33 その手の温かさ
「……先生が何をお考えでいらっしゃるのか、浅はかな私には分からない事もままありますが」
蹲るジェイドの頭上から声を掛けるようにシャルロットは屈む。そのせいで胸が強調されるのだが、俯くジェイドはそれに気付けない。非常に勿体ない事である。
「私、先生に魔法を教わりたいから声を掛けさせて頂いたのです。私がベリオスに認められるまでは面倒を見て下さるって、約束もしたじゃないですか。
その約束が果たされるまで、私からは離れる気は毛頭ございませんので……ご迷惑をお掛けするとは思いますが、今暫く辛抱して頂ければと。そう思います」
「…………」
やはり五分でどうにかなる問題でもなかった。ジェイドの感情はキャパシティオーバーしてしまっていて、並々ならぬ感情の暴力により耳まで真っ赤に染まるのを、どう足掻いたって隠せるものではない。
下げたばかりのフードをそうっと再び頭に被せるのが精一杯だ。
そうして言葉もなくただひたすらに蹲る師の艶やかな黒髪を持つ頭頂部を屈んで眺めていたシャルロットは、姿勢を正すと背を向けて熱を持つ両の頬に手を当てる。
思い出すのは深夜の事だ。
『愛しています、シャルロット』
「わああああああああ!!」
「ど、……っどうした!?」
囁くような声、愛の言葉、そして額に押し付けられた唇。それらを思い出しては恥ずかしさが胸の内で大爆発を起こし叫ぶしかなかったシャルロットの大声に、ジェイドもまた驚いて顔を上げる。
あの後、当たり前の事だがシャルロットは寝れる筈もなかった。あの口付けの意味を考えれば考えるだけ答えなんか出ないのだから無駄だというのに考えてしまい、眠れる道理などある筈もない。
故に現在少女は寝不足だ。師に対して礼節を弁えた態度を取れるかと言われると──
「何でもないですっ! 早く行きましょう、そしてゼリーを食べましょう!!」
──難しかった。
シャルロットは勢い良く振り返ると、目を丸くし動けないままでいるジェイドにそう告げ、何かを言わせる前に近付いていく。
「ちょ、っ……何して、うわっ!?」
いつまでも立ち上がらないジェイドの腕を掴み無理矢理その場に立たせたかと思いきや、軽々と彼の腰辺りを肩に乗せて荷物を担ぐかのように抱き上げてしまう。
よくもまあこれだけ身長差のある成人男性を片腕一本で担げるものである。それだけシャルロットの身体の中に巡る光属性の魔力は濃厚なものなのだろう。
ジェイドは師として感心すべきところではあるのだが、本人にとっては自分の現状が現在余りにも滑稽すぎて、とてもではないが感心の一つすら出来やしない。
「待て待て、シャルロット! ゼリーがそんなにも食べたいのは分かったから……いくらだって奢ってやる! 自分で歩けるから降ろしてくれッ!!」
「何言ってらっしゃるんですか! 先生は体調が悪いようですし、私が運びますっ! 口閉じないと舌噛みますよ!!」
成程、シャルロットはいつまでも立ち上がらないジェイドを体調が悪いと判断したのだ。それはそうとして、ならば休ませようだとかまた明日ここを発とうだとか、やりようも言いようもあるというのに少女はわざわざ、自分の腕で彼を運ぶ事を選択した。
睡眠不足と羞恥からこんなにもまともでない判断を下してしまった少女は、そのまま足元に力を入れる。
少女の言葉の意味と、足の踏み込み方を見てジェイドは漸く自分がこれからどのような目に遭うのか理解した。
「舌噛むって、ちょ、止め……ああああああああああああああああ!!」
思いきり揺れる視界。
遠ざかっていく屋敷。
上がる土煙。
自分が後ろ向きで担がれている為、移動先がどうなっているのか視認する事が出来ず正直に言ってかなり怖い。
少女の細腕一本だけで支えられているという事が物凄く恐ろしい。怖々と地面の方を見つめてみるものの、黄緑色のスカートの下で駆けるシャルロットの足捌きは速すぎて、全く視界に捉える事が出来なかった。
星のように流れていく周囲の景色を見るに、馬の如き速さで駆けているのだろう。もし自分を支えるシャルロットの腕が緩んでしまえばと思うとゾッとする。
ジェイドは情けない事だが、この時少女の着る衣類にしがみつくくらいしか出来ないでいた。
シャルロットがジェイドを担いだまま、オリクトの忘れ物を取りに引き返してきたイアンの横を早馬のようなスピードで通り過ぎてしまえば、彼もまた何事かと二度見するしかないのである。
「あら? 今誰かとすれ違ったような……」
当のシャルロットは最早ここを離れる事しか念頭に在らず。誰かを視界の隅に捉えた事は認識出来たが、それだけだ。
特に立ち止まる事も振り返る事もなく、確認もないままに師を抱えてひた走るだけだ。
イアンの声掛けで、イザベラの執務室には一人の女と三人の男が集まっていた。
母親イザベラと、その子供達のイアン、ディビッド、ルーネである。
「僕はもう出て行った身なんだし、関係なくないかなぁ……?」
ルーネは休暇中の身であるというのに面倒事に巻き込まれてしまいそうな現状に、苦笑を浮かべ自分の髪に指先を絡ませながら溜息を吐く。
「そんな事言わないで。ジェイドは貴方のお兄ちゃんでしょう?」
「…………そうだね」
イザベラに窘められ、ルーネは喉奥で幾度も詰まったかのような言葉を何の感情もないような桃色の瞳で憂鬱に吐き出して、窓の外を見つめる。
そんな四男の態度に、母は特に何を言うでもなくただただ目的のみを告げる為にディビッドへと確認を取る。
「お部屋に荷物はなかったのね? ディビッド」
「おー。昨日出掛けた時には嬢ちゃんの鞄置き去りだったのに、今さっき見たら部屋には何にも残ってなかったな」
先程イアンに招集を呼び掛けられた時に、ディビッドは客室の確認も済ませてきた。この家にプライバシーは存在しない。
客人の部屋であろうとも、イザベラが逐一確認しろと言うのならば子供達はそれに従うまでだ。昨日、ジェイドとシャルロットが牧場の方へと出掛けた後もイザベラからの通達で部屋は勝手に確認された。
その時にはシャルロットの鞄が置き去りであった為遠くへは行かないだろうと判断されたのだが、今回はもぬけの殻であった。
「そう。なら兄弟達で迎えに行ってあげなきゃね」
イザベラはジェイドに家督を譲りたいのだ。魔力を誰よりも持っている、彼に。
だからルーネの自立には文句一つ言う事もなく、寧ろ後押しさえした。
けれどジェイドの自立は、外に出て勝手に職を選択してしまうのはイザベラにとっては困るのだ。
「……」
そのあからさまな比べ方が、既に自立をし己の力で生計を立てているルーネの心を濁らす事となったとしても。
「それにしても早かったわね、出て行くのを決意してしまうのが。そんなにお家が嫌なのかしら?
また何年もお別れなんて悲しいわ」
イザベラはこうなる事が分かっていたようだ。頬に手を当て物憂げに呟く。
ジェイドに家督を譲りたいとはボヤくものの、その姿に焦りは見えない。
行動と言葉が矛盾するのも仕方がない事。彼女の心は夫であるアイスフォーゲル男爵が亡くなってしまった時に、共に死んでいるようなものなのだから。
子供達はそんな彼女の道楽と狂言に、文句一つ言わず眉一つ動かさずに従う。恩義を返すが為に。
「それじゃ、……行ってきます」
「ええ。気を付けて行ってらっしゃい」
ハンチング帽を被り直すイアンの言葉で他二人も踵を返し、部屋から出て行った。
彼らは理解している。どんな手を使ってでも、ジェイドを連れ戻さなければならない事を。
以前ジェイドがいなくなった時も、その後一年間イザベラはショックのあまり臥せってしまっていた。夫を亡くした彼女にとって、家督を継がせようと殊更愛情を注いでいた子供が置き手紙一つだけ残し挨拶もせずに目の前から消えてしまったのは、尋常ならざる衝撃だったようだ。
母と慕う女性の表情が陰る姿を見るのは、もう終わりにしたい。その為ならば、彼らはどんな事でも出来てしまう。
どんな過ちでも犯してしまえる。
静かになった部屋に残されたのは、夫人ただ一人。
「……」
彼女の細い指先は、執務用の机の上の隅に立てられた写真立てを手に取る。古ぼけた写真が収まったそれには十年以上も前の写真が飾られていた。
イアン、ディビッド、そしてジェイド。三人ともイザベラに寄り添い、笑顔で写る家族写真。
まだ何も知らない子供だった頃のジェイドの顔を、イザベラの指先がそっと撫でる。
「……早く帰っておいで、私の愛しい子」
そっと写真立てを伏せる。
次にこの写真を見るのは、ジェイドが戻って来た時。そう、心に決めて。
「ほんっ……と……勘弁してくれ…………」
「ご、ごめんなさい……」
ジェイドとシャルロットの二人は農場脇の大木の下で休憩を取っていた。あれから五分程走った所で漸くシャルロットの耳にジェイドの弱りきった静止の言葉が届き、脚を止めるに至った。
まだ五分しか移動していない為、ここは充分にアイスフォーゲルの領地内である。
こんな事前にもあった気がするなと、ジェイドは顔を上げ澄み切った青空を見上げる。のんびりと浮かぶ白い雲が風に少しずつ押され、視界の先を左から右へと流れていく。
シャルロットに思いきり頭を揺さぶられ調子を崩し、街の中で休憩を取ったあの時だ。あの後シャルロットと間違えられ誘拐されて、散々な目にあったのだったか。
思い返すと最近デジャヴな事が多い為、ジェイドは記憶を探る行為を止め周囲をキョロキョロと見渡す。
「……? どうかしましたか先生」
「いや、……セオリー通りなら、このままここにいるとろくな目に合わないという事が俺の第六感を刺激してい…………」
ふと、一点に目を止め言葉すらもそこで止まる。
屋敷のあった方角から、何かがこちらへ向かってきている。
ジェイドは良く目を凝らしてそれらを眺める。
馬が二頭こちらへ向かってきている。
片方の馬にはイアンとルーネ、もう一頭にはディビッドがそれぞれ乗り操っていた。
そっと出て行こうとしているジェイドからしてみれば、あれらは追手以外の何者でもない。
捕まれば面倒な事になりそうだし、そもそも成人組の三人が追ってきている時点で捕まえる気満々なのだろう。
ジェイドはシャルロットの手を握ってその場から立ち上がる。その手の力強さは、もう独り善がりに突き放さないという決意が現れていた。