79 仮面の少女
争いは拮抗し勝敗がなかなか付かず、二人は徐々に息が上がってきた。
いつも余裕ぶっているヘリオドールすらも呼吸が乱れるというのだから、自分の腕もなかなか悪くはないのかもしれないと、こんな風に己の立場を奪われそうになってから気付く皮肉にジェイドは笑う。
身体はお互いに所々傷だらけ。だけれど双方回復魔法が使える為、傷付いた端から治していき新たに傷を作るという泥試合と化していた。
「……は、ッ……どうした、流石に慣れない動きばかりで疲れてきたんじゃないのか?」
「……ふふ、貴方こそ……回復魔法は使う癖に腕は治さないなんて意固地にも程がありませんか? 子供じゃあるまいし……」
ジェイドの右腕は未だそのまま。血は止まったが、生々しい白い骨と桜色の肉を覗かせているのをケープで隠す状態である。
魔法はいつも通り使える。普段は余り得意ではない回復魔法でさえ今日は調子良く使える。意識の奥底だから、なのだろう。
だから腕を取り戻そうと思えば今すぐにでも取り戻せる事も、彼は薄々分かっている。けれどもそれをしないのは────
『あ、あなた……誰ですか……!』
「……?」
「!」
不意に空から頭上から、シャルロットの焦ったような声が響いた。
ジェイドは不思議そうな顔で上を見上げ、ヘリオドールは驚いたように目を見開く。
「今の……シャルロットの声か?」
「誰かが傍に来た……? ジェイド、申し訳ありませんが貴方と遊んでいる場合ではなくなってしまいました。ちょっと表の様子を見て参ります」
「何が起こってるんだ」
ヘリオドールの慌てる姿を珍しく思いながらも、ジェイドは不安感を募らせて尋ねる。
そもそも彼は外が、シャルロットが今どのような状況であるのかも分からないのだ。
「林の中に身を隠していたのですが、シャルロットの反応から察するに誰かが来てしまったのでしょう……追い払えそうなら追い払って参ります」
「……待て、それなら俺が出る」
上空を見上げたままのヘリオドールは、目の前のもう一人の自分の発言に僅かに驚く。
「貴方の身体は腕を治す為、固定させて頂いております。ろくに動けはしないんですよ。…………それに、そんなに脆い精神状態では役立たずです。下がっていて頂きたい」
キツい言い方ではあるが、今はこれが最善だと思う。キッパリと言い切ってから、視線を天井からジェイドへと向ける。
「………………え、……あれ?」
そこには既に、ジェイドの姿はなかった。
シャルロットは震えながら蔦と白い小さな花に埋め尽くされた壁をじっと見ていた。そこが何度も何度も、しつこくノックされるのだ。
ヘリオドールが眠りに落ちてから二時間程経った頃である。
草花の張り巡らされた水晶の壁が定期的に叩かれ、遂に少女は堪らず声を張り上げた。
ノックされる、という事は知能のない魔物の類ではない。シュルクか、それと同等の知能の持ち主だ。
最初こそ無視をしていたが、向こうは中に人がいる事を分かっていてノックしてきているのだろう。二十分も無機質な音が続く頃には、シャルロットは痺れを切らして叫んでいた。
壁一枚隔てた向こう側に、正体の分からない誰かがいる。
草花のカーテンをそうっと捲ってしまえばきっと相手がどのような姿をしているのか分かるのだが、それはこちらの姿をも曝け出す事になる。そうする勇気はシャルロットにはなかった。
ここは敵地、グランヘレネ皇国である。少女の胸の内は緊張感にいっぱいいっぱいになり今にも張り裂けそうだ。一人でジェイドの眠りを護るには、余りにも心細かった。
出入り口がなくて本当に良かった。
もし、このシェルターが相手の侵入を簡単に許してしまうような作りだったならどうなっていた事か。
相手の姿が見えない恐怖は少女の妄想を加速させる。壁一枚向こう側に佇む者は、シャルロットの中では既に巨悪の化け物に育っていた。
「シャルロット…………」
壁ばかりを睨み付けていた少女は、背後から声を掛けられた事により驚いて振り返る。
掠れていても聞き間違う筈もない、その声は。
「……先生!? お、起きて大丈夫なんですか……?」
「だい、じょうぶじゃないけれど……こんな状況で君を一人にしておけるか……」
ジェイドは自分の右腕を見下ろし納得した。右半身は水晶に包まれ身体ごと樹に固定され、動く事すらままならない。
仮に動かせたとしても、右腕はまだ完治には程遠い状態なのだろう。ジンジンと痛む、という表現が甘いと感じる程の激痛が纒わり付く。
水晶の中に閉じ込められた右腕がそこに存在する状態で痛む為、これが癒着しかけているものなのか断面の傷の痛みなのか、はたまた幻肢痛であるのか分からない。
ヘリオドールと相対したきのこの間では痛みなど全くなかったというのに。これが自分の身に降り掛かった現実かと思うと、苦痛を通り越して笑えてくる。
兎に角今まで経験した事のないような、焼けた鉄棒で滅多刺しにしたかの如く痛む右腕は余り視界に入れないようにしよう。
自分の身体が熱を持っているのが分かる。視界は霞み、真冬であるのに汗が止まらない。
シャルロットもジェイドが酷く汗をかいていた事に気付いてはいたが、かまくらの中に共に閉じ込められてしまえばどうしてやる事も出来なかった。せめて、荷物の中からタオルを出して額を拭ってやる程度が精一杯だった。
例え閉じ込められていなくとも、この土地では医者に診せる事も出来やしないのだけれど。
今は腕をどうこうするよりも、まずは冷やす事が先決だろう。
そうと決まれば自分の周囲に魔法で冷風を呼び込んだ。
周囲が涼しくなれば多少落ち着いて状況を確認出来る。
ジェイドが風の冷たさに苦痛を紛らわせるを待っていたかのようなタイミングで、再度外からノックをされた。
「……そこにいるのは誰だ」
ジェイドはしっかりとした声音で、壁一枚隔てた向こう側の人物へと声を掛ける。
「……」
返事はない。
強行突破で水晶壁を叩き割って来ない辺りその為の力がないのか、様子見のつもりか。
けれど、返事もしないのであれば何も進展はしない。こちらが出て来るのを敢えて待つ姿勢であるのか。
確かに現在ジェイド達は袋の鼠であるが、同時にこの時間を回復に充てられる。
向こうが何時間、何日壁の向こうに居座るつもりかは知らないが回復しきってしまえば、かまくらの外で相手と対面をしても余程の事でなければ負ける事はないだろう。
そう、負ける筈ないのだ。
リーンフェルトとの戦闘は運が悪かっただけだ。発した魔法を吸収するなんて、普通は有り得ない。
彼女のような能力を有する者がこの世界に何人もいて堪るか。
では、この場にやって来たのがリーンフェルトだったなら。恐ろしい考えに思考が飛躍するが、すぐにそれは有り得ないだろうと首を振る。
彼女はもう既に自分に勝っている。あのお喋りで騒がしい女が自分達の居場所を見つけあまつさえ声を掛けられ、黙っている訳がない。
恐らく嬉々として漸く見つけただのトドメをどうのこうのだのと言ってくるに違いないし、何より“今この状況”が彼女ではない事を証明している。
この建造物だって魔法で生み出した物なのだからノックだなんてまどろっこしい事などせずに、あの時と同じように吸い取ってしまえば良いのだ。
なのにそれをしないという事は、リーンフェルトが追い掛けてきた訳ではないという事。
それに、例えリーンフェルトであろうとも今度こそ負けられない。彼女以外の誰がやって来たとしたって負けられないのだ。
自分が負ければシャルロットが困ってしまうし、何よりヘリオドールが自分の立場を取って代わるという。
それは何だか、面白くないように思えてきたのだ。
何がどうして面白くないように思えるのかは、今はさておき。
「…………」
ひた、と左手で床に触れる。
するとジェイドの掌に呑み込まれていくように、草花が一気に消滅していく。
こちらの存在はバレているのだから、せめて相手の顔くらいは拝んでやろうではないか。
身を隠す為の草花さえなければ、このシェルターはただの硝子の半球のようなものである。
床から、天井から夜の森の中に剥き出しになり、上に浮かんでいた光球の温もりがいよいよ外へと溢れ出す。
光に照らされた三人分の影。一つはジェイドのもの、一つはシャルロットのもの。
もう一つは、見知らぬ少女のものだった。
「君は……誰だ」
少女の背丈はシャルロットよりも低い。百四十もあるだろうか。見た目はとても幼く思える。
そんな身の丈に合わせたかのような、桃色のワンピースが愛らしい。フリルをふんだんに使った服は、まるで王族か貴族の息女であるかのよう。
右手には沢山の赤い花が入ったバスケットを持ち、左腕にはテディベアのぬいぐるみを抱えていた。
ドレスに合わせたデザインのリボンとフリルがたっぷりあしらわれたボンネットから零れる、パールホワイトの癖っ毛が愛らしい。
顔さえ見えれば、の話だが。
彼女は顔を隠していた。
まるで鳥の頭骨を模したかのような仮面を被り、その瞳の色すら伺えない。不気味な少女だった。
ジェイドが問い掛けても返事はやはり帰ってこない。
そもそもこんな幼子が、真夜中の森林の中に一人でいる事自体がおかしいのだ。もし捨て子だと言うならば、己の置かれた境遇に泣いて喚くのが常であろう。
それに、グランヘレネ皇国は捨て子を収容する施設だけは他国に比べて有り余る程に多い。わざわざ森林の中に捨てに来る親などいる筈もない。
顔を見てやろうと思ったのに、これではこちらばかりが顔を晒した事になる。
全く最近悉く、何もかも上手くいかない事にジェイドは頭を悩ませる暇すらない。