43 終幕と開幕
取り敢えず未だ料理は大量に残っているし、それらをつまみながらジェイドは自分の方へと向けられるカインローズの赤毛で造られた旋毛を何となく眺める。
その視線は次に、高い天井に合わせるように作られた背の高い窓へと移される。もう随分な時間をここで過ごしてしまったようで、既に陽はとっぷりと沈み込み夜の帳が星々を連れてきて、秋空の中で何やらもの哀しげにも煌めく銀の月が雲間から覗いていた。
そろそろ一人での行動を始めて酒場なりに移動しないと不味い。流石に、オリクトの守護者たるセプテントリオンの彼の目の前で、我を忘れてオリクトを破壊するような真似はもう見せたくはない。一度許され与えられたチャンスと、疎ましいとは思えど共に食事を出来るまでになったこの妙な関係性を、オリクト共々壊してしまいたいとは思わなかった。
ジェイドはいよいよカインローズを揺さぶり起こそうと、その肩へ手を伸ばす。
然し、その手の動きはぴたりと止まる。
止まった指先は、その指先を彩る黒い爪は。宙を掻くようにしてそっと降ろされてしまった。
周囲の者はジェイドの変化には何一つ気付かないだろう。眠り続けるカインローズですら知る事はない。
ジェイドの精神を蝕んでは上から押し付け、押し退けて発現する“彼”は、何事も無かったかのような涼しい顔で無理矢理「交代」すると、静かに席を立った。
「さて、少しばかり早いですが僕はシャルロットと約束が御座いますのでこれにて失礼致します。……ご馳走様、カインローズ。楽しかったですよ」
楽しかった、とは勿論“内側”からジェイドとカインローズのやり取りを見ていた、第三者としての意見だが。高みの見物はなかなかにオツなものであった。
勿論今は未だ、深夜二時には至ってはいない。シャルロットのお陰で、彼女と会話をしてみたいという想いの中で自我を確立させた“彼”は、同時にある程度の自由も手に入れた。
このように、自分の存在にすら気付いていない間抜けなジェイドの人格を上から抑え込む事など造作もない。
カインローズや自分自身に恥をかかせまいと努力するジェイドの気持ちすらも知った事ではない。
酔っ払い一人放置し店に迷惑をかけたとしても、“彼”にとってはそれはカインローズ自身が招いた事であり、その罪は身を以て贖うべきだとも考える。
愛しいシャルロットの姉の上司をこんな所に放置するのは何とも心苦しいが、彼は学習するべきなのだ。そして、学習する機会を与えるのもまた“愛”である。
出口まで行くと、連れを放置し会計をする気もなさそうな素振りの“彼”を当たり前のように男性店員が止める。
然し何の事はない。“彼”はシュルクに、人に使うべきではないような強い光魔法を人知れず、躊躇なく使う。
膨大な魔力を込めた人差し指で店員の眉間を軽く小突いたのは、ほんの一瞬だった。
「お代の請求はあそこのテーブルの彼にお願いしますね」
「あそこの……テーブルの……」
「そう。宜しくお願いします」
あんな面倒くさそうな酔っ払い一人を放置して店を抜け出そうとするなんて、例え前金を支払っていても止められそうなものだが、眉間をつつかれた彼は今にも眠って倒れてしまいそうな光の灯らない目で、すんなりと納得すると扉を開け放った。
大量の光の魔力を脳に直接流し込まれた彼の見ている、「テーブルにいる彼、カインローズは起きている」という幻覚、暗示もすぐに解けるだろう。流し込んだのは一瞬だったのだから。かけた魔法が切れる頃には体調を崩し、翌日の出勤は出来なくなるかもしれないが。
“彼”は特にそれ以上他人を心配に思う事もなく、シャルロットの待つ宿へと戻るのだった。
宿の一室にて、シャルロットは開け放った窓の縁に肘をついて身を乗り出し、美しく雄大なサエス王国の象徴でもある、水のヘリオドールを内包する一つの噴水のような城をぼんやりと見上げていた。
「……」
先程までは昼間のジェイド──否、“彼”の言動や態度を思い返しては照れたり憤りを覚えたりなどを繰り返し、頭の中はてんやわんやで忙しかったが、今ではすっかりと落ち着きを取り戻してしまった。
落ち着いた、というよりは心と頭を振り回され続ける事に疲れてしまったというべきか。
部屋には燭台の輝きが一つだけ。オリクトを使用したランプの灯りも安全性も高く好ましいのだが、今日は何だか素朴な火の温かさが欲しかった。勿論光属性のオリクトと比べると本物の火の為、燭台が倒れてしまえば火災になり兼ねない。取り扱いには十分に注意が必要である。
チラチラと、揺れる焔に炙り出されるシャルロットの影が、周囲の闇に不意に溶け込んだ。燭台の灯りが消えたのだ。
窓から吹き込んだ風により掻き消えたのかと思い、少女は月明かりを頼りに再び火を灯そうと室内を振り返る。
「きゃっ……!」
その無防備な姿を、目元を他人の両手に覆われ視界を隠される事により少女は短く悲鳴をあげた。
「さて、誰でしょう」
一瞬暴漢の類かと思い身を固くしたシャルロットではあったが、耳元で囁かれる聞き覚えのある男性の声に多少緊張を解く。
然し、返答する事は叶わなかった。
「誰でしょう」と問われようとも、シャルロットは“彼”の名を未だ知らないのだから答えようがないのだ。
そもそもどうやって入って来たというのか。音もなく、気配も殺して近付いてきて、やる事がこんな子供じみた悪戯である事にシャルロットは少しばかり呆れてしまう。
パッと視界が開ける。とは言っても灯りは消されたまま。視界は月光と窓の外のオリクトの街頭の灯りでの確保となる。
振り返り、背後の男を確認すれば月明かりになぞられて浮かび上がるそのシルエットは、やはり見覚えもある人物のもので。
「ヘリオドールです」
「……はい?」
穏やかな笑みを浮かべて立つ、師の身体を間借りしている“彼”の口は何故か今、この場には全く関係のない物の名を吐き出した。
それはこの世界各地に散らばる、神の贈り物の名前だ。所有者を王族たらしめ、人を集めそれぞれ大国を築きあげ、やがてそれらに女神が宿ると誰かが言い出し、人々の心に信仰心までもを生み出した、この世界の絶対的存在である魔石の名だ。
意味が分からないとでも言いたげなシャルロットを見下ろして、“彼”は今一度丁寧に唇を動かして発言する。
「ヘリオドールです」
「ヘリオドールが……どうされたのですか」
「前に言ったでしょう? 次会うまでに名前を考えておく、と。僕はヘリオドールと名乗る事に致しました」
さらりと。
本当にさらりと言ってのけた目の前の男を、クリクリとした両の目で穴が開く程凝視するのにシャルロットは忙しく、二の句が舌先から転がっては来ない。
そんな少女にマジマジと見つめられる事で、ヘリオドールと名乗り始めた男は何故か幸せそうにはにかんだ。
「……そんなに熱っぽく見つめないで下さい。照れてしまいます」
シャルロットとしてはそんなつもりは毛頭ないので、これ以上勘違いさせないようにとせめてもの優しさで目を逸らす。そうして、一応無駄な気もするが忠告する。
「ヘリオドールって……余りにも烏滸がましすぎませんか」
「そうでしょうか? 女神の加護にあやかろうと、彼女達の名を子に名付ける親だっているでしょう? それらは良くて何故僕がヘリオドールと名乗るのは駄目なのでしょうか」
確かに、女神達の名は各国の宗教において信仰心の強い夫婦の間に女児が生まれた場合など、付けられる事も多々ある。流行りの名では、ない事はない。
けれども“ヘリオドール”と言うのは、言わばその女神達の総称のようなものだ。それを親に名付けられたなら未だしも、自分から名乗るだなんて贅沢にも程がある。
「総てのシュルクを愛そうと思う僕が、総てのシュルクから愛される魔石の名を名乗る。……妥当だとは思いませんか」
その贅沢も烏滸がましさも「妥当」と言い切る傲慢不遜なこの男。──改め、ヘリオドールに対しシャルロットは溜息を吐くしかない。
「……確かに。貴方くらいしか名乗れないような名前ですね、ある意味」
「でしょう?」
少女の首を無理矢理縦に振らせた事で、男の表情は更に明るくなる。とても良い笑顔ではあるのだが、ジェイドの身体の筈なのに微妙に無機質さが垣間見えるのは仕方のない事なのだろうか。
「では、……改めて宜しくお願い致します、ヘリオドール様」
「こちらこそ。……シャルロット」
彼は目を伏せるとその場に恭しく跪く。まるで姫君の元に馳せ参じた王子か、令嬢に仕える従者のように。
月明かりの下、少女の細腕を手に取りその白い手の甲に口付け──ようとした所で手を振り払われた。
払われたヘリオドールは何が起こったのか、何故振り払われたのか分からないと言わんばかりの表情で少女を見上げる。シャルロットは怒りの感情で瞳の黄緑色を揺らめかせながら、秋月の寒々しい光の下でも一目で分かる程頬を赤く染めていた。
「接吻はお嫌でしょうか?」
「…………」
尋ねても返事が返ってくる事はなく、だんまりである。ヘリオドールからすれば挨拶のようなものなのだが、シャルロットはどうやらこの挨拶が好きではないようだ。
どうでもいい事だが。
彼は少女から直接「止めろ」と言われても早々止める気はない。彼にとって愛を伝える事こそ至上の喜びであり、親愛を唇に乗せて贈れるのであればいくらでも少女へと贈りたいのだ。いずれ迎える可能性のあるセラフィス家の婿養子殿の為に唇はとっといているのだから良いではないか、というのが正直な感想だ。
独善的で一方的で押し付けがましい愛情表現は、対象からの愛を欲しがらない代わりに相手の事は一切考えない。
ジェイドが自己嫌悪や自信の喪失の果てにいつの間にか沢山棄ててしまった“愛”を、今度は一つ残らず取り零さずに掻き集めて一つ一つ、他者へと分け与える。
それこそが自分の使命であるとも、ヘリオドールは感じているのだから。