72 遠い過去の記憶
アンデッドの群れの上空をも突っ切ってしまえば後に乗り越えるものは眼前に広がる氷山であり、ジェイドとシャルロットはその麓で一夜明かす事にした。
昼間とは違い暗がりの中でその姿を不気味な影の色に染める氷の塊は、近くで見るとその大きさに圧倒させられる。
カルトス大陸の山一つを飲み込む津波を、更に飲み込む大津波が来るだろうと予見されていたのだ。こんな高さの津波がもしサエス王国を襲ったなら、人が住める地は欠片程も喪われていた事だろう。
真冬の氷山の麓だと、そこにいるだけで身を切るような寒さを感じるだろう。感じないのは、ジェイドの魔力と女王から渡されたケープのお陰だとシャルロットは考える。
土と霜の入り混じる、平原と氷山の境界から二人は空を覆う程の大きさのそれを見上げた。
「じゃあ寝床でも作るか……離れてくれ」
ジェイドは漸くシャルロットをその腕から降ろした。師の言葉に少し距離を取る少女は見守る姿勢で彼の挙動を眺める。
彼はまず、トントンと靴底で地面を叩く。すると叩かれた場所から透明な液体のようなものが溢れだし、見る見るうちに広がりかなり大きな水溜りになった。
それが液体でない事はすぐに分かった。波紋を作る事もなく、ジェイドがその上を歩くからだ。彼のブーツの底が鳴らす硬質な足音を聞いて、それが液体ではなく固体である事を認識させる。
薄くはない厚さの透明な一枚硝子が彼の足元に広がっている、とでも言えば良いのか。それはある程度まで広がると、今度は縁が空へと向かって伸びだした。徐々に伸びていく透明度の高い水のような壁は最終的にドーム状になっていった。
水晶で作られたかまくらだ。傍から見ても相当広い。
シャルロットはジェイドの創作物をただ黙って見ていたが、すぐにかまくらの中央に立っていた筈のジェイドの姿は見えなくなっていく。
先程と同じように、彼の足元から壁へと今度は大量の草花の蔦が伸びていくのだ。床にも壁にも這わされる白い小さな花混じりの植物は、水晶で出来たかまくらの内側にしっかりと貼り付いている。
周りには誰もいないとはいえ、だだっ広い草原を見渡せる状態で眠るのは確かに少々落ち着かない。
それでも景色を楽しむ為かはたまた見張り用か、天井のほんの一部分は植物に包まれないままだ。剥き出しの水晶壁が雪月の夜を隠さずにいてくれる。
中が見えなくなってしまうかまくらの入口や天井、植物達の隙間から暖色の光が漏れだした。それが気になり、シャルロットは入口まで近寄ると屈んで中を覗き込んだ。
天井付近に光球が浮いていて、そこから熱と光が零れ落ちかまくらの中を温めてくれるのだ。草花の匂いで満たされた温かいそこは、宛ら真冬の温室である。
「こんな感じでどうだろうか」
「す、凄いです!」
背の高いジェイドが立っても天井に頭をぶつける事のない高さはある。シャルロットは入口を潜って花の絨毯の上に立つと花弁を散らしながらぴょんぴょんと飛び跳ねて賞賛した。
植物に満ちた床は無理矢理掘り返さないと水晶の床は見えない。底から冷えるかと思ってもいたのに、それもないようでなかなか快適だ。
マリーナから貰った食べ物でささやかな夕食をとる。かまくらの中心部は草花がなく、水晶の床が剥き出しである為調理場として利用出来る。
硬すぎるクラッカー型の乾パンはジェイドが水魔法と火の魔法で作ったお湯で軟化させ、塩漬け肉も軽く炙る。二つの珈琲の瓶も両手で包めば熱の魔法で瓶を割らない程度に少しずつじわじわと温める事が出来た。
シャルロットが逐一手伝うと騒がしかったが、彼女にやらせるとなると魔法も使えない為火起こし器を作る所から始まってしまう。大昔、まだ魔法の使い方を理解していなかった原初のシュルク達が知恵を絞って作り出した古代の道具は、今でもたまに火属性の魔力を持たないシュルクの子供達が遊びで作る事もある。
実に歴史を感じる風流なものではあるが、その歴史は是非別の日に感じたいという事でジェイドはやんわりと断った。
味の濃すぎる塩漬け肉が乗った微妙な食感のクラッカー。対比するように味の薄い珈琲。
「……悪くはないですね!」
微妙すぎるシャルロットのフォロー。
「いや、悪いと思うぞ。まあでも想定内の味なだけマシだ」
それを一刀両断するジェイド。
今までサエス王国で金に物を言わせて好きな物や高級品ばかりを口にしてきた彼からすればとてもではないが食事と言えるような物には思えなかったが、現状から鑑みれば食べれるだけ上々である。
侘しい食卓は早々に切り上げ、明日に向けて床に就く事にした。
天井の光球は僅かに光量を落とす。
かまくら内をオレンジ色に染めていた光は、彩度をブラウンへと変える。
それぞれが羽織っていた外套を毛布代わりに包まり、それぞれ背を向けて横になる。
横になった途端に、シャルロットが話し始めた。
「そう言えば先生」
「寝なさい」
「グランヘレネ皇国から、どうしてサエス王国に来られたんですか?」
背を向けたまま注意するジェイドの言葉を無視して、質問をぶつける。
「その、土のヘリオドールを壊す事に躊躇などは……」
「ないぞ」
「……。水のヘリオドールを壊した後、その……国中大変な事になったじゃありませんか。もし、破壊した後にグランヘレネ皇国でもあのような事が起これば……向こうにいる先生のお知り合いなども無事では……」
「いないぞ、そんな奴」
少女の疑問に躊躇なく切り返される言葉達。シャルロットが黙った事について漸く寝られる時間を得た筈だが、このまま寝ても寝覚めが悪くなりそうでジェイドは渋々起き上がった。
少女の方に向き直り座るジェイドの気配に、この話を始めた当の本人も気付いて起き上がる。
「あのなぁ……何を心配してるんだ? 俺らはサエス王国から派遣された工作員みたいなものだろう。向こうは敵兵、それ以外の事は考えるな。シュルクが住んでる国だと思って行くなんて以ての外だからな」
「……グランヘレネ皇国の方々だってシュルクでしょう?」
「まさか! 魔物にも劣るぞ。あんな連中をシュルクだなんてシュルクに失礼だ」
一つ咳払いをしてから、ジェイドはゆっくりと語る。
「グランヘレネ皇国は狂信者達の国だ。土の女神ヘレネを至高とし、他国の……特に水の国サエスと、風の国マディナムントを敵視している。奴らの信仰する女神は悪神であると」
「……アルガスやアシュタリアは宜しいのですか?」
「そこは良いんじゃないか? 聖典にもクラスティアやレヴィンが悪く書かれていた事はないな。俺がいた頃とは時代が変わって改訂されていたりしたら分からないが」
シャルロットはいつの間にかポシェットから分厚い手帳を取り出し、万年筆で熱心にメモを取り始めた。勤勉な事である。
正直そこまでする話でもないのにと思いながら、ジェイドは続ける。
「だから、風や水の魔力しか持たずに産まれてきた者は女神の祝福を受けられなかった者として、産まれてすぐに親に棄てられるんだ。大体は教会に預けられ、司祭やシスターの元で教育を受ける。中には教会暮らしに嫌気がさして逃げ出す者もいた。……結局女神の祝福を得られなかったシュルクを雇う所はグランヘレネにはないから、盗人や犯罪者になる者ばかりだったけれど」
メモを取るシャルロットの手は止まる。確かヘリオドールはジェイドを元孤児だと言っていた。
けれど、今の話だとジェイドが孤児になる、教会に預けられてしまう理由がない。彼は全属性の魔力を保持しているのだから。
その疑問はすぐに覆される事となる。
「……俺は産まれた時、風と闇、土の魔力を持っていた。それしか持ってなかった筈なんだ」
「ど、どういう事でしょう……?」
驚き立ち上がりかけるシャルロットを、彼は片手で制する。そもそも立ち上がる程の話でもないと本人は思っていた。
「まあ黙って続きを聞いてくれ。……風の魔力に、他の国でも忌み嫌われる闇の魔力。これだけなら教会云々は関係なしに、産まれてすぐに忌み子として処分されてもおかしくはなかった。俺の場合、闇の魔力のコントロールも出来てなくて……まあ、産まれたての赤ん坊に魔力コントロールが出来る筈もないんだが……兎に角、赤子の時から死人は出さなかったものの、結構な数の怪我人を出してしまう程だったそうだ。…………けれど、幸か不幸か俺は女神の祝福も受けていた」
今まさに、その女神の祝福である土の魔力を使って作った水晶製のかまくらの中にいる。不思議な因果だ。
因みに今現在も闇の魔力については全くコントロールが出来ていないのにも関わらず、歳を重ねる毎にその力が凶暴性を増していっている事は、一旦頭から忘れてしまう事がお互いにとって幸せだろう。
「そもそも三属性扱えるシュルクも早々いないからな、処分するのも惜しいと思ったんだろう。俺は教会に連れられ、すぐに闇の魔力を封じるピアスを与えられた。……本来王族しか持たない魔封具を、わざわざただの一人の子供の為に司祭様が申請して貸し出し許可を得て下さったんだ。だからまあ、…………これ、レンタル品なんだよな」
ふと当時を懐かしむように笑いながら、そっと右耳のピアスに触れるがすぐに手を離す。外れてしまったら大変だ。
そして、手を離すと同時にシャルロットの魔法が扱えないという悩みを根底から覆し兼ねない話をあっけらかんとしてしまう。
「俺の記憶が正しければ、総ての属性を扱えるようになったのは……十歳になってからだな」
年月が経てば、或いは何かしらの方法に則れば。使えなかった属性の魔法が使えるようになる。
この話が本当ならば、魔法や魔力の価値すらも揺るがすとんでもない事だ。