74 再会
真冬の大海原の上を高速で飛行する影が二人分。高度は出していない。
太陽の光を受けてキラキラと輝く海は、冬である事を忘れさせる。
カルトス大陸を南下している為か、気温が少しずつ上がっていっている事も原因の一つだ。海上では雪すら降らず、ジェイドが掛ける温熱の魔法も徐々に弱めていっても問題ない程の気温である。
途中に島もなく、休憩所代わりのボートを造る魔力も惜しい。この時間を早く終わらせる事を目的として、ジェイドは朝から休みなく飛び続けていた。
もうとっくに昼は過ぎている。
シャルロットは抱えられるだけで何も出来ないので、軽々しく休む事を提案する事も出来ない。午前中に一度言ったが、上記の理由を述べられてしまえば無理に休憩を頼める立場にはない事を思い知らされてしまう。勿論これはジェイドを想っての提案なのだけれど。
それでも、半ば強引に移動を続けた甲斐があってか陽が沈む前にはヴィオール大陸の輪郭が薄らと見えてきた。もうあそこは敵地になる。気を引き締めねばならない。
「先生、そういえば」
「んー?」
「グランヘレネに着いたら……本当にフードを被るだけで大丈夫なんでしょうか。その、あまり人に見付からないルートとかご存知ないんです?」
これはグランヘレネ皇国に入る前には決めておかなければならない事だ。
海上での移動中にジェイドが暇潰しにポツポツと語っていたのだが、どうやらグランヘレネ皇国はヴィオール大陸南西寄りに位置するらしい。つまり、皇国に入るまでに余り距離の猶予もないという事だ。
「あのなぁ……当時十歳の子供が、誰も知らない秘密の抜け道とか知ってる訳ないだろ」
「あら、そういうのは子供だから知ってるものですよ。私だって小さい時、秘密の抜け道を冒険したり秘密基地を作ったりしたものです」
「じゃあもうその抜け道は小さ過ぎて通れないな。子供の時の話だろ? まあ、取り敢えず今はまだ余り警戒しなくても大丈夫さ。グランヘレネの兵は国の西側から出てきてるだろうから……見付からないように大回りして南西側から入るし。問題は皇国への入り方、だしなぁ……」
念には念を入れて、既に二人共フードを目深に被ってはいる。ジェイドの故郷でもある為、やはり知り合いに見付かるのが一番宜しくない。
大回りするという事は今視界の遠くに大陸の姿は見えつつあるが、未だその地に足を踏み入れないという事である。陽が落ちるまでに身を隠せる場所まで辿り着けるだろうか。
今いる位置から向かって左側が皇国のある方向だが、そちら側から入るとサエスへ向かう敵兵と衝突する可能性がある為、敢えて右側、少し距離を稼いで南西側に降り立ち一晩森の中かどこかで身を隠す事にしたのだ。
心配するシャルロットを余所に、ジェイドが進路を変える。右側、ではなく左側。グランヘレネ皇国側へと真っ直ぐ向かい始めた。不思議に思って少女は顔を上げる。
「先生、方向こちらであってらっしゃいますか? あっちに一回降りるって仰ってませんでしたっけ」
指を差して示す方向は、確かにジェイドが行きたがっていた方角だ。それを彼は否定する。
「ですがこちらにも一応身を隠せる山林は御座いますし、遠回りになるよりもこうする方が…………よりヘレネへと逢うのが早くなる。そうは思いませんか?」
「貴方は……」
まさかこんな大事な時に出てくるとは。余りにも自由過ぎるヘリオドールの腕の中で、シャルロットは暴れ始める。
「降ろせと思うのは勝手ですが、真冬の海は例え南であろうとも多少冷たいかと。泳いで渡りますか?」
そう言われて漸く下が海である事を思い出し、じっと身を固くする。
「宜しい」
そんなシャルロットの様子に彼は満足そうに笑う。少女にとってはちっとも良い事など一つすらもないのだが、今は彼に従っていないと気分次第で両腕を離されてしまうやもしれない。
最近彼の気分で不意打ちのように切り替わって現れる事が増えてきている気がする。その分、ジェイドが夜に寝られているのだけれど。
「この時間って先生は内側から私達の事を見てるんですか?」
「いいえ? 眠っているか……内側で休憩しているか、ですかね」
シャルロットはジェイドの視る夢の内容を知らないから休憩、と言われてもピンと来ない。
ジェイドとヘリオドールが初めて顔を合わせた、巨大きのこの広場の事だ。あの場をヘリオドールは“内側”と呼んでいる。
最近ではジェイドと交代する際、彼も好きに使用出来るようにしていた。
そうこう会話をしている内に海岸が見えてきてしまった。陽が落ちる前に大陸に辿り着けたのは良い事のように思えるが、ヴィオール大陸南西側に降りる筈が北側に降りる羽目になってしまった事を後にジェイドにどう説明しようかと、シャルロットは頭を悩ませる。
一応確かに海岸林も見えるので、身を隠す事は出来なくもないだろう。
問題は、ここまでヘレネの兵が来ないかどうかという事。
「では、そろそろ交代しますね」
「えっ!?」
「ご機嫌よう」
一瞬、シャルロットを抱く腕から力が抜け──すぐに慌てて抱え直された。お互いにヒヤッとした。
「せ、先生……? お帰りなさいませ」
「……た、ただいま」
ジェイドは急に眠りから叩き起された感覚に目を瞬かせている。前情報もなく唐突に交代され、気が付けば目の前には降りられそうな海岸があるのだから頭が追い付いていないのだ。
状況を理解していなさそうな師を前にして、シャルロットが慌てて説明をする。
「あ、っと……ヘリオドール様がですね、近いからって迂回せずに皇国側の海岸を目指してしまいまして……」
「はあ? ……ったく、何考えてるんだ」
今から南西側へと戻ろうか。否、そうして陽が落ち、ヘレネ兵とかち合ったりする方が不本意だ。こうなれば今度は戻る時間が惜しい。
考えた結果ここに降りるしかなく海岸上まで緩やかな速度で飛行すると、不意に頭上から声を掛けられた。
凛とした女性の声だ。
「そこの二人、止まりなさい。サエス側から飛んできたように見えたけど、あちら側の者かしら?」
目の前に広がる木の高さに阻まれて視界が悪かったのがいけなかった。こんなにも他者の接近を許していたなんて。
ジェイドとシャルロットは聞き覚えのある声に、同時にお互いの顔を確認した。視線がかち合うと、咄嗟にシャルロットはジェイドのフードを深く被れるように引っ張り、自分のフードも正す。
「見た所、旅人という訳ではなさそうですね。それに随分高価そうな物を身に着けているようですし……」
彼女の言っているのはシャルロットのケープマントの事だろう。
一流品の卸したて。王族御用達の生地を王族御用達の糸で縫い合わせた物の新品だ。
価値が分かる者には分かってしまう。
ジェイドはこの状況を打開するには“逃げる”という線が妥当に思えた。
こんな所で派手に戦闘などやって、他のヘレネの兵に嗅ぎ付けられても厄介だ。土のヘリオドールを破壊する為に魔力はなるべく温存しておきたいし、それでなくても大陸間の移動でかなりの魔力を消費してしまったのだ。
海上でちょくちょくシャルロットに、飴玉を口に放り込んで貰っていたけれど昼食すらろくに食べていない。無駄な戦闘は回避したいと思ったのだ。
急速に加速し砂を巻き上げ、一気に海岸沿いの砂浜を東へと進もうと思ったところで、目の前に炎の壁が現れた。
相手は────シャルロットの姉、リーンフェルトは自分達を逃がさないつもりなのだと悟る。
無意味な気もするが、ここは敢えて無力な者の振りでもしてみようか。
「お待ち下さい、僕らはただの旅人です。サエスではなく、マディナムントから参りました」
位置的にここはヴィオール北側、何方かと言えばマディナムント帝国も近いように思える。これで騙されてくれれば良いのだが、世の中そう甘くはないものだ。
「そんな下手な嘘はつかない事ですね。こんな外れた場所をわざわざ通る者などいませんよ」
内心舌打ちが漏れる。
「差し当たり間者……いえ暗殺者でしょうか」
惜しい。半分当たりで半分外れだ。
自分達は確かに殺す。この国の女神を。
信仰、そのものを。
「あ、暗殺なんて企ててません! 私達は本当にただの旅人で……!」
シャルロットが何とかして誤魔化そうとするが、それは余りにも愚策であったらしい。
「そんなに慌てなくても良いですよ、シャルロット。私が貴女の声を聞き間違えるとでも思ったのかしら?」
バレた。
ジェイドは目を閉じ深く溜息を吐き、シャルロットは両手を合わせてそんな師に懸命に心の中で謝罪を繰り返した。
もう顔が見えても構わないと言わんばかりに、ジェイドは顔を上げて空中に佇むリーンフェルトを見上げる。
相変わらずキツそうな顔立ちだが関節を外した腕は治ったようだ。内心安心したような、もう暫くあのままで良かったのにと思わなくもないような、妙な気持ちにさせられる。
彼女の傍らにはカインローズもいた。見てるだけなら何とかしてくれよと言いたくなる所をグッと我慢する。
あと、カインローズの他に何やら黒い蜥蜴のぬいぐるみのような生き物も浮いている。アレはなんだろうか。
兎に角この空気を何とかしたいと思い、敢えて軽口を叩く事にした。
「……久し振りだな。グランヘレネへは何しに? 旅行かな?」
「貴方の話など聞いていません。シャルを置いて立ち去りなさい」
一刀両断。然も聞き捨てならない事を言われた気がする。
「すまないな、シャルロットを置いて行く事も立ち去る事も出来そうにない。俺達にはちょっとここに用事があるんだ」
シャルロットを抱く腕に自然と力が入る。
「これ以上は無駄ですね」
お互い譲れないものがあるのなら、やはり戦うしかないらしい。幸い、周囲には他のヘレネ兵の影はない。早期に決着をつけてしまうのが望ましいだろう。
ジェイドはリーンフェルトを見据えたまま後方にゆっくりと飛ぶと、砂地にシャルロットを降ろした。
「ちょっと話を付けてくるから。ここで待っててくれ」
深く頷く弟子の姿を見て、その場を離れる。
リーンフェルトは明らかに臨戦態勢だ。シャルロットに危害がないよう、戦闘には空中を選択する。
砂地から離れ、彼女と同じ空の舞台へ。
「私はもうあの時の私ではありません……借りは返させて貰います」
「借りっぱなしで構わないのに。律儀な事で」
一度痛め付けたのにまだ懲りていないのは、根性があるというべきか愚かと言うべきか。
今度こそ、ぐうの音も出ない程に叩き潰してやらなければ彼女は分からないようだ。
「妹は返して貰うわ。今度こそ負けない!」
リーンフェルトの咆哮を合図に、火蓋は切って落とされた。