67 戦の狼煙
城の窓から見える外の世界は最悪と言わざるを得ない有様だった。城を魔法で支えねば崩壊していたかのような強い揺れが、三度も立て続けに来たのだ。
夜の内は強い光芒を放つ魔法陣や突如として現れた氷山に意識と目を奪われていて、ジェイドと言えども暗がりの街を気に出来る程ではなかった。けれど、夜が明ければ自然と見えてくるものもあった。
昨夜ジェイドとシャルロットを寝室へと帰した後、マリーナ率いるサエスの兵は深夜の街へと繰り出し人々の救助に当たっていたのだろう。
城の中のいくつかの部屋、普段はパーティーなどに使われているであろう豪奢な内装の部屋の中には着の身着のまま、寝巻きのような姿のエストリアルの民が多数いた。
ジェイドが掃除を手伝っている最中、すれ違った城女中が鍋と沢山の器の乗った荷台を押して入っていく部屋があった。その中の様相が隙間から見えてしまったのだ。
皆一様に疲れきった顔をしていた。寝巻きのような姿なのは当たり前だろう。そもそも、ような、と言うよりもあれは間違いなく寝間着だ。地震は夜に来たのだから。
エストリアルの街並みはすっかり変わってしまった。崩れていない建物を探す事の何と簡単な事か。瓦礫の山の中で倒壊しておらずに佇むその建物は、“生き残り”という表現が余りにも相応しい。ギルドや教会などは強度が高いようで、大きく崩れているような事もなかったようだ。
ジェイドとシャルロットは外に出る事を許されていないからどうにもしてやれないのだが、崩れた建物に挟まれたり下敷きになったりした怪我人は多く、救助活動の為に城から人手が忙しなく出たり入ったりしている。
城の中のいくつもの部屋は怪我人の為に開かれ、炊き出しにシェフ達も延々と働いているようだ。
その中で呑気に城の中の掃除をしていて許されるのかという疑問も湧き上がるが、避難民の拠点となるべき城内が足の踏み場もない程滅茶苦茶である訳にもいかない。手当てや食事の配給作業に支障を来たしてもいけない。
怪我人を探し、運び込む作業は城の騎士団や兵士など体力の高い者達に任せ、基本城の中で作業をしている従者やメイド、シェフなどはそれをサポートするかのように立ち回る。それぞれが出来る事を最大限にやる事、というのがマリーナの采配だ。
そのように皆が懸命に働き、やがて夜が訪れた。
夜間の救助活動は光や火のオリクトを使えば出来ない事もないが、光のオリクトは怪我人の治療に使われ、火のオリクトは避難民や怪我人の身体を温める為に使われる。何よりジェイドとシャルロット以外の者達は夜中から働き詰めであった為、休む時間も必要だ。
マリーナの指示で日没と共に、一旦救助活動は終了した。そうして各々身体を休める──休められる、筈だった。
「た、大変です陛下ッ!」
突如としてマリーナのいる執務室の扉がノックも無しに開け放たれる。一人の兵が転がり込むように入室してきたのだ。
昨夜の出来事を彷彿とさせる入室の仕方に、また何かあったのかと女王は溜息を吐いた。けれど地震は来てないし、よもや昨夜程の悲劇はそう起こらないだろう。
それよりも、漸く一度切り上げようと思っていた所に邪魔が入って流石の女王も苛立ちの表情を浮かべるのだった。
「一体今度は何だ! くだらぬ事であれば許さぬぞ!!」
女王はノックも無しに入って来る程の不敬を働く兵の気持ちをもっと鑑みるべきであったのだ。
彼は物見の塔で引き続き交代で見張りをしていた者の一人であった。兵は乱れた息を整える時間も惜しいと言わん程に姿勢を正し、声を張り上げる。
「ご、ご報告致します! 昨夜の大津波の方角から……て、敵兵が! 無数の敵兵が攻めてきておりますッ!!」
「何だと……」
マリーナは兵に連れられて再び物見の塔へと舞い戻る。
普段物見塔には光と水のオリクトを使われた望遠鏡が存在しているが、こんなにも大事になる事が今までなかった為に部屋の隅で埃を被っていた。
けれど、今回の大津波で暫く遠方への監視は重要になるという見解になり、昼間の内に磨かれ新しいオリクトを嵌め込まれ、使用が徹底されるようになった。
Bランク以上のオリクトを二種類も使う為、資材不足のサエス王国には少々痛い消耗品ではあるが迫る危険をいち早く察知出来るのであれば安い出費だとマリーナは考えたのだ。
光と水の魔力を使用し遠方の遠方、それこそ拡大調整すれば平原を超えて氷山の足元までくっきりと見えるような、文字通りサエスの末端まで見渡せる望遠鏡を女王は覗き込む。
その視界に映り込む悪夢の名への形容の仕方を、女王は知らない。
サエス王国から遠く向こう、南の氷壁の上を無数の竜が翼を広げて羽撃ち、こちらへと向かって飛来して来るではないか。日も沈む紅の空に浮かぶ黒い影の群れは、他の形容詞など浮かばずとも素直に悪夢としか言いようがないのかもしれない。
翼竜達の真下の氷山では、頂上から真下まで沢山のシュルク達が滑り降りてくる。あんな崖のような急斜面を滑り降りてくれば、下に辿り着いたとしても無事では済まないだろうと思っていたのだが、よくよく見ればそれらはシュルクでない事が分かった。分かってしまった。
下に落ちて倒れた人々はやがて幽鬼のように再び起き上がり、腕や脚がマトモではない方向に捻じ曲がったままなのにも関わらず、まるでマトモであるかのように歩こうとする。
顔面が削れてしまっても前が見えていると言わんばかりに、ゆっくりとした動きでサエス王国へ向かって歩く群れの中へと混じっていく。
そんなグロテスクな光景まで映し出してしまう程の性能を持った望遠鏡を、マリーナは恨まざるを得ない。なんて悍ましい。
あれはアンデッドの群れだ。
それも兵のつもりなのか。それぞれの手には大層にも剣や槍が握られている。中には鎧を身に付けている者までいる。
上にいる翼竜達の上にはシュルクがいた。ボロ布を纏ったアンデッドとは違い、小綺麗な格好をしているからすぐに分かる。
尤も、彼らの乗る翼竜はよもや死体のようだ。所々腐敗し骨を覗かせている魔物を駆るシュルク達は、グランヘレネ皇国の国章の描かれた戦旗を旗めかせていた。
白地に金色に輝く逆十字がこんなにも忌々しく思えるのは、後にも先にもこれっきりにして欲しい。
どうして気付かなかったのだろう。
サエス王国が水害の復興に追われて弱体化しているこの時期に、一晩の内に何度も来る大地震。南側から──皇国のある方角からやって来る津波。
土のヘリオドールを所有しているグランヘレネ皇国ならば、否、“人為的に起こそうとするなら”グランヘレネ皇国にしか出来ない所業である。
確かにサエス王国とグランヘレネ皇国は長い歴史の間で折り合いが悪かった。けれど、まさかこんな時に戦争を吹っ掛けてくるだなんて。
────こんな時、だからなのだろう。マリーナでさえ、もし他の国を滅ぼそうとするならば弱体化している時に一気に叩き潰そうと考える。
けれどどの国もそれをしなかったのは、各国がそれぞれのヘリオドールを所有しているからだ。ヘリオドール同士、国同士がぶつかってしまうような大戦争が起こってしまえば、世界全土を巻き込んでの戦火になり得る。
そしてそれはやがて、世界そのものを破滅させるだろう。戦争を始めた国であっても例外ではない。あの魔石はそれだけの魔力を秘めている。
だからこそ世界はある意味での均衡を保てていた。
然し世界に五つあるヘリオドールの内、一つが潰えたならどうなる。
そんな国は、もし他国を蹂躙しようという国が存在した場合、格好の的になるに決まっている。
ヘリオドールを失ったサエス王国は最早国ですらないのかもしれない。
ヘリオドールが破壊された事は一部の者しか知らない筈だ。城内の者には箝口令を敷き、他言無用の機密事項となっていた。
それでも漏れたのは、グランヘレネ皇国が最近のサエス王国の情勢を見て察したか、間者がいたか。誰かが情報を売ったか。
どれであっても目の前に起こっている事は現実であり、悠長に原因を探す暇なんてある筈もない。
土のヘリオドールの加護を受けるグランヘレネ皇国のように他の国の存在を、他の属性のヘリオドールを見下し嫌悪している国ならば、その加護を受け続けていた国を破滅させようとするだろう。
彼らは、かの国の教皇はそれを正義の鉄槌であると本気で思っている。だからこそのタイミング。絶対にサエス王国を滅亡させる為に、資材も人員も不足しきっている今を狙って来たのだ。
マリーナは呆然と、次々現れてはその数を膨らませていくアンデッド兵達を見つめるしかない。
グランヘレネ皇国がアンデッドの多い国だとは聞いていたが、まさかそれら魔物を操る技術を完成させていたとは。
飲食の必要もなく、倒れても倒れても起き上がるアンデッド達の数は既に千を超えているだろう。対して今のサエス王国には戦える者がどれ程いるだろう。
戦える者が仮にいたとして、王国の外を戦場にしたとして、サエスの兵は真っ当なシュルクなのだ。彼らを、死の概念が存在しないアンデッド達と戦わせる為の兵糧など、用意出来る筈がない。
魔物であるアンデッドを兵代わりに使うだなんて、誰も考えない。使えるだなんて思いもしない。けれど、もし使う事が出来るならこれ程頼もしい事はないだろう。
食事も睡眠もいらず、何度でも起き上がる。もし倒せたとしても、グランヘレネ皇国の兵が直接ダメージを負う訳ではない。彼らは所詮使い捨ての魔物なのだから。いくら死んだ所で皇国側は痛くも痒くもない。
彼らを真っ向から倒すならば、光属性の魔力を保有する魔術師が有用だろう。けれど今から国内の魔術師、教会の司祭などを集めた所で付け焼き刃もいい所である。
マリーナは迷走に迷走し続ける頭を抱えるが、ふと顔を上げて周りの兵へと告げた。
「……ジェイドを呼べ」
「は……」
「ジェイドを呼べ! 早くッ!!」
もし、一つだけこの国を救う方法があるのなら。マリーナは藁をも掴む思いで、彼の名を叫ぶのだった。