54 二人で行けば怖くない
「……忘れませんよ」
羞恥したまま顔を上げる事が出来なくなってしまっているジェイドの耳に届いたのは、無慈悲な少女の言葉だった。
幼子のような涙を忘れて欲しいというささやかな願いは、あっさりと却下されたのだ。
「…………あんなの、覚えていても良い事なんてないぞ」
「良いか悪いかは私が決めたいのです。……先生が皆の、私の救いになってくれた事は間違いなく私にとって良い事ですし」
遜るジェイドの言葉をシャルロットは鵜呑みにはしない。それはジェイド自身の価値観だろうが、シャルロットはそうは思わないからだ。彼女には彼女の物の見方や価値観がある。
そうまで言われてしまえばもうグウの音も出ない。彼の唇は文句を述べる為ではなく、「そうか」と短く呟いた後にスープを啜る事だけに使われる。
「……お代わり、いりますか?」
いつの間にやら空になった器を少女は見逃さない。ジェイドのいつもの食事量を見ていれば、スープ一杯で足りる筈ないのだ。
それに、今の彼は魔力もまだ僅かにしか回復していない筈。いつも通りとはいかずとも、多少それに近付けるだけの食事は与えたい。
「いる」
帰ってくる台詞は想定内のもの。シャルロットは空っぽの器を受け取り、再びキッチンへと向かうのだった。
屋根を打ち付ける雨は空から無数のバケツをひっくり返したようであり、とても雨と形容出来る内容のものでもない。
けれど、空からの降水を雨以外に形容する言葉を二人は知らないから、便宜上雨と呼ぶしかない。
昨夜まではエストリアルの街を中心に落ち破壊していた水柱が、いつの間にか自分達のいる教会周辺まで落ち始めた。ここもいつ潰えるか分からなくなってしまった。
「先生、大丈夫ですか……?」
「いや、眩暈はするし吐きそうだ。こんな所でグダグダしてもいられないからな……一気に片をつける」
「……無理はなさらないで下さいね」
そんな二人は今、教会の屋根にいる。片や青いケープをはためかせ、片やスカートの裾を抑えている。
下を見下ろせば水が川のように道路の隙間を埋め尽くして流れているので、そこを歩いていく訳にはいかなかったのだ。
乾いた服へと着替え、その服をわざわざまた濡らしてしまわないようにと二人の足元にはそれぞれにオレンジ色に発光する魔法陣が展開されている。強力な光属性と火属性の魔法の組み合わせだ。この魔法陣が、彼らの周囲の天候を“どんな悪天候であろうとも必ず晴れ”である事を強制している。
半径三十センチ程にしか効力はないが、それでも水はシャルロットの頭を飾る兎の耳のようなリボンにすら触れられない。
それもかなり計算し尽くされた魔法陣のようで、少女のスカートの裾が揺れて陣の上からはみ出しても「スカートの裾からの距離半径三十センチ」を護ってくれるようで、やはりそこだけが無様に濡れる事もない。
同様の理由か、ジェイドの長い尾のような髪も一切湿るような事はなかった。
ジャンプしたり歩いたりすると、魔法陣はその足元を着いてきてくれる。両手が自由になる辺り、雨具とするには優秀過ぎる魔法だ。
まるで小さな太陽に愛されているかのようで──そこまで考えて、シャルロットは何故か脳裏に浮かぶヘリオドールの顔を思い出して首を左右に振るう。
彼とジェイドは同じ顔だが、寧ろ同じ身体を共有しているのだが、全く以て同じ顔ではない。少なくともシャルロットには“よく似た人”程度にしか見えないのだ。
これは一体どういう事なのか、少女自身も理解出来ない事なのだが。ただ、そのように自分の中でも無意識ではあるが明確に区別出来ている為、ジェイドとヘリオドールを間違えて認識する事もなくそれはそれで有難い事なのだけれど。
兎に角、今はジェイドの展開してくれた魔法陣のお陰で濡れる事はない。魔力が少ないのだからと、このような魔法は展開された途端に即座に断った。
けれど、ジェイドは「俺が濡れたくない」と言って退く事はなかった。自分が雨避けをしているのに女性を雨風に晒せる訳がないだろう、とも。
そう言われてしまえばシャルロットは無理しないようにと念を押す事くらいしか出来ない。
あの後スープは五杯お代わりしたジェイドだが、それだけでは魔力も微々たる回復にしかならなかったようだ。立って歩けるだけ回復したのは上々とも言えるのだが。
スープ五杯で「微々たる回復」。普通の平民のシュルクならば野菜たっぷりのスープ一杯で魔力は満たされる。
ジェイドという男は、普段はどれだけ個人の中で莫大な魔力を保持し、それを己の中で管理しているというのだろう。そして、水のヘリオドールという国一つを運営していく為の魔力の塊を破壊するのに使った魔力は、一体どれだけ高密度なものだったのか。
シャルロットにとっては余りにも途方もない、スケールの違いすぎる話で少女が眩暈を覚える程だ。
もっとスープ以外にも料理を作りたかったのは山々だが、教会の台所は基本的に質素なものである。高カロリーな肉類などは無く干し肉程度しか見つからず、後は野菜ばかりが置いてあったあの場では全て煮込んでスープにしてしまうのが最適だった。
そのスープも大きな鍋いっぱいに作ったのだが、空っぽになってしまったのだ。
睡眠も、食事も。魔力を回復させる為にやるべき事はやったのなら、次は行動するしかない。ジェイドは決めたのだ。王城へ戻ると。
シャルロットはジェイドに対して、サエス王国の民を見捨てないと思っている。
ジェイド自身も罪悪感がない訳ではない。償えるなら償ってみせようではないか。サエスを統治する女王がまだ生きていて、話をマトモに聞いてくれるなら、だけれど。
ジェイドは今まで他人を裏切るような真似はしなかった。
イザベラの元を逃げ出したのは、彼女が他の兄弟とも肌を重ねていたからだ。純粋だった少年時代の自分を弄んでおきながら、腹立たしい事この上なかった。先に裏切ったのは彼女の方。
報酬さえきちんと出されれば、ギルドの仕事はきっちりとこなしてきた。金と信頼で仕事が出来るギルドの依頼は、嫌いじゃなかった。
そもそも人と余り関わらないように生きてきたのだ。裏切る、裏切られるような場面に遭遇する事がここ数年はほぼなかった。
だったら、可愛い愛弟子の期待にくらい応えてやるのが師の務めだろう。
他人の期待には応えて、何故シャルロットの期待には応えてやれない。
報酬次第でどんな仕事でもこなしてきた。彼女はとっくの前から、余りにも高額過ぎる“報酬”を払っている。払い続けていた。
それなのに、これで逃げると言うのならもう金輪際彼女の先生は名乗れない。ジェイドにだって、自分を無価値と称してはいるが無価値には無価値なりの矜持があった。
無価値の価値はどこでゼロから一になる。報酬が発生する時だ。その時は、クライアントに買われるのだ。
今までの客なら、ジェイドの魔力に対して金を出していた。心を削って懇願し、ジェイドの莫大な魔力に平伏しながら支払っていた。
それは仕事が終われば──報酬を受け取り彼らとの契約が切れてしまえば、ジェイドという一人のシュルクの価値がまたゼロに戻る、その程度のものだった。今まではそれで良かったのだ。
けれど、シャルロットは違う。彼女はジェイド自身をずっと見ていた。彼の価値に、彼の知らない内に勝手に色を付けた。心地良いと、思ってしまった。
ジェイドの決定にシャルロットも頷く。彼が行くなら自分もついて行く。少女の中では当たり前の事だ。
この少女は流されている訳ではない。自分の意志でここにいる。何を言ってもケフェイド大陸へは帰らないだろう。
シャルロットが一つ気にしているのは、ジェイドのもう一つの人格であるヘリオドールの事だ。
昼も近いからか、暁闇の時間ではないからか。まだジェイドの人格のまま、ヘリオドールの笑みを見せる事はない。水の魔石を破壊したのは彼なのだから、そちらの人格の方が魔力回復に時間がかかって出てこれないという可能性もある。どちらにせよ好都合だ。
彼は一走り──つまり、王城から離れて逃げる事を願ってシャルロットに魔力切れの身体を託した。それなのに、ジェイドはまた城へと戻ろうとしている。
オリクトを壊さないと取り付けた約束は破棄されるかもしれない。それでも、水のヘリオドールを破壊された今ではそれでも構わなかった。もう、意味なんてないのだ。
シャルロットは、逃亡を望むヘリオドールより、償いたいと想うジェイドの願いを汲んだ。
今ジェイドは飴を次から次へと瓶から取り出してはそれが何味の物なのか、何色なのかチラリと確認するだけして口に放り込み味わう事もなく噛み砕いて飲み込む。
味わっている暇がないのだ。こうしている間にも魔力はガンガン目減りしていく。すぐに出発しなければ。
「……ん」
ジェイドはシャルロットへと手を差し出す。「もう手は繋がない」なんて言っていたのはいつだったか。もうあの頃が懐かしい。
少女はそっと、彼の手を取った。
二人の足元に風が渦巻く。どこにこんな魔力があるのだろう。チラリと少女が師の横顔を見上げると、僅かに苦しげに眉を寄せていた。
「先生、やっぱり……私が運び、」
「行くぞ」
シャルロットの言葉は最後まで聞かなかった。
風は更に強風となりて二人分の身体を浮かせる。そのまま、限界まで引かれた弓矢の如き勢いで半壊した城へと、エストリアルへと向かい一直線に飛ぶ。
彼らの周囲を囲む風は荒ぶる暴風のようであるが、これで構わないのだ。二人を叩き落とさんと怒濤の勢いで頭上目掛けて落ちてくる分厚い水の束は、その下を走り抜ける強風に阻まれ、弾かれ、獲物を握り潰す事は叶わなかった。二人を避けるように裂かれた水流は、勢いを殺して眼下のエストリアルの街へと落ちていく。
二人の進む道を邪魔するものは、何もなかった。