82 謝罪
小鳥の鳴き声が優しく耳に届く、早朝の爽やかな森林のド真ん中。
「────、」
花護りのかまくらは樹を巻き込んで建てられている為、頭上に多少の隙間がある。
そこから葉陰の合間を縫って瞼を優しく撫でる冬の陽光により、ジェイドは目覚めた。帰って来れた、とでも言うべきだろうか。
寝起きの頭はぼんやりとしていて、昨夜意識を失う間際の事などすっぽりと抜け落ちてしまったかのようだ。
膝元を見ればシャルロットが涙目で縋り付くようにして眠っていた。肩に掛けているマリーナから贈呈されたケープマントは血で汚れてしまっているのがよく分かる。
ずり落ちそうなそれを引き上げて掛け直してやろうと思って右腕を動かそうとするが、何かに阻まれているかのように僅かにすらも動かせない。そこで漸く、自分の腕が切断された挙句に固定されて全く動かせない事を思い出した。
それを見て今更取り乱したりする事もなく、ただ状況把握する為の一情報として認識するだけだ。
それならそれで良いと思えるだけの余裕はある。何せ彼にはまだ左腕が残されているのだから。左の手で緑色の布地を掴むと、弟子の身体を冷やさぬようにと引き上げた。
そこまでしてから、改めて昨夜の事を思い出そうと頭を捻る。
確か鳥のような仮面を被った少女が突然尋ねてきて、そして薬を────
そうだ、薬だ。
ジェイドは周囲を見渡すと、すぐ近くに小瓶を発見した。倒れてしまい中身は殆ど床材代わりの草花に吸われてしまっているが、まだ毒々しい濃緑が僅かに小瓶の中に残っている。
あれを飲んで気絶した事を思い出し、若干吐き気が込み上げて口元を手の甲で塞ぐ。舌を、咥内を満遍なく這いずり回り酷い臭いとエグみで蹂躙していく液体。出来ればもう二度と飲みたくない。
吐き気は唐突にやって来たが、ふと冷静に自分の体調を鑑みる。
右腕は確かに未だにジリジリと痛むし唐突に訪れた嘔吐感はあるものの、それ以外の不快感は綺麗さっぱりなくなっている。
薬効は確かにあった、そう言わざるを得ない結果である。
そうなると後は本当に腕が修復されるのを待つばかりになってしまった。
熱を下げる必要性がなくなった為、腕にだけ光属性の魔力が回せるようになったのは有難い事だ。きっと修復も早まる事だろう。
見た目こそ不気味な娘ではあったが、今度出逢えたら礼の一つでも言わなくては。
身体を治さなければいけない現状、まだまだ体力が追い付いてはこない。倦怠感に身を任せ、もう一眠りする事にした。
目を開くと再び、巨大きのこの据えられた広場の中にいた。
薬を飲んで気絶した時には来られず、かと言って腕を切断されて気絶した時には来れたこの場所は、一体どのような原理で視られる夢なのだろうか。
苔の上で身体を起こすと、ヘリオドールが自分に背を向け倒木の上に座り脚を組んで本を読んでいるのが見えた。
ジェイドは起き上がって周囲を確認する。身体は双方現在の大人の姿、腕は当たり前のように存在していた。
意固地になっていた理由が融けて消えた今では、腕のない方が不自然であるから。
昨夜の戦闘──果たして精神世界での出来事で戦闘と言い切ってしまって良いの甚だ疑問ではあるが──で抉れ破損した苔の地面など、何事もなかったかのように元通りだ。
「もう元気になったようで何よりです」
深い赤色の本の頁を捲る音と共に届くのは、穏やかなヘリオドールの声。
声は穏やかでもどんな顔をしているのか、どんな表情でいるのか、声だけでは判断出来ない。
「お陰様で……」
「そうですか。熱も下がったようで良かったです」
「…………心配をかけた」
ジェイドから謝罪の言葉が零れ落ちた事にヘリオドールは驚いたようで、勢い良く振り返る。
けれど表情に驚愕の色を浮かべていたのはほんの一瞬の出来事で、すぐに彼はいつもの何を考えているのか良く分からないような笑みを浮かべた。
ほんの一瞬でも、彼の顔に浮かんだ人らしい表情にジェイドは僅かに安堵する。
「心配はしましたとも。僕は貴方を護る為に存在しています。貴方という存在があるから、僕もまた存在出来るのです」
「自分の為に心配した、とでも言いたいのか? 良いよそれでも。……君が心配してくれたのも、君に心配を掛けたのも事実だからな」
昨夜のヘリオドールは、“ジェイド・アイスフォーゲル”の価値を護る為だと言わんばかりに主人格の座を狙っていたように見えてしまったが、今のジェイドはそのような穿った見方は避けている。
ジェイドだって自分の為に他人に良い顔をしてみせた事は今まで何度もあった。それも、一度や二度ではない。
ヘリオドールだけを詰るのはお門違いだと感じたのだ。それに、彼は自分だ。彼がそう思うようになってしまったのも、自分に責があるのだろうとすら思う。
真偽はさておきとして、だ。
「有難う、すまなかった」
立ち上がり、ジェイドは頭を下げた。
今ジェイドは心の底から素直な気持ちでいられる。
自分がヘリオドールや他人の言葉の裏側の意味を探ってしまうかのように、この言葉もどう取られても構わないと思えた。
エゴではあるが、まずは感謝と謝罪の言葉を述べない事には何も伝えられないと思ったのだ。
リーンフェルトとの戦闘の傷を癒そうと処置をしてくれたのもヘリオドールだし、その間シャルロットが危険な目に合わないようにかまくらの建造をしてくれたのもヘリオドールだ。
その何もかもに対して、ジェイドは不貞腐れるだけで何一つ感謝の気持ちを伝えていなかったのだから。
昨夜の戦闘だって、蹴られても殴られても本当は文句も言えない立場だったのだ。
「────」
ヘリオドールが何かを呟いたような気がしたのだが、頭を下げているジェイドには聞き取りにくかった。
ゆっくりと顔を上げると、彼は今まで見た事もないような穏やかな表情をしていた。
自分と同じ顔の筈だ。なのにどうしてそんな、鏡ですらも見た事もないような慈悲深い顔が出来るのだ。
「……僕こそ有難う、ジェイド。こちらへおいでなさい、紅茶をいれましょう」
礼を言われるような事は何一つない筈なのだが、そこをつつくのも今は野暮だろう。
夢の世界の茶は夢であっても現実のものと同じ味がする。彼らは和解の末に暫しの休息と談笑を楽しむのだった。
次に目を覚ましたのは昼半ばの頃だった。
重たい瞼を開けると暇を持て余したシャルロットがストレッチをしていた。
「あ、先生大丈夫ですか……!?」
目が合った途端に彼女は運動する事を止めて、飛びかからんばかりに喰らい付いてくる。
「あのお薬飲んでから今まで全く目覚めませんでしたから……も、もう二度と目覚めないのかと……!」
「人聞きの悪い事を言うんじゃない! 俺を勝手に殺すな!」
「こ、殺してはいませんよ……! 心音も呼吸も確認はしました! でも一生目を覚まさないんじゃないかなって思うじゃないですか!!」
「どう解釈したらそうなるんだ!」
何故自分は今、胸倉を掴まれているのだろう。そして彼女は何故わざわざ怪我人の胸倉を掴むのだろう。前髪を掴まれたりしないだけマシなのだろうか。
ジェイドはシャルロットにツッコミながらも、頭の中の冷静な部分でそう考える。
冷静さに任せてそのまま視線を逸らし、ぽつりと小さく呟いた。
「…………まあ、君にも心配と迷惑をかけたよ。すまなかった、有難うな」
シャルロットを奪われない為に戦闘したというのにこの醜態である。結果として奪われなかったのだからオーライと言うべきなのかもしれないけれど。
少女の返答を待っているというのに、帰ってきたのは柔らかな衝撃だった。シャルロットに抱きつかれたのだ。
「私こそすいませんでした……お姉ちゃんを止められなくって……」
「それは……別に。もう良いよ、終わった事だ」
そもそも先に恨みを買ったのは自分だし、戦闘する毎に煽ったのも自分だ。報いではあるだろう。
けれど、もうその報いも腕という代償で払ったのだから再度噛み付かれるのはご勘弁願いたいものである。
第一に、再び相見える事がなければそれで良い。そう思っていてこんな場所で再び出会ったのだから、運命とは分からないものである。
二度ある事は三度あるとも言う。では運命の悪戯により再び出会ってしまった時にはどうしたら良いだろう。
彼女に魔法を吸われてしまう前に不意打ちを狙って仕留めるか、何か策がありそうだったヘリオドールに交代するか。
どちらもシャルロットを悲しませる結果にしかならなそうだ。答えの出ない悩みに振り回されたって仕方がない。今は腕を治す事が先決だ。
ちらりと右腕の状態を見れば水晶の向こう側、破れた服の繊維の隙間から痛々しい大きな傷が見えた。赤黒く、水晶の一部にまで色を付けてしまっている。
余りの生々しさと自分の身体ではないかのような状況に、ジェイドは慌てて目を背ける。あれは本当に治るのだろうか。
疑っても仕方がない。今はヘリオドールを信じて身体を休めるしかないのだから。
視界に入れて現実を認識してしまうと、何だかじくじくとしていた痛みが更に強くなった気がしてジェイドは眉を顰めた。
「……あ、先生。私何か食べられるものを探して参りますけれど。怪我を治すのにはまず、栄養を付けなければ……!」
そんな師匠の顔色を見てシャルロットは立ち上がる。
ジェイドが寝ている間、外に出られないシャルロットはマリーナから賜った食料をかまくらの中で少しずつ消費して過ごしていた。
ジェイドの分には手を付けなかったものの、かと言ってあの質素なメニューでは魔力の消費が激しいジェイドを満たす事は出来ないだろう。栄養面から見てもだ。
故に彼女は立ち上がる。今こそ師の役に立つ時だろうと。