53 忘れて欲しい過去の事
明け方シャルロットの瞼を縁取る金色の柔らかな睫毛が震えて、彼女は目を覚ます。
目覚めようとする瞼を優しく撫でる筈だった朝日は弱々しいものだ。昨夜ずぶ濡れの二人組が濡らして濃い色へと汚した木の床は、まだ所々まあるい水溜りを作っていた。
カーテンの隙間から僅かに光は射し込むようだが、風に揺らされる木々の隙間から零れて落ちる木漏れ日のようにささやかで、今にも掻き消えてしまいそうだ。
ジェイドはまだ眠っていた。弱る彼の腕の中から抜け出すのは簡単だ。そのままベッドをも抜け出すが室内の空気すら肌寒く、外はまだ豪雨のような天候で。眠る前より一層尚の事勢いを増しているようにも見える。
窓へと寄りカーテンを開いて外の天気を確認すれば、やはり夜の頃より悪化している。街全体が水路に覆われたかのようになり、道路が見えない。昨夜はまだ足首が浸かる程の水量だったと思うのだが、もう普通に歩けば膝かそれより上まで沈んでしまうのではなかろうか。
水が停滞しているのならば未だしも、流れがある。決して穏やかではない、宛ら渓流のような流れがそこにはある。流石のシャルロットもこの道を歩くのは不可能だと察する。歩くより泳ぐ、更に言うなら流されてしまう事になるだろう。
壊れたヘリオドールはまだまだ水を排出する事に飽き足りないようである。
こうなってしまうと、最早水の上に街が丸ごと浮いているかのような錯覚さえ覚える。
太陽が秋晴れの空に輝いているというのに、そこから降り注ぐ優しい温もりは降り止まない雨に細切れにされて、そうして弱々しくなった冷え冷えとした暖かさが室内の床へと転がり落ちてくる。
濡れた木の床に落ちる光と雨影の揺らめきが、この室内さえもせせらぎの底へと飲み込まれてしまったのではないかと思わせる。
昨夜脱いだ服を確認すればまだ濡れていた。クローゼットの中にあったハンガーを拝借し広げて干してはみたのだが、やはりこの気温だと一晩で乾かそうとするのは無理があったらしい。
服を握り締めて教会の廊下を全力で疾走すれば乾かないだろうか、などとシャルロットは馬鹿な事を思い付くがすぐに止めておこうと思い直せた。
無人とはいえ教会の廊下で暴れるなどと、女神に対して罰当たりなのではと思える。それに、騒がしくしていたらジェイドが起きてしまうからだ。魔力の回復が必要な彼には、睡眠と食事が絶対である。
ジェイドが眠っている今、それを邪魔する事は例え弟子であろうとも許されない。
ならば、今の自分に出来る事は食事の用意だろう。少女は己のやるべき事を見出した。
服は乾かした所でまた外に出るならばすぐに濡れてしまうだろうが、食事は摂らなければ空腹のままである。
教会の神官達には悪いが、代金は布施の意味も込めて多めに置いていくので少しだけ食料を分けてもらおう。またこの教会に彼らが戻って来れる日があるかは分からないけれど、食べた分の食費を払うのは当たり前の事だ。
そうと決まればとシャルロットは部屋を出てキッチンか食料庫を探す。出来ればそれらが一階などにはありませんようにと願いながら。
キッチンは同じ階層にあった。
病人を看病するベッドへ食事を運び易いようにと、同じ階に備えたのかもしれない。ともあれ、遠くないので野菜を煮込んだスープを乗せたトレイをひっくり返す事もなさそうで一安心である。
寝ているジェイドを起こしてはならないと、ノックもせず声も掛ける事もなくそっと扉を開けた。
するとジェイドは少女の予想を裏切り平然と起きていて、いつもの服へと着替えている最中だった。
「……っ!」
シャルロットは一瞬びっくりして、ドアノブを引く為に片手に抱え直していたトレイを落としかけたが、その手はギリギリの所で留まった。
その後に「おはようございます」でも「スープは食べられますか?」でも、いつも通りの調子で何かしら声を掛けられたら良かったのに、シャルロットはジェイドの背に魅入ってしまって声を出せなかった。
長い黒髪の隙間から覗く綿密な紋様の逆十字と、それを抱くように大きく翼を広げる黒い鳥。鳥に見覚えはないが、逆十字には見覚えがあったような気がする。
どこだっただろうと記憶を辿れば子供の頃家庭教師に、アルガス王国と他四大陸の国の歴史を教えてもらっていた時の事だったと思い出す。その授業の為にと用意した教科書に、五つの国の国章がずらりと掲載されていた。
記憶に間違いがなければ、細部のデザインが異なるがジェイドの背にあるのはグランヘレネの国章だ。シャルロットも勉強の時に、かの国が宗教色が強いという事くらいは習ったものである。後は温暖な気候で、宝石産業が盛んだとかも。
それは兎も角、前に血濡れのジェイドを着替えさせた宿屋の主人が見て、渋い顔をした原因はあれだったのだろう。
彼が元々グランヘレネ皇国の生まれで、そこからサエスに来た時に孤児としてイザベラ夫人に拾われたという事はヘリオドールから聞いてはいるが、ジェイドは国章を背負う程グランヘレネ皇国と国の教義に対して熱烈に信心深く在るという事なのだろうか。けれど、今までそんな素振りを見せた事はなかった。
他民族から嫌われるといわれるグランヘレネの民。そこから移り住んで来たジェイドは、それでも故郷の事を忘れた事はないのかもしれない。かのゼリーが有名な喫茶店にて、横顔の中に僅かに見せた郷愁の色の意味を考えるとシャルロットは何だか胸が苦しくなった。
シャルロットだって家出したとはいえ、たまにケフェイド大陸での暮らしを思い出しては懐かしくなる。離れてたったの一年だというのに、ホームシックになる時もある。それでも自分の意思で決めた事だ。魔女になるまで家には帰らないつもりでいる。
ジェイドは孤児としてアイスフォーゲル家に引き取られたと聞いている。ならば、自分で家出を選択出来たシャルロットと違って、やむにやまれぬ理由でグランヘレネを離れる事となった可能性もある。
グランヘレネの名を聞いただけで嫌な顔をする者が多いサエスで、国章の刻まれた身体では生き難かったのではないだろうか。
色々と思考するシャルロットの頭上から、不意に声が降り掛かった。
「なあ、いつまで人の生着替えを見てるんだ」
「ひゃっ!?」
突然の事に、シャルロットは今度こそスープの器二つ分の重みで揺れる木製のトレイを落としそうになる──が、ジェイドが代わりに支えてくれた。
いつの間にか、とっくに着替えを済ませてシャルロットを覗き込むように見下ろしていたらしい。
「あ、有難うございます……」
「全く……金取るぞ」
そのままジェイドは冗談を述べつつもトレイをひったくるように奪い取ると、ベッド脇のサイドボードへと運ぶ。
シャルロットはその背へと声を掛ける。
「先生、魔力の具合は如何ですか?」
ふらつく事もないし、顔色も昨夜よりは悪くはなさそうだ。よく見れば濡れていた筈の服は乾いているようにも見える。
と、いう事は。
「……心配しなくても、一晩ゆっくり寝られたからな……多少は戻ってる。試しに服は乾かしてやったから、君も後で着替えるといい」
やはり、魔力を使って服を乾かしたのか。ハンガーに掛けられたままの自分の服を、少女は見上げる。
目視で確認しても湿り気を感じる事はなかった。けれど、折角微量にでも回復した魔力を早速使わせてしまった事も事実で、掛かる衣類の姿にシャルロットは喜びよりも罪悪感を覚えた。
ジェイドはそんな事を気にも留めていないようで、既にベッドに腰掛けてスープに手を付けている。シャルロットも向かい合うように、昨夜自分が眠る筈だったベッドへと腰掛けてスープの器を手にした。
まだ出来立てで温かく湯気を登らせるスープの味に、少しだけ安心する。一口、また一口と食事を進めているとジェイドがポツリと言葉を零した。
「…………昨夜の事は忘れて欲しい」
「何をです?」
「……。その、……泣いた事、とか」
気まずそうにジェイドはもごもごと不明瞭に話しながら、視線は器の中の野菜達とほんの少しの干し肉へと注がれる。
シャルロットからは俯く彼の頭頂部しか見えず、その表情はどのようなものか検討もつかないが僅かに覗く耳の先が紅く染まっているようにも見えた。
当のジェイドは、昨夜の己の行動を悔いていた。流石にあんな痴態を彼女の前で披露してしまったなんて、後から思い返せば死にたくなる程に痛苦である。
ジェイドは自分自身という存在に価値を見い出せない。否、見い出せなかった。
価値があるのは魔力だけで、周りのシュルクは自分の魔力目当てで寄ってくるのだと。そう思っていた。
それで良いとも思っていた事だ。価値のないシュルクの中にある膨大な魔力。これのお陰で自分は漸く“人並み”になれる。
そんな自分が魔力切れになったのなら、それは当然無価値となる。その無価値な存在に、シャルロットは「救われた」と言ってくれたのだ。
弟子にした事もヘルハウンドの子供を探しに行こうと言った事も、結局魔力が無ければ提案など出来なかったと思う。けれど、結局それらを告げたのはジェイド本人だ。
魔力に突き動かされたのではなく、ジェイドが己の頭で判断した事。それに救われた少女の存在は、ジェイドの凍った心を僅かに溶かした。
自分自身の価値が少女の言葉によりゼロから一になったような、そんな気がしたのだ。
彼女の言葉は確かに嬉しかったのだが、それと同時に忘れて欲しいとも願った。自分自身、勿体ない気もするが忘れてしまった方が精神衛生上良いのではないかとも思える。
大の大人が、男が未成年女子の前で子供のように泣くなんて醜態も良いところ。
魔力の有無で己の価値を算出してしまうジェイドは、他のシュルクよりも魔力切れについては殊更敏感で、特に精神面などは風邪の時に弱る姿そのものになってしまう。
魔力切れを言い訳にする事は簡単ではあるのだが、それで済ませておける程ジェイドを苛む羞恥心は生易しくないのだった。