52 彼の中に残る優しさ
今にも水没するのではないかと思えるような街の教会にて、逃げずに寝台の上で真剣な表情で向かい合って座る男女の姿はシュールとも言える。
「まず第一にサエスは今このような状況です。先生を捕えた所で、まずすぐ裁こうとはならないと思います」
「まあ、確かに……?」
一番滅茶苦茶になってしまったのは、どう考えても王都エストリアル。更にはその中心地に据えてある城だ。
あれが上半分を吹き飛ばし、その衝撃でいくつかの隣接する塔をも崩壊させ、城の形をまるで砂で出来ていたものかのように崩していったのをシャルロット自身、若草色の眼で見た。
その際、水の中へと落ちていった兵士達も見た。
彼らを含むエストリアルの民の救助、保護、手当て。壊れてしまった建物など国全体の復興。
何より、それらを行うにもまずはこの水害が収まらない事には何も出来ない。
重罪の者は見せしめの為に王都の広場などで公開処刑されるのが常だ。シャルロット自身は他人の死を、避けられるならなるべく避けてはいきたいと考えている為、アルガス王国にいた時でもわざわざ見に行ったりなどはしなかったが。
もしジェイドの罪への判決がほぼ死刑に決まったとしても、処刑の為に人が集められないどころか国自体が落ち着けない現状では審理もままならないだろう。
だから、今すぐにどうこうとはならない。後回しにされる筈である。
然しそれだと何れ裁きの日は来るだろう。けれどそれはない、と言いたげな目をして少女は続ける。
「そして、こちらが重要な二点目。今サエスはヘリオドールが御座いません」
「まあ、……俺? が……? 壊したっぽいからな…………」
ジェイドは首を傾げながらボヤく。
自分がやった事ではないが、自分がやったと思わないとややこしくてそれこそやっていられない。
今まで自分の中にもう一人の人格がいるなんて知りもしなかった。言葉も交わした事のない者の罪を被る事は内心非常に面白くないが、今までオリクトを破壊していた実績がある。
それももう一人の人格が起こしていた事と言ってしまえばそれまでなのだが、本当に“そう”であるのか、そうだと言い切ってしまう事が何故だか妙に不安になる。本当にそんな者が自分の中に巣食っているのか、実感がないからだ。
シャルロットの話を聞いて、成程と頷いて──それだけだ。いつも自分の意識のない時に総てが終わっている。貴方の中にはもう一人別の誰かがいると言われて、今までの行いを振り返って納得は出来るものの、即時精神的に対応し切れるかと言われればそれはまた別の話なのだ。
納得こそしているが、別人格の罪を自分のせいにしてしまう方がまだ心持ち楽というもの。結局ジェイドは楽な方へと転がっていってしまうのだ。
シャルロットが続ける言葉に、ジェイドの意識は思考の海の中から現実へと引き戻される。
「ヘリオドールを喪ったこの国は、これから何に頼ります?」
「…………。……オリクト、とか?」
「そうです。そのオリクトを先生が満たして差し上げては如何でしょう」
まさかと思って答えたものがそのまさかだったようだ。少女は何の疑問も持たないような澄んだ目で見つめて来るが、当のジェイドは疑問しか浮かばない。
目付きの悪い男の瞳は、見た事もない生物を見つけたような目をして少女を紫色と緑色の狭間へと捉えていた。
「君は本当に救いようのない馬鹿だな……何でヘリオドールを割ってしまった罪人にそんな事させるんだ。信用ならないだろう」
降って湧く疑問は当然の事。けれど、シャルロットは当然のように答える。
「では、これから国中で必要になるオリクトはどなたが用意なさるのでしょう。他の魔術師の皆様は国の復興作業に当たられるでしょうが、その中にAランクのオリクトをいくつも瞬時に満たせるだけの魔力の持ち主がどれ程いるでしょうか」
「それは……」
「……せんせ……いいえ、あの方はヘリオドールを割りました。つまり、ヘリオドールを割れるだけの魔力を、貴方の身体は保有なさっているのではないのですか?」
ジェイドが割ったと言い切らずに言い直してくれたのは、シャルロットの優しさか。
割った瞬間については双方とも見てもいないから憶測でしかない。然し今日のシャルロットはなかなか強気に出てくるな、とジェイドは思っていた。
城にまで共に行くと言ったり、けれど死刑にはならないと──させないと説得すると言ったり。一体何がしたいのか。何が彼女をそうさせるのかジェイドには分からなかった。
常に損得勘定で人と関わり続けていた彼には、なかなか理解し難い事であった。
理解し難いものに返事するのはなかなか大変なのである。
「…………オリクトはヘリオドールじゃない。いつか割れて消えてしまう。流石に……代用品にはならないよ」
「そんな事は分かっています。けれど、今この国はヘリオドールを失ったのですからオリクトに頼るしかないじゃないですか。その頼れるオリクトを、すぐに沢山の数を実用可能なものへと出来るのは、先生しかいないんですよ。それに……」
シャルロットは立ち上がると手を伸ばし、ジェイドの節ばった手の甲へと指先を置く。
「先生はずっとこの国で魔物退治をしたりして、皆を護って来たじゃないですか」
「…………金の為だ」
「ヘルハウンドもグリフォンも、先生がやっつけなければもっと被害が広がっていたと思います。お金の為かもしれなくても、沢山の人を救ったのは事実じゃないですか」
少女が黙れば、耳奥に残響するのは水の流れる音だけ。静かな暗がりの中で、少女の声だけが甘やかに耳に届く。
「……今までずっと救ってきた人達を、このまま放っておける程先生は悪い人じゃないの、私知ってます」
「買い被りすぎだ……」
「なら何で、闇魔法のお話をして下さったんですか」
「……」
ジェイドは言葉に詰まる。
咄嗟に言ってしまったが、何故なのだろうと改めて考えれば苦笑しか込み上げて来ないのだから、滑稽なものである。
ジェイドがアンダインを出てから闇の魔力の事について話したのはシャルロットが初めてだ。
自分が死ぬべき者である事を肯定されたかったのか。違う。
シャルロットはそんな事を言うような子ではないと、分かっていて言ったのだ。咄嗟に口をついて出た言葉ではあるが、内心は────
「…………結局、赦されたかっただけかもしれないな」
気付いてしまえばその笑みは更に淀み、零れる声は掠れてしまう。
まだ子供であるたかだか十六の小娘に救いを求めていただのと、愚かにも程がある。
否定されたくなかったのだ。
今みたいに、肯定を望んだのだ。
彼女はいつも、望む言葉をくれていた。
素晴らしいだとか、凄いだとか、月並みなセンスの欠片もないその言葉の強さと優しさに、いつから溺れていたのだろう。
今だって。今、こんな事になっていたってシャルロットはジェイドを突き放そうとなんてしない。
「……ねぇ、先生。私を弟子にしようと言って下さった事とか、ヘルハウンドの子供を探しに行こうと言って下さった時。私に光属性の魔力がある事を見抜いて下さった時。……私は救われました」
「そう、か……」
「先生はオリクトを壊してしまう事に悩んでましたし、人を傷付けるような魔力も持っていますが……全部、壊してしまうだけじゃありませんよ。きちんと、誰かを救える方です。────だから、」
手に置かれていたシャルロットの指先が、今度は頬へと触れる。
優しい彼女の爪先が汚れてしまう、とジェイドはぼんやりと考えていた。
何で、汚れてしまうと思ったのだろう。シャルロットの人差し指と中指の隙間を通って、雫が伝うからだ。
咎人の涙に触れるから、穢れてしまうと思ったのだ。
「……泣かないで下さい」
少女の言葉にジェイドはやっと自分が泣いている事に気付いた。まるでこれも、他人の涙を見ているような気分だった。
いつから泣いていたのかなんて分からないけれど泣き顔を見られる事を拒む気力も起きなくて、少女の掌に頬を押し付ける形で甘える。
涙を流した事などいつ振りだったかと思い返すが、以外とそれは最近の事でアンダインでシャルロットを待っていた時にいじけていた事を思い出す。
二十四にもなって、最近やたらと涙脆いのは何故だろうかとも思わなくもない。
それを恥じる事すら面倒だ。
もう、疲れてしまった。
無言で薄く開いた瞼からはらはらと落涙を続けるジェイドの傍らで、シャルロットは黙って立ち尽くす。
泣かないで、と言ったもののそれを止められないのなら無理に止めさせる必要はない。彼の頬から手を離さずにいる事だけが、今のシャルロットに出来る総てであり唯一であった。
迷惑だとか困った事になっただとかは、思わなかった。夜は長い。今まで彼が泣けずにいた分、泣くくらいの時間はある。
そう思っていたシャルロットの手首は急に掴まれ、引き寄せられる形でジェイドと共に彼のベッドへと倒れ込んでしまった。
「……先生?」
「魔力が切れてる、からかな……寒い」
訝しがるシャルロットに二の句は言わせないとばかりに、彼女を抱えて茶色の混じる金の髪に顔を埋めるジェイドからくぐもった声が聞こえる。
魔力切れを起こしているという事を、シャルロットはここで初めて知る。確かに、いつものジェイドならばずぶ濡れになった髪や服など魔法でちょちょいと乾かしてしまうからおかしいとは思っていたのだが、魔力切れならば合点がいく。
魔力のなくなったシュルクは体調を崩してしまう。頭痛であったり、目眩であったり、中には発熱する者もいる。
この土砂降りの中外に出ても、水に足を取られどこにも行けないだろう。
一晩寝て、少しでも魔力を回復した方がいい。その為に少しでも協力出来るなら、添い寝の一つや二つ安いものである。
短くはない時間を泣く事に集中していた為か、魔力切れを思い出した頃にはすっかり身体を冷やし体調を悪化させ震えるジェイドは、まるで大きな子供のようであった。