拝堂なのだろう。グランヘレネ皇国は深夜にも礼拝をするから、ここも余り安全とは言えないが使わない間は立ち入り禁止となる為、侵入するならばここしかない。
ジェイドは幼少期、大聖堂の中にはよく入った事がある。ジェイドのいた施設は皇都直営の孤児院だった為礼拝は大聖堂の中で行っていたからだ。
付き添いの神官がいた為、入口から礼拝堂の往復しか許されずに、他の部屋が何なのかも分からなかった。過去の記憶はアテにはならないという事だ。
もう一つだけ、別の部屋に通された記憶もある。儀式の日の記憶だ。
けれどあんなところに魔石を安置しているとは考え難いし、出来ればジェイドの中でも忘れたい記憶だ。どうやってその部屋まで行ったのか、前後の記憶が曖昧でもう二度と入る事は出来なさそうだった。
それで良い。もうあんな部屋、二度と入りたくはない。
取り敢えずはシャルロットの言った通りに侵入してみようと試みる。
「……ちゃんと掴まっててくれ」
窓に穴を開ける為には、どうしても片腕でシャルロットを支える羽目になる。落っことしてしまわないように気は配るが、なるべくならシャルロットにも協力して欲しい。
ぐっ、と強く服を握られるのを感じながらジェイドは改めてステンドグラスに指先を触れさせる。
シャルロットの話から、ヘリオドールがどのような魔法で硝子に穴を開けたのか何となく察する事が出来た。指先に炎の魔力を纏い、熱で硝子を焼き切るのだ。
適当に大きく円を描けば、簡単に二人分通れる穴が出来た。中に侵入し床に着地すれば、足元にくり抜かれた円形の硝子をそっと置いておく事にした。
沢山並べられた椅子に真白な女神の像。
壁に飾られる沢山の花と燭台。
射し込む月明かりはステンドグラスを通って、夜闇の中に鮮やかに色を付ける。
「……」
ジェイドは懐かしさに動けなくなってしまった。
十四年前と何も変わっていない。
自分達に色々と教育を施してくれた神官に連れられ、同じ施設の子供達と並んで祈りを捧げ、聖歌を紡いだ日々。
説教の最中にヒソヒソと子供同士でお喋りをして叱られたり、礼拝が終わった後大聖堂の外ではしゃいだりした子供の頃の思い出に足を絡め取られた。
「せん、──……せ、…………先生……!」
「っ!」
気付けばシャルロットが心配そうに顔を覗き込んでいた。声は張り上げられないから小声で声を掛け、代わりに肩を揺さぶっていたようだ。
ふと、懐かしさの海の中から戻ってきたジェイドの意識に少女は気付いてくれた。
「…………大丈夫、ですか?」
大丈夫だとも。
大丈夫でなくても、大丈夫だと頷かなければならない。こんなところで立ち止まる訳にはいかないのだ。