57 国の命運
長い、長い沈黙だ。
循環しなくなってしまった静かな水槽の中、魚が鰭で水を掻く音すら届きそうな、長くて昏い沈黙の中。
────空気が、変わった。
サエス王国の兵は統制が取れている。女王の許可なく動きはしない。
だから先程シャルロットが感情に流され突発的に喚いた時でさえ、彼女の腕が拘束されているのも分かっている上で女王陛下へ危害を加えないだろうと判断し、部屋の中に整列はしていても持ち場から離れるような事はしなかった。
けれど、今はどうだ。
本能だ。
本能的に、身体が勝手に動いてしまう。
兵達の刺激された本能は、それでも国への忠誠心にしがみつき腰に下げる得物に手を掛け、女王を護る壁となるようにと身体を突き動かした。
「…………嗚呼、まだまだ中で休んでいたかったのに。余りジェイドを虐めないでやって頂けませんか、陛下」
ジェイドの皮を被った“何か”が口を開く。手枷は万全な筈だ。濡れ鼠のようにびしょ濡れな姿は哀れにこそ思えど、畏怖などする必要もない。──ない、筈だ。
必要ない筈なのに、何故か彼の正面に対峙する兵達の身体は、剣の柄に手を掛けるその指先は。カタカタと無様にも震えていた。
マリーナにとって、役立たずの兵士の壁程邪魔な物はない。
「下がれ」
その一声だけで、彼女と男の間に人の波はなくなる。彼女の言葉は怯えの色を見せる兵達には救いの言葉だ。
絶対に命令を聞く、という刷り込みがなされているのだ。兵達はそれを忠誠心などと勘違いしているようだが、女王から見れば自分で思考する事を放棄しているようにも見えて愉快でもある。
その刷り込みのお陰で彼らは女王の手足としてはとても都合良く動いてくれるし、このような場面で下がるようにと命じられたならば“女王の命令”という建前で呆気なく引き下がってしまえる。
思考と責任を総て上司に擦り付けてしまえる部下達と、部下達を好きなように扱える上司。
双方にとって都合の良いシステムなのだから、これはこれで構わないのだ。
女王は玉座の置いてある場から一段、また一段と段差を降りて床に膝を付く男へと近寄っていく。
彼女は存外好奇心が旺盛なのだ。兵達が怖がるような男など、自分にとっては大した事ないのだ、こんなにも近寄れるものなのだと周囲に知らしめるかのように、怖いもの知らずな女王は歩を進めてしまう。
こんな男の何が怖いのだ。確かに先程までのジェイドとは異質極まりないが、彼は魔法の欠片すら今は使えないのだ。怯える必要など皆無だという事を知らしめてやろう。
「貴様がジェイドの、もう一人の人格とやらか」
「……そうですね。物分かりが宜しくて大変助かりますが……ちょっと今、こうしてお話するのが本当に限界ですので。時間は僅かと思って頂ければ」
「ほう? 限界が近い、などと己の手の内をひけらかすなど愚か者のやる事だと言うのに……良いのか?」
こんなにも雰囲気が丸ごと変わってしまったのなら、先程のシャルロットの話と照らし合わせても別人格とやらが出現したのだと考えるのが妥当だろう。
その別人格とやらは、疲弊し過ぎてつい口が滑ってしまったのだろうか。ジェイドは毅然とした態度を保ち、弱味を女王へと握らせようとはしなかった。けれど、彼はジェイドのそのような努力を簡単に無に帰す軽率さがあった。
それで構わないのだ、彼にとっては。女王の問い掛けに、男は厭な笑みを浮かべた。周囲の目から見た彼の異質さを、より確固たるものへと変化させる、いわば狂喜。
「僕の“限界”が常に貴女達にとって有利であるものだと思わない方が良い」
随分な挑発だ。
傅く事により垂れる、水を吸って重くなった黒髪。その隙間から覗く瞳は、マリーナを見つめている筈なのに何も映らない。
一拍、虚しき静寂。
挑発に対して黙ってしまうなど、虚勢の一つすら張る為の言葉が思いつかないだなんてなんて侘しい事。
女王は、なんて返答すれば良いのか分からなくなってしまっていた。舌が縺れるような、痺れるような感覚になる。
何か、言わなければならないのに。
この部屋で一番力を持っているのは、女王である自分だと知らしめなければならないのに。何も恐れる事はないのだと、自分自身に再確認する為にも唇を動かさなくてはならない、のに。
「駄目ですよ……っ! もうこれ以上余計な事はなさらないで下さい!」
静かな部屋を打破するのは少女、シャルロットの声だった。彼女は異質な者の言葉の意味がやはり捉えられないままでいたのだが、そんな事は関係ないと言わんばかりに声を張り上げる。
少女は無謀にも、女王へと頭を垂れる異質へと子犬のようにキャンキャンと吠えかかる。それを男は表情を緩めて──本当に、先程までの魔物すら裸足で逃げ出すかのような異様さは形を潜め、まるで普通のシュルクの男が恋人に向けるかのような穏やかな、愛しさの籠る視線の交じる笑みで──窘める。
「大丈夫ですよ、シャルロット。僕はもう何も致しません。目的は果たせたのですから」
「目的とは、ヘリオドールを破壊した事か」
うっかり、男の表情を見つめて呆けていた女王は我に返り会話に割って入る。
こんなにも寒々しい、凍えるような空気しか醸し出せない男がシャルロットへ向けた表情が、どうにも現実離れしている程に暖かいもので、ギャップに驚き気を取られてしまったのだ。
男は先程まで少女へと向けていたその表情のまま、女王へと対応する。僅かに空気が弛んだのを肌で感じ、マリーナは多少落ち着きを取り戻した。
「ええ、そうですよ」
「何故貴様はヘリオドールを破壊した」
一番に聞きたかった事だ。
女王は反撃だと言わんばかりに語気を強めて男へと詰め寄──ろうとして、足を止めざるを得なかった。
「何故、僕が、ヘリオドールを、破壊したか? 本当に、本当に分からないんですか? 他でもない、貴女、が?」
表情が再び、変わったのだ。
穏やかな、ぬるま湯のような温かさの残る表情から一転。無表情。
ただの無表情。その中に、乱れた髪から女王を射抜く左眼が一つだけ、ハッキリと。
憎悪の色を浮かべていた。
「わか、……分かる訳ないだろう! 妾とジェイドがこうして対面したのは今日が初めてで……貴様! 別人格の貴様に至っては今日初めて存在を知ったのだ!! 貴様の意図など知らぬ!」
女王は咄嗟に叫んでいた。
言い訳のような言葉を並べ立てていた。
悪い事をしたのはあちら。詰問しているのはこちら。なのに何故、女王が叱られる子供のような言葉を並べ立てている。
その理由は誰にも分からない。けれど、ここにいる誰しもが言い訳する女王の姿を、何故だかさも当たり前のように受け入れてしまっていた。
マリーナの言葉を聞いて、男の瞳から憎悪の色が抜け落ちる。そうして、仰々しい溜息の一つでも吐いて再び穏やかに、けれども悲しそうに微笑む姿を見て女王は何故か、それを“慈悲”だと感じた。
「まあ、そうですね。分かる訳ありませんでしたよね。これは僕の早とちりでした、申し訳ありません」
言い方には人を小馬鹿にしたかのような含みを感じるが、先程憎悪をそのまま言葉にした、絞り出すような声音はそこに混じらず、女王と周囲の兵達は胸を撫で下ろす。
男は飄々と、言葉を続ける。
「兎に角、陛下が僕に対して裏切りを心配なさっているようですが……そこはご心配せずとも、もう僕は何も致しません。ジェイドがここで当面の間、陛下のお手伝いをしたいと思うのならば僕もそれに従おうかと」
「……物分かりが良いな」
「ええ、もう僕が動かずとも……問題ないので」
冷たい雰囲気を纏う青年は、それでも意外と表情豊かであるようだ。今度はにこにこと、人懐っこく笑う。けれど、人懐っこく見えるだけだ。腹の内が全く読めない、可愛げのない笑顔だった。
彼の言っている事はイマイチ分からない。問題ないとはどういうつもりか。サエスはヘリオドールが崩御し、問題だらけであるというのに。
けれども女王の考えは決まった。
マリーナは気付いたのだ。ジェイドにとっても彼の別人格にとっても、シャルロット・セラフィスこそが彼らのアキレス腱である事に。
少女の方を見れば、男よりは幾分もシュルクらしい、不安げな表情をしている事にマリーナは安心する。
ジェイドのギルド依頼の記録には、いつも独りで仕事をこなしていた事が記録されていた。彼は他人を傍に置こうとしない。ギルドの中で仲間を見つけて仕事に、などとそのような事もない。一日限りの仲間でさえ作ろうとはしなかったのだ。
なのに、こんなにも無力そうな少女と共にここまで来たという事が、彼女がジェイドにとって他人よりも特別な存在なのは明白である。
そして別人格についても先程の態度から、少女への想いは熱意があるものなのだろうと判断した。
シャルロットの存在で、この獣をいくらでも揺さぶれるのではないかと思ったのだ。
彼女を幽閉し、人質として扱えばジェイドないしこの別人格すらも想いのままに操る事が出来るのではないかと。
けれど目の前の獣は、鎖に繋がれようとも尚噛み付いてくる。
「そうそう、言い忘れていましたが。もし、シャルロットに余りにも酷い扱いをするようなら……」
心臓が飛び出るかと思った。
何故男は、こんなにもマリーナの考えている事がベストなタイミングで、手に取るように分かってしまうのだ。
「……国が滅びる程度で、済めば良いですよね」
恐ろしい事を屈託のない笑顔で言ってのける獣を、本当に飼ってしまえるのか。
手首を拘束され魔力を封じられ手も足も出ない筈なのに国を滅ぼす、それよりも恐ろしい目に合わせてやるなどと。ハッタリだ。そうに決まっている。
彼はこの状況下で、何故こんなにも強気になれるのだ。その真意は誰にも分からなかった。