69 彼女への贈り物
ジェイドかヘリオドールか。どちらが女王にグランヘレネの魔石の破壊を願わせたかなんて、彼が眠りに就いてしまった今ではもう分かりはしない。
あれから三日経った。
じきに彼も魔力を回復させ、起きて来る頃だろう。津波の進行を阻む為に使った魔力量に比例するかのように、彼は三日の内に一度たりとも目覚める事はなかった。
時折シャルロットが部屋に様子を見に行っても常にベッドの上で安らかに寝息を立て、食事をねだる事もない。
余りにも穏やかなその表情が、今の外の現状と反比例するかのようだ。建物はどれもボロボロ、寒空の下に人々は放り出され、そんな国に攻め入るアンデッドの兵隊達。
けれどジェイドにとっては漸く手に入れた、何にも心配する事なく眠れる時間なのだと思うと何とも言えなくなる。彼がオリクトの破壊衝動に怯えて夜を共に過ごす相手を探しに行く背を見送ったのが、遠い過去の事のように思えた。
良く眠る師の世話をする必要がないシャルロットはその間出立の準備をしたり、城内で片付けや炊き出しの手伝いをしたりして過ごしていた。
三日振りに見た彼は、当たり前だが三日前と特に代わり映えしない様子だった。
起きて来るのを部屋の前で待っていたシャルロットと扉を開けた途端に目が合うと、彼は穏やかに笑い挨拶をする。
ジェイドが眠ってから起きるまでの間に女王が集められた兵力は城の兵士と騎士団、周辺の街の自警団や駐屯兵、冒険者など掻き集めるだけ掻き集めて、凡そ二千である。
大国サエスで二千人の兵など、普段ならば余りにも少ない方ではあるが災害が連続して発生した今となっては致し方ない数字である。
それでも行かなければ、易々とサエスの土地にアンデッド達を踏み込ませてしまう事になる。国民を護るのが王の務めなのだ。
城を起つ前に二人は謁見の間へと通される。挨拶もそこそこに、シャルロットはマリーナから一つ衣類を授けられた。
「これは……」
「ジェイドの外套を真似て作らせた物だ。城内はそこそこ暖かいとはいえ、外に出れば真冬ぞ。女子が身体を冷やしてはならぬ」
たったの三日で城の針子を総動員し丁寧に縫わせたケープ型のマントだ。
去年使っていたコートはギルドの仕事をしている内にすぐ駄目になってしまった為、春先に泣く泣く捨てた事をシャルロットは思い出す。
多少ジェイドの物とデザインが違うが、殆ど形は一緒である。シャルロットのリボンやワンピースに合わせて深い緑色の布を使わせたそれは、糸に至るまで王族御用達の一級品だ。
裏地は何らかの動物の毛皮が使われ、更に金の糸で魔法陣が刺繍されていた。
「サエス北部に巣食っていたダイアウルフの長の毛皮に、氷の精霊ジャックフロストの溶けた後の水溜りに浸けて紡いだ糸で刺した刺繍陣よ。寒い地域では暖かく、暑い地域では涼しく過ごせる。妾からの選別だ、持って行くが良い」
「こ、こんな高価な物頂く訳には……っ」
「何だ、貴様まさかとは思うが……妾に恥をかかせる気ではあるまいな?」
断ろうとするシャルロットを女王は深海のような深い色合いの瞳で睨み付ける。
美しく気高い女に見下されれば少女は忽ち萎縮してしまい、すぐさま首を左右に振ると深々と頭を下げる。
「あ、有難く頂戴致します……っ」
そんなシャルロットの様子にマリーナは漸く満足げに微笑むのだった。
「では往くぞ皆の者! 死者を弄するヘレネの蛮族共の血でリーヴェの川を満たすのだ!!」
城下に響く鬨の声。
アイスブルーのドレスの上からハーフプレートメイルで武装し、青毛の馬に跨るマリーナが装飾の美しい剣を振り上げれば、周囲の兵達が沸き立つように声を上げる。
ジェイドとシャルロットは後方にある物資を詰んだ薄暗い馬車の中にいた。それぞれ木箱に腰掛けている。
周囲はサエスの兵に囲まれている為、何かあればすぐに分かる。
二人共、三ヶ月前に愛用していた衣類を身に付けていた。シャルロットは先程女王から承ったばかりの、卸したてのケープを羽織っている。
恐らくもうサエス王国には滅多な事では帰って来ないだろう。これは事実上の釈放である。現時点では国外追放とも言える。
マリーナは、ジェイド──ヘリオドールの目的が魔石の破壊である事を察している。それは水のヘリオドールだけに留まらない事もだ。
ならば釈放した所で、裏切って逃げ出すような事もないだろうと踏んだのだ。彼が真っ直ぐ南へ下る事を彼女は知っている。
ジェイドは相変わらず深々とフードを被ってはいたが、口の中で飴をカラコロと転がしている為起きてはいるようだった。
馬の蹄の音が耳に届く。どうやら戦場へ向けて歩み始めたようだ。
戦線予定地へと着けば、ジェイドとシャルロットはマリーナ率いるサエスの軍隊とは別行動となる。
大回りをしてでもアンデッド達の目を掻い潜り南の氷壁を超えて潰されてしまった港町へ向かい、グランヘレネ皇国のあるヴィオール大陸へと渡る。
港町が件の津波に飲まれてしまっていれば勿論船などもない筈だが、そこはジェイドが魔力で何とかするとマリーナに伝えた。もしもの時の為のオリクトもいくつか拝借している。
特に会話もない幌馬車の中で、シャルロットは恐る恐る不安そうに口を開いた。
「……上手く行くのでしょうか」
土のヘリオドールを壊すだなんて。
水のヘリオドールを壊した時とは訳が違う。あの時はシャルロットも訳の分からないままに魔石は壊れてしまったけれど、今回はしっかりと意思を持って破壊の手助けをするのだ。
その罪深さに少女は震える。
上手くいかなければサエスは滅んでしまうだろう。けれど、神の魔石を傷付けるなんて恐ろしい事を本当にしても良いのだろうか。少女の心は揺れていた。
「ねぇ、ヘリオドール様。……聞こえているのでしょう? 最初からこうなる事が分かっていたのですか?」
不安からシャルロットは自分から、あのいけ好かない男の名を呼んだ。ジェイドだった者は数度瞬きをした後に、フードを降ろして微笑む。
呆気ない程簡単に切り替わってしまった。
嗚呼、この顔だ。何を考えているか分からないその表情。いけ好かない。
「……最近、いつでも出て来るようになりましたね。ヘリオドール様」
「ええ、お陰様で。ジェイドからも許可を頂いておりますしね」
「先生が……?」
そんなの嘘だ。そう言いたい所だが、きっと自分よりも彼の方がどうしたってジェイドに近しい場所にいるのだろうと、シャルロットはひしひしと肌で感じてしまうものだから、悔しい気持ちを抱きながらも特に声を荒らげるような真似も出来ない。
ジェイドの本心に一番近い場所にいるのはヘリオドールだと、多重人格である事以外に根拠がないのに、多重人格であるが故にそう思ってしまうのだ。
ぐっと言葉を飲み込んでしまうと、軽々とジェイドと人格を交代したヘリオドールは彼女の心境も素知らぬ顔で言うのだ。
「……まぁ、水のヘリオドールが崩壊したのならその国のシュルク達が他の国のヘリオドールを煩わしく感じるのは致し方ない事ですし、自分達と同じ道を進ませようとするのなら確実に魔石を壊せる者を送り込むのは妥当ですよねぇ……例えば、僕とか」
そうして木箱の上で脚を組み換える男は、ふと思い出したように手を叩く。
「あ、そうだシャルロット」
「……何でしょうか」
「そんな怖い顔為さらないで下さいな。先程陛下から羽織物を頂いたでしょう? 似合ってますね。……僕からもプレゼントがあるのです」
彼のやり方の狡猾さを本人の口から聞いた事で何て返答したら良いのか考えあぐねている少女は、明らかに素っ気ない態度だ。
けれど彼は気にしない。さらりと息を吐くように彼女の格好を褒めてみせると、ヘリオドールは掌を上にした右手をシャルロットの前に突き出す。
一度緩く握り、ゆっくりと開くとその手には大きめの飴玉よりも一回り程大きく、けれどBランクのオリクト程ではない大きさの石があった。丸い宝石のようなその石の色には見覚えがあった。
半分が紫、半分が緑色。彼らの瞳の色だ。
これも魔法だろうか。流石のシャルロットも興味深げに彼の手の中を見つめてしまう。
「これをね、……そうですねぇ、こうしましょうか」
ふわり、と浮いたその石はシャルロットの胸元へとひとりでにやって来る。
どうしたら良いのかと固まっている少女にはお構いなしに、石の頭頂部が銀色の金属に包み込まれ、まるで飴細工のように綿密な銀のレースで飾り付けられる。
ペンダントトップのようになったそれとシャルロットの首を結びつけるようにきらきらと金色の光が泳ぐ。
数度の明滅の後、いつの間にか何かの皮を細く切って紐状にしたようなものが現れる。その紐により、石がシャルロットの首にチョーカーのように下がるのだった。
「なん、……ですかこれっ」
「あ、それ外さないで貰いたいです」
首に二巻き程された紐に早速手を掛け引きちぎろうとするシャルロットを、ヘリオドールはやんわりと制する。
「僕らはこれから敵地へと乗り込むのですよ。……それはきっとシャルロットの役に立つ筈ですから。外さないで下さいね」
そう言われてしまうと簡単に引き千切る事も出来やしない。シャルロットはじっと胸元の石に視線を落とす。
よくよく見ると、ジェイドと同じ不可思議な色に透き通る石は何だか綺麗で。銀色の金属部分はわざわざヘリオドールがデザインしてくれたのだと思うと無下にも出来なくなってしまった。
結果としてシャルロットは溜息を吐きながらも、マントの襟元の中にその石をしっかりと隠すのだった。