49 ピアスと傷痕
水の女神を象る像を祀る教会が、その女神の力により水没していく。今まで無償で提供されてきた恩恵は、突拍子もなく民草へと牙を剥く。なんて笑えない冗談なのか。
案の定、人などいなくなりもぬけの殻となっていた無人の教会の三階に、ベッドが並んでいる部屋があるのをシャルロットは見付けた。
まずは部屋の一番奥にあった椅子にジェイドを座らせるような形で降ろす。このまま寝かせても、髪も服も酷く濡れている為ベッドの中も大惨事になってしまうからだ。
少し外が煩くなって来たとシャルロットは感じていた。窓から下を見下ろせば、先程まで人の影が見えなかった道に人がごった返している。それらの人集りはエストリアル方面からやって来たようで、シャルロット達のいる教会の前を一目散に横切るようにして、更に遠くへと逃げていく。
彼らはこの街の者ではなく、エストリアルから避難してきた者だ。無我夢中で走ったシャルロットは、エストリアルの正面門の閉門時間よりも先に街を抜けられたのだが、どうにもエストリアルの民達は閉門時間を過ぎて避難しようとして検問に引っ掛かってしまったようだった。なのでこのような時間差になってしまったのだろう。
カーテンの影に隠れるようにしながら王都の方へと視線をやれば、いつの間に降り始めているのか、それとも地面から吹き上がっているのか──雨の中に滝のような水柱がいくつもあるのが見える。水量と水圧は圧倒的なようで、その水柱はエストリアルの美しい清廉な町並みを中心部から破壊していく。白い壁の家屋が、その水圧に触れた途端に瓦礫の山に変わっていくのを見てしまった。
人々が王都から兎に角遠くへ離れようと逃げていくのも納得だ。
その水柱達は今のところ、エストリアルから外の街へは牙を剥かないようである。シャルロット達のいる教会周辺には未だ落ちる事はなかった。
皮肉にも、水のヘリオドールの恩恵を強く受けられていた城下の街は、今まで受けていた恩恵の利子分を回収されるかのように無慈悲に蹂躙されている。
カーテンを閉めて振り返りジェイドの様子を伺う。冷えて青ざめる彼の表情を見て、シャルロットは自分自身も頭から足先までずぶ濡れになっているのも構わずに、テキパキと動き始める。
ベッドがあるという事は、ここは怪我や病気の者を治療する為の設備が揃っている教会だという可能性が高い。
そうでなくとも、あの部屋にはベッドが四つも並んでいたのだ。司祭達の仮眠室か宿泊施設かは分からないが、兎に角最低でもベッドの為のシーツくらいはあるだろう。
もしかしたらタオル、あわよくば病衣の備えもあるかもしれない。それらを確保しに、シャルロットはリネン室を探す。
目的の部屋は同じ三階、というより隣の部屋であった。最初の目論見通りに、この教会は病人や怪我人の治療を目的としているらしく、簡単な着替えやタオルは充分に備えてあった。
そこから二人分の着替えと、持てるだけのタオルを持ってジェイドの元へと戻る。
彼はまだ、眠るように気絶していた。ヘリオドールの気配すら感じない。複雑に結われた髪も、いつぞやシャルロットへと羽織らせてくれた外套も水分を吸えるだけ吸ってずしりと重たくなっているように見えた。
このままでは風邪をひいてしまう。ただでさえ現在彼は調子が悪そうなのだ。ヘリオドールを破壊するにあたり、魔力を注ぎ込んだなど聞いていないシャルロットは彼が気を喪った理由が魔力切れである事など、気付きはしない。
大量の出血は見られないとはいえ、頬や首筋に走る赤い線が気になる。身体中切り傷だらけである。にも関わらずそれを魔法で治す事なく意識を手放す程に、何かがあったのだろうかと察するしかない。
手当てするにもその為にはまず、この肌に張り付いた衣類を脱いでもらわなくてはならない。シャルロットはそっとジェイドの肩を揺すった。
「先生……お召し物を変えて頂きませんとベッドにお運びもままなりません……どうか目をお覚まし下さいな」
無反応である。
どうしたものかとシャルロットは思考を巡らせる。脱がせて着替えさせるなどという芸当は、嫁入り前のシャルロットにはハードルが高すぎる。
然し今は緊急事態だ。このまま放置しても、風邪のリスクは上がるばかりで良い事など何一つもない。それぞれが小さいとは言え、傷の具合も気になる。手当ても兼ねて、シャルロットの手で脱がしてしまった方が良いのかも知れない。
窓硝子から見える外の景色も、雨とは言えない量の水が降り注ぐばかりで一向に止む気配を見せない。
まるで皮肉にも、シャルロットの悩ましい焦燥を如実に表しているかのようだ。
成人男性一人を勝手に脱がせて着替えをさせる。
シャルロットは真顔でその考えを頭の中で反芻すると、やがて顔から火が出たかのように頬を真っ赤に染めた。
自身もずぶ濡れである事など忘れてしまいそうな程に、顔が熱を持つ。
否、決して自分が痴女であるとか、そういった事はないのである。やむにやまれぬ致し方ない正当な理由があり、それしか方法がなく他にはどうしようもない為実行するのだ。ただそれだけである。
取り敢えずそうだ、髪を拭こう。そうだそれがいい。髪が濡れていては折角着替えても水気で台無しになってしまうだろうから。一番最初に髪を拭くのが正しいのだ。正しい事から一つずつしていこう。
シャルロットは自分にそのように言い聞かせると、いそいそと大きめなタオルを手に取りジェイドに向き直って髪の結び目に触れた。
ジェイドの髪はかなりの長さがある。一度解いてからの方が拭きやすいし、ベッドに運んでからの事を考えると本人も眠り易くて良いだろうと思えた。
「ええと……」
然し、一本一本が重さを増した髪は解くのも一苦労である。ジェイドは複雑に髪を結っているから尚更だ。軽く指を引っ掛けた程度では解けそうにもなかった。
「んっ、……と。えー……どうしたらいいんだろ……ここをこうして…………」
灯りはカーテンの隙間から射し込む月明かりのみという部屋で、目を凝らして必死に指先を動かす。然し解けない。焦れたシャルロットが若干の苛立ちを込めながら、少しばかり乱暴に手を動かせば手元からプチプチと嫌な音がした。
「あわ、わわわ……す、すいません先生……」
数本抜けた、と言うよりは切れたらしい。馬鹿力で申し訳ないと思いつつ謝罪するが、それでも目覚めないジェイドからは許しも得られない。
解くのは無理だと悟り、仕方がないのでそのままタオルを被せて水気を布地へと染み込ませていく。シャルロットが弄った事により一層乱れた髪は拭くのも一苦労な長さだが、精神的には着替えさせるより断然やり易いというもの。
折角髪を拭く作業に集中し、忘れかけていたこの後の作業内容を思い出してしまえば再びシャルロットは真っ赤に茹で上がる。タオルを持つ手は、恥ずかしさを掻き消すように激しく動く。
その時に、タオルがジェイドの右耳のピアスの金具に──闇の魔力を抑え込む封具に引っ掛かった事にシャルロットは気付かない。
照れる彼女が扱うタオル捌きにジェイドは痛みを感じる事もピアスホールを傷める事もなく、それを外されてしまった。封具である黒い石のピアスはキャッチ諸共、灯りのない部屋の床へと転がっていく。
ジェイドを着替えさせる前に一度落ち着こうと、彼をまた無意味に濡らしてしまわぬようにとの意味合いも込めて自分の髪をタオルで拭き、スカートの裾を絞るシャルロットの背後に黒い靄のような塊がうぞうぞと這い回る。
シャルロットはまだ、ジェイドが闇の魔力まで保有しているだなんて聞いてない。ジェイドと出会った初めの日に、共にヘルハウンド相手に仕事をしていた二人組の男達が、最終的に彼の闇の魔力により死んだという話など聞いてはいないのだ。
右耳のピアスが、それ程までに大切な役割を担っているなどという話すらも聞いてはいない。
自分に忍び寄る恐ろしい影になど、気付く筈がない。
けれどそれも当然の事。
ジェイドの意志とは無関係に、自発的に発動する闇の魔力により床に堕ちた不穏の種は、その場で震えたり多少伸び縮みするばかりで一向に化物の形になりて数を更に増やそうという気配を見せない。
言葉すらも発さず、移動すらままならないようだ。それ程までに本体であるジェイドに魔力が足りないのである。
存在感がまるでないそれを全く意に返さずに、シャルロットはとうとう彼の身体を冷やし続ける衣服のボタンに手を掛ける。
手が震えるのは冷えか、羞恥心か。そんな事、今は気にしていられない。少女は「そう」と決めたら強かった。下唇を噛み締めてはいるものの、なるべく無心を装いプチプチとボタンを外していく。
外套は大きく左右に開き、ベストの前も開け緋色の石がカメオとして使われているスカーフリングを引き、胸元を飾るスカーフを外してしまう。そして白いシャツのボタンまでも開けていけば、 細身ながらも多少筋肉の見える胸元から腹部までが顕となった。
シャルロットは余り見ないようにと自分に言い聞かせながらも、そこはやはり年頃だからか異性の身体に興味がないと言えば嘘になる訳で。一応は建前として、服を着ていると見えない所に怪我がないかの確認も兼ねている。
結果として、目を細めてはいるものの割としっかりと見てしまっていた。
そこで彼女はある事に気付いた。
彼の左胸、若しくは脇腹とでも言うべきだろうか。その辺りに傷跡があるのだ。まるで、剣やナイフで斬られたか刺された傷を、縫い合わせたかのような痕である。
全く血の色を見せず、周囲の肌色より多少濃いだけの色合いから古傷である事は一目瞭然だ。
ジェイドのような魔力の持ち主でも、綺麗に消せない傷もあるのだなと思う反面、こんな所を刺されるような事など、一体何をしてしまったのだろうかとも思う。
余計なお世話かも知れないがこんな時に限ってシャルロットは、先日ジェイドが部屋に招き入れた女性と別れ際にキスを交わしていたのを思い出す。そして、何となく彼の傷口を今一度見つめる。
いやまさか女性絡みの痴情の縺れなどではあるまいな、などと思いながら傷口から顔を上げるとジェイドと目が合った。
「わあああ……っ!?」
驚いて悲鳴を上げるシャルロットの口は、ゆっくりと挙げられるジェイドの右手にて弱々しく塞がれてしまった。
シャルロットがしっかりと黙った事を確認してから、ジェイドは手を降ろす。
「煩い……」
「……す、すいません」
意識もヘリオドールではなくジェイドのようだ。表情と、声の出し方でシャルロットには何となく分かる。その表情もやはり青ざめたままで、疲労の色が濃い。
いつの間に起きていたのだろうか。どこから見られていたのか考えると、恐ろしい気持ちになる。
起きている事が精一杯なのだろう。目はすぐに苦しげに、虚ろに伏せられ、喋る為に口を動かす事すら辛かったのか息が上がっている。
そんな彼でも異変にはすぐに気付いたらしい。次に目を開けた時に、部屋の隅で蠢く影を見付けたのだ。
「……ッ、俺の……ピアス……!!」
咄嗟に手を上げ右耳に触れる。ない。
闇の魔力を制御する為の石がないのだ。
軋む身体に鞭打ち、椅子から滑り落ちるようにして床へと倒れ込む。然し、すぐに両手を床について上半身を起こすと暗がりの中で月明かりのみを頼りに、霞む目でピアスを探し始めた。
「先生……!? どうなされました……?」
「ピアスだピアス! 君も探してくれ……!」
ピアス。何の事だろう。
普段ジェイドの右耳は、結われた髪に隠れて見えない。だからシャルロットも、ピアスの存在なんてジェイドが左耳に二つ並べて付けている物しか認識していなかった。それは二つきちんと、左耳で揺れているのだからそれではないらしい。
まだそれ以外にもピアスを付けていたのか。それも、こんなにも必死に探すのだからさぞ大切なものなのだろう。彼がそのように焦る理由が分からないまま、シャルロットは呑気にそんな事を思いながらも師に倣い床に膝をついた。