45 今、果たされる
なだらかな丘を登り二人はやがてサエスの王城の、恐らく近くへと辿り着いた。恐らく、というのはやはり城が巨大過ぎて見上げながら近付いた所で目で距離感を測る事が難しかったからだ。
ならばどのように「辿り着いた」と判断したかというと、身体に少量かかり始めた霧雨のような冷たい水飛沫の存在を感じての事。
噴水のように沢山連なる塔から水を排出し続けているその城は、近付くとまるで霧の中にいるかのような空気を纏っていた。髪や肌に水分が少しずつ含まれていくのを感じる。
歩けば歩く度、城に近付けば近付く程に寒さを強く感じる理由を、シャルロットは今漸く気付いた。自分の両腕を摩るようにして少しでも熱を作ろうとする少女の仕草に、ヘリオドールは今一度尋ねる。
「……着ますか? これ」
裾を摘んで示すのはやはりジェイドのケープ型のマントだ。それはジェイドのだからと、やはりシャルロットは首を振り拒絶する。
鳥肌まで立たせている少女の姿に、流石に男は溜息を吐いた。
「普通の男として愛と誠意を示したかったのですけれど……仕方のない子ですねぇ」
そう呟くとヘリオドールは右手をシャルロットの頭へと翳す。何を、と問う前に少女の身体は足先から頭の天辺まで順次、ゆっくりと温かい熱に包まれていった。
何かを着せられた訳でもない。見た目には分からないが、つい五分前まで人が使用していたベッドに残った毛布に包まれたような温かさが急激に襲ってきたのだ。火属性の魔法で発生する熱をシャルロットに付与したのである。
確かにこれは“火属性の魔力の強い者”にしか出来ない事であり、“一般的なシュルクの男性”の温め方とは程遠い。彼は、彼自身の意志がこのように他人と関わる事自体、まだ片手で足りる程の回数しか経験した事がない為か、魔力を使わない普通のシュルクのような行動に対して憧憬のようなものを密かに胸の内に抱いていた。
ジェイドの目を通して、魔力を使わない一般的な行動たるものを逐一見て学んでは来たものの、それを自分の手と意志で実際に起こして他者を喜ばせてみたいと、心のどこかで願っていたのだ。その相手に愛しいシャルロットを据えておけるのならば、こんなにも幸福な事はない。
然しジェイドの羽織りを本人の無許可で貸す事が、愛と誠意を示す事になるのかとシャルロットが疑問にも思うのもまた然りなのである。
一体彼はどこを目指しているのかと首を傾げたくなるものだが、突っ込むと面倒な事になりそうでシャルロットは口を閉ざした。
突然の気温変化に少女の身体は戸惑うが、どう考えてもそれは目の前の男の一応の気遣いと取れるものであり、渋々といった様子で小さく頭を下げる。
「…………有難う御座います」
「いえいえ。女性は身体を冷やすなんて以ての外ですから。貴女も何か羽織りくらい…………嗚呼、また別の日に僕が選んで差し上げ、」
「それは結構です」
それを許可してしまうと、また近い内に彼が昼間の──厳密に言えば、衣類店が開いている時間帯などに顕現してしまう。シャルロットはそれを良くない事なのではと考えていた。
ジェイドを二重人格だと見るならば、今まで暁闇の時間のみに現れていたヘリオドールの意識が昼にまで現れるということは、その間ジェイドの意識が押さえ付けられる事を意味する。ヘリオドールの人格は後天性で生まれたと言っていた事を考えると、彼がイレギュラーな存在である事は明白だ。
そんな彼が、本来ならば主人格であるだろうジェイドの意識が使用出来る時間を、勝手に食い潰してしまう事をどうしても良しとは思えない。
シャルロットとしてはヘリオドールの事は多少苦手意識はあるものの、嫌いな訳ではない。然し、ジェイドと一つの身体を共有しているとなると話は別だ。
ヘリオドールが起きている時間帯、ジェイドの意識は眠っているとしても身体は休まらないだろう。
ヘリオドールの意識がこのように自由に露出する以前ジェイドから、夜にオリクトを壊してしまうという話を打ち明けられた時には、意識がなくとも勝手に動く身体のせいで体力的には休まらない為に困っていると聞かされていたのだから。
もし、この時間だって出掛けずにヘリオドールが大人しくベッドの上で過ごしてくれたなら、ジェイドの身体は少しばかりの休息を得られたかもしれないのだ。然し、だからと言って折角意思を持ち「色んなシュルクと話してみたい」と屈託なく笑うヘリオドールを、頭ごなしに拒絶する事もシャルロットには出来ない。
どうするのが一番正しいのか、もう少女には分からない。因みにシャルロットがどうしたい、こうしたいと言ったって結局決めるのはヘリオドールとジェイドなのだから、考えるのは無駄だと言われてしまえばそれまでだ。
考えが纏まらず、自身の感情の取得選択がまるで出来ないシャルロットにとって、それは本当は有難い事だ。答えを有耶無耶にして、ヘリオドールに対して中途半端な態度ではぐらかせてしまえる。それが酷く残酷な事だと知りながら。
そう考えを巡らせている少女の視界の隅で、ヘリオドールは動きを見せた。脚先に風属性の魔力を巡らせ展開し、バランス良くふわりと浮かび上がるとシャルロットへ振り返る。
「では、ここからが本題です」
「お、お城の壁に落書きとかは絶対に駄目ですからねっ!?」
シャルロットは胸中に再び蘇る、忘れかけていた嫌な予感を思い起こしてヘリオドールが高い所へと行ってしまう前に、何とか背伸びをして青い外套の裾を掴む事に成功した。
そんな必死な少女の顔とは対象的に、男は楽しげにクスクスと笑みを零す。
「そんな事はしませんからご心配なく。……落書きをするより簡単なお仕事ですよ?」
しない、と言われればシャルロットは大人しく、彼を掴んでその場に留めていた指先を解く。落書きをするかも、なんていうのは完全にシャルロットの妄想であり、確かにそれを理由に慌てるのは些か早合点も良いところである。
然し、やはりヘリオドールの言い回しには引っ掛かるものがあった。
「……お仕事?」
「はい、そうですとも。これが僕の先程お話をしなかった、“貴女にお話出来る分の目的の総て”。これさえ協力して下されば僕はもう金輪際、オリクトも割れ物も何もかも、大切に扱うと誓いましょう」
こんな城の真下で何をしようと言うのか。まさか盗みでも働くというのか。有り得ない話ではないが、シャルロットは先程自分の妄想に早合点したばかりだ。少し落ち着かなければ、と少女は首を左右に振る。
シャルロットの視界は霧のような水飛沫と夜の闇に阻まれるが、月の光に照らされ蒼白く輝く白亜の城壁は、きちんと目の前の建造物をこの国の象徴である城だと示してくれる。
城の周りは大きな堀に囲まれている。魔石である水のヘリオドールを内包するこの城は、そこから取り留めなく溢れる水を国営に使いここまでサエスを繁栄させてきたのだ。
水のヘリオドールを安置している高い塔から城壁を滑り落ちるようにして流れる水を一度堀に貯めてから、水路を使いサエス中に水を運んでいる。
堀には橋が掛けられておらず、城門へと渡るには城の中から跳ね橋を降ろしてもらうしかない。然し、こんな夜更けに他国からの使者ですらない、ただ城を訪れようという者の為に橋を降ろしてもらえる事など有り得ない。
陸路は兎も角、水路としては繋がっているのだから城下町から小型船を使って堀を突っ切ってしまう事も傍目には出来そうに見える。然し、水を街々へと送る為の用途しか成さない堀はほぼ貯水すらもせずに、放流ばかりをしている。その勢いはいずれの放流口も小さな滝であり、船などで登っていくのは到底不可能だ。
彼が風の魔法で飛んで、堀の上にその身を浮かべてしまえばそれだけで不法侵入となる。堀までサエス王城の敷地内なのだから。
シャルロットは彼が城の中で、あるいは外で何をするのか聞いていない。約束では「目的は聞かずに協力」である。ヘリオドールの口から語られる話以外の事を、率先して聞き出す事も憚られてしまう事は宿を出る時に実証済だ。
だから、シャルロットには結局待つ事しか許されてはいないのである。自分がここで、この場で何をすればいいのか。その指示を。
「それでは、僕はちょっと……城の中で会いたい方がいるので逢ってきます」
「逢いたい方、ですか?」
「ええ。その面会が終わった後に、シャルロットには一走りして頂きたいのですが」
城の中に逢いたい人物。王族に知り合いでもいるという事だろうか。その知り合いとは、ヘリオドールの知り合いなのか。それともジェイドの知り合いなのか。恐らく後者だろう。
王族は視察などが無ければほぼ王都から出る事はなく、ヘリオドールの人格が表に出るようになったのもここ最近、アンダインの夜が初めての事。サエス最南端のアンダインから中心地エストリアルへと向かうこの短期間の内に、王族と接点を持つのもまた難しいだろう。
ジェイドならば王族並、あるいは凌駕するような魔力量を持つ為に王族に何らかのコネクションがあっても何ら不思議ではないとシャルロットは考えていた。然し、だったら何故その繋がりをヘリオドールが利用するのだ。ジェイドの振りをして、ジェイドとして会うつもりなのだろうか。
それに一走りの意味も分からない。
お使いか何かだろうか。それにしては、もうどこの店も閉まっているようなこんな時間に頼むのは無意味だとも言える。
否、シャルロットはああだこうだと考え何とかして彼を引き留める理由付けを考えているだけであり、その考えのいずれもが無意味である事は理解している。これこそが無意味なのだ。
これさえ。これさえ終わればオリクトを壊さないと約束してくれたのだ。つまり従わなければ今後も、ジェイドの睡眠時間を削ってまでオリクトを壊す事を意味している。
こんなものはお願いや頼みではないなんて事、シャルロットはとうに気付いている。これはジェイドとオリクトを使った脅迫だ。
それを拒否する権限のない少女が思考を無意味に捏ねくり回すのは、ある意味現実逃避とも言えるのだろう。