37 喫茶“睡蓮”
それから数日経て二人は馬車を乗り継ぎ乗り継ぎ、漸く王都エストリアルへと辿り着いた。アンダインからの追手もピタリと止み、ほぼ何の苦労もなくここまで来る事が出来た。
途中でAランクやBランクの空のオリクトも補給し、穏やかな旅路であった。夜に“彼”が現れる事もなかった。
慣れ、もしくは感覚の麻痺か。あれだけお互いに意識していたのはアンダインを抜けた初日だけだったようで、その後の日程はいつも通り。ジェイドは夜にはいなくなり、その帰りを朝までシャルロットは待つ。
ただ、心境の変化だろうか。朝に会うシャルロットは何だか不機嫌そうな事が増えたし、その不機嫌さを誤魔化す為の土産は前よりも高い物になり、逆にジェイドがシャルロットを見る目は前よりも優しくなった。
エストリアルに着いたのは夜の事だったからすぐに二人は酒場と宿へと別れてしまい、再び合流したのは明け方の事。
ジェイドとしては、シャルロットの「ゼリーを食べたい」という望みを叶える為に王都まで来たのだから、早速広い街道に出て店を吟味するのは当たり前の事で。
ジェイドは、ルーネに聞いたと言うシャルロットの言葉を信じている為に、お薦めの店でも聞いたのだろうと思って少女に尋ねてはみたのだが、当のシャルロットは首を左右に振るばかりであった。
ルーネにゼリーの事を聞いたのは事実であったが、その時はジェイドを王都まで連れてくる理由にするだなんて思ってもみなかった為に詳細は聞かず、話のネタとして軽い調子で聞いていただけだったのだ。こんな事になるならば店の名前くらいいくつか挙げてもらえば良かったなどと思うのも、今となっては後の祭りというもので。
着いた日の夜には、シャルロットはすぐに宿に入ってしまった為じっくりと町並みを見る事が叶わなかった。故に気付かなかったが、こうやって昼間に歩くと、流石王都と言いたくなる程に水の都の素晴らしさを思い知る事になった。
誰もが一度は耳にするような一流の店が多く立ち並び、道行く人々は貴族と分かるような上品な服装の者ばかりが目立つ。
有名菓子であるゼリー専門店は勿論、ブティック、武器屋、オリクト専門店、菓子屋に雑貨屋。それらが美しく整然と並び、冒険者ギルドでさえ他の街のものと比べるとまるで他の店かのように豪奢な佇まいである。
泊まった宿屋も、王都の中でも中心街からは程近い立地の為に一番安い宿との事だが、それでもシャルロットの覚えている限り公爵家である実家よりも美しく、洗練された内装であった。
王都には勿論貴族ではない一般市民もいるのだろうが、それでも他の街の住民と比べてワンランク上の生活を営んでいる者ばかりだろう。
ジェイドとシャルロットも一応貴族であるというのに、特に後者など公爵位の娘であるというのに。余りの街の眩しさにシャルロットは少し怯んでしまっているようで、せめて恥をかかないようにキョロキョロと辺りを見渡したりしないよう、真っ直ぐ見つめて歩くのが精一杯のようである。
顔を上げれば、見えるのは白亜の城。ジェイドはそれを指し示しながらシャルロットを振り返る。
「あれがサエス城だ。……見た事は?」
「ないです……」
「そうか、王都に来た事が初めてなら見るのも初めてだろうな」
城下に拡がる街より高い位置に建てられたそれは、城自体がまるで巨大な噴水のよう。城の中心に据えられているらしい、水のヘリオドールから絶え間なく水が噴き出しているのだろう。窓とは別に排水口がいくつも設けられた城は太陽の下、荘厳に輝いていた。
城から流れ落ちる水は一度周辺の堀へと貯められ、そこから街中へといくつも伸びる巨大な水路へと流される。
王都の水路はどれも運河と言っても差し支えない程の大きさであり移動用か運搬用か、船まで浮かぶ始末である。
王都から流れ出る水は水路を伝い、更に周辺の他の街へ。こうして国中に葉脈のように水路を張り巡らせ上下水道や沢山の噴水を完備した国は、水の都に相応しい町並みを見せていた。
辿り着いた先は小洒落たアンティーク家具で飾られた店だ。
喫茶“睡蓮”……勿論ゼリーを専門に売り出している店ではあるが、この店はハーブティーも出している。街並みを見て歩いた脚を癒す為の休憩にはうってつけだ。
中に入ればカランコロン、と耳触りの良い小さな鐘の音が来客を店員へと知らせてくれる。他の店と比べて小さな佇まいである、王都には似つかわしくない素朴な外観であったが、それもその筈である。
中に入れば、まるで小さな教会のような風体の店であった。天井と壁はステンドグラスが嵌められそこから優しい七色が降り注ぎ、木の香りの強く残る椅子やテーブルを色付けていく。
サエス王国の信仰対象である水の女神、リーヴェを模した小さめの石像がしっかりと磨き上げられ飾られている辺り、ここの店主は熱心な信者である事も想像に難くない。
この内装がもし広々とした敷地全体に施されていたのなら、派手すぎて逆に下品であっただろう。このこじんまりとした店内の規模だからこそ、美しさが映える。
「……」
「どうかしましたか?」
通された窓際の席に着くと、ジェイドが目を細めてステンドグラスや石像を眺める物だから何かあるのかとシャルロットは首を傾げる。
「いや、……懐かしくて。昔住んでた場所だと、こういう所でよく祈っていた」
まるで小さな教会のような店内の中、彼はぽつりと漏らす。
昔住んでいた場所、と暈すのはグランヘレネの事だからだ。この店の店主はリーヴェを信仰している。他大陸の、ましてや時に宗教戦争になり兼ねない事をしでかす過激な国、グランヘレネの女神の話など禁句であろう。下手をしたら店を追い出される。
それでもジェイドはこの店に嫌悪感を抱く事も萎縮する事もなく、ただ郷愁の想いで胸を満たしていた。
その横顔を静かに見守るシャルロットはまた、忘れていた筈の疑問がフツフツと胸の内に沸き上がってくるのを感じた。移動ばかりの日々が終わり漸く目的地に辿り着き、少し余裕のある落ち着いた二人だけの時間なんて久し振りだったから、忘れていた疑問を思い出してしまったのかもしれない。
結局、アイスフォーゲル家は如何にしてグランヘレネからサエスへと引越し、如何にして男爵の位を貰い受けたのか分からずじまいだったのだ。
けれど、それを尋ねる勇気はシャルロットにはない。あんなにも嫌っていたイザベラ達とやっとの思いで離れられたのに、それをまた思い出させるのは憚られたのだ。
ならば、他に話題をと。
メニュー表に視線を落としながら考えていたシャルロットは、思いも寄らない人物から声を掛けられる。
「あそこから移動してきたのはジェイドだけですよ」
聞き覚えのある、聞き間違う筈もない穏やかなジェイドの声。
けれど、違和感のある喋り方。
シャルロットがメニュー表から顔を上げると、見知った師の顔があった。けれど、見知っている筈なのにまるで赤の他人のように思えるその表情は──間違いない、“彼”だ。
「……なっ、」
「静かに。飲食店では静かにしましょうね、他のお客様のご迷惑になります」
驚きに叫びそうになったシャルロットの唇は、彼の手により塞がれる事となる。暁闇の時間に逢おうと言っていた“彼”が、何故こんな真昼間から出現したのか。
シャルロットは“彼”に逢えたら聞きたい事が山ほどあった。聞こうと思っていた事が沢山あった。然し、突然の事すぎて何から聞けば良いのか分からないでいた。
「あ、僕これにします。木苺とブルーベリーの星屑ゼリーと……」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 何普通に注文しようとしてるんですか!?」
「いけませんか?」
目の前の男はいつの間にか広げていたメニュー表から顔を上げ、何がいけないのか分からないと言わんばかりの態度でシャルロットを見つめる。いけなくはない──否、いけない事なのかもしれない。だってそれは、ジェイドが食べる筈だったゼリーだ。
「先生が食べるゼリーを、何故貴方が勝手に決めてしまうんですかっ」
「大丈夫ですよ、僕とジェイドは味覚も一致してますから。彼もさぞお喜びになる事でしょう」
成程、ならば良いのか。
妙な説得感に納得してしまったシャルロットは、抗議を続ける気も失せて浮かしかけた腰を再び椅子へと落ち着けた。
結局、現状に物凄く違和感しか感じない者はこの場ではシャルロットだけな為、何故だか分からないが少女は師ではなく“彼”と優雅なティータイムを過ごす事になった。
テーブルに木苺とブルーベリーのゼリーと、丸ごとオレンジの皮に詰められた林檎とオレンジのフルーツジュレ、飲み物にそれぞれゼリーに合わせるかのように選んだ温かいラズベリーティーとアップルシナモンティーが届けられる頃には、シャルロットも落ち着きを取り戻していた。
ステンドグラスから注ぐ美しい陽光に照らされ表面から内側からと輝くゼリーは、盛り付けられた食器の清廉さも相まってか一層神々しさすら感じる。
どのように作っているのだろう。器は中に花を閉じ込めた硝子製で、ベリーのゼリーには紫の花、オレンジのゼリーには黄色と赤の花の物が使われている事を考えると、きっと色々な種類の花の器があるのだろう。
紅茶を一口飲んで、漸く質問する内容を頭の中で整理する事が出来たシャルロットは、“彼”を正面へと見据える。
「……貴方は、夜にしか動けないのではなかったのですか」
「まあ、昼間はジェイドの中で寝てたりのんびりしたりしていますからねぇ……今も実は凄く眠たいです」
あの時間帯にしか“彼”が行動しない、というのはそのレベルの話なのか。
一発目からシャルロットを驚かせるには充分な発言であったが、ここで怯んではいられない。シャルロットには高級ゼリーという強い味方がいる。それを片手に、質問を続ける事にする。
「何故、今のタイミングで出てこられたのですか」
「…………何となく、ジェイドの故郷に対して、疑問に思っているであろう事が顔に書いてありましたので……答えてあげようかな、というのが半分……」
「もう半分は?」
「たまには愛しい人とデートがしたかった、というのが半分……」
また出た。というかそんな恥ずかしい事をさらりと言ってのけるなんて、どれだけ素直なのか。
愛しい、なんて軽々しく言わないで欲しい。恥ずかしくて歯痒いような、ジェイドと混同してしまって夜は別の女性の下へと遊びに行く彼を思い出し腹が立って仕方がないような、微妙な気持ちにさせられる。
と、言うかだ。
「……私、そんなに顔に出てました?」
「出てましたよ。まだ若いので仕方がない事だとは思いますが……ある程度は気を付けた方が良いですよ?」
割と初めて逢った時、延々と不遜な笑みを浮かべ続けていた“彼”が真顔になってそのように言うのだから余程なのだろう。
シャルロットは自分の左の頬に手を添えて、顔面筋を叱責するのだった。