40 ラム酒と揺蕩う
カインローズに連れられ辿り着いたのは大衆食堂であった。本当にこんな時間から食事を食らい酒を煽るのかとジェイドは呆れたが、ここまで来たのならば腹を括るしかない。この場にリーンフェルトがいないだけでも心穏やかに食事を口に出来るというもので、まだ及第点だとも思った。
大衆食堂と言ってもここは王都エストリアル。天井は高くアーチ状になっていて、大理石の壁には豪奢で綿密な絵画が存在していた。食堂ですらも周辺の街とは一線を画する。
水のヘリオドール、女神リーヴェを愛するサエス王国を象徴するかのような絵画は、まだ人が見ぬ深海の水底を描いていた。泡の中に踊る色とりどりの魚達、水棲の美しいドラゴンや魔物達。その中心で微笑む嫋やかな女性は、恐らく水の女神の御姿であろう。まるで店の中そのものが美しい宗教画であり、水中の世界のようである。
それらに囲まれた空間の中、ジェイドの目の前にいるのがカインローズである事が相当なミスマッチである。じっと彼を眺めていると脳が混乱しそうだ。何というか、何と言っていいのか分からないが兎に角辛い。
店員に勧められついた木製の丸テーブルの上、ジェイドは手を組んでメニュー表を手に取る事もなく、なるべくカインローズを視界に入れないようにと視線を逸らし続けている。
そんなジェイドの気も知らず、カインローズは呑気に店員をテーブルへと呼び付けては注文なんぞをしている。
「飯といえば肉だな! 肉にしよう、肉でいいよな?」
「え、ああ……」
勢い良く捲し立てられれば、ほぼ思考を放棄していたジェイドは頷くしかなくなる。然しそんな彼を放り出してカインローズはドンドン話を進めていってしまう。それを制すかのように、店員はやんわりと声を掛ける。
「お客様、当店自慢のメニューはこちらにも御座いまして……」
「オススメは魚だと? なら魚でも良いや。ジャンジャン持ってきてくれ。あっ、あと酒な酒」
店員が指し示したメニュー表には魚料理の名前が連なっていたのだろう、然しカインローズは適当に相槌を打つだけ打ち、然も最早マトモに注文すらせず「ジャンジャン」などという内容も不明瞭な指示だけ残して店員に丸投げしてしまう。然し対する店員もプロ中のプロ。頭だけ下げると奥へと引っ込んでいってしまった。
再三気になってしまうがこんな、まだ空もオレンジ色に染まり始めたとはいえ陽が顔を出している時間帯から酒など飲んで良いのだろうか。
この際食事は構わない。魔力が多く、魔力使用量もまたかなりの多さであるジェイドは一日に摂る食事の量も相当なものだ。
今でこそ一食に対しての量を増やす事で食べる回数を抑えてはいるが、平均的な一般市民と同じような量を食べるのなら一日三食とアフタヌーンティーでは足りない程。一日もう二回程食事の時間を設けてもいい程であり、それが彼の細身な身体の原因である事は彼自身が良く理解している。単純に栄養が足りてないのだ。
女漁りで向かう酒場などでは必ず酒と共に重めのツマミも注文するし、ギルドで受けた仕事などの都合で食事を摂る時間もない外でなら、飴玉で飢餓感と口淋しさを誤魔化すのが常である。
それよりも問題は酒だ。別に光魔法の自浄作用さえ展開させてしまえば余程の事でない限り酔いはしないだろうが、こんな美しい店内でまるで蛮族のように立て続けに注文してしまうカインローズは、傍から見ても悪目立ちしている。見兼ねてジェイドは諌めようと口を開いた。
「なぁ……」
「なんだ? 魚嫌いだったか? 魚も食べないと強くなれないぞ」
違う、そうじゃない。
というかジェイドの強さなど、あの日のリーンフェルトの怪我の具合から察する事も出来るだろうに、これ以上ジェイドを強くして彼は一体どうしたいというのだろうか。
「……魚は嫌いじゃない。美女が骨取ってくれる焼き魚なんか最高の一品だと思うよ。目の前にいるのが美女じゃなく筋肉の分厚い野郎という点だけが残念でならないとも思うが」
「まあそう言うな。たまに筋肉見ながらの飯も悪くないだろ」
「…………その言い方本当止めてくれ、飯が不味くなりそうだ」
本当に、彼は一体どうしたいというのだろう。ジェイドは妙な身の危険を感じ、全身に鳥肌を立たせる。風が吹き込んでくるような建物の構造ではないのに、背筋に冷たいものを感じた為こっそりと自分の周囲に炎の魔力で熱を精製してみる。
カインローズは、自分の身体が酒の肴になるとでも思っているのだろうか。否、まさか。
流石にそんな狂気的な発想をされれば、ジェイドだって着いてきた事を後悔もする。そもそも彼と初対面の時、ジェイドはカインローズを疑った。あの時彼は何と言ったのだったか。
『──まともな身体で帰れると思うな』
そうだ。リーンフェルトを傷付けた直後に現れた彼女の仲間、カインローズ。彼に対してジェイドが緊張を緩めずに魔力飽和状態で威嚇し続けていた時、そのように言ったのだった。
混乱した頭で聞いた為にその意味を盛大に勘違いしたジェイドが彼に男色家の趣味を問うたのだが、返ってきたのは否定の言葉だった。それも今となっては疑わしい。先のような言葉を聞いた後だと、特に。
然し既に酒や料理なども注文が済んでいる為、後には引けなくなっている。
別に自分の分の金を置いてカインローズをこの場に残して店を後にする事は至極簡単だが、こんな破天荒な行動と台詞を吐く人物を昼間から酒と共に放置してしまうのは重大な罪である気がしてならない。
平たく言えば王都エストリアルの店にカインローズが迷惑をかけ、それがジェイドが身勝手に放り出した事により助長してしまったものだとバレた場合、いよいよサエスにいられなくなるのではないかと──そんな馬鹿馬鹿しい理由でいられなくなるのではないかと、気が気でならないのだ。
だからジェイドはこの場に留まる決意をする。例え彼が男色家だとしても、なるべくそれを否定はしない心構えだ。相手にするかどうかはまた別として。
「まさか君、本当に男が好きなんじゃ……」
「だから、そんな顔すんな! 俺もそんな趣味はない」
「…………」
そんなにも顔に出ていただろうか。確かに、意識をすれば眉間に皺が寄るのを感じた。それを人差し指で揉むように伸ばしているうちに酒が運ばれてくる。
磨かれたグラスの奥底に蒼さを湛えて水の雫のように煌めく石、Cランクの水のオリクトが嵌められている。水系統の魔力で氷並みに急速に冷やされたグラスは、オリクトを中心に氷煙を纏っていた。ウェイターの持っていた胡桃の箱から取り出されたのはラム酒のボトル。濃褐色の液体がボトルの中、揺らめき踊っていた。
「……」
ジェイドは叫びたいのを必死で堪えた。店員がいる前で声を荒らげてしまうのは品性に欠ける、そう思っての判断だ。ウェイターがグラス二つにラム酒を注ぎ、付け合せのソーセージの盛り合わせを置いて去ったところで漸くジェイドは堰を切ったように口を開──いたのだが、その口はあんぐりと開けられたままとなった。
「……………………おい」
カインローズがラム酒のボトルを掴んでラッパ飲みしている。ラッパ飲みしているのである。
彼は蛮族というよりかは海賊だったのかもしれない。今現在はセプテントリオンに籍をおいているのかもしれないが、前世は絶対に蛮族か海賊だ。ジェイドはそう確信する。
「あン? なんだ?」
ボトルから口を離してチラリとこちらを伺う金色の瞳。その目と視線がかち合うや否や、遂にジェイドは溢れんばかりの疑問を吐露する事に至った。
「食前にラム酒!? いやそれはいい、君がラム酒飲みそうな見た目だと店員に判断されたんだろうな! ならそれは別にいい、王都のセンスに文句は付けない! というか最初からヤバい客だと思われて雑な接客をされている気すらするぞ!
それはそれで置いといて何だ君のその飲み方は!! 店員が! グラスを! 用意してくれただろうが!!」
「何だこれ、グラスだったのか? こんなもんじゃ飲んだ気しないだろ」
「何だこれじゃないだろ……! 酒を注がれて何故グラスだと気付かない!? 君の目は節穴か!! 素敵なオブジェじゃないんだぞこれは!」
可哀想に、この店ご自慢の食器であるだろうオリクトを使われたグラスは、余りの小ささと美しさ故にカインローズの目には欠片程も映らなかったとでも言うのだろうか。オリクトを包むダークラムは寂しげに揺らめき、中心のオリクトの透き通る蒼さは儚げに煌めくのみ。
一気に捲し立てるように、噛み付くように怒鳴った為に、ジェイドは多少の目眩を覚え額を抑える。冷たい掌が火照った頭に気持ち良い。
「まあ、そう言うな。美味いもんは何したって美味いもんだ」
対するカインローズは呑気な物である。度数の高いラム酒を、空の胃袋のままで一気飲みしたとは思えぬ穏やかさ。自分と同じように、光属性の魔力でも持ちアルコールの分解を体内にて助けているのだろうかと思えるような涼しい顔色であった。
──そんな乱暴な飲み方をして酔わないのならば最早別に構わないかな、とジェイドは心を折られ考えを改めされられつつあった。諦めた、とも言う。面倒臭い酔い方をしないのであればそれで良いと思ったのだ。
野蛮な者に礼儀やマナーなどを求めるのがそもそもの間違いなのだ。それらを教えるのは親の役目であり、ジェイドは彼の親ではない。この席さえ乗り切ればもう二度と彼と飲む事はないのだから、多少の我慢である。
そんな考え方が甘かったと後悔するのに、僅かな時間しか掛からないという事は今のジェイドには未だ分からなかったのだ。