30 愛を語る仮面
「さて、何処からお話しましょうか。貴女とこうしてお話してみたかったもので……何から話せば良いのか分かりませんねぇ」
くすくす、とジェイドの姿形はその身体を我が物顔で扱い、唇に笑みを浮かべる。
月灯り落ちる寝室、ベッドの上。
銀色の光に晒される緩く纏められた黒髪。
見慣れた筈の高い背。骨張った大きな手。
見知らぬ他人のようだ、と少女は遠くの世界に彼を見るような目をする。
「先程もお尋ねしましたが……、……貴方は何者なんですか」
今シャルロットが知りたいのはそれだけだ。まずはそこを聞かない事には何も質問出来ないとも思っていた。
尋ねられれば、彼は妙に嬉しそうに唇を開く。
「僕は……そうですねぇ、何と言いましょうか。
“ジェイドの欠片”、“混じり合う者”、“祈りの具現”…………僕は“僕”という個ではありますが、彼無しに“僕”の事もまた、話せないでしょう」
「…………??」
チンプンカンプンである。
シャルロットは眉を寄せ、目で訴える。
「何を言っているんですか貴方は」と。
「もっと分かり易く」……と。
少女の表情に、目の前の男は少し考えるように顎に手を添える。
どういう言い方が適切なのだろう、と考えるような仕草だ。一応きちんと伝えようと考えてくれる辺り、まだ親切な方なのかもしれないとシャルロットは認識する。
「まず、僕とジェイドは別の者だと認識して下さい。もう出来ていると思いますし、僕としては別であるつもりも余りないのですけれど。
前提として、一つの身体を二人で使用しているというていで話を聞いて頂ければ、と思います。僕もそのように話を進めさせて頂きますので」
「……二人で…………」
二人は別モノ。そんな事は言われなくてもシャルロットはちゃんと分かっている。寧ろそう言い出したのはシャルロットの方ではないか。
相手から改めて言われると逆に何となく腹が立つが、それよりも気になったのは一つの身体を二人で共有している、と言う事だ。
疑わしいが、魔物ではないというのだ。
魔物らしい、シュルクへ危害を加えようとする様子が見えないのだから信じるしかないのかもしれない。
というよりも、現時点ではそれを疑ってしまえば話は続けられなくなる。だからシャルロットは、今は彼の話に大人しく耳を傾ける事に専念する。
「とはいえ、生まれた時には彼は独りで御座いました。僕は後天的に、“ここに”、生まれた存在に過ぎない」
彼は胸元に手を当て衣服を緩く握る。
その姿はまるで何かに祈るかのようだ。
伏せた目は何も映さず、けれども口元は歪み、絶え間なく嗤う。嗤い続ける。
「ジェイドは僕の事を認識してはいませんから、やはり別の者だと言われても仕方がないのかもしれません。然し、ジェイドはジェイドとしての願望や望みがあります」
「はぁ……」
別人という認識であるならば、個々で願望なり意志なりあるのは当たり前の事であろう。
少女はそう考えるが、どうにも事態は更にややこしいようだ。
「その、ジェイドの願望と“僕”自身の願望。それが混ざり合った者が、この僕です」
男はシャルロットを真正面から見据えると、自分の事を指し示して首を傾げる。
まるで、「ここまでは良いですか?」と聞いているようだ。
良い訳はないのだが、それが事実だとしたら今からシャルロットが何かを言って良いように変化する訳でもない。
今、シャルロットの前にいる人物。“それ”こそが今ここでの現実なのだから。
一応ジェイド本人の突発的な芝居の可能性も疑ってはみるのだが、その選択肢はすぐにシャルロットの中から消えた。
こんな夜中に起きだして芝居を始める事自体が既に意味不明だし、何より“彼”からジェイドの気配を感じないのだ。
どんなに演技が上手くても、ここまで本人の気配を殺せるものなのか。
シャルロットが理解しているかどうか、彼には関係ないらしい。淡々と、勝手に話を続けてしまう。
「“僕”にはとある目的があります。然し、それを独りでこなすには少々骨が折れましてね。
ずっと、貴女のような方を彼の瞳を通じて探していました。ジェイドの傍にいて、ある程度彼の事を理解してくれるような……そんな方を」
ジェイドしか持たないような、不可思議な色彩の瞳で見つめられればシャルロットの心臓は握り潰されるかのような錯覚を覚える。
上が紫、下が翠色のその瞳は彼が瞬きすると上下の紫と翠の色彩が入れ替わり、また再度瞬きする事により元の配置へと戻る。
どういう原理でそのような事が出来るのか。それもまた、莫大な魔力を使って起こす魔法の為せる技なのだろうか。
「ジェイドは毎夜女性と過ごす割には、特定の者を傍に置こうとはしませんでしたからねぇ。
暫く貴女と行動を共にする彼を見て、僕も貴女と話がしたくなりました。……そうして“僕”が目覚めたのです。意味、分かりますか?」
宵の帳の紫と、深緑にて惑わされたか。
いつの間に距離を詰められたのだ。
彼の掌は少女の頬へと触れていた。
「僕の目覚めのきっかけは貴女なんですよ。……………………愛しています、シャルロット」
(──ん?)
シャルロットはちょっと、否、かなり理解出来ないでいた。
故に固まって、脳内で必死に情報を処理する事に追われてしまい微動だにすらしない。今彼はなんて言った?
「愛しています、シャルロット」
まるでシャルロットの頭の中を埋め尽くす疑問に答えてくれるが如く、今一度同じ台詞を口にする。
会ったばかりの人物からの唐突な告白。シャルロットは夕飯直前のディビッドを思い出す。
然し、こんな状況で気の利いた台詞の一つでも吐ける筈がなかったのだ。
「……困ります」
「でしょうねぇ」
シャルロットがやんわりと拒絶の言葉を吐いても、彼は特に傷付いた様子も見せない。断られる事が最初から分かっていたかのようだ。
少女の頬から手を離し、ベッドから降りて立ち上がる。
「僕は先程も申し上げた通り、“ジェイドの願望”……それらの具現だと僕自身は思っております。と、いうのも僕は他人とこのように会話をする事は本日が初めて。
ずぅっと、僕に寄り添うのはジェイドしかいませんでしたので。彼の考え方、彼の想い……それらが“僕”にとっての総て、とでも言いましょうか」
裸足でヒタヒタと床を歩く彼は、月灯りに照らされるテーブルへと近付いていく。その上に重ねられるのは二人分の衣類。
その傍らには小さな皮の袋がある。イアンから分けてもらえたオリクトの入った、皮袋が。
「彼は……ジェイドは、素直ではないのでしょうね。
己が愛される存在ではないと認識している為に、愛を求める気は僕にもあまりありませんが…………“愛したくて仕方がない”。
彼は、人が……シュルクが本当は好きなのでしょう。故に僕もシュルクは大好きです。出来る事なら世界中総てのシュルクとお話してみたいですね」
「……」
彼の話から察するに、“彼”はジェイドの行動や思想から人格を形作った、言わば別人格だと想定していいのだろう。
彼の長い指先、黒く彩られた爪先によりつまみ上げられるオリクトの入った袋を、シャルロットはハラハラとした心境で見つめる。
「さて、僕の愛を受け取って頂けると嬉しいのですけれど。無理でしたらこの中のオリクトは、……無かった事になります」
にこり、と形作られた人形のような笑みで。彼は恐ろしい言葉を口にする。
オリクトの価値を知っているマトモなシュルクならば、まず口にはしないような言葉だ。
シャルロットは漸く勘付いた。
「…………貴方が…オリクトを壊していたんですね……? 貴方が先生を悩ませる存在だったなんて……!」
「悩み? “これ”が?」
憤りを覚えるが、周囲の部屋の者へと迷惑にならないように囁かに声を張り上げる少女を、彼は意外そうに見つめる。
そうしてオリクトの入った袋を軽く振り、皮袋とシャルロットの怒りに満ちた顔を交互に見比べる。
そうして、少女の怒りの色を濃く見せる黄緑色の瞳を見下ろすと再び不遜な笑みを浮かべるのだ。
「……“こんなもの”で彼の悩みを知ったつもりになって下さるのですか?
嗚呼、…………ああ。愛されていますねぇ。幸せです」
うっとりと、恍惚の表情で男は囁く。
駄目だ、会話にならない。
そう悟ったシャルロットはベッドから降り、彼の手から袋を取り上げようと手を伸ばす。
然し、元々三十センチ以上も身長に差がある二人だ。シャルロットがどんなに懸命に手を伸ばしても、袋を高い所まで掲げられてしまうと指先が袋の底へと触れる事すら叶わない。
「僕としてはね? 別に僕の愛に応えて頂かなくても結構なんですよ。
先程にも申し上げました通り、愛したくて仕方がないだけであって……それに応える義務は誰にもありません。勿論、貴女にも。僕はオリクトを壊す理由が欲しいだけなのです。本当は今まで誰にも断りもなく、ジェイドと二人でやってきた事なのだから理由すらも要らない。貴女の為に、貴女が納得するように理由を提示したいだけなのです。
仮に貴女が僕を愛して下さったとしても、僕はオリクトを破壊するでしょう。だって僕の事を愛して下さるなら、赦しても下さるでしょう?」
「何で……っオリクトを壊すのですか! それは、先生の…、……先生だけじゃなく、シュルク皆の希望なんです! お願いですから、……壊さないで……!!」
「じゃあ、…そうですねぇ」
長々と語る彼の眼前に立ち飛び跳ね、何とか取り返そうとする少女の身体を男は片腕で抱き竦め耳元へと唇を寄せる。
二人で片腕を上げている為、月灯りに写し落とされる二人分の影は床の上にてまるで踊るかのようで。
愚かにも、近寄りすぎたのだ。彼の腕の中で少女は怯え、震える。
“愛を受け取る”だなんて、具体的に何をすればいいのだ。
寝室に男女が二人きり。男の方は見知った尊敬する師の皮を被った、見知らぬ赤の他人だ。
事態の深刻さを今更知り、シャルロットは逃げようと必死でもがく。
何故肝心な時にあの怪力は発揮出来ないのだ。彼の腕から逃れる事はままならない。
然し、彼の言葉は少女の想像を裏切るのだった。