8 内なる闇
「シャルロット、あそこの屋台で俺の分と君の分で何か飲み物買っておいで。金はやるから」
ジェイドは親指で銀貨を一枚弾いてから、手の中に握り締める。そうしてから指先で摘み、シャルロットへと差し出す。
酔いは醒めたようにも思えるが、まだ少し胸焼けしている気がする。少し冷たい飲み物でスッキリしたかったのだ。
「畏まりましたっ」
少女は元気良く返事をして銀貨を受け取り、屋台へと駆け出す。ここらでは少し珍しいタピオカジュースの屋台だ。人気があるのだろう、長蛇の列の最後尾目指してシャルロットは走り出した。
シャルロットが豆粒のように小さくなる程に離れた頃に、ジェイドはしゃがみ込み建物の壁に凭れたまま深く溜息を吐いた。
ほぼ押し切られる形で先生なんかやらされる事になってしまったが、本当に大丈夫なのだろうか。きっともっと、彼女の望む“先生”に相応しい魔術師は沢山いるのだ。そもそも自分は再三言うが魔術師ではないし。
先行きが不安で溜息ばかりが唇を抜ける。
その時。
「きゃあああっ!」
「うわ、何アレ……死体?」
「魔物だ! 魔物の死体だってさ!」
魔物なんか討伐を生業としていなければ、それこそ襲われるという危機的状況でなければお目にかかれる者は限られてくる。
目の前を交差していた人の群れが一斉に物珍しさに惹かれて、道の向こう側へと移動してしまう。死体でなら危険ではないから、という判断なのだろうが死体に群がる人々という状況もまた酷いものである。
シャルロットのいた屋台からも何人か列を抜けてしまい、結果として列は少しだけ短くなった。
こうして人は一時的にジェイドの前から消えていく。別に魔物を珍しいと思わなかったり、そもそも興味ない者などは死体につられたりはしなかったが、それでも大多数は人集りの方へと行ってしまった。
勿論ジェイドもシャルロットも魔物には慣れていたから、今更そんなものにつられる事もなくその場に留まっていた。シャルロットに至っては、魔物よりも目の前のタピオカジュースの方が魅力的だったからに過ぎないのだが。
遠巻きに人集りを我関せずで眺めるジェイドの凭れる、建物の影。
路地裏へと続く道からうぞ、と何か動いて這い回る。
それはジェイドの傷ついたブーツにそうっと伸び、気付かないように絡み付き。
「……っ!?」
そこから全身に“何か”が絡み付き口を塞がれ、路地裏へと引きずり込まれるまで本当にほんの一瞬だった。
「先生、お待たせしま…………アレ?」
シャルロットが両手に飲み物を持って戻ってくる頃には、路地裏にさえ人影はなかった。
何か話し声がする。
そう思ってジェイドは薄らと目を開けた。
古ぼけた小屋の床に自分は寝転がっているようだ。
ご丁寧に手足は縛られていて、更に首にはネックレスか首輪かのような器具が下げられていた。雷のオリクトでも使われているのだろうか、全身が痺れて動けない。
「何で男の方連れてきたんだよぉ!」
「知らねーよ! 土のオリクトに言えよ!!」
視界の先に二人分の靴が見える。
どうやら二人は向かい合って揉めているようだった。
成程、とジェイドは思っていた。先程の“何か”は土のオリクトから精製された植物の蔦だったようだ。
脚──恐らく腕にも同じ物があるのだろうが、後ろ手にされている為見えない──を封じているものが植物の太い蔦である事に漸く納得がいった。
オリクト二つとも、土の物は目の前にないし雷の物は首から下げられていてなかなか視界には入らない為詳細は不明だが高価そうで、とてもじゃないが目の前の二人が買える代物とは思えなかった。
そんなふうに一人思案しているジェイドに、二人の男のうち一人が気付いた。
「起きたかい兄ちゃん。いやあ、悪いなぁ……本当は女の子の方を拐う予定だったんだが、こいつが土のオリクトを割るタイミングを見誤ってよ」
「だーかーらー! お前がヘルハウンドの死体を人前に放り出すタイミングにも問題があったっつってんだろ!!」
二人はどうやら人違いでジェイドを誘拐してしまったようだ。なら、とジェイドは痺れて気怠いながらも口を開く。
「……なら、解放してくれても良いんじゃないか?」
「そうはいかねえよ」
男のうち体格のいい方がジェイドの前にしゃがみ込み、彼のきちんと纏められた髪の結び目を強引に掴んで床から上体を引き離させる。
「ヘルハウンドの餓鬼は成犬になりかけ。人の言う事は聞かずに売りモンにならなくて“廃棄”しちまったし、“偶然”手に入れたオリクトは一個駄目にしちまってる訳。
そんで、そのオリクト使って手に入れたかった“新商品”はお目当ての奴とは全然違う訳だ。昨日から踏んだり蹴ったりで、お前さんにゃきちんと稼いでもらわなきゃ困るんだよ」
「“偶然”じゃなくて盗みが上手くいったんだけどな!」
もう一人が茶化すように笑う。
この二人がヘルハウンド達を怒らせたという事は、嫌でも理解した。シャルロットに嘘を吐いて手伝わせ、昨夜の騒動を起こした張本人達なのだ。
それだけでは飽き足らず、今度はシャルロットを捕まえて奴隷として売ろうとでも言うのだろう。
昨夜連れていかなかったのはヘルハウンドの子供が手に入ったから。金のアテがあったからだ。
然しそれも売れるような代物ではなかった。だから殺めてせめて新たな金のアテであるシャルロットを手に入れる為に、人の目に触れるような場所に野晒しにしたのだ。
結果はこのザマだが。
そもそもこの二人はよく自分を商品として取り扱う気になったなと、ジェイドはある意味感心していた。
昨夜の戦闘を見ていなかったのだろうか。それとも姿までは、夜闇のせいで上手く確認出来なかったのかもしれない。
たかがオリクト二つでどうにか出来ると見誤られている事実に落胆し、ジェイドは呆れたようなゴミを見るような目で男を見つめた。
目の前の男は明らかに表情に苛立ちを募らせてジェイドの胸倉を掴み髪を握っていた方の手を拳に変えて、振り上げる。
「何だぁ? その目は……」
「わーっ! 待てよ待て待て! 顔に傷付けたら値が下がるだろ!!」
慌てて傍らで見ていたもう一人、パッとしない容貌の男が振り上がった拳を掴んで抑え込む。
成人男性とはいえ、そのテの需要は一定数ある。例えば王族や貴族の中でも殊更趣味の悪い女性ならば男を“飼う”事も珍しくはない。特にジェイドの目は上半分が紫、下半分が緑という珍しい色をしている。それだけでも値打ちはあるのだ。
拳を掴まれた男は溜息を吐くと、一旦腕を下げ立ち上がる。然し。
「顔じゃなきゃ良いんだ、なっ!」
重い一撃。
ジェイドの腹部に思いきり男の脚先が打ち込まれたのだ。
「ッが、……は……!」
突然の激痛に目を見開いて、咄嗟に詰まるような呼吸を吐き出す。
腹部に力をこめようにも痺れて力は入らない。せめて震えながら床に丸まるようにして縮こまるだけだ。
今朝食べた物を戻しかけて、……──耐えた。
然し、次はどうだろうか。
「……程々にしとけよ」
もう一人の呑気な声。
顔を傷付ける事がないならば、止める道理もないとでも言わんばかりの態度。
それからは一方的な暴行だった。
呻き声と打撃音。
それが無意味に、暗がりの小屋の中に響き渡る。
「泣いたり喚いたりしねぇんだな? つまんねーなぁ」
「……ぐ、っ…………ぅ……」
漸く蹴る脚が動きを止めた。彼も疲れたのだろう。
ジェイドは暫く身を固くし荒い呼吸を繰り返し、逃せる分の痛みを何とか逃すと、口の中に広がる血と唾液の混じるものを床に吐くだけで後は口を閉ざした。
嘔吐だけは耐えた。これ以上こんな外道共の前で恥を晒してなるものか。
どうせ首に下がっているのは、チラチラと見えるがサイズ的にも恐らくBランクのオリクトだ。本格的に魔力を封じる道具ではない。割れれば消えてしまうのだ。
ジェイドは先程からわざとオリクトに魔力を使わせて、空になって割れるのを待っていた。
使用者は目の前の二人のどちらかではあるが、触れているのはジェイドだ。膨大な魔力を以てオリクト内部の魔力を狂わせ“使用者”を誤魔化して破裂を誘う。そうして普通に使えば一年は持つBランクのオリクトを、即時ゴミにするべく電流を強めに流させていた。今のジェイドにはそれくらいしか出来ないでいたし、そもそも蹴られすぎて頭が朦朧とする。
雷のオリクトに魔力を使わせれば使わせる程、電圧が上がるのか身体に激痛が走るのももどかしい。
兎に角割れてしまえばこちらのもの。オリクトはいずれ必ず割れるのだ。
だから彼は酷く焦る事はしなかった。
どれだけ蹴られようともまるで小汚い物を見るような、いっそ憐れむような目は止めない。
それが再び男を逆上させる。
「コイツ……!」
頭に血が昇ったまま、男は再び爪先を振り抜いた。そのせいで目測を誤ったようだ。
ジェイドが蹴りに備えて少し身じろいだのもいけなかった。爪先は顔の横を掠める。
それは構わなかった。然し、そのせいでジェイドの乱れた髪に埋もれるように隠れていた右耳のピアスが外れ、床に落ちる。
黒曜石のようなシンプルなデザインの、小さな丸いピアスだ。それを見た瞬間、ジェイドは男達の前で初めて声を荒らげる。
「! ……早くそれを拾って付けてくれ!!」
「あぁ?」
男達はその言葉に顔を見合わせ、可笑しそうにゲラゲラと笑うだけ。
「何だこりゃ、彼女からのプレゼントか何かかぁ? Eのオリクトみてぇにちっちゃくてショボいな。
こんな思い出の品に縋るようじゃいけねぇよ、これからアンタは人として扱われなくなるんだからな」
そういいながらジェイドを蹴っていた男はその足で、ピアスを踏み潰──そうとして、その脚を掴まれた。
「あ?」
ピアス周りに色濃く落ちる不可思議な影。否、タールのような液体。もしくは霧のような何か。
黒い腕が無数に、ピアスの周りに生えて男の足を、足首を、脹ら脛を、やがて膝や太股にまで手を伸ばして掴み、拘束していた。
「ひっ!?」
「何だよこれ…何だよこれェ!!」
もう一人の男も恐慌状態に陥っていた。木製で簡素な部屋の中は全くの別世界になっていた。
真っ黒な床に紫色に発光する毒々しい魔法陣。天井から、壁から生える黒い植物や蔦。
まるで夜の森の中だ。それにしても月も星も瞬かない。
そこに最初から暮らしていたかのように人や、生き物の影が見える。影と表現するには厭に立体的、それでいて表面がぬるりとしていた。その表面の顔であろう部分に切れ込みが入る。
ぐぱり、と開いたそこからは目や口が覗いた。然し位置が出鱈目だ。覗く粘膜は真っ赤で悍ましい肉色をしていた。皆一様にそこからボソボソと何かを囁いている。
ゆらりゆらりと陽炎のように揺れながら群れを作り、男二人を宴のように囲む。人の形は兎も角、生き物の──獣の形に男達は見覚えがあった。
暗い森の箱の中に、異形の影がひしめく。
「君達のせいで命を落とした者達だ」
床に転がったまま二人を見つめるジェイドが、ボソリと呟く。
床に寝ているというのに床からの魔法陣の発光で目がなかなか開けられないが、薄目でも現状は理解出来る。
“いつもこう”だからだ。
ジェイドの言葉を聞き、理解した者達は青い顔を一層青くする。
つまり、彼らが囁いている言葉は呪詛なのだ。彼らが直接手を下したのではなくとも、彼らが原因で死んでいった者達の嘆き。
二人が家に入り込み盗みを働いたせいで生活が出来なくなり働く事もままならず、餓死していった老人。
ストレスの捌け口として暴行され、内臓を損傷し数日かけてじわじわと死んでいった物乞いの少女。
そして、昨夜のヘルハウンド達。
これは、怨みの宴だ。
「……せめてすぐに死ねるように祈ったらどうだ」
ジェイドの言葉は尤もだ。
彼らにはもう、祈るしか選択肢は残されていない。