77 試練
重々しく身体を水晶に包まれる男は、まるで武装でもしているかのようだ。尚もこんなに殺気を出せる彼に対してシャルロットは脅えた。
その恐怖心を察知したヘリオドールは、表情を弛めて少女を安心させるかのように笑みを浮かべる。笑ってはいるけれど、目は笑ってはいない。
シャルロットは彼の宣告を否定する事も拒否する事も出来る立場ではなかった。
ヘリオドールの殺意を窘めるという事は、次また同じような事があった場合姉にジェイドを殺されてしまう可能性も受け入れるという事のように思えたのだ。
けれど、ヘリオドールを止めないと今度はリーンフェルトが殺される可能性がある。よもやどうしたらいいというのか。シャルロットには二人のどちらかを選ぶ事など到底出来ない。
「…………ま、そんな事が起きなければ……良いだけの話です。僕は少し休みます、ね」
ヘリオドールはそう言うと目を閉じた。途端に、彼が背を預ける樹や離れて佇むシャルロットすらも包み込み、地面から広がるように水晶璧が展開されていく。
それは見る間にここ数日の内ですっかり馴染みとなった花籠もりのかまくらへと変貌した。
一ついつもと違うところがあるとすれば、ヘリオドールがその場から動く事を諦めてしまっている為にどうしても背後の樹からは離れられず、かまくらから一本の樹が生えたような形状になってしまった事だろうか。
今日のかまくらには僅かな隙間こそあれど、出入り口らしい穴は見当たらない。
敵兵に見付かる可能性もあるし、林の中に住まう魔物に襲われる可能性だってある。夜中なのでどちらかというとヘレネの兵よりも夜行性の魔物の方が、今は危惧すべき存在か。
そんな中にシャルロットを見張りとして放り出せる訳もないので、ならばと強度の高い水晶の中に篭城する事に決めた。
どうせ腕の接合が済むまで数日は動けないのだ、シャルロットまで閉じ込めてしまうのは申し訳ないが眠っている間に何かあってはいけない。ヘリオドールは、今ではこれが得策に思えた。
それよりも、瞼がもう上がらない。ジェイドの身体が睡眠を欲しているのは嫌でも分かった。
彼はそのまま気を失うように眠りに落ちるのだった。
どうせ眠るのならば、ジェイドの様子でも見に行こう。夢の世界で彼は目を覚ます。
ヘリオドールは薄明るく発光する巨大きのこに凭れて座っている。地面はふかふかとした苔庭だ。
右腕は存在していた。痛みもなく、自由に動く。
ここは精神の世界──ヘリオドールの、世界。彼の思い通りに何事もつつがなく上手くいくのは当たり前である。
いつもと変わらぬ自分の居場所の存在に、少しだけ心に落ち着きを取り戻す。
ゆっくりと立ち上がり周囲を見渡すと、もう一人の自分の存在を視界の端に捉える事が出来た。
透明な水を湛え、花を浮かべる沼にジェイドは立っていた。前にここを訪れた時とは違う、大人の姿でこちらに背を向けていた。
その右腕はない。止めどなく血液を沼に零しているが、その血は沼の水に触れるとその中に溶け込むように透明へと変化していった。
先程、目覚めてシャルロットと会話する前と何ら変わりのない状況である。
「……ジェイド、暇ではありませんでしたか? ここにある本、好きに読んでて良かったんですよ?」
ヘリオドールは笑顔で、この広場をぐるりと囲む背の高い樹々の洞を指差す。
そこに詰められた本は今までジェイドが生きてきた中で読んだ書籍や、ヘリオドールが書き留めた日記のようなものまで様々だ。
サエスの王城の一室にて、ジェイドと交わした交換日記もある。数百の本の中で、それをピンポイントで探せるのはこの場ではヘリオドールだけだけれど。
「……………………この腕じゃ、捲れないから」
ぼそりと返ってきた言葉は重く、低い。
確かに片腕だけで本を読むというのは、慣れてない内は大変だろう。配慮が足りない発言であった。
ヘリオドールは飄々とした態度で言葉を返す。
「ここは僕の部屋ですが貴方の為の世界でもあります。望めば腕なんてすぐに戻って来ますよ」
現実世界の怪我も早く治す為にはジェイドの協力も不可欠である。こんなにもやる気のなく、治す意志が死んでいる状況では治るものも治らない。
まずはこの夢の世界でだけでも、心穏やかに過ごして欲しいものではあるのだが。
「腕なんか…………あったって……俺に敗北があるならば、望む意味なんかない」
一筋縄ではいかない事も想定済みだ。
落ち込みいじけるジェイドの面倒臭さもヘリオドールは良く理解しているつもりでいた。自分は彼で、彼は自分だからだ。
ジェイドの人格をベースに生まれ、シャルロットの存在で目覚めたヘリオドールは言わば二人を両親のように、否、それ以上に愛していた。
ならば放っておかずに声を掛けるのもまた、愛の為せる所業。面倒臭い事に立ち向かうヘリオドールのしつこさもまた、伊達ではない。
「敗北については僕も歯痒く思っておりますよ、でも対策方法も思い付きました。次同じような事があれば僕にお任せ下さい、確実に殺してみせましょう」
「…………」
喜ぶと思ったのに無視である。
然しヘリオドールはめげない。
「あ、そうそう腕の事ですけれど。僕が接合出来るように上手い事色々としておきましたので、余りお気に為さらず。何れは元通りになりましょう」
ジェイドの腕の断面から落ちる血液はまるで涙のよう。若しくは、彼の生きる活力そのものなのか。
痛々しくて見ていられないのだが、ここでは無理に手当てをしたって意味がない。彼の心を治さぬ事には何も進まないのだ。
「それに……片腕だけで宜しいのですか? ジェイドがしないなら、シャルロットを抱き締める役目は僕が仰せつかいますけれど」
数秒の間を置いてジェイドが初めてこちらへと振り返った。まさかそれで反応するとは、少しばかり驚きである。
「そうだ、君に一つ聞きたかったんだった……」
腕は失ったまま、血を流しながらも、まるで痛みなど感じていないかのように瞳に怒りを燃やして、ざぶざぶと沼の水を蹴散らしながら出てくる。夢の中なので、実際痛くはないのかもしれないけれど。
今日は双方大人の姿、目線は一緒だ。
ずい、と顔を近付け睨みつけるジェイドに対して、ヘリオドールは笑顔のまま。
「何でしょう」
「シャルロットにあげたあの……チョーカー? ネックレス? 兎に角あのアクセサリーは何だ」
「可愛いでしょう?」
「見た目に関しては聞いていない、どういうつもりであげたんだ」
ジェイドが告げるのは、ここ最近シャルロットの首を飾るチョーカーの事だ。自分と同じ瞳の色を持つ、紫色と緑色の入り混じる石のアクセサリー。
出処はヘリオドールと言うのだから、何となく落ち着かない。何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
詰め寄られた男は暫し思案するように視線を巡らせ、こてん、と首を傾げる。
ジェイドから見れば二十四にもなる成人男性がやる仕草なので、可愛くも何ともない。どちらかというと腹が立つ。
「どう、と申されましても……今後必要になると思いましたので差し上げた次第です」
「必要になるって? どういった理由で」
「…………万が一の為です。その万が一が起こらなければ使う事もないでしょうし、そう考えれば必要性も理由もないのですけれど。強いて言うなら彼女の為、とでも言いましょうか」
そう。出来れば使わない事が望ましい。けれど、ここは敵地であるのだからなるべくなら賭けられる保険は多い方が良いのだ。
ジェイドを見れば納得したのか否か、眉間に皺を寄せて難しそうな顔をしていた。
「……自分よりも先に身に付けられるようなプレゼントをあげてしまった僕に嫉妬したって、素直に言えば宜しい」
「嫉妬なんかしてないだろ!!」
小さく囁くようなヘリオドールの言葉に、ジェイドはあからさまに顔を真っ赤にして噛み付くように怒鳴る。彼の右腕からは呼応するように血が噴き出してしまう。
何だかそれがヘリオドールにとっては余りにも面白く愉快であるもののように思えて、ニヤニヤと笑うのが治まらない。
「嗚呼、元気がいっぱいで宜しいですね。ほら、貴方にはもうシャルロットという弟子の存在があり、それが価値となっているじゃありませんか。自分の中に価値が見い出せないのならば、価値など外注してしまいましょう」
「……シャルロットが価値、だと」
「そうですとも、そもそも貴方は僕が選んだのです。無価値などとはこれ以上言わせません」
ジェイドは再び考え込む。噴き出す血もぴたりと治まった。服は赤く染まっているのに、苔の地面は何故か汚れていないのだから不思議なものである。
思い出すのはリーンフェルトの言葉だ。
シャルロットには釣り合わない、という言葉の意味。
文字通り、そのままの意味なのだろう。全く以てその通りだと思う。グランヘレネ皇国からサエス王国へと移されてから、否、そもそも産まれた時からだ。そう思わざるを得ない生き方をしてきた。否定する余地すらない。
他人に己の価値を擦り付けたところで、その他人がいなくなってしまえばやはり自分に残るものは何もなくなってしまうのだ。
汚い生き方を続け友人や家族を傍に置かず、独りで生きてきた男が生きる術であった、誰にも負けないと思っていた魔法すらも負けるならば、もうその手には何も残らない。
何も残らないようにしてきたのは、自分じゃないか。
じっと自分の左手を眺めるジェイドを見て、ヘリオドールは溜息を吐いた。これは荒療治が必要かもしれない、と。
「ねぇ、ジェイド。乗り越えてみましょうか」
「……………………何を」
「自分を」
言っている意味が分からない。
そう言おうとして顔を上げたジェイドの視界の端に、何かが入り込む。それを咄嗟に左腕でガードするが、凄まじい勢いと重さに耐え切れず木々の密集して出来た壁へと吹き飛ばされ、叩き付けられる。
「ぐう、ぅ……ッ!」
一瞬ジェイドは何が起こったのか分からなかったが、打ち付けて痛む背中を庇いながらも何とか起き上がり、ヘリオドールを見ればその構えから現状を何とか認識出来た。右脚を、軽く地面から上げて爽やかに笑っている。
蹴られたのだ。ただ、それだけだ。
一体何のつもりなのか、ジェイドには全く理解出来なかった。