61 きのこの森
どこまでも続く木々の間を駆け足で進んで行く。離れ過ぎれば道案内の光の玉はその場で静止してくれるようだが、いつでもジェイドを待っていてくれる保証はない。
だから、なるべく離れないように見失わないようにと、少年の時代の姿のジェイドは寝間着の裾を脚で払いながら歩を進める。大人の姿なら身長もある為、もう少し歩幅が出てくれるというのに。何でこの夢の中だといつも子供の姿なのだろう。少しだけ、今の自分の身長を疎ましく思った。
足の裏で草を踏み締める感触が生々しい。これで夢だと言うのだから不思議なものだ。
どれだけ歩んだだろうか。暫く進んで行くと、やがて光珠の向こう側にぼんやりと温もりのある暖色を見た。木々の向こうから光が漏れている。
これまで暗闇の中を歩き続けてきた少年は、誘われるままに光射す方向へと恐る恐る近付いていく。
木々の隙間を通り抜けていくと、開けた場所へ出た。
背の高い巨木が真っ直ぐ伸びてぐるりと、かなりの広さのある土地を囲んでいる。広さはあるみたいだがひしめく樹の壮大さにより多少の圧迫感を覚える。
その中でも一際目立つのが巨大な茸だ。土地の真ん中に一本、空に向かって他の木に負けない程に伸びた、今まで見た事ないような巨大さの茸がずんぐりと存在していた。
その茸が、木々に囲まれぽっかりと見える筈だった月も星も瞬かない虚無の夜空を傘で覆い隠し、代わりに薄ぼんやりとオレンジ色に発光しているのだ。まるで屋根替わりのような広がり方をする傘である。
周囲の木にも同じような色合いの小さな茸が所々生えている。それらも巨大茸と同じように明るい光を放ち、この場を照らしていた。
よく目を凝らすと周囲の木はいずれも、洞の中に何冊か本が詰められていた。それだけではない。
どの木にも、真ん中の茸にもいくつも掛け時計が掛けられていた。にも関わらず、指針の音が全くしない。
足元の草は先程の草むらの獣道とはうって変わり、苔むした地面になっている。
そうっと、自分のいる草の地面から苔の地面へと移ってみると、しっとりとしていて滑らかな肌触りが癖になりそうな踏み心地であった。
緑色の地面の一部から色とりどりの花が咲くのは何故だろう、とジェイドは首を捻る。この夢の中の森に陽の光が射した事はない。いつでも夜だった。茸や苔が発生する理屈は理解出来ても花が咲く理屈が分からない。
そこまで考えるが、理屈なんか分かる筈もないのだと思い直す。ここは夢の中の世界なのだから。
中央の巨大茸の傍にはいくつも花が浮かぶ小さな沼があった。その畔にこれまた苔むした倒木があり、そこに誰かが腰掛けて本を読んでいるのが見えた。
歩いて近付いて行くが、数歩も行かない内にそれが誰かジェイドには分かってしまった。自然と足が止まる。
あれは自分だ。
子供の頃ではない、本来の、今の時分の己の姿がジェイドの存在に気付いて紅い革張りの本を閉じ、顔を上げた。
「ようこそ。お待ちしておりました」
自分が、自分の意志とは反して迎えるような言葉を紡ぎ、穏かに、然し冷え切るような笑みを浮かべながら、もう特定の場でしか使わなくなってしまった丁寧な言葉で挨拶をしている姿を客観的に見るのは、不可思議な光景でしかない。
混乱してしまう。なんて反応したら分からないまま口を開こうとするが、開いた所で言葉が出て来る事が期待出来ず、諦めて口を閉じた。
ジェイドの脇からするりと、ここまで案内してくれた小さな光が目の前の“自分”の傍まで飛んでいくのが見えた。
その光は男の掌の上で数度明滅し旋回するように踊ってから、頭上へと登っていく。よく見れば、巨大茸の傘の下には同じような大小様々な大きさの光がふわふわと無数に漂っていた。
「そんな所にいないでこちらに来たら如何です?」
彼は立ち尽くすジェイドを見兼ねて、先程まで自分が座っていた倒木を指し示す。
彼自身はどうするのだろうと見ていると、倒木の傍で二度程手首を薙ぐように動かした。すると、椅子とテーブルを一脚ずつ、とでも言わんばかりに肉厚で程良いサイズの茸が二つ、苔庭を割いて生えてきた。
毒々しい紫色の茸に当たり前のように腰を下ろし、腰を下ろしたものより僅かに傘が広く同色である目の前の茸に、片腕に抱えていたハードカバーの本を放る。
生やした茸はどちらも弾力性と強度があり、成人男性一人の身体なら軽々と支えられるようだ。そこまで考えて、ジェイドは首を左右に振るう。無駄な事を考えるのは止めよう。ここは夢の中なのだ。茸の強度の事など推し量って如何する。
ジェイドは彼の座っていた倒木の傍まで行くと、そこに腰を下ろした。
そうすると何となく落ち着き、記憶の整理が出来た。彼の正体も、“今夜”の約束の事も。
「君がヘリオドール、……か」
「ええ。あ、紅茶でも如何でしょう」
確かに、このような形なら日記帳を介さなくてもゆっくり話が出来る。
ジェイドが何か言うよりも早く、ヘリオドールは軽く正体について肯定してしまうと、テーブルにされている茸の傘の縁をつつく。
すると、どこから湧いてきたのやらカップとソーサーが半ば乱雑に、割れてしまうのではと心配になる程の音を立てていつの間にやら二客現れる。
現れるというよりは、少し高い位置から茸テーブルの上に落ちてきた。だから食器同士触れ合って不安になるような音が出たのだ。
カップにヘリオドールが手を翳すとそこに湯気を立てる紅茶が、底から沸き上がるようにしてなみなみとその嵩を増していく。魔法とは全く違う、どちらかと言うと「そこにない物を突然出す」手品なる術に似ているなと思わなくもないが、手品のように種も仕掛けもある訳ではないのだろう。だってここは、夢の中なのだから。何が起こってもこの一言で片付けてしまえるのはなかなか便利なものだ。
そうこうしている内に茸の上には更に、角砂糖の詰まったシュガーポットやミルクピッチャーも並んでいた。これらも瞬きする間にいつの間にか追加されていたものだ。
そこまでしてはた、とヘリオドールが顔を上げた。その両眼に子供の姿のジェイドを映して笑う。
「嗚呼……坊やには紅茶なんかよりホットミルクの方が宜しかったでしょうか。蜂蜜たっぷりの」
「…………。ば、馬鹿にするな。紅茶で構わない」
好物である蜂蜜に反応しかけたがこれは馬鹿にされているのだろうと感じたジェイドは、首を振り否定を示す。大人の頃より幾分か短めの髪の束が大きく揺れた。
蜂蜜は好きだがサエス王国のは薄くて駄目だ。故郷で採れるグランヘレネ皇国のものが一番美味い。余り輸出されていない為、サエスにいるとなかなか口にする機会が少ないのは残念なところだ。
目の前に砂糖を二つ、ミルクを少々入れた後に差し出された紅茶のカップを両手で持ち指先を温めながら、ジェイドは思い出したように呟く。
「なあ、君はどうしてこんな事をしたんだ。サエス王国に何か怨みでもあったか?……それとも俺が気付いていなかっただけで、俺自身がサエス王国をこんな風に……したかったのかな」
カップを持つ指先に力が籠る。
自分の別人格がヘリオドールであり、その彼が今回の事件を引き起こしたと言うのならばどのような理由があって行ったのだろうかと思う反面、己の深層心理にサエス王国滅亡の願望があったのかとも考えたのだ。
だが、砂糖の数もミルクの量も同じ紅茶を飲むヘリオドールの返事は、ジェイドの心の慰めになった。
「いいえ、この僕の望みでした。因みに、オリクトを破壊していたのも僕だけの願望です。誓って言いましょう、貴方はオリクトやヘリオドールの破壊を欠片ほども願った事などない、と。だから安心なさい」
「どうしてそんな事を……」
何気なく漏れた疑問の言葉に、ヘリオドールはふと表情を弛める。諦めとも悲しみとも、憐憫とも慈愛とも取れる不可思議な表情だ。
ジェイドは自分の表情筋はこんな顔も出来るのだな、と他人事のようにそれを眺めていたし、ヘリオドールが先程まで浮かべていた表情はお世辞にも優しそうな顔には見えずどちらかと言うと無機質めいたものに見えたものだから、その表情の変化には僅かに感動すら覚えた。
紅茶から昇る湯気の向こう側で、ヘリオドールは小さく囁いた。
「…………説明したところで誰にも理解はされない」
まるで吐き捨てるように。
その言葉を紅茶で腹の中に戻してしまうかのように嚥下すると、再びまた無機質で冷たい笑みを浮かべた。
「まあ、サエス王国の方々には流石に悪いと思ってるんですけどね。これもまた必要な犠牲だったと言う事で。……主人格のジェイドに迷惑を掛けてしまった事と、そのせいでシャルロットにも魔法をなかなか教えてあげられなくなってしまった事については──申し訳ないとは思っています」
つまり彼が想うのはジェイドとシャルロットの事だけで、サエス王国に住まうその他大勢については大して申し訳なさを覚えていないという事である。
ジェイドはここでふざけるな、と激昂して立ち上がれる立場にいるのだが、それはきっとマリーナ女王やサエス王国の民の役割なのだ。
ジェイド自身は自分の事を何も知らなかった。深夜に起き出してしまう事も、オリクトの破壊についても。独りではその原因を解明出来なかった無知のツケがこれならば、やはりヘリオドールを前にして怒るのもまたお門違いな気がしたのだ。
自分の姿を模した彼もまた、何かしら抱えているものがあるのだろう。先程の表情がそれを証明していた。
真実などいつだって曖昧なものだ。
彼の存在に毎夜踊らされていたジェイドという人格もまた、第三者の目線で見るなら曖昧なものにも感じる。
ヘリオドールの行いは許されざる悪だろうが、ジェイドは先日シャルロットに闇の魔力の事を許されたばかりだ。
なら、彼の罪は誰が許してやれるのだ。
自分だけは許してやっても良いかもしれないと、そう思っただけだ。
ジェイドには自分の性格が歪である自覚はある。そこから派生したヘリオドールが歪であるのもまた、自分の責任だとすら思えた。