4 さよなら、優しき微睡みの友よ
「先生から触りたいって言ったんですよ!? ほら! ほらぁ!!」
「やめ…、止めろ! 君は女の子ならもっと恥じらったらどうだ!!」
シャルロットだっていつまでも待っていられないのだ。胸さえ触らせれば晴れて弟子入り出来るなら、いくらでも好きなだけ触ればいいと思った。
なのに、条件を提示してきたジェイドは何故か再び自分を拒絶する。そんな事許されない。例えシャルロットの故郷、ケフェイド大陸を護りし女神クラスティアが許そうともシャルロットが許さないのだ。
ジェイドが被る毛布をシャルロットは引っ張る。何やらプチプチと繊維が切れていくような音が聞こえるが恐らく気のせいだろうと少女は思っていた。
だが、中に包まるジェイドは気のせいではないと思っていた。明らかに自分を包む最後の砦、毛布から出てはいけない類の音が出ている。
「シャルロット! 手を離せ、破ける……!!」
「破けちゃえばいいんですよ! 私と先生の邪魔をする毛布なんかっ」
「その言い方は誤解を招くから止めろ!!……あ!」
バリバリバリバリバリ!!
悲痛な音を立て遂に毛布は毛布としての終わりを迎える事となった。宿屋の主人が繕ってくれるならば、もしかしたら雑巾として第二の人生ならぬ布生が始まるかもしれないが、期待はしない方が良いだろう。
ゴミと化した毛布から、ジェイドは弾き出されるようにベッド外に叩き落とされる。
「い、……ッて!」
強かに腰を打った。
何でこんな目に合うのか理解が追いつかないが、取り敢えず床に転がったまま傷めた腰を擦っていると傍らにシャルロットがしゃがみ込む。
「大丈夫ですかっ!?」
「…………誰のせいだと……」
空腹で使いたくないが背に腹は変えられず、魔力を使って腰の痛みを分散させる。回復魔法だ。
魔力を巡らせている部位は淡く発光する為、シャルロットは回復がかけられているジェイドの腰辺りをまじまじと見つめていた。
「すごい……! 回復魔法ですか?」
「そう……」
「あ、終わっちゃった……」
痛みが引いたので魔力の流れを止めれば、シャルロットは残念そうに呟く。
そして、肩にかけていたポシェットから本と万年筆を取り出して開き徐ろに、
「もう一度お願いしますっ」
手刀をジェイドの腰に叩き入れた。
「いッ……────ッッ、……!!」
最早悶絶するしかなかった。
ベッドから落ちた時の比ではない。痛くて声が出せない。
大丈夫かと聞いてきた直後にこの仕打ち。師になってくれないのならば、今ここで怪我をさせてでも回復魔法を観察し、学べるだけ学ぼうとでもいうのか。それともただただ、学びへの欲求が勝ってしまっただけの咄嗟の行動なのか。
一体どういう事なのかよく分からないままに、ジェイドはこの痛みから逃げるべく腰に魔力を集中する。彼は魔力量は多いものの回復魔法は他の属性の魔法より得意ではない為に、ぐっと急速に空腹感が増して辛い。
そんなジェイドを見つめながらシャルロットは無心に本に筆を走らせている。本とは言ったものの、もしかしたらそれは恐らくメモ帳の類なのかもしれない。
それは置いといて。
死ぬ。
このままでは殺される。
本当になんてものを助けてしまったのか、ジェイドは昨夜の自分を殴りたい思いで胸中を満たしていた。
昨夜の自分を殴る前に──それが殴れないものだとは分かっていても、現在のジェイドはこのような表現を取らずにはいられない──目の前の少女に殴り殺されそうではあるが。
然もあろう事かこの少女、ジェイドの腰痛を和らげる回復魔法の光が消えた途端。持っていた本を閉じたかと思いきや再びダメージを与えるべく、本の背表紙で再度彼の腰を狙い振り下ろすのだ。
「ちょ……ッ!」
間一髪。
床を転がりその攻撃を回避する。
ジェイドのいた場所の床は傷が入ってしまった。恐ろしい。
あのフルスイングでの背表紙の攻撃を腰に受けていたらどうなっていただろうか。ジェイドは少女の狂暴さに今更ながら身震いする。
「何するんだ!?」
「え、折角ですので学ばせて頂こうかと……」
「弟子にするなんて言ってないぞ!!」
「ですから、私の胸を好きにしていいですよって言ったじゃないですか。先生からの条件でしたし、私はそれで納得してるんですけど……」
「くっ…………」
昨夜から幾度も重ねる己の軽率さに、ジェイドは言葉を失う他なかった。
床から起き上がり、座り込み、項垂れ、空を見上げては、溜息を零す。
そうして独りウンウンと、ああでもないこうでもないと思考を巡らせ打開策を探し、然しそれがどう考えても上手くいく筈のない案だという事に気付く度に少女に畏怖し、脅え、何度目かすら分からない溜息を吐いて、振り出しに戻る。
それを繰り返す事十数分。
結果は、出た。
「分かった、よ……」
遂に折れた。
「あ、触ります?」
「いやそれはいいよ……」
脱力。空腹感と虚無感が凄い。
シャルロットの呑気な顔が視界に入る。
疲れた。朝から物凄く疲れた。
「取り敢えず食事にしたい……出掛ける……」
「お供しますっ」
「…………好きにしろ。シャワー浴びてくる」
シャルロットは割といい宿に転がり込んだようで、シャワーは一つ一つ個室に備え付けられていた。
不思議に思ってジェイドは振り返る。
「君、宿代はどうしたんだ」
「大丈夫です! 私お金は持ってるのでっ」
能天気な少女が、こんないい部屋を取れるだけの金を所持しているだなんてカモにでもされるのではないかとジェイドは一瞬心配した。
然しすぐに、心配すべきは彼女をカモにしようとする者達の身体だろうと考えを改める。
願わくばそんな愚かな事を考えて散る、哀れな者が存在しない世の中であるように。ジェイドは昨夜から結びっぱなしで滅茶苦茶になってしまった髪を解いて下ろしつつ、浴室へと向かうのだった。
北の大陸ケフェイドは極寒の地だ。
オリクトが出回る前は植物が育つような気候ではなく、魚を捕るにも凍った湖をノコギリで切り崩さなければならないような始末。
そんな食糧問題が、オリクトの出現により劇的に改善された。火のオリクトの熱が北の大陸の各地を暖めるに至ったのだ。
まだオリクトが出回ってから二年しか立ってないがこの成果。これから先、何年とも経てばより豊作が見込めるだろう。
シャルロットはそんな北の大陸にある実家から家出してきて一年になる。
つまりオリクトが出回り始めて一年程しかまだ経たず、食糧も人々に行き渡るかどうかという頃合いで出てきてしまったのだ。
十五歳で出てきてしまったシャルロットは、貧しい実家しか知らない。
だから食堂のテーブルに大量に置かれた料理を見て圧倒されていた。
「どうした?食べるといい」
目の前に座るジェイドは可愛らしく苺で飾り付けられたパフェをパクパクと、まるでさも当然のように食べていた。
あれからシャワーを浴びたジェイドに連れられ宿を出たシャルロットはヴェルディの一つ隣町、メレウを訪れていた。ここはより王都に近く、貴族姓の者もチラホラと住んでいるらしい。貴族からすれば王都暮らしに疲れて遠方の田舎に居を構えた感覚らしいが、王都サエスまで馬車を走らせればすぐに着いてしまう距離感である。
ここは、そんな貴族達も訪れるという食堂だ。勿論一般人も訪れるが、多少値段も張るし敷居も高い。
シャルロットは生まれてこの方パフェなんて食べた事もない。ケーキですら年に一度、誕生日に食べられるかどうかだった。そんなものがテーブルの上に三つは並んでいる。
パフェだけではない、柔らかそうに煮込まれた兎肉のシチューに香ばしく焼き上げられた鴨肉のロースト、アイスクリームの乗せられたパンケーキにチョコレートソースがたっぷりかけられたガトーショコラ。
サエス王国の民にとってはこれが当たり前の食卓なのだろうか。シャルロットにとっては高級品ばかりが並べられたテーブル。少女はジェイドに対して始めて萎縮したような姿を見せた。
「……こ、こんなに食べるんですか?」
「まあ……昨日から沢山魔力を使って疲れたしな。宿代も出させてしまったようだし、食事くらいは奢ってやる。この中に好きな物がないなら自分で選んで注文してくれ」
パフェ一つを瞬く間に空にしたジェイドは、メニュー表が掲げられた壁を指差すがシャルロットはフルフルと首を横にする。
ジェイドからしてみれば、宿はいい部屋を平気で取るくせに食事に対しては怖気づく少女の様子はいっそ不自然にすら思えた。
好きな物だとか嫌いな物だとか、シャルロットはそこまで選択出来る程頭が回ってない。なにせ食べた事ない物ばかりなのだから。
シャルロットはキョロキョロと目移りしながら、この中ではまだ親しみやすい見た目をしていたガトーショコラの皿を手に持つ。ケーキならば誕生日の日には食べていた贅沢品だ。
誕生日ではないのに食べても良いのだろうかと不安になりながらもまずはお祈りを始める。胸の前で手を組んで、今日も糧にあり付ける事を女神クラスティアに感謝するのだ。
そうしてからナイフとフォークでケーキの端を切って、恐る恐る口に運ぶ。
「…………おいしい」
心からの呟きが唇から漏れる。
濃いチョコレートが口の中でとろりと溶けだすような感覚。そのまま舌まで一緒に溶けてしまうのではないかと錯覚する程に濃厚な味だ。
ほろほろと口の中で崩れてなくなるガトーショコラを、ゆっくりと一口ずつ味わっていく。一口食べる毎に笑顔を浮かべ、頬が落ちそうになっていたシャルロットは漸く気付いた。
ジェイドが食べる手を止め見つめていた事に。紫と翠が混じり合う瞳と目が合った。
「ご、ごめんなさい……私ったら……」
「いや…………」
夢中になって食べていた事を恥じて、シャルロットは真っ赤になって曖昧に笑う。ジェイドとしては美味しそうに食べる分には奢った甲斐があったというものだし、気になったのはそこではない。
「随分綺麗に食べるんだなと、思って」
別に値が張るからと言って食べ方まで貴族達に合わせる必要はないのだ。ここは所詮大衆食堂に変わりはないのだから。
ナイフとフォークが出されるのは形式だけ。店主としては、使わなきゃ食べられないお貴族様はどうぞといった具合なのだろう。だからこそ、引っ掛かる。
「……君、ただの平民の子じゃないだろう」
そう言ってジェイドはもう一つパフェの器を手に取るのだった。