29 深夜三時の訪問
「……ル、……シャル…………」
「う、ん……」
漸く寝付けたところだというのに、誰かに名を呼ばれ安眠を邪魔をされる。少女はそれを嫌がり、ベッドの中で身じろいだ。
「……シャルロット」
「うー…………ん?」
けれど、自分を呼ぶ者は目覚めるその時まで呼び続けるつもりなのか。その割には少女の身体に触れ揺さぶったりはしない。
しつこく何度も呼ぶから、シャルロットは根負けして目を開ける。
「…………せんせ、い? どうか、されましたか……?」
眠たくてとろんとした黄緑色の瞳で、少女は自分を覗き込んでくる男を見上げる。
ジェイドがずっと呼び掛けていたようだ。
落ちる黒髪で表情がよく見えない。けれど、紫色と緑色を抱く瞳が厭に煌めいていて脳裏にこびり付くようだ。
「一つ、頼みがあるんだ」
「…………頼み?」
「ああ。明日…………いや、もう今日か。起きたらここを出て、王都へ。
エストリアルへ、共に行って欲しいんだ。手伝って欲しい事があってな」
「……?」
何故わざわざこんな夜中に起こしてまで言う必要があるのだろうか。追求しようかと思うのだが、眠くて頭が回らない。
シャルロットは適当に頷いた。
「……わかり、ました」
「そうか…良かった。朝起きたら、シャルロットからエストリアルへ行こうと提案してはくれないだろうか。俺、起きたら忘れてしまいそうだから」
「…………、……?」
またしてもよく分からない頼みだ。
自分から言い出した提案を忘れる訳ないだろうに。
全く、今何時だと思っているのだ。シャルロットは若干の苛立ちを覚えながらも壁に掛けられている時計に視線をやる。
深夜も深夜、三時を回った所だ。
寝直そうと思って毛布を引き上げる少女の腕が止まる。
深夜の三時。
深夜の三時に、何故わざわざ誰かに起こされた訳でもなく師は目を覚ました?
この時間帯に彼が目覚める理由は?
シャルロットはその理由を知っている。
深夜帯に目覚めるのはオリクトを破壊する予兆だ。
ただ単に目が覚めてしまう可能性もあるだろうが、毎夜きちんと眠れていない彼が自然と目覚めてしまう事は考え難い。
女性と共にする夜も、基本的には朝いつも起こしてもらうと本人から聞いている。
今日は折角分けてもらえたオリクトの破壊を防止する為に、シャルロットは彼と共に寝ているのだ。そういう約束だった筈だから。
自発的に目覚めるという、とてつもなく低い可能性の隙間から零れた偶然か。
それにしては寝る直前の雰囲気とは全く異なるし、以前オリクトを破壊していた時の雰囲気ともまた異なる。
あの時、彼はこんなにもベラベラと語る事はなかった。
頼み事だって突然すぎる。
異様だ。
このタイミングで平然とシャルロットを起こし、頼み事をしてくるのがそもそも可笑しいのだ。普段のジェイドの少し他者と距離を置くような、薄い壁一枚隔てるかのような性格からしてそんな事はしない。
その可笑しさに気付いてそのまま眠れる程、シャルロットの神経は図太くない。
一瞬にして眠気は霧散し、少女は上から覗き込む男の胸を押す。
結構本気で強めに押した。“退かす”事を意識して、まだ身体強化以外では上手く扱えない魔力に頼ろうとした。
いつもならこれで、彼をすぐに退かせる筈だ。
けれど、やはり。
彼がオリクトを破壊していたのを止めに入って突き飛ばされたあの時や、風呂場の前まで引き摺られていった時と同じだ。
肝心な所で恐怖心が邪魔をして魔力をきちんと使えていないのか、それとも相手もまた魔力で抵抗してきているのか。
動かす事すらままならない。
「…………。どうしたんだ?」
薄い胸板を押し上げようとする手首を掴まれて、ベッドへと押し付けられる。強い力で握られていて身動きが取れない。
少女は、彼の可笑しさに気付いてしまった。
何て聞けばいいのだろう。
正しい質問はどれなのか。
それを自分の中で吟味するよりも早く、少女の唇は勝手に動いていた。
「……貴方は……、……誰ですか」
シャルロットは頬に垂れては撫でるように擽る黒髪を、嫌がるように顔を背ける。
上から降り掛かるのは聞き覚えある筈なのに、彼女も全く知らない他人の声な気がしてならない。
「………………誰だったら嬉しい?」
「……質問の答えになっていません」
自分がジェイド・アイスフォーゲルと異なる存在である事を、隠す気は更々ないようだ。
シャルロットは寝起きの拙い頭をフル回転させながら、まず魔物である可能性を一番に考える。人の姿を真似る魔物が世の中には存在するという。
ジェイドの姿形をコピーした魔物の類だとしたら現状はとても危険だ。師の姿が見えない事も気掛かりである。
然し、言葉をこうして解す事が出来る生き物であるのなら、和解する事も出来るのではないか。
シャルロットは、自分の上に乗り上げる男をマジマジと見上げる。
人の良さそうな笑みを浮かべて見下すその姿が、逆に不信感を持たせるのだ。
ジェイドと同じ目の色で、
ジェイドと同じその姿で、
ジェイドと同じその声で。
手首を掴むその指は、まるで優しくないものだから。
「ジェイドだよ。いつものように、先生って呼んでごらん」
「……それは、……出来兼ねます」
「どうして」
少女に否定されれば、男は本当に意味が分からないと言わんばかりに首を傾げる。
「どうしてか、貴方が一番良く知っているのではありませんか?
少なくとも私の先生は、……もっと優しいです」
手首は無意味に強く締め上げられる。その痛みに顔を歪ませてしまえば、彼に屈した事になる気がして。
シャルロットは顔を逸らす事だけで僅かに抵抗を示し、耐えるのだ。
それの何が面白かったのだろう。
目の前の、ジェイドに良く似た人物は噴き出し腹を抱えて笑い転げ始めた。
「ふ、っ……フフ、……あはは! そうか“私の先生”か! それは良いな、良い事だ!
師弟の愛を感じるよ……!!」
「……」
シャルロットの手は解放された。
彼は長い髪をベッドに垂らしながら転がり、ケタケタとジェイドらしかぬ笑い方でシャルロットの言葉を嗤う。
それは、まるで侮辱されているようにも少女は感じていた。
「夜中ですので静かにしては頂けませんか」
風呂の時間にジェイドに掴まれて赤くなった手首は、今また更に掴まれた事により上書きされたかのように赤みを増す。
その手首を抑えながらベッドの上に起き上がり、シャルロットは気丈な態度で彼を諌める。
彼を現時点で魔物と決めつけている少女は、このまま静かにアイスフォーゲル家の者を起こす事もなく去って欲しいと願う。
諌められた男はピタリと、嗤う事ものたうち回るような動きも止めてしまう。そうして視線だけを少女へと向けた。
「ん、……すまないな」
乱れた黒髪の隙間から覗く瞳は紫陽花の色彩で少女を惑わし、森の色彩の中に少女を誘う。
それにシャルロットは惑わされない。
「……私としては、貴方が先生だとは思いたくないです。
先生と同じような顔で、先生と同じような喋り方で、先生の名を語らないで頂きたいですね」
ここまで話の辻褄が合わない相手を見ても尚、ジェイドだと認識する……それはとても楽な事。
けれど、シャルロットは“ジェイド”を慕っている。それは師匠の皮を被っているだけの、目の前の相手へと向けられる感情ではない。
一体何故こんな事になってしまったのか。ジェイドはどうなったのか。少女は心配と焦りを悟られないように無表情を務めるが、けれど嫌な汗を止められないままでいる。
目の前の彼はベッドの上、シャルロットの前に向き直るようにして座ると首を傾げ窓から覗く月明かりへと視線を向ける。
「顔……はどうしようもありませんが。口調はジェイドの子供時代のものを拝借致しましょうか。
名は、次会う時までに考えておきましょう」
得体の知れない男はシャルロットの想いを汲み取り譲歩してくれているつもりなのか。
口調や名には特に拘りもないと言わんばかりの様子である。彼は少女の言うがまま、あっさりとそれらを手放すのだ。
イザベラの前では強要されるジェイドのあの口調というのは、子供時代の口調だったのか。
ならば、大人になってあんなにも変えてしまったその理由は何なのだろう。
それよりも気になるのは。
「“彼”──僕は何者なのか。
ジェイドはどうなったのか。
何故ジェイドの子供時代の事まで知っているのか。
“次会う時”なんてあるのか。
王都へ行き、手伝いとは何をさせるつもりなのか」
「……、……」
目の前の男は、シャルロットの思考をなぞるかのように呟いては嗤う。
少女の考えている事はそれ程にまで表情から読み取り易いものだったのか。
恐らく当たっている。恐らく、というのは頭の中で考えが纏まっていなかったからだ。
そうやって声に出されて、まるで読み上げられるようにされてしまうと嫌でも“自分はそう考えていた”のかもしれないと思えてしまう。
思考が固定化されて、そこから動けないでいる。否定も出来ずに動けなくなるのは、彼の言葉を認めて肯定する事に他ならない。
少女は、逃げられない。
「……あ、もしかして考えている事当ててしまいましたかね?」
厭な笑い方だと、シャルロットは感じていた。
他人の心を覗くかのような目付きだ。
そこに優しさも暖かさも感じない。
一方的に暴こうとするような、そんな目だ。
けれど優しさはない筈なのに、暖かみすらもないのに。
まるで、慈しむかのような色を一瞬だけ見せるのだ。
無言の抵抗を見せるシャルロットを無視して、ジェイドに良く似た男は続ける。
視線は壁に掛けられた時計を気にしていた。
「……ま、一つ一つ答えて差し上げても構いませんよ。暁闇の夜が明けるまでの時間でしたら、ね」