34 秋風の行方
シャルロットは大人しくジェイドの手を握り、引かれるままにその場を後にしようとする。
元はと言えばシャルロットが強引にイザベラの話に乗ってしまった事によりこの地へとやって来たのだが、ジェイドの態度を見て漸く己の愚かさに気付いたのだ。
ジェイドがここに留まる事をこれだけ嫌がるのであれば、アンダインにい続ける道理はない。少女にとってそれだけが、彼と繋いだ手を離さない理由だ。
「あー……やっぱそうだよなぁ、そうなっちゃうよなぁ…………」
馬の轡を握るイアンはその場から移動しようとする二人を見て困ったように笑う。
その人の良さそうな笑みに反して、彼は意外と淡白な所もある。イザベラの為なら、例え兄弟であろうとも容赦はしない。
「取り敢えず俺、手離せないから……ルーネ、頼めるかい?」
「まあ、……仕方ないよね」
イアンの前に座るルーネは、兄に支えられながら馬の背を太股で強く挟み両手を自由にさせる。
そうして構えられ、引かれるのは弓だ。
こんな揺れる馬の上から逃げる獲物を射る事が出来る程の名手の腕は、彼にはない。子供の頃は、たまに森へと入って鳥を撃ち落とすので精一杯だった。
然し、この矢は当たらなくたっていいのだ。多少の精度さえあれば何とかなってしまう。
そもそも当てる気がない。
月のようにキリキリとしなり弧を描く弓から、矢が一筋放たれる。
「……きゃっ!」
「シャルロット!?」
シャルロットが急に悲鳴を上げて立ち止まるものだから、手を繋いでいたジェイドも足を止めるしかない。
見れば彼女の脚には植物の蔦が絡んでいた。少女はこれにより転びかけたのだった。ジェイドと手を繋いでいたから転ばなかったようなものだ。
ルーネが射った矢の先端には光る石。金色に輝く、Eランクの土のオリクトが括りつけられていた。
その矢はシャルロットの脚の近くに着弾し、割れて魔法が発動したのだ。
一つだけの拘束では心許ないから、ルーネは次々と無言で矢を放つ。立ち止まってしまった獲物なら狙いを付けやすく、撃ったオリクトは一つ、また一つとシャルロットの周りへと落ち、割れては彼女の近くに細い植物の蔦を精製させて脚へと絡む。
一本なら所詮Eランクのオリクトが生み出した細い蔦だ。冷静に対処すれば何とか抜け出す事も可能だっただろう。然し二人に冷静さを与える程の慈悲がルーネにあったかと言われればまた、話は別である。
これにはジェイドは対応を考えてしまう。炎の魔法で焼く事も、風の魔法で切り裂く事も、ただやるだけなら呼吸をするよりも簡単だ。
けれどそれがもし、シャルロットに当たったら? 普段から繊細な魔力コントロールはしているつもりではあるが、今のように焦る心で発動する魔法程信用ならないものはない。ジェイドはそれを知っている。
然し見るからに焦る師の顔を見て、安心させるように笑うのは弟子の方だった。
シャルロットは決めていた。昨夜、浴室から出た後に見たジェイドの横顔。
もう、あんな顔は二度とさせないと。
「……先生、大丈夫ですよ。私を誰だとお思いですか? ジェイド先生の一番弟子、シャルロット・セラフィスです、……よっ!!」
ブチィッ!
シャルロットは拘束された筈の脚を、いとも簡単に蹴り上げ幾重にも重なる蔦を紙切れか何かのように引きちぎる。
物凄い勢いで目の前で脚を振り上げるものだからスカートが捲れて思いきり下着が見えたという事実は墓まで持っていこうと、ジェイドはこの瞬間即座にそのように判断した。
因みに白だった。
「さ、流石だ! 流石俺の弟子だな!!」
「でしょうっ! 行きましょ…………う……」
いろんな意味で驚きつつも弟子を素直に褒め称えるジェイドに、シャルロットも笑顔で答える。然し、二人の表情は馬二頭分の黒々とした大きな影が覆い被さる事で、すぐに陰る。
オリクトから生み出されたあの蔦はほんの少し、距離を詰められるだけの時間が稼げれば──足止めが出来ればそれで良かったのだ。
二頭の栗毛の馬が二人を挟み込むようにして脚を止める。
「ジェイド、あまり母様を困らせるな。家に帰ろう?」
イアンが馬を降りながら、ジェイドへとそう諭す。アンダインの出入口側、隣町へと抜ける方角をイアンとルーネ、屋敷側の道をディビッドがそれぞれ塞いでしまう。
左右は広大な人参畑が広がっていた。
「……分かりませんね、ルーネの自立は良くて僕の自立が駄目な理由をお伺いしたいです」
「母様がそう願ってるからだ。それ以上でも以下でもねェよ」
ディビッドの横暴な物言いに、ジェイドは舌打ちをする。誰に聞いた訳でもないが、どちらかと言えばルーネ、次点でイアンに答えて欲しかった。ディビッドに発言を許した覚えはない。お呼びではないのだ。
何となく彼の声が耳に入ると自然と身体が動いたジェイドは、自分の身体の影にシャルロットを隠すかのように、手を繋いでいない方の片腕を上げてケープマントを広げる。本当に何の気もなくだが、弟子の姿をディビッドの視線の下に晒したくないと思ったのだ。
少女は彼の意図を察して大人しく背後に控える。
「それにむざむざ従うなんて、大の男が恥ずかしくないんですか?
大体僕、こんな若い女性の一人もいないつまらない街で暮らすの限界なんですよね。近くにいる女性といえばあの年増だけだし」
「我が儘言うんじゃない、ジェイド。女の子に困ってるなら見合いのセッティングもしてあげるから……」
「イアンは本当に馬鹿でお人好しで、嫌味の一つも通じませんね。兄役が貴方という事もつまらない要因の一つです。
僕は今、お節介ではなく通行の許可を求めています」
イアンの的外れな提案もジェイドは跳ねつけてしまう。然し長男の少しばかりズレた話には、聞いていたディビッドとルーネもそれぞれ頭を抱えていた。
そんな兄弟達を一瞥し、ジェイドはシャルロットの手を引いて膝の下と肩を腕で支えるようにして抱き抱える。
「……、……!」
いつもジェイドに対してそうする癖に、いざ自分がされたら焦ってあたふたとするのだから面白い。
然し、今ばかりは場の空気を読んでいるのか、シャルロットも必要以上にもがく事なく恥ずかしそうに顔を伏せてジェイドの腕の中に収まった。
「まあ、通行許可が頂けなくてもゴリ押しで通るだけですけれどね」
ジェイドとシャルロットの周囲に渦巻く風の魔力。二人の髪を掻き乱すように強い力で吹き荒ぶ風は、中心地にいる彼らの身体を包み込む。
シャルロットを抱えるジェイドの足は風の魔法により、ふわりと地から離れた。
然し。
「させるか、よッ」
ディビッドがいくつかの炎の魔力を溜め込んだEランクのオリクトを、大きく振りかぶり二人に向かって投げ付ける。
昨日イアンから受け取ったオリクトは業務用であり、今ディビッドやルーネが使用しているのは泥棒や魔物の襲来対策の為のものや、緊急用のものだ。
今まさに緊急時であるが故に、気にせず投げ込まれるそれはジェイドの巻き起こした風の魔法に弾かれる直前に、魔法発動と共に破裂する。
「あっ、ぶな……!」
すぐ間近で破裂し熱を放出する炎のオリクトを危惧して上手く動けない。
纏う風の魔法が弾いてくれるから大概は大事にはならない。けれど割れるオリクトの破片も巻き上がる為に、怪我をしないとも言い切れない。
今は腕の中にシャルロットもいるから尚更だ。
「……、っ……」
やはりシャルロットだけでも置いて行った方が良いのではないか、このままでは彼女が怪我をしてしまう。
自分のせいでシャルロットを巻き込み傷付けてしまうかもしれない恐怖と迷いに、ジェイドの瞳が揺らいだのを少女が見逃さなかった。
ジェイドの胸元を飾るスカーフがクイクイと引かれる。見下ろせば、少女の瞳の黄緑色の穏やかな優しさが慰めてくれる。
「大丈夫ですよ」、シャルロットはそう言っている。怖いだろうに、気丈に笑うそのいじらしさを見れば迷っていられる場合でもない事は明らかだった。
そうとも、迷う必要はないのだ。
もうこの手は離さないと決めたのだから。
彼女が魔女になれる日が来る、その時まで。
取り敢えず当面は、王都でゼリーを奢る事だって約束したのだ。
何一つ約束を果たせないまま放り出すのは、自分の価値を自分で落とす事に他ならない。
「……怪我させるかもしれないぞ」
「問題ありません、怪我したら回復魔法のお勉強させて下さいな」
二人だけにしか聞こえない、囁かな会話。
こんな危ない状況でも笑ってしまえるのは、どんなに幸福な事なのだろう。
ジェイドの心はこんな状況であるにも関わらず安らいでいく。
心が落ち着けば、魔法の精度が増す。
シャルロットを護りつつ、アンダインから抜け出す。その二つさえクリア出来れば良いのだ。
ごう、と一層強い風が吹く。
余りにも強い風で周囲の兄弟達はろくに目も開けていられない。イアンなど、飛んでいきかけた帽子を抑える程だ。布と布が強くぶつかり合う音がする。
農場に植わる作物の葉は風に煽られ一斉にざわめき、やがて強風に連れられたか太陽が雲に遮られる。
これにはディビッドもオリクトを投げる手を止めざるを得ないし、ジェイドとシャルロットを取り巻いていたオリクトの破片など最初からこの場に無かったかのように風に攫われる。
「止めろ! ルーネ!!」
異変にいち早く気付いたのはディビッドだ。
風魔法には風魔法。ルーネはベリオスの石を持ってはいないものの、ある程度の風の魔力なら持っている。ジェイドの風魔法のバランスを多少乱してやる事が出来る可能性のあるルーネの方角へ、ジェイドは物凄い勢いで突っ込んでいく。強引に、道を塞ぐイアンとルーネを飛び越えるか避けるかして逃げるつもりなのだろう。
ディビッドはそれをいち早く察知したのだが。
「……!」
確かに、ルーネは片手をジェイドへと突き出し、吹き荒ぶ風の魔法で対抗した。
然し強大すぎる魔力の下では、そんなもの大した力にはならない。そよ風にも等しいものだ。
あっさりと、風のような男は少女を抱えたまま文字通り風のように兄弟達の頭上をくるりと宙返るように飛び越えて、秋風すらも味方に付けるようにして木の葉を巻き上げ、その場を去って行った。